真夏の夜の下で
龍吾、雷花、月島の三人が駅前にあるタクシー場へ向かう中、龍吾が小さく鼻を鳴らす。
雷花が「どうしましたか?」と尋ね、龍吾は「なんでもない」と、やや潤んだ声で返した。
「龍吾くん、怖いなら無理はしないほうがいい。君がこれから、向かおうとしているのは、殺し殺されの世界だ。輝夜さんを助けたい気持ちは分かるが、君が死んでしまったら、元も子もない」
「いいって言っているんだ。これは、俺が決めたことなんだから」
頑なに意思を変えない龍吾に、月島は呆れよりも「どうしてここまで」という疑問の方が大きく浮かんでいるようだった。
しかし聞いたところで返答は期待できないと思い、月島は口内に溜まっていた言葉を喉の奥へと押しこんだ。
龍吾は脇目も振らず駅へと向かう。
街灯の光に混じって彼の目が少しづつ潤んでいく。
声となって出そうな嗚咽を、口内で留めさせながら数十分前のことを思い出していた。
※
龍吾が意識を失う前、彼の目にはある光景が映し出されていた。
数年前、日本の旅客機が一人の整備士の悪意によって墜落した未曾有の大惨事。その墜落直後と思しき地獄の世界を。
紅蓮の炎の中に囲まれながら周囲を見渡すと、破損した機体のパーツに混じって、人の部位や削がれた肉片が散らばっている。
誰かの叫び声と赤ん坊の泣き声が、轟々と燃え盛る灼熱の中で徐々にボリュームを下げながら響く。
現実と見間違うほどの光景を見ていると下半身から激痛が走り、目線を素早く下げると折れた尾翼の上に上半身が乗っていることに気づいた。
一目でもう助からないという絶望が心身を飲みこんで、意識は闇の中に落ちていった。
体を蝕んでいた鋭い苦痛と絶望がウソのように消えてゆっくりとまぶたを開くと、そこはいつか見た山の中腹にたたずむ無人の駅だった。
以前見たときは青々とした緑が目の前に広がっていたが、今は赤や黄色の紅葉が月明かりの下で、色鮮やかに山を染めている世界だった。
何度目かの臨死体験に辟易するよりも、眼を見張るような絶景の方に龍吾は感動していた。
すると、遠く離れたところからしわがれた声で「龍吾」と誰かが呼んだ。
声の主の方へと足を延ばすと、薄く霧がかった鉄橋の先から再び「龍吾」と声が響き、恐る恐る線路に降りて鉄橋へと向かった。
鉄橋の真ん中まで差し掛かると、少女の泣き声が川のせせらぎに混ざりながら辺りに響いた。
その泣き声は、しわがれた声の主と違いどこかで聞いたことのある声だった。
薄く霧が立ちこめる中で、不意に恐怖が龍吾を震わせ駅へと戻ろうとしたとき。
「ここにいてはならん」
しわがれた声が背後からハッキリと聞こえ、振り向こうとしたときには誰かに鉄橋から突き落とされた。
見た目よりも深い川に流されながら、龍吾が鉄橋の上に立つ老人の姿を見たのを最後に意識は暗闇に落とされた。
再び龍吾の目が開くと我が家に戻っていた。
倒れている正樹と瑞穂を見てすぐに駆け寄ると、龍吾は震えた声で大きく呼びながら強く揺さぶった。
二人が意識を取り戻し龍吾が安堵の息を吐いていると、両親もまた旅客機が墜落した直後の光景を見たと言った。
龍吾の脳裏には『天月人』の三文字が否応なしに浮かび、輝夜と雛月の安否を気にかけていた。
そこで瑞穂が沸き立つ怒りを抑えつつ、しかし心底腹立たしげに吐き捨てた。
「私だけじゃなく龍吾までそれを見たっていうなら、コレは間違いなく、あの輝夜とかいうふざけたヤツの仕業だわ。三人揃って同じ幻覚を見た、なんてバカげたことある?」
無論、輝夜がそんな能力を持っているはずはなし。
そもそも輝夜と雛月が、日本で過去に起きた墜落事故のことを知るよしもない。
幻覚にしても、あんな悪趣味な方法で見せる意味がない。しかし、一度吐き捨てた瑞穂はそれをきっかけに止まらなくなった。
「だからあんなヤツ、追い出して正解だったのよ。どっかの社長だなんて、見え透いたウソついてたテロリストよ、アイツらは。さっきだってあんなモン見せたんだからきっと近くに未練たらしくいるはずよ。龍吾、すぐに警察を呼んで」
「……母さん、輝夜はそんなこと……しないよ」
龍吾から出た擁護に、瑞穂は目を丸くしながら、顔を向けた。
