黎明
夜が更けていく。
まだ夏だというのに空は澄んでいて、空気は時折シンと冷える冷たさと仄かな湿気をまといながら世界へ流れていっている。
夜空に一つ浮かぶ人影は、吹きさらしの状態になった森アークビルの屋上にいる五つの影を身震いしながら見下ろしていた。
「すげぇな。まさか本当に勝っちまうとは」
全身を黒いマントで包む金髪の女性『クロユリ』の隣にホオズキが現れる。
「ええ、信じられないわ。正直とても興奮しているの。この姿になって初めてじゃないかしら。それよりもホオズキ。貴女の頭は冷えたのかしら」
「冷えたよ。あの月島は死ねと思っているが。しかしお前、龍吾にはずいぶん甘いじゃねぇか。生前の未練を龍吾に代替しているのか? クロユリ」
ホオズキが茶化して言うと、クロユリは鋭い眼差しを静かに向けた。「おぉ怖い」と言いながらホオズキは再び眼下にいる輝夜たちに目を向ける。
「まぁ、ここで死なれても面倒臭いだけだからな」
「アジサイはどうしているのかしら」
「さぁな。もう事は済んだんじゃねぇか」
※
龍吾たちが黒月と戦っていた頃、龍吾の母『雪下 瑞穂』と、父『雪下 正樹』は龍吾の家から出ると軽い足取りで階段を降りていった。
「それじゃあメドが立ったら、また連絡するよ」
「間違っても朝や昼とかにかけないでよね。あと、龍吾には怪しまれないように、ちゃんとした理由を考えておきなさいよ。さもなきゃ、アンタを殺してやるからね」
実の子である龍吾を金のなる木として見た二人は、あろうことかもう一度巨額の借金を背負わせ、自分たちは蜜を吸おうと画策していた。
それを龍吾に聞かれていたとは露にも思わない二人は、これから得られるであろう大金で何をどうするかという皮算用を立てていた。
下品に、醜悪にほくそ笑む二人の後方で、軍服とセーラーを合わせたトップスに、ライダースーツをまとった女『アジサイ』が「よう、お二人さん」と声をかけた。
振り向いた二人がその奇妙な出で立ちを見た途端に、正樹は瑞穂を背後へと隠れさせた。
「なんだお前は。あの輝夜ってやつの仲間か」
「さあな。それより、随分と景気が良さそうだな。なんかいい事でもあったのかい」
「アンタに関係ないでしょ。行くわよ」
「そうだな。お前らの手形の額面は、俺の懐には関係ない話だよな」
二人は揃って足を止めてアジサイの方を見やると、アジサイは心底不愉快そうにため息を吐いた。
「本気で自分のガキに手形を押し付ける気だったのかよ。流石の俺でも笑えねえな」
「アンタ、どうして知ってるの。やっぱりあの輝夜ってヤツの仲間ね。テロリストめ。私たちに関わらないでよ」
「俺が親だったら、まともな教育が出来ねえのは自覚しているが、他人に自分のツケを負わせるようなマネは断じてしねえし許さねえ。それをお前らは、分かっていながら自分のガキにするわけだ。……救えねえよ。お前ら」
アジサイが言うと、二人の背後から異様に長い手が伸び、瑞穂の頭を鷲掴みにした。
悲鳴を上げる瑞穂を持っているのは、死人のように青白い肌の、骨と皮だけで出来たようなやせ細った体つきに、足まで届く異様に長い手を持った『スイレン』だった。
光のない黒目が瑞穂の顔を覗き、瑞穂は恐怖で更に甲高い悲鳴を上げる。
スイレンが声にならないかすれ声を上げると、背負っているボロボロに壊れた旭日が禍々しい色に染まり、握った力を込めると瑞穂は悲鳴をピタリと止めた。
腰を抜かしている正樹が何事かと思っていると、スイレンはそのままゆっくりと瑞穂を下ろした。
しばらくその場で立っていると意識が戻ったか瑞穂は辺りを見渡し、そして歓喜の声をあげた。
「……体だ。本物の……体……! 傷がない! 痛くない! やった……私は生まれ変わったんだ。生まれ変わったんだー!」
そこにいるのは瑞穂であるが、明らかに中身は瑞穂ではない。
正樹の体が大きく震える。瑞穂だった人物は「お母さん、お父さん」と喜びながら夜の街中へと消えていった。
「お前たち……何をしたんだ。瑞穂に何をした?」
「教える必要はねえ。お前は俺の聞きたいことを言え。言わなきゃあのババアのようにするぞ」
