凶兆の白兎
雨はかつての勢いを失いながらも、まだ止む気配は見せていない。
雨天の下、長い黒髪と薄い藤色の長髪がなびく中、雨の壁を破って二人が駆け出した。
互いがぶつかる時、輝夜は太ももからはい上がる様なアッパーを。対する弓張はそのまま踏み込むと、突き上げるように掌底を繰り出した。
渾身の力を込めたアッパーは、弓張の頬骨に当たり、掌底は輝夜の顎を捉えて、空高く飛ばした。
顔への直撃こそ避けられたものの、頬骨からの痛みが響くのか顔の片側が歪むも、弓張は両手を再び腰の位置へと回し、目をつぶって気を集中させ始めた。
紫色の気が再び集約し始めると、そこに群青色が混ざり始めた。それは風の様な滑らかな動きの紫色の気と異なり、炎のように荒々しいものだった。
二つの色が交わり、圧縮され、次第に小さな球体へと姿を変えて行くにつれ、周囲の風が夕立の風とは異なるざわつきをたてはじめた。
「なんだ? あの手の中で渦巻いている……あれは……。あれが、あの女の魔力なのか?」
「……その通りです……ですが、あの紫色のは……気? でしょうか? どっちにしても、とても嫌な予感がします! 龍吾様、私の後ろに!」
宙に飛ばされた輝夜も、雛月の感じた予感を感じ取ったのか、吹き飛ばされている中で体勢を直し、弓張の方へと目を向けた。
攻撃は止めることも避けることもできないと思ったか、輝夜は身にまとったドレスで全身を包むように防御の態勢になった。
(……我が内にあまねき、奔流する力よ。束ね集いて一つと成り、天の神座を撃ち砕かん。我が全霊を此処に。覇神天崩牙)
弓張の目が、白い光をいっそう輝かせながら、手に溜まった気と魔力の塊を解き放った時。
ほんの一瞬、世界から音が消えた。
直後に白い雷が渦巻く黒みがかった青色の光線が、天に向かって放たれる。それと全く同時に、弓張を中心に周囲のビルが傾くほどの衝撃波と爆音が轟いた。
ビルのガラスは、爆音の前に音をかき消されて砕け散り、防御にあたった雛月と龍吾、その周りにあった車や街灯もまた、爆風に飛ばされる砂のように、あっけなく吹き飛ばされた。
光線を放つ弓張の足元では、深い亀裂が駆け足で周りに伸びていく。
そして防御に回った輝夜のドレスは、いともたやすく裂かれて、輝夜は光線に飲みこまれた。
※
いったいどれだけの時間が経ったのか。実際は十秒も満たないうちに、光線は放ち終わったのだろう。しかしその周囲は、惨憺な光景だった。
緑はなぎ倒され、ビルのガラスは漏れなく全て割れ、弓張の近辺にあった建物は全体に目に見える亀裂が残り、あるいは半分崩壊している。
街灯や信号に標識。上り下りの車線を分けていたブロックはどこにも無い。今や青山通りの一角は荒廃の世界へと変わり果てた。
灰色の雲に覆われて姿を隠していた青空が、弓張の波動によって口を開けている。
波動を直に食らった輝夜が落ちてくると、雨が思い出したように降りはじめ、遠くの方では救急車とパトカーのサイレンが鳴っている。
降りしきる雨の中で一人立つ弓張の息は声として出るほど荒々しく、憔悴した顔だ。
やがて氷が水に浸かったような音とともに、顔に黒いヒビが根を伸ばすと、糸が切れたように崩れ落ちた。
立つことさえ、動くことさえ出来ずに倒れている弓張のもとに、どこからか足音が近づいてきて、この荒廃しきった世界では似合わない飄々とした声が弓張の耳に届く。
「うっはー。こりゃまたハデにやってくれるじゃねぇか、ええ?」
「……何奴……だ……」
視線をゆっくりと上げると、そこには表面が木工のヤスリとも鮫肌とも思える、小さく鋭い突起を生やした、太いノコギリのような剣を持った赤い巫女服の女、ホオズキが立っていた。
「あー、金満の、使いだ。そう言えば分かるか?」
ホオズキは好戦的な笑みを浮かべながら、倒れている弓張の目を覗いた。