正樹も、瑞穂に乗じて視線を向け、「どうしてそう思う?」と聞いてきた。
一緒にいたから分かること。それ以上に簡潔な理由はないが、二人にそれは通じない。
借金を返してくれた人だからと、非常に心もとない言い分を言うと、案の定二人から無情な返事が返ってきた。
「借金を返してくれたから、テロはするはずがない、って言いたいの? 龍吾、そんなの理由にならないわ」
「そうだぞ、りょ……龍吾。大体、どうしてお前は、あの二人を庇うんだ?」
「どうして? どうしてって、そんなの今、言った通りだよ。俺たちの借金を返してくれたから」
「言ってるでしょ。あんたが二人を恩人と思っていても、一度バケの皮を剥がせばあんな幻覚を見せてくるケダモノよ。龍吾、あんたは騙されてるの。あの二人は、恩を売っといて、あとで暴利な金を要求してくるヤツなのよ」
「龍吾。いいかげん目を覚まそう。もしかして、何か弱みでも握られているのか? 言ってごらん」
「だから、そんなのはないって! 輝夜はそんなことをしない。するわけがない。それこそ、もっと別のヤツが」
「あぁもう、輝夜輝夜って、そんなヤツをどうして庇うの? お母さんとお父さんよりも、その輝夜ってヤツの方が大事?」
龍吾の言い分も虚しく、全てが売り言葉に買い言葉だった。
加えて、龍吾一人に対し、瑞穂と正樹の二人が相手であるのも、舌戦に苦戦を強いられる理由である。
必死のあがきも虚しく一蹴され、言えば言うだけ龍吾に向けられる目は我が子を見る目から、第三者に向けられる不信の目へと変わっていく。
泣きべそをかきながら反論していると、とうとう堪忍袋の尾が切れた瑞穂が「もういい!」と、ヒステリック気味に言った。
「そんなに言うなら、あんたもテロリストと同じよ! テロリストは、私の子じゃない!」
親としてはあるまじき暴言に、龍吾はしばらく唖然としてしまった。
瑞穂の言葉に便乗して、正樹もしかめっ面を向ける。
「龍吾、たしかに、一家の借金を返してくれたことには、感謝しているさ。でも、お前がそこまで庇うなら、父さんも母さんも、龍吾とは絶交だ」
龍吾はワナワナとしながら「なんでだよ」と呟いて、目線を下げた。
二人がなんの根拠もなく、輝夜たちを悪とみなす理由も、深い落胆におちいった龍吾には問いただす気になれなかった。
そもそも、龍吾のお人好しが過ぎると言ってしまえば、それまでの話ではある。
月という異世界から来た輝夜の事情で、これまで再三振り回され、命の危機には何度も会い、臨死体験に至っては先のを含めて、四回か五回も味わった。
そこまでされた輝夜たちに、龍吾の事情を理解してくれて、借金を一晩で返済してくれたことに大恩を感じ、これまでのことは水に流す。というのは、たしかに現金な人と思われるだろう。
しかし龍吾には、そう思われてでも二人のことを少ない日々の中でようやく理解し、和解できた間柄。二人を無下にすることも、切り捨てることもできなかった。
かといって、両親のことも無下にできないし、否定はできない。
望むべくならば、輝夜たちと両親も和解してくれればそれに越したことはないが、現実は無慈悲な結果しか出さなかった。
そうしてしびれを切らした瑞穂が「残念だわ」と言うと、龍吾には身を引き裂かれるような一言を言った。
「もう勘当よ、龍吾。これ以上話しても、あんたは聞こうとしない。それならこっちも、もうあんたに言うことはないわ」
「どうしてだよ。恩人を庇うことが、そんなに悪いことかよ!」
「ええ、悪いわよ! あんなのは恩人なんかじゃない。勝手に返済してくれた、どこの誰かもわからない気狂いよ! そんなヤツをひたすら庇うあんたは! もう息子じゃない!」
重く、生温かい幕が龍吾の胸中にドッと降り、足下が突然なくなって無限に落ちていく感覚に、龍吾は満たされた。
瑞穂が正樹に荷物をまとめるよう催促するのを、他人事のように傍観する龍吾を、二人は声はおろか視界にさえ入れなかった。
輝夜を取るか、両親を取るかの最後のチャンスを雰囲気として掴んだらしい龍吾は、雑然とした脳内では処理ができず、何を思ったか踵を返して家から出てしまった。
もちろん、その選択は決して利口なものではない。が、二人はそう思っていなかった。
