月旦春秋
へばりつくような暑さの中に芯の通った微かな涼しさを感じられるようになった頃、激動の闘いを終えた龍吾も輝夜と雛月という新たな家族たちと共にスタートを切っていた。
依然として必要最低限な援助しか受け取らないので質素な生活は相変わらずだが、節度を守った生活は目に見えない幸福に満ちていた。輝夜との関係も修復し、今では新たな家族として円満な日々を過ごしていた。
そうして今日も龍吾は学校で勉学と運動に励み、何の変わりもない、しかし充実した一日を終えるはずだった。
帰路についていた龍吾が渋谷駅で下りの中央林間線を待っていると、龍吾の身と一心同体になって守っているスミレが不意に警戒の目を巡らせる。
一心同体であるが故に龍吾の身にも伝わり緊張が走る。
龍吾はさりげなく周りを見渡すが、天月人のような変わった姿形の人物はいない。だからといってそれで安心できるわけではない。
人間に不可能なことは天月人には大概可能である。一般人に紛れていたり、変装していたり、はたまた姿そのものを消して様子を窺っていることは十分に考え得る。
(スミレ、敵はどこにいる?)
龍吾が問いかけると、タイミングを図ったように電車が到着した。次の電車は急行なので、龍吾が降りる用賀駅には止まらない。押しくら饅頭じみた車内で何かが起きるかもしれないが、このまま見送っても何かが起きる。
龍吾は意を決して車内に乗り込み、連結部分付近の場所を陣取った。壁を背にすれば少なくとも視界の効く範囲で警戒が出来ると踏んだからだ。
電車が動き出し、トンネルの中を颯爽と進んでいく中、車内は話し声一つなく静まり返っていた。
スミレは意味もなく警戒をさせるような性格ではないのは、龍吾自身が一番分かっている。
相手はどこだと目だけを動かして車内を見渡していると、不意に龍吾のバックにしまってあったスマートフォンが震えた。
メールか電話かと思って取り出すと、画面にはエアードロップ機能によってメッセージを受診したとの通知が出ている。送信先を見ても誰のことか分からない上に、龍吾の乗っている車内だけで軽く三十人を超える人の中から誰が送ったのかを調べるのは難しい。
メッセージを開くと、龍吾の背筋を悪寒が走り抜けた。
『雪下龍吾、三軒茶屋駅に降りろ。私は貴方と話がしたい』
思わず龍吾は弾かれるように顔を車内に向けた。
龍吾のクラスで同じ帰り道の生徒はいないし、バイト先の社員も世田谷区から通っている者はいない。
百歩譲って顔見知りの誰かが乗っていたとしても、龍吾は自分がスマートフォンを買ったことを誰にも言っていない。
それなのに龍吾の名を知る者が車内に潜んでいて、話がしたいと言っている。
(一体どこの誰だコイツは。またあの天月人たち━━冥と風華━━か? いや、天月人がわざわざメッセージを送るためだけにスマホを買うなんてあまりに非効率だ。というか話って? 何を話したいっていうんだ?)
電車は池尻大橋を発車し、アナウンスが流れて程なくすると電車のスピードが緩やかに落ちていく。
罠だというのは十二分に承知のことだが、そもそもどこの誰かも分からない人の言葉に素直に従うのもおかしな話だと龍吾は冷静に考える。
電車のドアが開き大勢の乗客が降りていく中で龍吾は、降りなかった。
電車は普通に出発し、三軒茶屋駅から去っていく。その様を龍吾は壁に寄りかかりながら満足げに鼻で笑った。
(どこの誰かも分からん奴の言うことに従う奴がいるかよ、バーカ)
スマホを取り出しても通知は来ていない。今頃メッセージを送った相手は一杯食わされて歯噛みしているだろうと思い、龍吾は心中でほくそ笑む。
やがて電車は用賀に到着し、龍吾は足早に改札を通って家路に向かおうとした。
すると龍吾の隣を中年のサラリーマンが通り過ぎようとした、そのとき。
「降りなかったな」
龍吾の足が止まりそうになる前に、男は「足を止めるな」と呟く。
「そのまま地上の携帯ショップに行け。逃げられるとは思わないことだ」
龍吾のそばをサラリーマンは離れない。
スミレが今すぐにでも相手を切り捨てそうな敵意が龍吾の肌を伝う。
スミレを抑えながら地上にある携帯ショップの自動ドアを潜ると、店内は数人の客とスタッフが対応していた。
どうしてここを選んだのか。そう龍吾が思った矢先、背後で別のスタッフが出入り口をロールスクリーンで閉め切った。
店内のBGMが止み、店内にいる全ての人が一斉に龍吾の方を向く。