腰を抜かしている正樹は、虫のように足を動かしながらスイレンとアジサイから距離をとるが、堂々と歩いてきたアジサイに胸ぐらを掴まれ涙声を上げた。
「お前の、雪下家の系図は誰が持っている?」
「……なんでそんなことを聞くんだ?」
「質問に質問を返すんじゃねえ、バカ野郎。俺は今、雪下家の系図は誰が持ってると聞いているんだ。それ以外は聞いてねえ」
アジサイに激しく揺さぶられながら正樹は「祖父だ」とほとんど絶叫に近い感じに答えた。
「祖父が持っている、はずだ! 雪下 大毘。雪下 大毘っていう名前だ!」
祖父の名を聞き出すとアジサイは手を離し
、正樹をその場に落とした。
咳き込む正樹は「満足だろう?」と言って及び腰になりながら距離を離そうとした。
アジサイはどこか遠くを見るようにボウッとしていたが、すぐに正樹を見ると生返事を返した。
安堵の息を漏らした正樹だが、直後にアジサイは「しかしだな」と言った。
「お前は自分の保身のために、自らの親さえも売る奴だということが分かった。しかも何のためらいもなく、だ。息子も売る。親も売る。お前、とことん救えねえよ。そんなお前に……生まれ変わる価値なんか、無え」
言い終わるとスイレンは正樹の頭を掴み、瑞穂にしたのと同じように力を込めて握った。
瑞穂がそうだったように、正樹もまた、その身に宿っていた魂と、スイレンが内包している旅客機墜落事故の犠牲者の魂が入れ替わった。
正樹の体には、今や当時の犠牲者名簿に書かれていた誰かがいる。
当の正樹の魂と瑞穂の魂は、スイレンが抱く永遠の地獄で、決して届かぬ助けと叫びを上げ続けるのだ。
正樹と入れ替わった誰かは転生した喜びに打ち震え、歓喜の笑いながら夜の街へ消えた。
「さて、大毘くんを探しに行きますかね。行くぞ、スイレン」
スイレンを引き連れ、アジサイたちは闇に消えた。
辺りに秋を予感させる虫の声が、静かに奏でられていた。
※
少しだけ愉快そうに口角を上げるクロユリが雛月たちの方に目を向けると、例によって屋上に集まっていた人々に記憶改変の光を見せていた。
興奮に沸き立っていた人々が急に口を閉じ、自分たちがなぜここにいるのかという風に辺りを見渡しているときには、雛月と雷花はその場を去っていた。
「そう。じゃあ、一応の仕上げにかかりましょうか」
クロユリがマントを翻して消えると、ホオズキも夜の空に溶けるように消えた。
※
天を貫く電磁砲が止み、辺りに風の通りすぎる音が消えると、輝夜は包むようにかばっていた龍吾からドレスを元に戻した。
「どうやら雛月たちの方も……決着がついたみたいね」
「そうだな。ところで、あの成金野郎はどうすんだ。まだ生きているぜアイツ」
龍吾の指差した先には、ボロボロながらもまだ息がある金満が虫のように這いずっていた。
「あんな状態なら、放っておいても大丈夫でしょう。何かやろうものなら真っ先に頭を跳ね飛ばしてやるわ」
龍吾が小さく頷いていると苦しそうに咳き込んだ。
輝夜とスミレ、月島の三人の目が龍吾に向けられると、龍吾の口からは血が滴り落ちていた。
いよいよ麻酔が切れかかってきていた。
血を見た途端に輝夜の顔はあっという間に青ざめ、なりふり構わず月島やスミレにすがるように慌てだしていた。
龍吾にはまだ明確な意識があり「大丈夫だ」と言って聞かせるが、輝夜は止まらない。
月島は冷静に治療に努めようとするが、治療具を持っていない身としてはどうすることも出来ず、患部を自らの帯で抑えることが精々だった。
スミレがパニックになりつつある輝夜を抑えるが、当のスミレも龍吾が死んでしまうかもという焦燥を必死に抑えているようだった。
龍吾が輝夜をなだめようとしていると、輝夜の背後へと目が止まった。
三人も気づいて目を向けると、そこには雛月の精霊、ボタンが浮いていた。
ボタンは━━雛月の精靈は皆そうだが━━何も言わずにジッと龍吾を見ていた。
怒りや落胆ではなく『本当によかったのか?』『後悔はないのか?』と、問いかける目だった。
「これでいいんだ」
