超弩弓の雨
薄暗い階段を降りている途中で、騒動に気づいた住人達の玄関を開ける音が次々と鳴り始める。
階段の踊り場から外へ飛び降りると、裏庭でマンションを見やりつつ『ぽえむ』へと戻ろうとした。
鴉が通りに出ようとした時、先ほどまで倒れていたはずの男性がどこにもいなくなっていることに気づく。
本能的に鴉はマンションの陰に隠れて周囲の様子を見ていると、ぽえむの中で先ほどの男性が手当てを受けながらくつろいでいるのを見る。
福顔の狐の面を被った単が、救急箱から器具を取って男性を手当てしている。
その様子を見て、鴉は迂回する形でぽえむの裏口へと向かって行った。
※
「いやぁ、本当にありがとうございます。手当てをしてくれた上に、こんなにも美味しいコーヒーを頂けるなんて」
手当てが一通り終わったサラリーマンは、目の前に置かれたブレンドコーヒーを静かに飲んだ。
時折痛みで表情が歪み、その度に福顔の狐の面を付けた単が慌てると、笑みを浮かべながら「大丈夫です」と言って単を落ち着かせる。
「お話は変わりますが、その狐のお面は……確か『幸狐』でしたか。こちらのお祭りで選ばれた人が付けられるっていう」
メガネをかけ直したサラリーマンの問いに、主人が代わって簡略ながらも正確に答えた。
「ははぁ。噂程度にしか聞いてませんでしたが、本当なんですね。そういえば、さっき私と女性を襲った相手にコーヒーの翁という方が助けてくれましたが、あれもこちらの名物ですか?」
サラリーマンの問いかけに、単は肩を微かにすくめて、主人は動じずに冷静に返した。
「いえ、そのような方は存じません。私達も先ほど見かけましたが、……なんと言えば良いか。何ともおかしな方がいたものだ。としか思えませんでしたね」
「……そうですか」
ほんの数秒の間を開けて主人の言葉に返すと、残っていたコーヒーを飲み干して会計を済ませた。
「どうも、ごちそうさまでした」
「いえいえ。それよりもお怪我の方は」
「あぁ大丈夫ですよ、本当に。ちょっとトラブルに巻き込まれましたが、これくらい何ともありませんし、何より仕事中の身なので。本当にありがとうございました」
「どうかお気をつけて。最近はここら辺も物騒な事が多いので」
サラリーマンが苦笑しながら主人から目を離して単の方を一瞥したほんの一瞬、面の下で単の喉奥から悲鳴が上がりそうになるのを、わずかに開いた口が辛うじて止めた。
サラリーマンは、単に軽く一礼をして店を後にすると、再び静かな空間が戻ってきた。
「本当に……物騒になりましたね」
主人の呟きを背にしながら、単は窓の外を見ながら立ち尽くしていた。
その場からずっと動かない単を主人が呼びかけると、単は狐の面を上げながら親にすがる子どものように駆け寄った。
「ご主人! あ……あ、あの人。あの人の目!」
ひどく怯えた様子の単に主人は動じず、両肩を優しく叩いて落ち着かせる。
「皆まで言わなくても大丈夫です。私も薄々思ってましたが、単くんの反応を見て確信に変わりましたよ」
主人がなだめていると、店の奥から翁の面を外しながら鴉が店内に出て来た。
「ご主人、それに単のその様子……。さっきのヤツ、何か変だと思ったが、どうも間違ってなかったようだな」
「今の人の目! 人間の目じゃない!」
「……天月人だって言うのか?」
「月の人ではないでしょう。ですが、あの人は隠しているつもりだったのでしょうが、時折目の奥に……冷たく、底の無い真っ黒な光を見せるのです。あんな目は私もこの歳まで生きて初めてです」
主人の言葉に鴉は、得体の知れない恐れを抱いたのか、うっすらと汗が滲み、脇腹に手を当てながら席に着いて一息吐いた。
この世田谷区に、月の者では無い何かが潜んでいる。
それは鴉や単を遠目から。しかし絶対に目線を離すこと無く見続ける、正体の見えない不安を醸し出していた。
※
脇目も振らず走り続ける瑞穂は、用賀の駅へと向かっていた。
そこを屋根伝いに飛び歩く晶濟が、小さな水晶を自在に操り、その奥から爆撃のように矢が放たれる。
瑞穂の後方で水晶が電灯や街路樹を守る柵、駐輪している自転車や道路へ、めちゃくちゃな軌道で描いてなぎ倒し、抉り、傷つけていく。
更に後方からは道路に穴を開けるほどの矢が目視不可能の速さで着弾し、付近にいた人や物を軽く吹き飛ばす。
時には縦に数メートルの穴を開けて、射線上にあった自転車や電灯は矢が通った跡には、触れていない所だけ残して崩れ落ちていく。
青い魔力が矢の形となり、青碧色の弓に付けると同時に弦を引く。
