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夢の胡蝶は現を見る

 筑波の街から逃げ延び、早くも二週間が過ぎようとしていた。

 初めのうちは行ったことのない世界に目を輝かせて、皇護隊の追手から逃れる現実から目を逸らすことができた。

 しかしそんなまやかしが通じるのはたかが数日。日に日に苛烈になっていく追撃に龍吾たちは、疲労とストレスに蝕まれていく。

 終わりが全く見えない逃避行。来る日も来る日も戦い、逃げ続ける毎日。皇護隊の追手は休む間もなく龍吾たちを追いかけ、龍吾たちはその都度追手を撃退するが、着実に限界が近づいているのは誰の目にも見えていた。

 しかし、それ以上に龍吾が気にかけているのは輝夜だった。

 草木も眠る丑三(うしみ)(どき)。束の間の休息に(ふけ)けていた一同に、ここ数日の間頻繁に起きていたことが今日も容赦なく起きてしまう。

 

「……い、いや……いや! 来ないで! こっちに来ないで!」

 

 悪夢に呻いていた輝夜が、今日も明確に寝言を上げる。

 龍吾と雛月は悪態一つ付くことなく起きると、輝夜を必死に揺さぶって起こそうとした。

 悪夢という名の海から這い上がったかのように、目を大きく見開いて目を覚ました輝夜は、心配そうに見る一同を見て「また?」と泣きそうな声で聞いてくる。

 龍吾が黙ってうなずくと、輝夜は自責の念に駆られて大きく項垂(うなだ)れた。

 龍吾が子どもを慰めるように頭を撫でたり、優しく肩を叩いて輝夜を落ち着かせる。

 輝夜が見る悪夢は一日や二日だけならまだしも、日を追うごとに輝夜の悪夢は明瞭に、そしておぞましくなっていった。それが側からでも分かるほどに、輝夜の怯え方は尋常ではないからだ。

 それほどまでに恐ろしい悪夢ならどんな内容だったかは覚えているかと思いきや、輝夜は目が覚めると同時に見ていた悪夢の内容も全て忘れてしまうのであった。

 覚えているのは、ただ恐ろしかったということだけ。それ故に、輝夜にとってこれ以上ないほどに忌々しかった。

 しかし輝夜の様子に龍吾は特段苛立つことも、訝しむこともせず、むしろ天月人の能力が関係しているのでは、と踏む。

  

「雛月、辺りに天月人は来ていないか? それか、なんか能力の類が発動しているとかは」

 

「……いえ。()()()()に天月人も、能力の干渉も何もありません」

 

 当てが外れた龍吾は、しかし懸念を拭えずにいた。

 足が棒になるまで歩き、走り続け、ときには徹夜で逃げることもしばしばあった。一息つけば即座に眠りの底に落とされるほどの疲労に見舞われながら、それでも連日悪夢を見るとなれば、もはや能力による超常的な要因が関わっていると考えても不思議ではない。

 龍吾が頭を働かせている傍らで、輝夜は一つ嘆息すると「ごめんなさい」とか細い声で龍吾に謝った。

 

「……私のせいで貴方も追われて、逃げ続けることとなって、せっかくいい心地で寝ていたのに、私がうなされたせいでいつも起こしてしまうんだもの」

 

 輝夜の謝罪に龍吾は怒りもしなければ、悪態をつくこともなく、真っ直ぐに輝夜を見つめながら輝夜を庇う。

 

「そんなの今だけだ。一生続くわけじゃない。そんなことよりも輝夜は眠くないのか?」


「……眠いには眠いけど……寝たらまた悪夢が……」


「きっと、一人で寝るから悪夢を見ると考えてしまうんだろう。俺がそばにいるから、安心して寝な」


「龍吾はどうするの」

 