ほとんど、無意識のうちに龍吾は答えていた。
龍吾の答えを聞いたボタンの表情が少しだけ緩み、静かに目を閉じると淡い紅藤色の光を目に灯して目を開いた。
ボタンが目を開いた直後には、龍吾の体に刻まれた無数の裂傷や銃創が瞬間的に消えた。
龍吾の体から痛みはもちろんのこと、傷一つ無くなっていることに三人が驚いていると、見届けたボタンが霧散するのと入れ替わるように雛月と雷花がビルの下から飛んで上ってきた。
「り、龍吾様。どうしてここに?」
「月島、月島! 生きていたんですね!」
雷花は案の定、わぁわぁと泣きながら月島に駆け寄り、雛月は目を点にして驚きながら歩み寄った。
すっかり調子を戻した龍吾は「雷花さんと月島さんとで助けに来たんだ」とあっさり答えた。
「わ、私たちを……ですか? ですが、龍吾様のご両親には、なんとご説明を?」
必然的に聞かれることとはいえ、龍吾としてはあまり聞いて欲しくはない問いかけに、龍吾は苦い顔をして目線をそらした。
「お前ら……何をしたのか分かっているのか」
場の空気を濁すしわがれた声が輝夜たちに向けられ、全員が声の方へと顔を向けると、落ち武者さながらのボロボロな金満が四つん這いで輝夜たちを見ていた。
「私を誰だと思っている。私にこんなことをして、タダで済むと思っているのか堕人どもめ。お前らも、そこの人間も、全員私の手で抹殺してくれるわ」
息も絶え絶えの状態で精一杯の強がりを見せるが、直後、「見苦しいわよ」と言いながら金満の背後にクロユリが現れた。
金満が振り向くよりも前にクロユリのマントが金満を包むと、金満だけが一瞬でその場から消えた。
輝夜たちが応戦の構えを見せると、クロユリは手を前に出して静止させた。
味方がいるいないに関係なく、龍吾の目つきは変わっている。
そこにあるのは、身の丈を超える絶望的な現実を前に、それを受け入れて進む覚悟を決めた者が得られる気高さが宿っていた。
クロユリの口角が自然と釣り上がり、満足げに一言だけ言った。
「やれば出来るじゃない」
龍吾を除いた全員が怪訝な表情を浮かべているのを尻目に、クロユリは夜の闇へ溶けて消えた。
※
金満が気がつくと、そこは見慣れた世界が広がっていた。
一面に広がっていた東京の夜景は影も形もなく、人工的に作られた近未来の都市が広がり、空は世界を内包した界球がクモの巣のように散りばめられている。
飽きるくらいに見てきた世界は、金満の顔を一層青ざめさせていく。
「金満」
神無の、ドスの効いた低い声が背後からかけられる。
金満の顔は汗が滝のように流れ、振り向こうとしても恐怖のあまり振り向けないようだった。
「私にあれほどの壮語を吐いて逃げた身でありながら、よく戻ってきたな。さぞかし立派な土産でも持ってきてくれたのだろうよ」
歯を鳴らしながら金満は辺りを見渡すが、金満のいる政法殿の一角である粛清の間には、森アークビルの高さとは比較にならない高所にあり、エレベーターの類や非常階段めいたものは一切ない。
それでも神無に殺されることを恐れた金満は、甲高い悲鳴をあげながら政法殿の外へと身を投げ出そうとした。
しかし端まで来たところで、電流の走る音とともに天まで届かんばかりの壁がそそり立ち、金満の逃げ場を完全に無くした。
金満が恐る恐る振り向くと、金色に輝く大剣を肩に持った神無が光のない氷点の目を向けていた。
腰を抜かした金満が消え入りそうな声で助けを求めていると、神無の背後に赤い巫女服を着た精靈『ホオズキ』と、白いウサギの耳飾りをつけ、貼り付けたような笑みを浮かべる白を基調とした女性がうっすらと立っていた。
「ほ……ホオズキ。それにお前は……。き、貴様……私を。この私を、裏切ったか!」
全てを察した金満の怒りを、ホオズキは鼻で笑って一蹴する。
「裏切るも何も、いつ俺がお前に仕えると言った?」
赤い目と口で笑顔を向けるその傍に、かつて金満が甘言に弄して騙した彩月の亡霊が佇んでいた。
ハッと息を飲んだ次には、神無の大剣が金満の肥えた身体を貫いた。
