嘘真の船
川のせせらぎと草間からの虫の澄んだ鳴き声が、夜の静まり返った渓流という会場で奏でられている。
空には月の世界を収めている球がきらめく星のように輝いており、そこに人がいれば心地よい眠りを約束してくれるような空間があった。
そこにぞろぞろと乱れた大量の慌ただしい足音と騒々しい声が、演奏を中止させ渓流はあっという間に喧騒に包まれる。
誘導する教師たちは次々に流れて進む集団を見ながら焦燥にかられていく。
手にした琥珀色の石の中で、秒針が一秒、また一秒と進んで行き、やがて分針がカチリと一つ動き出す。
時刻は(地球の時間にすると)二十三時と三十九分。もう間もなくで日付が変わる。それは即ち自分たちの命が神無に握られることを意味する。
抵抗も、命乞いも、媚びを売ることも一切無意味。神無の気まぐれでいつ殺されるかも分からず脅える日々を過ごすことになる。
そんな恐怖が誘導する教師たちの焦燥をさらに加速させる。だがここで焦燥に飲まれて我を失えば、辛うじて平静を保っている生徒たち一行の恐怖が連鎖して爆発する。そうなれば自分の保身の為に人は狂気に飲まれ、人が人で無くなる地獄絵図となるだろう。
最悪の事態を回避する為に、教師たちは最後の一人を誘導するまで心中に渦巻く恐怖と焦燥を奥底に押し込んで冷静を保っていた。
先導していた教師と校長が渓流を下って行くと、大型の屋形船が清流を分けさせながら泊まっていた。
夜の闇に包まれ、船の色は判別出来ないが間違いなくこれが夕刻にホオズキが言っていた避難用の船なのだろう。
「あれか……しかし本当にあるとは」
「校長先生、行きましょう。もう時間がありません」
罠かもしれない。
それでも神無の手にかかるくらいならあえてその罠に踏み込む覚悟で、船底にある人一人分の大きさがある正方形に枠に収まれた二つの紋章へと避難者たちが近づく。
左右の紋様が九十度回り、左右に重々しい音とは裏腹に素早く左右に分かれ、大型の貨物を易々と入れる事が出来るくらいの長方形の入り口をぽっかりと開けた。
「先に中の安全を確認したい所だが、もう時間が無い。全員を今すぐ中に入れるんだ」
校長の声で先に生徒たちとその家族。その次に教師たちの家族が乗り込み、最後に校長含む教師たち全員が乗り込んだ。
時間が零時になり、日付が変わると同時に船の扉は閉まり、静かに出航した。
船内は生徒と家族、職員の家族全員が入ってもなお余裕のある広さで、屋形船の見た目とは異なり大型の貨物船と言っても過言では無いほどだ。
教師たちが各々のクラスの生徒たちを確認すると、校長の指導の下、二人の教師を生徒たち側に残し、他は船内の安全を確認することとなった。
船底の恐らくは貨物置き場とも思われる場所の上の階は船員の部屋と見られる五畳ほどの広さの部屋が、まるでこの日の為に作ったと言わんばかりに幾つもある。
部屋は濃い茶色と明るめの茶色がタイルの様に嵌められたヒノキの壁に、若葉色の畳。部屋の隅には丁寧にも子供用のおもちゃに、整えられた布団。食料が詰め込まれた保存庫に勉強や庶務をするには十分な幅と高さの机があった。
教師たちが見回りを終えて全員集合したが、どの部屋にも異常は見られなかった。
だがここまで用意周到であると逆に疑わざるを得ない。
本当にこの船は安全な所へと行くのか。
そもそも一体誰が、何の目的でこの巨船を用意したのか。
そして何よりあの赤い巫女は一体何者なのか。
そんな疑問の数々に教師たちが頭を悩ませていると、不意に教師たちの片耳につけてある、連絡用の黒い耳掛けから校長の声が聞こえてきた。
『誰か、誰か聞こえている者はいないか?』
「校長先生どうしたのですか!」
『落ち着いてくれ、あまり大きな声を出すな。い、今私は船首にいるのだが。そこに誰かが……』
「校長先生?」
『……お、大人しくしなさい? ……あ、貴方たち? 避難……して来た、ご、ご一行は?』
