怒髪天を衝く
耳をふさぐ程の轟音が鳴り、雛月は驚いて一瞬だけ目をつぶり再び目を開くと、目の前にいたはずの輝夜が消え、代わりに弓張が拳を前に突き出していた。
弓張は拳を戻すと、呆然としている雛月を見据えて静かに語る。
「どうした。追わぬのか従者。追わぬならそれも良いが、私は追うぞ」
言い終わると弓張はコンクリートで出来た地面に足跡を残して消えた。
夕方の街中に訪れた静寂に、日常の音が戻りつつある中で、雛月は周囲にいる人々の目を気にせず、片手にサッカーボール大の大きさの光を作り、無音で爆発させるとその場から消え、光を見た、見ないに関係なく渋谷一帯にいる全ての人間の記憶を、二分前後消去した。
一方で雛月はヒカリエの屋上に現れ、シラユリの能力を使い輝夜と弓張の探索をしながら、その内でやや焦燥に駆られていた。
(人の記憶は消せても、天月人の情報は、間違いなくこの星に広がっている……。地球の人々が私たちの存在を認識して、平和的に済めばいいけど、そうならなかったら……)
現代の地球の技術は、月の技術とまでは届かずとも、情報の拡散は速い。
インターネットが世界中に張り巡らされた上に、手元に収まるほどの端末で、些細な情報も瞬く間に世界に広がる。
雛月達が来た時は二十も満たない人が流した、真偽が疑われる宙に舞う火の粉程度の事だったかもしれない。しかし今では多くの人が天月人に関する情報をネットの海に流している。
それは最早止めようのない大火事になった。
人の記憶は消せても、電子化された情報が広まったら消しようがない。天月人が地球に来た時点で、極力月の人間に関する情報は、流さない様にしようとした。
だが今は輝夜と弓張の戦いが地球の、日本の地で始まっている。人々が天月人の存在を知るのは時間の問題だろう。
その時地球人は天月人にどのような感情を。どのような意思を。どのような態度をとるか。
雛月は輝夜と弓張の場所を特定すると、自分達の情報が広まる事に腹をくくり、輝夜の元へと移動した。
※
赤信号が青に変わり、車が次々と走り出そうとして行く中で下り車線に輝夜が車列に突っ込んで来た。
前方の車列はYの字に分かれ、緊急時のサイレンが鳴り続け、運転席にいる人達は突然の出来事に驚き、恐れ、車から出ようとはしない。
上り車線の車が恐る恐る発進して行く中で、車の合間から輝夜がムクリと起き上がると同時に、追いかけて来た弓張の垂直に上げられた脚が振り下ろされる。
寸前の所で漆黒のドレスが防ぐも、その威力たるや、ドレスを伝ってアスファルトの地面に足首まで埋まる程の重みと衝撃だった。
弓張が地面に降り立つと、すかさずドレスに剛拳を打ち込んだ。
足首まで埋まっていた地面をものともせず、輝夜は奥の車列へと押しこまれた。
「……やって、くれるじゃない!」
一撃目の剛拳が、輝夜の呼吸を未だに大きく乱れさせている。だが弓張は瞬時に輝夜に迫り、追撃の拳を放とうとした。
その時弓張の拳がピタリと止まり、ひるがえる様に振り向くと、その背後にはボタンが車屋根の位置に浮かびながら、弓張を狙って拳を構えていた。
弓張が反応するより速く、ボタンの拳が弓張に向かうが、目の前で片手で拳を防ぐ。
拳が弓張の防御した手に当たると、風船が破裂した様な高い音が鳴り響く。
見た目からは想像のつかない力とその重み。
踏み止まろうとする弓張の足が、どんどん後退していく中、弓張の背後から空を切る音が耳に入り、視認するまでもなく、もう片方の手で輝夜の拳を防御するも、弓張の両手が完全に塞がった。