金満の顔が苦痛で大きく歪むと、突き刺した剣から無数の光線が放たれ、金満の腹部と下半身を焼き砕いた。
張り裂けんばかりの絶叫をあげる金満の身体を光線は容赦なく焼き切り、光る剣身から放たれた特大の光線が金満の身体を粉々にした。
金満だった肉片が血しぶきとともに辺りに飛び散り、頭だけになって落ちてきた金満を、神無はためらいなく踏み潰した。
頭に詰まった物を撒いて死んだ金満を、神無は鼻で笑いながら踏みにじり、やがて政法殿へと戻っていった。
※
場は地球に戻る。
残された一行の周りでは風の通り抜ける音に満ちていたが、龍吾があちこちで鳴り響くサイレンを聞きながら沈黙を破った。
「雛月。ここいらの人たちの記憶は、いつも通り無くしたのか?」
雛月は晴れない表情でうなずくと、沈痛に「ですが」と加えて言った。
「これほどの大惨事です。私が助けたのも、この近辺の方たちだけ。他は……助けていません。
先にこの一帯を浸した泥は、能力によって形成された猛毒の泥。それを治せるのは、私たちのような能力を持つ天月人のごく一部だけ。
今回の被害者全てを治すとなれば、それこそ月界の医療に関わる能力者を全て率いて来なければ不可能です。
なにより、治療の都度記憶を改変させても、もうすでに全世界へ今しがた起きた情報は広がっているでしょう。今さっき行った記憶改ざんだって、申し訳程度の処置です。近いうちに周りの情報を吸収して真実を思い出すでしょう。
……もうこの星で、天月人がいることを誤魔化すのは不可能です」
いずれはそうなると思っていた未来に、ついに現実が追いついてしまった。
今まであった地球の常識を根底から覆す事実を、まもなく世界は知り始める。
混乱に次ぐ混乱が世を覆い、無秩序の世界が型作られるだろう。
そうなれば月の人間だけではない。地球にある全世界から狙われることとなる。
今後に控えている現実に重々しい空気が漂っていると、遠くの方からライトを照らしたヘリコプターが数台、森アークビルの方へと向かって来ていた。
「ここにいたら救急隊とマスコミ……報道陣とかに質問攻めされるぞ。どうするんだ?」
「その心配は無用です。帰るのは一瞬で済みますから」
龍吾の問いかけに、雛月が余裕のある返しをして指を鳴らす。
すると辺りが一点集中したように引っ張られた世界になると、元の世界に戻ったときには森アークビルが遠ざかり、用賀のいらか通りに戻っていた。
「ここは用賀か。帰ってきたのか、俺たち」
「左様です。付近にも伏兵はいませんね」
雛月が辺りを見ながら言うと、雷花は安堵の息を長く吐いた。
「なんだか……すごく疲れました。まだ日付変わっていないのですよね」
「だけど、自分たちに出来ることはしたし、生徒も守れた。雷花が頑張ってくれたおかげだ」
雷花が照れていると、輝夜が「その通りよ」と言って雷花と月島を穏やかな表情をして見ていた。
「貴方たちの貢献は、本当に素晴らしいものだったわ。こっちとしても、ただ頭を下げて終わりでは釣り合わない。なので貴方たちに、私から感謝を送るわ。
━━二人とも、本当に、ありがとうございました」
二人はポカンとしていたが、我に帰ると満面の笑みを浮かべた。
一行が帰路に向かう道中で、雷花が龍吾のことを気にかけるが、龍吾は「ここで十分だ」と言いきった。
それでも雷花はなおも食い下がる。だが輝夜は何かを察しているようで、再度帰るように促すと月島は雷花を諭すようにして帰路についた。
二人の背中を見送りると、雛月が二人の背中と輝夜を交互に見やっていた。
「今後のことについては、後で考えましょう。今あれこれと考えてもキリがないわ」
「……分かりました輝夜様。さて、龍吾様。お二方は龍吾様のご両親について気にかけていたと私は思うのです。私だって、とても気にしています。そろそろお話いただけますか」
龍吾はしばらく黙ってから「帰れば分かる」とだけ呟いた。
見慣れたはずの家は、たった数時間しか離れていないのに数年間空けていたような感じを醸し出している。
玄関前に着いて輝夜が龍吾の横顔をチラリと覗くと、悟ったような表情になっていた。