「にしても中々やるじゃねぇか。ただよ、お前の……あの……なんだ、波動? ちがう、気ってヤツか? まぁ良い。アレを先に二回も出しちまったのは誤算だったな」
「……何が……言いたい」
「さっきのは確かに大層なモンだったよ。でも、二回も体力と魔力を一気に使うモンを先出しちまったモンだから輝夜には決定的な一撃にならなかった。ってことよ」
ホオズキが動けない弓張に変わって目線を上げると、あの大波動をまともに受けたにも関わらず、輝夜はおぼつかないながらも、ゆっくりと立ち上がろうとしていた。
「……左様か……。それで貴様は……私にお役御免を伝えに、来たと」
「それもあるけどよ、お前はここで始末されちゃ困るのよ。だから」
ホオズキは弓張の襟を掴むと、自分よりも一回り大きな体格の弓張をグイと引っ張って、強制的に立ち上がらせるとすぐさま胸ぐらを掴んだ。
「とっとと、何も言わずにこっから消えな。負け犬に理由を言う権利も、聞かせる権利もねぇ。これは、命令。だ」
先ほどの軽い声色からうって変わって、女性らしからぬ低い声で弓張に面と向かって命令を出した。
その冷たく鋭い目は、上っ面だけの脅しや軽口ではないという事は、弓張には伝わっているようだ。
ホオズキが手を離すと、弓張はさっきまで動くことさえ出来なかった身が、今はわずかに自由が効くのかユラユラとしながらも立つことができ、それに自分でも不思議に思うのか立っている自分の身を静かに見ていた。
「……おい。今の聞こえたろ? 消えろ。って言っているのが分かんねえか?」
ホオズキの眼は名の通り赤く光り、横目ながらも鋭く弓張をにらんだ。
弓張は腑に落ちず、不満な表情をするも、自分の現状は変えられないと悟ったか、重い足取りで来た道を戻って行った。
その後ろ姿を見送ると、ホオズキは輝夜の方に目を向けつつ左胸に手を当ててその場に立ち尽くした。
(俺だ。アンタの予定通り弓張は負けた。こっちはこっちで残りの事はやるが、後はそっちに任せたぞ)
どこかの誰かに報告をすると、ホオズキは胸から手を離し、輝夜が立ち上がる前にその場から消えた。
輝夜は満身創痍の身となっても歯を食いしばって、対峙していた弓張を探していた。
だがどこを探しても、いくら気配を張り巡らせても弓張はどこにもいない。ただ壊滅した青山の通りに、パトカーと救急車のサイレンが近づいて来ているのだけは、明確だった。
輝夜は吹き飛ばされた龍吾と雛月のもとに歩いていき、安否を確認すると三人でその場を離れた。
※
弓張と輝夜、雛月が龍吾と再会した後、冥たちは行く手を一人の女性に阻まれた。
電気の点滅が不規則になり映しだす姿。
長いうさぎの耳飾りをつけた女には、貼りついた笑みの奥に喜びや楽しさといった感情らしい感情はない。
何を考えているのか。どういう心境か。その目の奥には、誰も読み取ることのできない深淵が広がっているようだ。
「なんだ……お前は。どこの誰だ?」
冥の問いに女は答えない。電気の点滅する間隔がますます不規則になる中で、女の笑みだけが一切動じず冥達を見据えていた。
「答えろ! お前は何者だ!」
「冥様……。なんだかあの人……怖い……」
女の動かない笑みを、風華はいち早く不気味と思ったか、冥の後ろへと後ずさった。
一歩だけ下がった冥の後ろへと後ずさった。
すると一歩だけ下がったはずの足音が、もう一つ音を立てた。
その違和感に気づいた冥と風華が振り返ると、そこには黒いモヤをまとった人の影が立っていた。
「な、なんですかコレ!?」
「なんでもいい! 失せろ!」
冥はヴァジュラから光の刃を出すと、黒いモヤごと影を切りつけた。
影がなんの抵抗もなくあっさりと切られると、不意に点滅していた電気が消えた。
そして数秒ほどすると、電気はまたチカチカと光りながら点いたが、その一瞬、冥と風華、そして晶濟の目に、壁一面人の顔をした黒い模様が、一斉に三人を凝視するのを見たが、完全に電気が点いた時には消えていた。