「もちろん寝るさ。お前が寝た後でな」


 龍吾の返事に輝夜は小さく微笑み「ありがとう」と一言言いうと、彼の肩に頭を寄せてそのまま眠りに落ちた。

 完全に眠りに落ちた輝夜は、安心しきった柔らかな面持ちで安定した寝息を立てている。あれだけ恐怖にうなされていたのがウソのようだ。

 父親のように輝夜を寝かしつけている龍吾の隣に、雛月がそっと座った。

 夜空の黒はほのかに明けており、もうまもなくで夜明けになることを無言で世界に告げている。鳥たちの中でも一際早起きな鳥は、木々から飛び出して世界に声を届けながら羽ばたいて行く。その様子を見ながら、雛月は空に顔を向けたまま龍吾に話し始める。

 

「お眠りにならないのですか?」

 

「まだ少しかかるな。雛月は寝ないのか?」

 

「私は数時間も寝れば十分なように訓練しているので、ご心配には及びません」

 

「そうか? だけど寝れるときはちゃんと寝ておいた方がいい。……そうだ。いつも雛月たちには守ってもらってばかりだから、今度は俺が周りを見張るよ。だから雛月も、先にゆっくり休んだらいい」

 

 我が身より他人のことを案ずる龍吾に、雛月は熱を帯びた目だけを密かに向ける。

 自分のことよりも家族と豪語する輝夜たちへの配慮と思いの深さに、雛月の意中は龍吾一色に染め上がっていた。

 しかし彼女は、自らの中で渦巻く思いが正直分かっていない。

 理由はあまりに単純な話で、彼女が恋愛というものを知らないからだ。

 従者として勤勉と修行に明け暮れた毎日、恋愛といった知識は一片たりとも教えられることはなく、また知る機会もなかった。精々が本の中で文字として綴られているくらいで、実際にどういうものなのかを知ることはついぞ無かった。

 だが地球に来た彼女は、図らずも恋というものに落ちてしまった。

 不器用なほど真っ直ぐで、春の陽気よりも暖かい優しさの前に、彼女の中で憧れとも尊敬とも異なる心地よい灼熱がうねり、胸は透き通った鼓動で高鳴る。

 なのにその思いがどう伝えていいか分からず、そもそも胸中で轟々と燃え盛る思いの正体も分からないので、悶々とした思いを抱えたまま彼女は必死に冷静になろうとする。

 胸中で蒸らされた吐息を微かに漏らし、代わりに未だ冷たい秋夜の空気を吸って脳内を冷やす。

 

「……左様ですか。それでは、お言葉に甘えさせて頂きます」

 

「ああ。いつもありがとうな」

 

 雛月も龍吾に寄り添うようにしながら、静かに瞼を閉じた。

 両手に花の状態にある龍吾は特段動じることもせず、明るみを増していく空の彼方を見つめながら己の意思を確固たるものに鍛え上げていく。

 

(俺は確かに無力だ。輝夜も雛月もスミレもいなければ呆気なくやられてしまう。だけど無力なら無力なりに足掻いてやる。皆んなだけに頼ってばかりじゃ、いけないんだ)

 

 ※

 

 束の間の休息を終えた龍吾たちは、一進一退の逃避行の果てに群馬県は赤城山へとたどり着いた。

 冬の寒気に満ちた山は、外界に放たれる息が明確な姿を見せるほどに冷え込んでいる。

 寒さこそ雛月の能力で凌げても、溜まりに溜まった疲労は誤魔化せない。

 それでも龍吾たちは足を止めなかった。

 決して希望を捨てず、誰に当たり散らすこともせず、ストレスに身を責められながらも生き延びることにがむしゃらとなって足を動かしてきた彼に、運が微笑んだ。

 赤城山へたどり着く三日ほど前から、皇護隊の追手が来なくなったのだ。空を騒がせていたローター音も、矢のように向けられた殺気もパタリと途絶えてしまった。

 一体何が起きたのかと聞かれれば、答えは至極シンプルなこと。

 龍吾のスマートフォンのバッテリーが切れたのだ。

 スマートフォン自体のバッテリーが切れても、GPSを発信する装置には非常用のミニバッテリーが内蔵された特殊な作りとなっている。

 しかしそのバッテリーさえも切れてしまっては、いかに高品質・高性能なGPSも無用の長物。赤城山にたどり着く頃には、追跡にあたっていた皇護隊は完全に龍吾たちを見失っていた。