その時、不意にボタンがその場から消え、弓張の押し返していた力が空に向かって放たれ、態勢を崩した。その機を見逃すはずも無く、輝夜は弓張の手を掴むと、グイと引っ張り背中を蹴飛ばした。
並んでいる車を飛び越し、反対車線に吹っ飛ばされた弓張が体勢を整えようとした時、大きなクラクションと共に、不意の事態に慌てふためく運転手が乗ったトラックが、弓張へと向かって来た。
だが弓張は驚くわけでも、怯えるわけでもなくゆっくりと立ち上がり、片手をかざした。
トラックが急ブレーキも虚しく弓張へと突っ込むと、かざした手にトラックが後輪を少し浮かしながら急停止し、それを止めた弓張はその場から全く動じなかった。
後輪が地面に着くと、弓張と輝夜が同時に動く。
互いの蹴りが交差して激突し、大気を震わせる。
輝夜は足を下げると同時にドレスの一部を放射状に展開し、漆黒の帯と自らの四肢を混ぜた攻撃が向かう。
対して弓張は身体を最小限に動かし、寸前で避けてはさばいていく。
視界を覆いつくす攻撃を避けていく内に弓張は乱舞の合間に放たれる拳を掴むと、自らの方に寄せて前のめりになった輝夜の腹と背中を、肘と膝で挟んで反撃した。
輝夜の息が瞬間だが止まるも、歯を食いしばってこらえるが、その時間も与えまいと瞬時に輝夜の顔面に掌底が当たり、またも輝夜は彼方に吹っ飛ばされる。
だが弓張は後を追わず、踵を返し後方へと身体を向けた。
そこには両手に身の丈以上の水塊を、今まさに放とうとしているシラユリと、透明な状態から元の姿に戻ろうとしていた雛月がいた。
(気付かれた! いや、気付いていたんだ! だが行くしかない!)
雛月の意思が伝わったか、シラユリの水塊は回転しながら弓張へと向かう。
普通の人が当たれば、間違いなく姿勢を崩すであろう大きさと質量の水塊が、空気の抵抗を無視しているかのように、勢いよく向かう。
だが弓張は、虫を払う様に片手で二つの水塊を、なぎ払った。
飛沫が周囲に飛散する中を、オダマキが巨槌を振り上げながら躍り出る。
それでも弓張は動じず、オダマキの前へ出ると顔を左手で抑え、右手で腹部に拳を突き刺した。
意識を共有している為に、オダマキと雛月は一気に苦痛に満ちた表情に変わる。
「戯けが。ここで、寝ていろ!」
オダマキの顔を鷲掴んだまま、追い討ちと言わんばりに、道路へと後頭部を叩きつけた。
それに伴って雛月も同じ様に、俯いた顔をグイと仰ぎながら膝をついてその場に崩れた。
弓張が手を離すと、オダマキは歯を食いしばり、目を見開きながら物言いたげに弓張へと片手を伸ばすが、弓張は一瞥だけすると、輝夜の吹っ飛ばされた方へと向かって行った。
倒れながらも、怒りに震えるオダマキは両手に力を込めながら、ゆっくりと起き上がった。
同時に雛月も、必死に痛みを堪える表情で、後頭部を抑えつつ立ち上がる。
雛月の手からまた光が生まれ、周囲に爆ぜると同時に弓張の後を追った。
人々が今しがた、目の前で起こった事を完全に忘れ去っている中、夏の空に雲が重なり合い、周囲に湿気の匂いが漂い始めた。
※
吹っ飛ばされた輝夜が、何の前触れも無く横断歩道を渡る人々の中へと突っ込み、人混みを散らした。
周囲がざわつき始める中で、輝夜は垂れ始めている鼻血を親指で拭うと、周りで上がる悲鳴や悶える声に目を配る。
「おいあんた! 何しやがるんだ!」
「たかひろ?! たかひろー!」
「ちょっとお前! 何をしたのか分かってるのか!?」
周囲から湧き上がる怒号と、子供の名を呼ぶ声。