弓に付けられた歯車が重々しい音と共に火花を散らし、三本目の弦を最大まで引くと、矢は光線にも値する速さで放たれ、着弾すると爆音と同時に道路に大きな口を開けさせる。
平穏な用賀の商店街が、たった二人の手で戦場じみた光景に一転する。
屋根の上から狙っていた八千慧が矢を放つと、一息置いて眼科の光景を見た。
どこもかしこも悲鳴と鳴き声、助けを求める声で満たされている。そんな光景が眼科に広がっているにも関わらず、八千慧は全く悪びれる様を見せない。
「うむうむ。皆、泣く余力があるならまだ大丈夫じゃのう。ワシは道を穿つだけじゃったが、巻き込まれたら……運が悪かったと思うことじゃな。しかし……ん、やはりこの弓は腕に応えるのぉ。ま、致し方無いがな」
八千慧の目線の先には一心不乱に逃げる瑞穂の後ろ姿が映っている。
そんな視線に気づかず、物が壊れる音と爆音にも似た音に混じって、周りから悲鳴が耳に入り、瑞穂の走る速度が更に上がる。
それを晶濟が建物の屋上から見ると、耳につけた通信機を軽く押した。口元に小さな赤い楕円の光が照らされると、風華へと通信をし始めた。
「風華さん〜? 用意は出来ていますか〜?」
『はい! こちらは準備万端です! いつでもいけますよ!』
「ではお願いします〜」
通信を切ると、瑞穂の後方で暴れていた水晶を手元に瞬時に戻し、球体から立体的な地図へと変化させ、用賀一帯の様子を見ていた。
「うフフフ〜、集まってる集まってる」
※
馬事公苑の通りにある封鎖された無人の団地に、風華が立っている。
無人となって久しい団地は所々塗装が剥がれ、一種のアートにも思える落書きが随所にあり、一階の部屋内は風雨や誰かのイタズラで、もれなく荒れ果てていた。
そんな団地に一人、月から来た少女がいる事には誰一人気付かず、パトカーは絶え間なく通り過ぎていく。
風華はその場でゆっくりと一回転すると、上半身を少し捻りながら宙に浮いた。
彼女の周囲にある枯葉やゴミが少しづつ風華の方へ引き寄せられていき、周りから生えた雑草も徐々に頭を風華の方へ向ける。
風が唸り声をどんどん大きくさせていく。風華の周りではゴミや枯葉。果ては建物の中にあった家具までもが部屋から抜け出し、彼女の周りで渦巻いている。
老朽化した団地が風力で軋み、公苑の木々も吸引元である風華に頭先を向けるほどに風力が上がった時、ほんの一瞬だけ風が止んだ。
すると風華は叫ぶようにも、歌っているようにも取れる高らかな声を上げて、彼女が溜めていた風を放出した。
白昼の空を貫く黒みがかった太い竜巻は、団地の壁に亀裂が走らせ、団地そのものが風圧で傾く。
団地から離れた通りを走っている車は、いとも容易く浮かび公苑の壁へと叩きつけられる。
※
風華が竜巻を作る少し前。
瑞穂は死に物狂いで駅に隣接する交番へと駆け込んだ。
しかし交番の出入り口には、巡回中の看板が掛けられており、中に人がいる気配は無かった。
「ちょっと! 誰か! 誰かいないの!?」
荒々しく扉を叩くも、交番からは何の返事も、反応もなかった。
瑞穂の表情がどんどん青ざめていく中、通りからパトカーが三台。サイレンを鳴らしながら向かって来る。
瑞穂は両手を大きく振りながら助けを求めるが、パトカーは無情にも全て通り過ぎていく。
「はぁ!? なんでよ! 一台くらい止まりなさいよ!!」
少しの間うろたえた瑞穂は、ふと携帯を取り出すと、百十番をかけて助けを求めた。
コール音が二回ほど鳴ると、二十台後半ほどと思わせるような声色の警察官が電話に出た。
瑞穂は話の途中で、今自分の身に起きている現状を全て伝え、今も追われている身である事を伝えると、近くにいる警察を向かわせる旨を伝えた。
「で、その人達はいつ来るの!?」
『そこですと……おおよそ四分ほど』
「バカ言ってんじゃないわよ! こっちは命狙われてるのよ!? なんでそんな悠長なこと」
瑞穂が電話越しに怒鳴りつけていると、交番の二階が轟音と共に破壊され、矢の軌道上にある歩道に大きな口を開けさせた。
呆気にとられる瑞穂が、おもむろに顔を上げるが、目の前に植えてある木が視界を遮る。
すると緑に覆われた所から、瑞穂の目下に重い音と共にポッカリと小さな穴が開き、緑の中に開けられた口の先に屋根の上で弓を構えた者が一人、瑞穂を狙っていた。
悲鳴をあげながら瑞穂は交番を後にし、バス停を駆け抜ける。
障害物が無いバス停は、走る瑞穂の姿がハッキリと見え、八千慧は標的に当たらない程度に。しかし威力は落とさずに威嚇するように矢を射る。