 追手が全く来ないことに違和感を覚えつつも、龍吾たちは山中に佇む一件の宿を見つけた。

 疲労困憊、空腹、睡眠不足。限界を超えて逃げ続けた龍吾たちにとって、宿の灯りはこれ以上ない魅力を放っていた。

 とはいえ彼らはすでに全世界に顔が知れ渡っており、そのまま入店すれば即通報される。

 そこで雛月がここぞとばかりに胸を張って声を上げた。三人の姿を別人に変える簡単な変身術を施したのだ。

 輝夜と雛月は快男児を思わせる青年へ。龍吾は還暦越えの男性へと変身した。

 どうしてそのような姿にさせたのかと言われれば、それは還暦を迎えた父へのサプライズで旅行に来た。という設定を堅実なものにさせるためであった。

 エントランスへ入った一同は、変身した龍吾以外怪しまれる要素を最小限にするために終始無言を貫き、龍吾は龍吾で疑念を持たれないように堂々と振る舞った。その甲斐あって、受付はすんなりと済み、スタッフによって快く部屋へと案内された。

 整った部屋に暖かい室内だけでも龍吾たちは感極まっていたが、これまでの試練を耐え抜いてきた褒美はまだ続く。

 山河で採れた幸を贅沢に使った夕食の数々の前に、彼らは音を立てて生唾を飲んだ。

 日本ならではの白米から、岩魚(いわな)の塩焼き、パイシチュー、茶碗蒸し、キンピラと人参とネギが乗った蕎麦の小鉢。サーモンの刺身に、山菜をふんだんに使った天ぷら、そして鴨肉と野菜を詰めた鍋。

 料理長のセンスがこれでもかと振る舞われた色とりどりな料理に舌鼓し、一同の顔が自然とほころぶ。

 しかし一同のいる個室内は、微妙な空気に包まれていた。

 

「この揚げ物、とっても美味しいですね龍……し、慎吾(しんご)……さん」

 

「……あぁ、そうだな。採れたての山菜を使うと、こうも味が違うのは驚きだ。かぐ……和弥(かずや)はどうだ?」

 

「わ……お、俺もこんなの月か……えぇと……そう、だな。美味しいな、コレは」


 打ち合わせをしたとはいえ今までと全く異なる話し方に一人称がすんなり口から出るはずもなく、一同は言葉を覚えたての子どもさながらにぎこちない話し方で話していた。

 側から見ても滑稽な話し方に、一同の口が自然と釣り上がり、やがて室内は晴れやかな笑いで満ちた。

 死線を気にかけ、絶えず緊張に張り詰めていた時間から解放された暖かな団欒に満開の花が咲く。

 満足を遥かに超える夕食をとった後、一同は宿の名物たる『にごり湯』に入ることとなった。

 しかしここでも珍事(ハプニング)が起こる。

 名湯に入るためには、変身したまま男湯に入るか、変身を解くしかないということだった。

 

「変身していて、かつ私たちだけならまだしも、他の殿方が入られている浴室に入るのは嫌です!」

 

「私は別に気にしないわ。そんなことよりも、せっかくの機会なのだから、温泉とやらに是非とも入ってみたいわ」

 

 意見が分かれた両者は一歩も引こうとしない。部屋にある浴槽で済ませるという選択肢は二人ともなく、どうにかして温泉に浸かりたいという願望を晴らそうとしている。

 

「それなら輝夜と雛月は、別の女性の姿に変身して行ってきたらどうだ?」

 

「別の? ですが宿の方や他の宿泊者に怪しまれてしまうのでは。あんな方いたでしょうか、と」

 