皆んな人間なのにまるで人形の目のように感情のない目が、一糸乱れず龍吾を見据えている。
「待っていましたよ、雪下 龍吾」
物々しい空気の中で透き通るような声が奥から龍吾に届く。
スタッフの控え室だった扉から出てきたのは、全身を包んでしまうほどに長い白髪を蓄えた女性『竜胆寺 秋子』だった。
サラリーマンに扮していた男は付き人の『銀杏』。当然ながら龍吾は誰一人知らないが、それでもここにいる全員がグルだというのは言わずとも理解していた。
「降りなかったのは、想定内だったとはいえ正直驚きました。幾つもの死地を乗り越えたが故に、肝が少しは据わっているようですね」
「……お前は一体誰だ。なんで俺を知っている」
秋子はイスに腰掛けると「知る必要はありません」と淡白に返し、スタッフから手渡されたウイッグを被って化粧を始めた。
完成したその姿を見て龍吾は息を止め、目が落ちそうなほどに見開いて秋子を見た。
その姿は、以前龍吾がスマートフォンの契約をした際に対応してくれた『飯村』だったからだ。
「我々はどこにでもいて、どこにもいない存在。仮に貴方が私たちの正体を知ったとして、貴方が私たちを探すのは不可能ですから、知る必要はないのです」
瞬間、龍吾は本能で悟った。
コイツらは只者じゃない、と。
そして彼らが龍吾に近づいた理由も狙いが輝夜と雛月であると、察することが出来る。
輝夜も雛月も予てから、いつかは地球の人も気づくと言っていたが、とうとうその時が来てしまったのである。
「……そうかよ。それで、一体俺に何の用だ」
「直入に言います。貴方が住まわせている二人を、私たちに渡しなさい」
予想通りの答え。
しかしこのままおめおめと従う訳にはいかず、龍吾は緊張しきった口で精一杯の拒否を示そうとしたそのとき、秋子の方から「もっとも」と先手を投げた。
「タダでとは言いません。見返りは当然あります。貴方もご存知だと思いますが、貴方が住まわせている二人は、地球に定着した常識が根底から覆る異世界からの住人。そんな超重要かつ貴重な存在を、何の見返りもないのにただ渡せと言われても納得しないでしょう。
ですから、私たちの方から一つそれに見合った対価を出しましょう」
化粧を落とした秋子が、ポケットに忍ばせたカードホルダーから一枚の真っ黒のカードを龍吾に手渡した。
番号はおろか文字やICチップすら何もない黒一色のカード。当然ながら全く意図の読めない龍吾は怪訝な顔で秋子を見返す。
「それでお好きな物をお買い上げ下さい。限度も期限も一切ありません。欲しいと思ったものを、何でも好きなだけ買うことが出来ます。もちろんですが、医療などのサービスも受けられます。
貴方がこの先誰かと結婚をし、子供が生まれて引き継がせても構いません。貴方はこの先、もうお金という概念に困ることは未来永劫なくなるでしょう。
それだけではありません。貴方は日本はもとより地球に存在する国家に多大なる貢献を果たしたとして、貴方と、貴方の血縁者。最後の血筋の一人となるその日まで身の回りの安全を約束しましょう。貴方が成したいことも、叶えたい望みも全て我々が保証し、脅威から護りましょう」
棚からぼた餅どころか、金脈が出てきたような見返りを龍吾は手にしている。
だがそんな美味しい話を聞けば聞くほど、龍吾の心中は冷めていく。手にしたカードも、今の彼には黒い厚紙程度のものにしか見えない。
「すぐに答えを出せとは言いません。まずは三日ほど試用期間を与えます。貴方としても、私たちとしても、相互で利益しかない話だとは思いますが。どうかご一考を」
「……もし断るって言ったら……どうするんだ?」
秋子は表情も声色も一切崩さないが、目の奥に宿した凍てつくような闇の濃さをより一層濃くさせて、たった一言だけ返す。
「然るべき手順を踏むだけです」
※
時間にすれば十分にも満たない交渉は、龍吾の身には一時間のように感じ取れた。それほどまでに店内に蔓延していた空気は重く、圧迫していたからだ。
帰路につく龍吾は、秋子から渡された黒いカードを見る。
この一枚で欲しいものが何でも買えて、今後金銭に困らなくなるという夢のような逸品を前にしても、龍吾には魅力のみの字さえ感じない。
(バカらしい。どこの奴らか知らんが、考えることは単純だな)
龍吾が持っていたカードを捨てようとしたとき、龍吾の中にいるスミレから平手で叩かれるような衝撃が走る。
(どうしたスミレ、どこかに敵がいるのか?)