「……行っちゃったわね」
「止めなくていいのか?」
「いいのよ。貴方だって、こうなることを期待してたくせに」
※
玄関を出た龍吾は、今にも泣き出しそうな心境をグッと抑えて階段を降りようとした。
その時、龍吾の目線の先に異様なモノが映った。
階段の先、足場も何もない空間に体を黒のマントで包んだ金髪の女性『クロユリ』がポツンと浮かんでいた。
漏れそうだった涙が瞬時に引っ込むと同時に、龍吾の中にいたスミレが臨戦態勢となる。
するとクロユリは、人差し指を小さく左右に振りながら音もなく近づいてきた。龍吾が怪訝な表情を向けていると、指を口に当てて『静かに』というジェスチャーをした。
龍吾との距離が人一人分にまでなると、クロユリは口に当てていた指を離してチョイチョイと背後を指し示した。
背後を振り返ると、クロユリが指を高らかに鳴らす。
肩を跳ねさせた龍吾が、クロユリの方に振り返った瞬間、背後の方。龍吾の部屋の方から、瑞穂と正樹の声が聞こえてきた。
「期待していた? それは……違う。僕だって、できるなら龍吾には戻ってきて……」
「なに言ってるのよ? 戻ってきたらどうするの? 養子にでも入れる気? バッカみたい」
唐突に出た養子という言葉。
途中から聞き始めたとはいえ、龍吾の表情は驚きのあまり無表情となっていた。
「そもそも、アンタもわたしも家庭があるのに、高校生の子ども持つことが、どれくらい負担か、分かってるでしょ」
「お前はいいだろ。結構いい暮らししてるようだし。子どもだってなに不自由なく、遊んで暮らしてるじゃないか」
「それはあんたが厄介払いしたいだけでしょ。今さら「新しいお兄ちゃんですよ」なんて、言える度胸があるとは思えないしね。なに? 遼子って名前だっけ。お笑いよね、龍吾とそっくりな名前つけて。何度も龍吾の名前を噛んでいたのは、それが理由でしょ。あ、もしかして、似た名前をつけたのは、罪滅ぼしか、なにか?」
話の中身が徐々に明るみに出るにつれて。言っていることが徐々に理解していくにつれて、龍吾の表情は青ざめていく。
「それは……仕方がなかったんだ。成り行きだよ。……元はといえば、お前が龍吾に」
「私だけが悪いように、言わないでくれる? 最初にその話を持ち出したのは、あんたでしょ? それに、おっ被せることができると聞いたら、結局手放したじゃない。成り行き? よく言うわ。ここの生活に一番ウンザリしてたのは、他ならぬあんたじゃない」
「違う。い、移譲できるような、法律ができたのが悪いんだ。そうでなければ、今だって龍吾と」
「見苦しいわよ。借金のことを考えなくていい生活を謳歌していながら、今さらそんな気はなかったなんて、最低ね」
「それを言うならお前だってそうだろ。いい生活してるくせに、龍吾を助けようともしなかった! やろうと思えばできたのに! 一番最低なのはお前の方だ!」
「よくもまぁ、そんな堂々と言えるわね! お金があったら、あんたは助けるつもり? できないくせに。遼子ちゃんがいたら、どういう顔するか!」
「遼子は関係ない! お前だって、厄介払いをしたいだけだろ! 今のでよく分かった! 母親らしくちゃんと子どもの面倒くらい見ろよ!」
「最ッ低ね! だいたい━━」
もはや聞くに耐えない水掛け論を延々と繰り返す両親のやりとりに、龍吾の頬から大粒の涙が音もなく滑り落ちていく。
聞こえないように、気づかれないように、極限まで感情を押し殺しつつも、今にも爆発しそうな掠れた声が弱々しく龍吾の口から出た。
「ウソだ。こんなの……お前が、お前の作った幻だ」
未だ絶え止まぬ喧嘩声を背景に、クロユリは憐憫の目を向けながら静かに口を開く。
「生憎だけど、私にそんな能力はないわ」
龍吾の表情がひどく歪み両手で顔を覆うと、押し殺した慟哭を出しながら壁に寄りかかってうずくまった。
信じていた両親は、家族全員で味わっていたはずの借金地獄を、全て龍吾に押し付けていた。
それだけで飽き足らず、二人はすでに新しい環境で、新しい人と、新しい人生を悠々と過ごしていた。
血の滲むような日々の中で両親と再会し、日々を共に過ごす夢は龍吾ただ一人の望みでしかなかった。