教師たちの知っている生徒の声でも、その親の声でも、自分たちの家族でも誰でもない少女の声が耳掛け越しに聞こえて来る。
会話の節々で歯をカチカチと鳴らす音が混じり、教師たちの間に緊張が駆け抜ける。
「だ、誰だ? 校長先生をどうした!?」
『わ、私は無事だ。た、ただ……』
『こ、ここの。ふ、船に乗って……い、いるな、ら。せ、せめて、あい、さつ……くらいし、しましょう? こ、来ないな、なら、校長……先生、がい、痛い、目に、に会うわ、よ?』
吃音気味な喋り方を気にせず、一大事とみた教師たちは有無を言わせずに船首へと急いで駆けつける。
門のような重厚な扉を開けると、船首の一番前に二つの影があった。
一番前にいた影がゆらりと振り向くと、紅い目が残光を引きながら教師たちを見据えた。
そして先に聞こえたカチカチと歯を鳴らす音が耳元で発せられているかのように、紅い目の主から聞こえてきた。
「お、お前は誰だ! 校長先生に何をした!」
渓流を船が進むにつれて、夜の闇が少しづつ晴れていき、その紅い目の主の姿が鮮明に見えて来た。
少女の名は『アザミ』。
黒みがかった赤紫色のツインテールと、その間から目と同じほどかそれ以上の濃さを持つ紅い二つの角が伸びていた。
服は血の色に似た色の、アオザイのようなフワリとした服で、両手は背中に縛られている。
だが教師たちはそれ以上に彼女の口を見ていた。
異様に大きく見開かれた紅い目の下にある口は、鋭利な歯が何層にも並んで剥き出しており、人の口を全開にした時の二倍の大きさという、人の顔の作りには不釣り合いな形だった。
アザミの歯が不定期にカチカチと音を立てる度に、教師たちは目の前の異形の存在に震えていく。
「お……お前は……誰だ……?」
「……こ、校長、は……」
するとアザミの身体が痙攣し、木の軋むような音が鳴るとアザミは足元にいた校長の首元に噛み付いた。
腹からの叫び声を上げて苦しむ姿を見てアザミはほくそ笑む。
「こ、校長先生! や、やはりこれは罠だったか!」
「……罠? 違うわよ」
アザミは噛み付いた校長を口で放り投げると、校長の血が滴る歯を出しながら先ほどの吃音気味な話し方から流暢な話し方になり、聞く者の胸元から首元を手で静かに逆撫でる妖しげで蠱惑な声へと変わった。
「ちょっと喉を潤しただけよ。ここ数ヶ月何も飲んでないの。安心して、失血死するほどは飲んでないわ」
放られた校長は噛まれた首筋の痛みに苦悶の表情を浮かべるが、顔は死人のように青白い。
「良いじゃないの。私たち今日まで飲まず食わず休まずでこの船を作ったんだから、少しくらい大目に見てよ」
教師たちは一同に眼前の異形のアザミに能力を放とうと構えた。しかしそんな状況下になってもなお、アザミは不敵で不気味な笑みを崩さない。
「待ちなさい。攻撃するのは良いけど、私の主人から伝言があるの。それくらいは言わせなさい」
「最早聞く必要もない! 出来すぎた罠に、まんまと乗せられた我々も愚かだが、それでもこの船に乗っている生徒たちには指一本触れさせん!」
「……聞かないならここに乗っている人、全て干物になるわよ? それでも良いの?」
紅く開いた眼と吊り上がった口角が、言っていることとは裏腹にその結末を望んでいるみたいに邪悪な笑みを浮かべている。
身体からまた軋む音が聞こえ、この船が本当の地獄と化す事を恐れた教師たちは能力を解除してアザミに聞く耳を傾けた。
「……お利口ね。伝言は三つ。一つはこの船が罠と思ってること。これは間違いよ。この船は本当に神無が知らない山森の奥に行く。当分の間は故郷に戻れないけど、死ぬよりマシでしょう?」
「……で、もう一つは何だ」
「助けた矢先に申し訳ないんだけど、その当分の間が終わった後に、自由化運動の一員となってもらうわ」
教師たちはアザミの言葉を聞いて数秒ほど、意味が理解できず眉を寄せていた。そして徐々に理解が追いついてくると、途端に静寂の渓流に耳をつんざくほどの怒声が上がった。