心中で問いかける龍吾はスミレが警戒を向けている方へさりげなく目線を移すと、七階建てのマンションの一室から龍吾の方を見ている男性が目に止まった。
景色ではなく龍吾一人に向けて射抜くような視線を向けている男は、見返されていることに気がついて部屋の奥へと消えた。
(いや……違う。きっと見間違いだ。さっきまであの殺伐とした所にいたから、変に気が立っているんだろう)
気を取り直して龍吾は家路を急ぐ。しかし道中で龍吾は幾度となく刺すような視線を向けられた。
そのくせ見てくる人は一般人に紛れている上に、見てくるのがほんの一瞬だけなので見抜くことは非常に難しい。
街全体が龍吾を見ているような視線の嵐を潜り抜け、龍吾は自宅へと辿り着いた。
龍吾はすぐに上がらず、胸に手を当ててスミレへ一言命令を下す。
(絶対に、二人には伝えないでくれ。……頼む)
切なる願いは、ひとえに輝夜と雛月のため。それ以外の余分はない。
スミレは黙って龍吾に従い、そのまま意識の底へと戻っていった。
何食わぬ顔でドアを開けると居間にいた輝夜と雛月が明るい顔で出迎えた。それだけで龍吾には、先ほどまでの殺伐とした空気と緊張に張り詰めた帰路を忘れられる。
言わぬが花を通して龍吾は平常を装いつついつもと変わらぬ時間に夕食をとろうとした。談笑しながら食を進ませている中で、龍吾は秋子と交わした最後の会話を思い返す。
『……もし断るって言ったら……どうするんだ?』
『然るべき手順を踏むだけです』
龍吾の答えは決まっている。その答えが揺らぐことも迷うこともない。
だがその後は? 天月人からも人間からも追われる日々となったら、命を維持するための衣食住はどうやって調達、確保すればいいのか。
命に代わるものはない。しかし生きていく上で生活のことを考えない訳にはいかない。生き長らえることだけを考えて無策に生きようとすれば、遅かれ早かれ野垂れ死ぬだけ。そんな犬死にめいた死に方だけは避けたいと龍吾は強く思う。しかしそうなれば、八方塞がりの状況下でどうやって生きればいいのかという悩みが龍吾の頭を惑わせていく。
「どうしたの?」
何かに勘付いた輝夜が心配そうに龍吾を見ている。
悟られないように龍吾は「明日の試験を考えていた」と嘘をつき、食を進めようとした。
ところが輝夜は、ジッと龍吾の方を見つめていると「ウソ」と言い切った。
曇りなく言い切る輝夜に龍吾が目を移すと、彼の目に違和感のある姿が映る。
いつもならネコや蛇を思わせる縦に割れた瞳孔が、今の彼女は消え入りそうに薄いのだ。
「いつもだったら龍吾は真っ直ぐ私たちの目を見てくれるのに、今日は目があっちこっちにいって見てくれないもの」
龍吾は言葉をなくし、目をしばたたいた。
まるで子供のような鋭い感性と着眼点。他人の平常と異常を無意識のうちに行った些細な動きで見極める様は、咄嗟につこうとした嘘さえ出す暇もない。
その真っ直ぐすぎる目に思わず龍吾は目を逸らして雛月の方を見るが、雛月も雛月で「何かあったのですか?」と言わんばかりに龍吾の顔色を伺う。こうなっては最早隠しようがない。
龍吾は口元に運ぼうとした箸を卓に戻すと、帰路についていた際に起きたことを全て洗いざらい話した。
明るかった食卓は一気に静まり返り、空気は酸欠を起こしてしまいそうなほどに重い。
「……そう、とうとう来たのね。それで? 龍吾はどうするつもりなの?」
「どうするもこうするもない。俺は二人を渡すつもりはこれっぽっちもねえよ」
「そうなったら組織の連中が黙ってはいないでしょう。そうしたら学校はどうするの? それに龍吾はまだ未成年でしょう。これから先の人生を生きていくには働いていかなくちゃならないはずよ。私たちを匿っていたら、社会的にも奴らに抹殺されて、どこにも生きていけなくなるわ」
「それに龍吾様は月界からも地球からも追われることとなります。ましてやどこの馬の骨かも分からぬ組織の者たちが跋扈するこの地で、彼らの目を掻い潜って生きていくなぞ限りなく困難ですし、龍吾様の心身にご負担がかかりましょう」
二人の心配をよそに龍吾は、今度こそ目を逸らさずに輝夜たちの方を見据えて、嘘偽りのない正直な思いを打ち明けた。
「いいさ。どっち道奴らは……きっと俺が二人を出そうが出さまいが、生かしておくことはしないと思う。だったら二人は渡さないし、生きて逃げるだけさ。俺は……もう家族を失うのは嫌なんだよ」
齢十八の身には壮絶すぎる運命を前にして、なお彼の意思が崩れないのは、ひとえに新たな家族となった輝夜と雛月たちがいるからに他ならない。
天月人に比べればあまりにか弱い人間である龍吾の内に宿る芯の強さを宿した視線と答えに、輝夜は「分かったわ」と慈母のような笑みを浮かべて応える。
「貴方の思いに、私も応えましょう。元より私たちはまだ、貴方へまだロクに助力も詫びも出来ていない。これに応えずして元月神だと名乗ることなんて、口が裂けても言えないわ」
輝夜の目はすっかり元に戻っており、妖しくも柔らかな微笑みを龍吾に向ける。
「そうだな。そっちはまだ完済には程遠いからな。それまでは手放すものかよ」
再び食卓に花が咲き、団欒の薫風が吹き通る。龍吾は久々に屈託のない笑みを浮かべた。
この後に待つ茨の道と、山よりも大きな脅威を少しでも晴らすかのように。