「……い、今のは……? き、気のせいでしょうか?」
「いや……。私にも見えたぞ……」
互いが目の錯覚だと思っていた矢先、三人の耳に掠れた泣き声とも、うめき声とも取れる声が少しづつ、しかしはっきりと、耳に入って周囲を見渡した。
通路には誰もいない。しかし壁には、痙攣というには激しすぎるほどに上半身が揺れている影が、三人の周囲をいくつも通過していく。
掠れた声は次第に泣き声に変わって、すぐ真横でその声の主がいるかのように、三人は辺りをせわしなく見るが誰もいない。
ふと、風華がか細い悲鳴をあげて冥が振り向くと、全身が真っ黒の、それこそ影で出来ていると言っても過言ではない一人の人物が三人を見ていた。
真上から照らす光で、その人物の体格は女性だと分かるが、顔は影が落ちているので表情が見えない。
ただそこにいるだけだが、それが見えてしまった以上、この状況下ではいつ何をしでかすか分からず、怯えながらも冥と風華はそれを見張る。
電気は点滅を止めて明度を少しづつ下げていく。
真夜中に等間隔で並ぶ、街灯が照らす一本道のように、暗すぎず、かといって明るくはない。しかしその先は暗くて見えない空間。
そしてその空間に女の笑みだけは、はっきりと浮かび上がっている。
明らかに三人のいる場所が、おかしくなっている。
晶濟も、風華も、恐怖が限界に近くなっているらしく、今にも泣き出しそうな表情になっていく。
その元凶たる女に、冥は怯えを噛み殺し能力を発動させた。
「……ふざけた真似を! そんなに暗闇が好きなら、その暗闇にやられろ!」
暗所から冥の能力である黒い手が、壁や天井から生えて女に狙いを定める。
四人のいる通路では、未だに掠れた泣き声がこだまし、誰も歩いていないのに、革靴で歩いているような音がいやに響くが、冥はそれを無視して攻撃の姿勢に移る。
「晶濟、風華! 一斉に攻撃をするぞ! このバカげた空間を作るあの女を仕留める!」
「は、はい!」
「分かりました!」
風華の腕にありったけの風が集まって渦巻き、晶濟の持つ水晶は薄暗い電気よりも輝き、冥達の周りが真っ白な光に包まれる。
「今だ! 撃て!」
冥の声と共に三人の攻撃が、うさぎの耳飾りの女へと向かう。
女の死角から、身動きを封じるために四本の手が天井と地面から伸びて、女に突き刺さる。
そこへ、先に龍吾に向けて放った風華の風の渦と、冥の黒い手が螺旋状に回りながら相手を切り裂く合わせ技が、晶濟の操る水晶を弾頭にしながら身動きの取れない女へと一直線に向かう。
にやにやと笑う女は微動だにせず、なんの抵抗もせず攻撃を見やる。
三つの合体技が女の眼前に来て、女を通り抜けて、闇の中へ消えていった。
女はまるで、何も起きていなかったようにそこにいる。外傷はもとより、そもそもかすり傷さえ無い。
当たった。という手応えも二人には感じられないようなのか、平然と立つ女に呆然としている。
「な、なぜだ? なんで無傷なんだ!?」
「無傷じゃありません! 彼女は負傷しています! 今が好機です!」
晶濟はキッパリと、冥とは真逆のことを言った。
声色も表情もウソを言っている風には見えないし、何より晶濟は自身が見ているものは、確かなものだと信じて疑わない感じである。
しかし女は無傷。それでも晶濟は「駄目押しにもう一つ!」と言いながら放った水晶を、闇の中から戻すついでに、女へと追撃をする。
だが水晶は、女の身体をすり抜けて戻ってくる。
足元から上半身目がけて、上がりながら戻るも、全く女は動じない。水晶が晶濟の目の前まで戻って来て、なおも追撃をしようと構えた時。
その水晶の後を追うように土気色の細い手が闇の中から伸びて晶濟の足を掴んだ。
ハッとした晶濟が自身の足を掴む手を見て小さな悲鳴を上げると、手は晶濟を強い力で引っ張り、晶濟は甲高い悲鳴をあげながらあっという間に闇の中へと引きずりこまれていった。