その中で輝夜は、一番の被害を受けたであろう保育園の年長くらいの子供の方へ、歩み寄った。
親が涙目で子供の安否を気遣い、子供は右手を抑えて声を上げて泣いている中で輝夜が二人の元に着くと、ジッと子供を見つめ始めた。
(右手上腕骨と前腕骨かしらね。一番損傷が大きいのは上腕の方……か)
輝夜の姿に恐怖し、震える子供の前で輝夜は膝をついて、子供の右手を両手で優しく触った。
「やめて! この子に触らないで!」
親の声を無視して、輝夜は静かに目をつぶる。
子供はますます恐怖が増していくが、ハッとした目で輝夜が触れている右手を見た。
子供はもう涙を流す事は無く、驚きと不可思議に満ちた目で、自分の右手を見続ける。
「どう? まだ痛い?」
子供はキョトンとした表情で右手を裏返したり、クルクルと回してみたり、左手で触ってみたりとしたが、全く顔色を曇らせる事は無かった。むしろ、何が起きたのかと言わんばかりに、右手と輝夜を交互に見比べる。
「大丈夫そうね、良かったわ。だけど今日はあまり動き回らないでね?」
輝夜の忠告に子供はうなずきながら、今や子供は輝夜に目を輝かせて見ていた。
「あ、あなた! この子に何を!」
「スゴい! お母さんスゴイよ! 手が痛くない! 痛みが無くなった!」
子供は食い気味に話に割り込み、興奮しながら母親に自分の腕を見せびらかす。
対して母親は理解が追い付かず、オロオロとしていた。
「貴女は……骨折はしていないけど、すり傷と少々の打撲って所ね」
輝夜は母親の額に人差し指を当てると、そのまま目をつぶった。
「えっ……あ、あの」
「動かないで。すぐ終わる」
疑心と不安に駆られる母親だったが、直後子供がそうだったように、彼女もまた驚きの表情に変わった。
「……え? な、何? ……あなた、一体何をしたの?」
「痛みはある?」
「え……い、いえ」
輝夜は「そう」とだけ言うと、立ち上がって周りに目を向けた。
「さて、他は……アザ程度ね。大したことはないとはいえ、悪かったわね」
輝夜は他のけが人の処置をしようとした途端、目線を上げた。そこには赤信号へと変わった横断歩道に、堂々と弓張が輝夜の方へと、歩いて来ていた。
「……悪いけど、他は湿布でも貼って治しておいて」
クラクションが立て続けに鳴る中で輝夜は瞬きの間に、浅いながらも足跡がコンクリートにクッキリと残しながら、弓張を反対の一角だけ開いた歩道へと押し込んだ。
押されていた弓張は、足腰に力を入れて踏ん張り、輝夜の猛進を路面を抉りながら止めた。
周りにいた者、交番にいる警察、誰も彼もが一目で人外の力を持った者同士の戦いであると察し、増援を呼ぼうとも、止めようとも思わず、呆気に取られて二人の攻防を見ていた。
「もういい加減やめて欲しいわね。こんな人気の多い場所で私たちが戦えば、どうなるかくらい分からないの?」
「失敬。私は今日まで戦に明け暮れていた故、世の法理に疎い。戦うに時間も場所も無い事、と疑わずだ」
言い終わると弓張は組まれていた両手を解いて、回し蹴りを放つ。
目の前で空が裂け、一瞬の突風が遅れて顔面に当たる。
輝夜は避けた拍子に、剛拳を弓張へと放ち、対して弓張は回し蹴りの回転を生かしたまま拳を放ち、互いの拳が打つかった。
一発一発が打つかり合う度に、周囲に大型の拳銃を発砲した様な空を劈く低い音が響き、二人のおおよそ5m以内では、互いの攻撃の衝撃波で建物の窓が震えている。
一進一退の攻防の中で、輝夜の拳が弓張の頬を捉え、打ち抜き、すかさずドレスを変化させ弓張を潰した。