大粒の涙が掠れた泣き声よりも大きな音をたてて、ボタボタと落ちる。
悲痛な面持ちのスミレが龍吾を慰めようと寄り添う姿を、クロユリは哀れみながら見ていた。
環境音と化していた喧嘩声が一段落つくと「もういいわ」と、瑞穂が投げやりに言った。
「こんなに不愉快な日も、どうせ今日で終わり。これでもう心残りはないわよね?」
「あぁ、もうない。……それより、りょ……龍吾はどうするんだ?」
「言ったんだから、あんたが迎えに行けばいいじゃない」
「バカ言うな。こっちは家庭があるんだ」
「……もういいわ。どうせ、あの輝夜ってヤツを取りにいくでしょ」
「でも帰ってきたら?」
「知らないわよ! なんでも人に聞かないで!」
「……そ、そうだ。龍吾とは、スマホの番号を交換してたんだ。家に帰ってきたとき誰もいなかったら、こっちにかけてくるはずだ」
すると荒々しい息遣いが唐突に止み「スマホ、知ってるの?」と小さく正樹に聞いた。
「あぁ。……そうだな、もしかかってきたら、さっきは取り乱していたんだろうけど、お父さんとお母さんを困らせたバツだ。とでも言えばいいか」
「ちょっと、あたしに番号見せて」
「なにをする気だ?」
「……あんただって考えていたくせに。さっきから白々しいわよ」
「バカいうな」
その一言を口火に、さっきまで喧嘩腰だった二人が今度はドス黒い笑い声をあげた。
外にいた龍吾には突然の出来事に、泣くのをやめて耳をそばだてる。
「あの輝夜って女は、ウソでも本当でも一億もの大金を返せる大物よ。一回くらいなら龍吾のためを思って、もう一回なんとかしてくれるでしょ」
「だが向こうだってバカじゃないだろう。龍吾もいる。お前と自分とで、精々二回が限度だと思う」
あろうことか二人は、龍吾にもう一度あの巨額と同等か、やや上の負債を作って押し付けようとしていた。
過程はどうあれ一億近くあった借金をその日のうちに返済した輝夜は、二人には金ヅルとして見られていたからだ。
慟哭の涙が徐々に引いていき、未だ小さく残る嗚咽をゆっくり飲みながら龍吾は寄り添っていたスミレに目を向けて囁く。
「……いいか。絶対に、輝夜にも、雛月にも伝えないでくれ。他の精靈にもだ。約束してくれ」
静かにうなずくスミレを見ると、龍吾はゆっくりと立ち上がった。
「どうするの」
クロユリが淡い寂しさを表情にまとって龍吾に問いかけた。
「輝夜と雛月を、助けに行く」
「全員死ぬかもしれないわよ」
「……いいさ。俺はもう、なんの未練はない」
聞かれているとは露と思わないゲスな笑いを時々あげる両親の策謀を耳にしながら、龍吾は自分の部屋を一瞥する。
「さようなら」
両親には届かない永遠の別れを告げ、龍吾とスミレは鉄骨階段を降りていった。
どこに行くという当てはなくても動かなければ輝夜は助けられないと踏んだのか、龍吾の足は駅の方へと向かい始めていた。
道中、引っ込んだはずの涙が無意識に零れて立ち止まった。両手でもみ消けすように涙を拭うと、今しがた起きたことが思い出されて嗚咽がぶり返す。
人気が少ない通りの傍で、龍吾は立ちながら再び泣いた。
スミレも一心同体である身なため深い悲しみに沈むが、龍吾の肩にそっと両手を添えて微笑んだ。
彼女が思いつく精一杯の慰めを、龍吾に一心で向ける。ひとしきり泣くと再び顔を両手で拭い、側にいたスミレに泣き腫らした目を向けた。
「ありがとうな、スミレ」
今までさほど表情を崩したことのなかった彼女は、真っ暗闇の中に柔らかな光が射し込んだような優しい微笑みを浮かべて、スミレは返事として返した。
再び足を動かした龍吾はほどなくして雷花と月島に出会い、事の顛末を一切話さないまま三人で用賀駅前の道路に並ぶタクシーの列へと向かう。
その様子を全身を包む黒のマントをなびかせながら、クロユリは空から見ていた。
「私よ。あの子、輝夜の方に動いたわ。私があの子と遊ぶから、そっちはお願いね。アジサイ」
『……ほう、あのガキ、思い切ったことするじゃねぇか』
「そうね。中々、面白い子だわ。自暴自棄でも立派な判断ね」
艶のある笑みを浮かべながら通信を終えると、黒のマントを翻しながら夜空の中へ溶けるように消えた。