その光景を見た冥が、雄叫びを上げながらヴァジュラから出る光の刃を一層輝かせ、同時に暗闇から冥の能力である黒い手を出させ、女へと向かおうとした。
「この女ッ! ふざけた真似を!」
すると冥の着ているコートを、後ろから思いきり掴んだ。
「離せ! 離さなければ斬るッ!」
「冥様どこへ行くんですか! そこには誰もいません!!」
風華の声を聞いて冥は足と思考が止まった。
『誰もいない』だが冥の前には、やや離れてはいるが確かにいる。それなのに風華は「そこには誰もいない」と言った。
先ほども、晶濟は冥と異なるものを見ているような発言と行動をした。そして今は風華が。冥の見ているものが、狙っている所が違うと言った。
何もかもが矛盾し、噛み合わない。そして冥は今更になって耳元のみならず、通路一帯に木霊していた泣き声が、ピタリと止まっている事に気づいた。
冥は視線を先に、ゆっくりと顔を背後へと向けた。
そこには風華がいるはずだった。
しかし、いたのは先ほど切り捨てた黒い影。
黒いモヤと影が晴れていくと、笑みを浮かべた女がそこに現れた。
笑みを浮かべる女は間違うことなく、冥が先ほどから対峙していた女だ。
ではさっきまで見ていた女は。冥は慌てふためきながら振り返った。そこには女がいる。目の前にいるはずの笑みを浮かべた女が。
すると振り返った先の女は全身が黒くなり、音を立てず泥のように崩れた。
やがて周りの影が、崩れた泥へと集まると青い光が二つ灯り、ゆっくりとうつむいた姿勢から、それが立ち上がった。
肌は死人の様に青白く、骨と皮だけと思えるほどにやせ細った身体。上腕と前腕からもう一つ腕が伸びている、異様なほどに長い両腕。
ドス黒く染まった羽衣をまとい、背中にはボロボロに壊れた旭日を背負った、人の形をした何かへと姿を変えた。
冥は声を出せず、近づいてくる異形の女にただ立ち尽くすしかなかった。
予想外の事態と、見たことの無い異形の存在。一方的で不可解な事が立て続けに起こって、冥の脳を乱して戦慄させる。
口は開いてても声は喉奥から出ることは無く、数ある考えがかき乱されて散乱し、脳内の処理が追いつかない冥に、一つの疑問だけがふと閃く。
(……風華?)
振り向いた時、いたのは笑みを浮かべた女。そして先ほどまで相手をしていた女は、異形の存在だった。
晶濟は闇へと引きずりこまれたのを冥は確かに見た。ならば風華はどこに行ったのか。
その時、冥の足下がズブリと沈んだ。
見ると駅内の床が泥沼へ変わり、冥はその場から逃げだそうとするも、時すでに遅く泥沼と化した地面の中へと落ちていった。
落下した先には青黒い海が広がっており、冥は海面から顔を出すと周りに広がる真っ暗な世界と、一面に広がる海を見渡した。
海面はやがて底から赤く光り始め、海中が目視できるくらいに明るくなっていく。
明るくなった海底からは、穴のような真っ黒の目と口を開けた晶濟と風華。そして大勢の亡者が冥の方へと目掛けて上がってきて両足を掴んだ。
叫ぶことも、逃げることも間に合わず、冥は海へと沈まされた。
遠ざかる海面を見ながら冥は、今は遠い光の先にいるであろう笑みを浮かべた女に意識が途絶える時まで向けられていた。
(……私は一体いつ術中に落ちていたの? ……あの女と出会った時から?)
冥は喉奥から海中で叫び声を上げながら、血のように赤く染まった海底へと落ちていった。
笑みを浮かべた女は、自分の背丈と同じくらいの異形の女を引き連れて行くと、薄暗く光っていた電気が一斉に消えて、再び元の光を戻すと、二人の女は消えていた。
冥と風華が同じ場所にうつ伏せで倒れて、少し離れた所に晶濟が倒れていた。
事を知らない客や駅員が彼女たちに駆けつけるが、三人はたった今までの記憶を全て無くし、しばらくの間虚ろな表情で天井を見ていた。