(……手応えはあった。だが……)
弓張は片手でドレスを防いでいた。
苦も無く、難も無しと、その無表情が言わずとも語る。
輝夜は背中のドレスを手の形に変えて弓張を薙ぎ払おうとするも、防いでいた手をどかして垂直に蹴り上げると、手に変形したドレスを叩き払った。
蹴り上げられ、叩き払われたドレスは真っ二つに破け、波が引くように輝夜の身体へと戻って行った。
「貴様いい加減にしろ。いつまで手加減を続ける? 私を愚弄しているのか」
弓張の目が赤々と光って輝夜を睨む。対して輝夜は、ウンザリだと言わんばりに顔を歪める。
「言ったでしょ。今は相手をしている場合じゃないのよ。少しはこっちの都合も考えなさいよ……!」
「 ほぅ……よもや、此処まで愚かで浅はかな思想の持ち主とは思わなんだ。浮き世にて、己が一声で万事が動くと思うとは、さぞ貴様は、ぬるま湯に浸かった人生を送って来たのだろうな」
途端輝夜の目が一気に釣り上がり、冷めて侮蔑の眼差しを放つ弓張を、睨みつけた。
だがそれを知っていてか、なおも弓張は輝夜をバカにする。
「辛苦も知らぬ。忍苦も知らぬ。貴様の親がどんな者か、どんな教えを与えたか定かでは無いが、そんな性根ではロクな親ではなかろう」
弓張の言葉を一言一句聞いていく内に、輝夜の胸底で火打石が鳴り、それに伴って火の粉は瞬く間に猛火へと変わって広がり爆ぜる。
猛火の黒煙は闇へ。闇は殺意と悪意へ変わり、理性や正常な判断を尽くかき乱して行き、心火の赤と憎悪の黒で満たされて行く。
輝夜が一歩踏み出すと弓張は笠を摘んで、輝夜へと投げ付けて不意を掴もうとしたが。
投げた瞬間には、すでに輝夜が弓張の懐に潜り込んでいた。
驚きが顔に出る前に剛拳が弓張にぶち込まれ、四階建の雑居ビルの中へ音を立てて突っ込んだ。だが輝夜はそれだけで終わらせない。
垂直に上げた足を勢いよく下ろすと、地面が二メートルほど隆起しながら、弓張へと向かっていく。
アスファルトの波が建物に押し込み、弓張が突っ込んだ口をこじ開け内部を荒らす。
整わない息づかいで、弓張が静止した波を力任せに砕くと、輝夜の黄色い眼が塵と煙にまみれた世界で、残光を引き、空を切りながら向かって来ている。
無造作に上げられた手を見て、覚束ない足取りで避けると、背後の壁が輝夜の払われた手で、たやすく抉られた。
避けた弓張を目で追うと、ドレスから黒い杭が弓張に伸び、防御にまわした両手が衝撃で僅かに緩んだ刹那、輝夜の蹴り上げが弓張の腹にくい込んだ。
ビルから吐き出された弓張は、行き交う車をなぎ倒しながら、反対の歩道に建つ建物に突っ込んでいった。
「……私の、母を!」
信号も横断歩道も無い車道で、一人の人物に車の群れが道を開ける。鬼の形相に加えて輝夜という器から、怒りという目には見えなくても、近づくだけで体を両断させかねない気配が漏れ出し、周囲の人々を凍らせる。
その気配を感じてか、荒れた建物の中から、弓張が歪んだ入り口を払い倒して出てきた。
向かって来る輝夜から発せられる気配に、弓張の顔つきが険しくなっていく。
(……これは人なのか? これではまるで、鬼神ではないか)
数多の強者と戦ってきた事が、霞むほどの存在。それが今目の前にいて、矛先を向けている。それは力を求める者にとっては、またとない機会になるはずだった。
しかし弓張の心は一向に晴れず、ポッカリと穴が開いたままだった。
(まさに千載一遇。歓喜に震えるべき事なのに……何故……私は何も感じないのだ?)