龍吾がドアを開けると、騒がしかった二人の姿はどこにもなく、がらんどうの居間がわびしく待っていた。
居間にも、キッチンにも、風呂場にも、トイレにもいない。雛月はまさかという風に息を飲んで、輝夜は静かに諦観していた。
「龍吾様……まさか貴方は……」
「そうだ。これが答えだ。でも、いいんだ。これで」
「私たちを助けるために、ご両親との縁を切ったのですか」
「成人になれば独立していた。別れる時間が少しだけ、早まっただけだ。それに、ありがたいことにこれからは輝夜たちがいてくれている」
「ですが、自分のご両親ですよ!? 血の繋がった親よりも、赤の他人である私たちの方を、どうして取ったのですか!?」
「いいんだ!」
龍吾はたった一言言い切って雛月の声を止める。遠くを見ているような無表情だったが、どことなく哀愁を帯びているようでもあった。
「もういいんだ。これで」
小さく龍吾の肩が震え始めると、ごまかすように「風呂を入れてくる」と言ってその場から離れた。
納得のいかない雛月は、うろたえながらもスミレを呼び出し、真相を聞き出そうとした。
入れ違いに龍吾の体から現れたスミレは、雛月から問いただされると目線をそらして煩悶していた。
主人である雛月の命令は守らなければならない。しかし今の主人である龍吾から言われた願いも守らなければならない。
どちらも遵守すべきことではあるが、今はどちらか一つを選ばなければならない。
葛藤するスミレは、決心したようにおもむろに顔を上げると、雛月に背を向けて龍吾の元へと戻っていった。
「す、スミレ? 戻ってきなさい。私の言うことを聞けないの━━」
雛月が言い終える前に、輝夜が雛月の肩に手をおいて言葉を止めさせた。
困惑している雛月が輝夜の方を見ると、輝夜は寂しげな表情だった。
「今はそっとしておきましょう。それに、私たちは彼の下で住まわせてもらっている身。であるなら、彼の機嫌を損ねさせるのは無礼だと思わない?」
「ですが……ですが、私には分かりません。なぜ龍吾様は、実の親よりも私たちを選んだのですか?」
「……きっと……そうせざるを得ないくらいの事情があったのでしょう」
「事情? そのたった一つの理由だけで、親との関係を断てるものなのですか?」
「そうよ。貴女、私がどういう理由で地球に来たかなんて、今更言わせるつもり?」
雛月は言葉に詰まって黙ってしまった。
輝夜は雛月に居間で休むように言うと、龍吾がいる風呂場前の洗面所へ向かっていった。
※
龍吾は無表情だった。
蛇口をひねり、湯が浴槽へと溜まり始めるところを黙って見ていた。
実の子を裏切った両親を見限り、輝夜たちを助けることを決心したはずの龍吾は、ドアを開けた先に誰もいないと分かったときに、泣くような悲しさが突風のように彼の心中を冷やした感覚を覚えていた。
分かっていても、実の親との永遠の別れは彼にとってあまりに大きなものだった。
しかしその現実を選んだのは紛れもなく龍吾自身であり、龍吾もまたその現実を輝夜たちを助けに行く道中で受け入れた、はずだった。
現実は目の前にあり、その選択を自分でしたという実感も意識もある。
なのにどうしてか、その現実が漠然とした幻影を前にしているようであり、それが龍吾の中から現実味を奪っていた。
スミレが龍吾の元に戻ると、龍吾は笑顔を向けた。
本人からすれば精一杯に自然な笑顔を見せようとしていたのだろうが、すでに自然ではない。必死に取り繕うとする、あまりに痛々しい笑み。
スミレは龍吾の横にくると、両手を顔にそっと当てて、優しく微笑んだ。
私が共にいるというような、儚くも柔らかな笑みを。
涙が一筋、龍吾の頬を伝った。
流しきったと思っていた涙が目を潤し、そして静かに嗚咽を漏らした。
その様子を、洗面所の壁に寄りかかりながら輝夜は沈痛な面持ちで耳を傾けていた。
憶測が確信に変わったことを悟り、しかし今は声をかけるべきではないと判断して輝夜は天井を見上げた。
夏の終わりを告げるように、外では鈴虫の透き通った鳴き声が響いていた。