「ふざけるな! それじゃあ我々の死が少し伸びただけで意味が無いじゃないか!」
「自由化運動の一員だと?! 冗談も大概にしろ!」
「この船はやっぱり罠だ! お前は神無の間者なんだろ!」
「私が神無の間者? ……貴方たちも、結構浅知恵ね。まぁ間者である事は認めるけど、誰の間者か、なんて教えられないわ。それと三つ目の事は」
「構わん! もう間者の話なぞたくさんだ!」
「そこまで言わなくて良いじゃない。これで本当に最後よ。三つ目は、もう間も無くで月界は、大きく変わるということよ」
「あぁそうだろうな! お前たちのせいでこの月界は滅茶苦茶になるんだ!」
「いいえ、月界は滅茶苦茶になんかならない。そして変えるのは私でも、神無でも無い。輝夜その人よ」
途端、怒声はピタリと鳴り止み、教師たちはまたもや聞く耳を傾けた。否、傾けざるを得なかった。
月界で知らぬ者はいないあの鬼姫の異名を持つ輝夜が月界を変えるという話は、独裁と横暴の象徴たる神無を唯一倒せるかもしれないという僅かな希望が人々の間で望まれつつあるからだ。
「……でも待て。輝夜は地球に降りたはず。どうやって彼女が月界を変えるんだ?」
「それは話せないわね。ただ、私たちの計画が上手く通れば間違いなく変わるわ。その為には少しばかり貴方たちにも協力してもらいたいの」
「……それは何だ」
「まずは神無の守りを薄くさせる事が必須なの。地球に降りた者も輝夜の陣に寝返っている。となれば、牙の一つが折れるのは時間の問題よねぇ?」
「だが雷花は、輝夜を倒す為に向かって行った。そんな亡命じみた事は眼中にないはずだ」
「そうね、でもこのままじゃその雷花って人は輝夜に倒された挙句、貴方たちが無事に逃げている事を知らずに生徒たちを守れなかった無念を叫びながら愛与されるかもしれない。こんな酷い話は、さすがの私もあんまりだと思うわ」
教師たちはただ黙っていた。
雷花は、生徒たちと学園の未来を守る為に、徴兵の命を飲み込んだ。
だが今、生徒たちとその家族。教師たちは皆安全な場所へと避難している。その事は雷花は知るよしもない。
このままでは女の言う通り、生徒たちの安全が約束された事も知らずに無念の死を遂げることになる。
教師たちの耳には渓流のせせらぎ以外の音はしない。そこに意を決したか一人の教師が沈黙を破り名乗り出た。
「では自分が行きます。今の現状を伝える事と、この月界を変えれるなら、この月島。喜んで地球に降りましょう」
「……悪くないわ。そうと決まったらすぐにでも準備しなさい。この船の進路には、地球へ向かう為の門の付近を通過する、そこで降りて地球へ行けるわ」
周りの教師たちからどよめきが起こる。
アザミは大きな口からクスクスと少女のように笑っていると、顔面蒼白の校長が力を振り絞りながら月島を止めようとした。
「つ、月島君! 無理をするな! ……大体、この女の話も……真実か嘘かはっきりしないのだぞ!」
「ですが、一つだけはっきりしてるのは、今、我々が安全な場所へと避難している事。そして雷花はそれを知らない事。それを自分の他に誰が伝えるのですか?」
「……月島君!」
「校長先生、自分は行きます。例え騙されても、バカを見る事になっても、この月界を変えれるなら自分は行きます。 家族には自分から話します。……校長先生、並びに教師の皆さん。短い間でしたがお世話になりました」
月島は深々と周りにいる教師たちに礼をすると、何も言わず船内への扉を開けて船首から出て行った。
見送る教師たちは複雑な表情を浮かべていた。
そこにアザミが眼を紅く光らせ残った教師たちに語りかける。
「そう悲観することはないわ。貴方たちだって彼のように役立つことは出来るのよ?」
紅く光る目と剥き出しの歯を出しながら口をこれでもかと吊り上げるアザミを、残った教師たちは冬の隙間風に吹かれたように恐々として見ていた。