「それは大丈夫だと思うぞ。他の人を一々覚えるほど、この星の人たちは利口じゃないからな」

 

 一見すると理屈の通っていない龍吾の言い分は、しかしこの国の、延いてはこの星の人間の特性を的確に突いたものだった。

 プライバシーというものが過剰なまでに尊重され、他者への干渉が忌避されている現代において、接する必要がない無害な赤の他人を覚えようとする人はほぼ皆無だからだ。

 龍吾の言葉を信じて別の姿へ変身した二人は、道中で他の宿泊者と出会しても、彼の言う通り誰一人として輝夜たちに疑いの目を向ける者はいなかった。

 月界ではまずあり得ないことの数々に輝夜と雛月は驚きと呆れを織り交ぜつつ、天然のにごり湯に浸かりながら満天の星空を眺めて極楽気分を味わう。

 

「お料理は美味しいですし、温泉は気持ちいいですし、至れり尽くせりですね〜」

 

「随分と余裕ね。まだ皇護隊(やつら)がどこかで見張っているかもしれないのに」

 

「その時はその時です。でも出来ることなら、もうこのままずうっとこの時が続いてくれればいいですね」

 

 溶けたように突っ伏して楽にしている雛月が何気なく言った言葉に、輝夜は「そうね」と今にも消え入りそうな声で返す。

 

「本当に、この時間が一生続いてくれればいいのに」

 

 明後日の方へと呟いた一言を雛月は聞き逃さなかった。

 輝夜に目を移すと、特徴的な縦に割れた瞳孔が雛月の目のように薄まっている。

 輝夜が別人のように振る舞う兆候ではあったが、温泉から上がって部屋に戻ってからも輝夜に異変は起きなかった。

 

 ※

 

 長い逃避行の疲れにストレスが思わぬ形で癒やされることとなった龍吾は、天然の温泉を満遍なく堪能して部屋へと戻った。

 輝夜たちと共に寝支度をしていると、彼は長らくポケットに入れたままとなったスマートフォンに気づく。

 バッテリーが切れていたことを知った彼は、フロントに頼んで充電ケーブルを借りた。

 彼は、知らなかった。

 そのスマートフォンが、皇護隊に自分たちの居場所を教えていた発信源たるものであることを。

 一度(ひとたび)充電をすれば、瞼を閉じていた魔眼(GPS)が再び目を覚ますことになることを。

 何も知らない龍吾は、疑うことも勘繰ることもせず、フロントから借りた充電ケーブルをスマートフォンに差し込んで就床した。

 未明。

 ふかふかの布団で眠る龍吾は夢を見ていた。

 晴れ渡った日。輝夜と雛月とスミレたちと共に、どこかへ旅行をしている夢だ。

 人目を気にせずパンフレットを片手に観光地を巡り、動乱の時を見届けてきた史跡や、巨匠の遺した芸術、悠久の時を生きてきた自然に感動をし、至福の時間を過ごしていた。

 しかしその吉夢は何の予兆もなく唐突な終わりを迎える。

 突然龍吾の体が強い力によって引っ張られ、明確なビジョンとして描かれていた夢も奈落の底へ流れ落ちるように掻き消えた。

 目を覚ました龍吾は、輝夜に抱き抱えられながら宙に舞っていた。

 状況を理解できていなかった龍吾は、空を切って通り過ぎる鉛玉と、輝夜の変形したドレスに力のない音を立ててぶつかる協奏曲を耳にして今何が起きているのかを大まかに察する。


「目覚めの悪いやり方で御免ね。敵襲よ。本当に空気の読めない雑魚共で腹が立つわ」

 

 そして輝夜の一言で状況を鮮明に理解した。

 輝夜たちは宿への被害を抑えるべく頂上へと飛んで行った。

 しかし赤城山の空は、既に鋼鉄の鳥たちが群れを成して空を飛んでいた。

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