歩道。柵。バス停看板。そして停車中のバスに容赦なく矢が打たれ、バスに至っては一発一発が当たる度に、停車位置から人一人分鈍い音を出しながらずれる。
瑞穂以外のバス停で歩いている人にさえ、当てこそしないものの、八千慧は何のためらいもなく矢を射続ける。
老若男女の悲鳴と鳴き声を背に、瑞穂はビジネススクエアタワーへと入って行き、八千慧と晶濟も追い始めた。
※
瑞穂の応対が明らかに異常と思ったか、桜新町から用賀に向かう通りを巡回中しているパトカーに、用賀駅周辺での異常事態とそれの解決を告げる通信が入った。
砧公園から離れた住宅街での竜巻発生の件には、既に大勢の警察が導入されている事もあって、パトカーに乗っている警官達は進路を用賀駅へと向かわせ、サイレンを鳴らして向かおうとした時だった。
突如、無線から『馬事公苑付近にある無人団地にて、竜巻が発生。付近にいるパトカー現場に急行し、事象を把握した後、負傷者などの対応に当たれ』という連絡が入った。
その近くにいるのは、たった今『用賀駅にて起きた異常事態に急行』しようとしたパトカーだった。
どちらも人命がかかっているものだが、竜巻の発生源に最も近くにいる警察官達はどちらの件を取るべきかを本部に問い合わせた。
無言になった無線越しからは、本部にいるであろう大勢の警察官達が混乱している声が鮮明に発せられている。
すると別の回線から、『砧公園駐車場にて竜巻と見られる物が発生』との連絡が入った。
パトカーに乗っている警察官も、無線越しにいる本部の方も。次々と入ってくる通報に対処が追いつかず、混乱はますます加速していく。
そんな中で返ってきた答えは、『竜巻への対応』だった。
※
スクエアタワーの内部を全力で走り抜ける瑞穂の後方から、ガラスを破る音と、御影石のタイルが立て続けに鈍い音を上げる。
炎天下の中で全力で走っている事と、死が今まさに背後から迫り来ている事への恐怖の二つの汗が瑞穂の全身を濡らす。
家路までの道のりがやけに遠く感じるが、止まれば確実に殺される。
視界に入るもの全てがあっという間に過去のものになり、息も耐え耐えの状態となった時、先ほど瑞穂が喫茶に行く時に歩いた通りが目に入り、瑞穂は最後の力を振りしぼって走り始めた。
後方から追っていた晶濟と八千慧の足が止まり、八千慧と晶濟が耳の通信機を押して連絡を始めた。
「ワシじゃ。冥、お主の出番じゃぞ。恐らく輝夜達が気づくのはそうそう掛からんだろう。速さが命じゃぞ」
「警察の人達は予定通り右往左往しています。少なくとも私達の方には来るヒマも無いでしょうね〜」
『分かった。では私が奴を抑えよう』
※
通信を切った冥は、鉄造りのイスから立ち上がると、横断歩道へ向かって駆けてくる瑞穂の前に立ちふさがった。
距離はおおよそ十メートルほど。瑞穂は足を止め、荒い息遣いで冥を見る。
「随分と必死だがここから先は行かせんよ」
全身汗だくの瑞穂は冥を見据えて、たどたどしい口調で「どうして……」と言い始めた。
「どうして……どこの……誰かも! 分からない人に! 追われなきゃいけない……のよ!!」
「お前が逃げるからだ。逃げなければ、そこまで疲弊する事も無かったろうよ?」
冥はヴァジュラを取り出すと、ヴァジュラから出る光の刃を出しながら十メートルほどの距離を瞬時に詰めて、瑞穂の喉元に添えさせた。
非現実的な状況。人外の存在に、本能的に察した雲泥とも言える力の差。疲労困憊の瑞穂に対して、万全の状態の冥。
瑞穂の口からは悲鳴を出す余力も無く、その場にしゃがみこんで失禁した。
「雪下瑞穂、確保完了……」
光の刃を納めると、冥は胸ポケットから枠が光る縦長の四角形を取り出し、瑞穂へと投げようとした。
その時、冥の手が止まった。背後から今まさに冥を薙ぎ倒そうとする巨岩を、振り向く事なくその場で立木と同じほどの高さまで宙返りをして回避した。
冥に当たりそびれた巨大な黒い岩が、瑞穂の顔面スレスレで通り過ぎる。
巨岩を振り回していたのは精靈、オダマキ。
瑞穂から見ればボーイッシュな出で立ちの女性だが、その目つきはとても鋭い。
現状の理解が追いつかない瑞穂がオダマキを見ていると、唐突にオダマキは瑞穂の胸ぐらを掴み、振り返りながら横断歩道の先へと投げた。
瑞穂はよろめきながらも着地すると、向かい側のオダマキが仏頂面ながらも冥たちの方へと振り向き、ハンマーを振り上げ向かって行った。
瑞穂はこの気を逃すまいと、輝夜たちのいる龍吾の家へつながる道を、全速力で駆けた。




