圧壊
人気のない港には小波が打ち返る音に混じり、肉を叩く音が鳴り響いている。
盛大で過剰なお仕置きを受けている龍吾は、屈強な男からのパンチを食らうと力なく倒れた。
恐怖はある。しかしそれ以上に輝夜への怒りが強かった。
金欲に負けて輝夜を招いた落ち目こそあれど、散々好き勝手なことをした挙句に話を聞かず突き放した姿勢には、龍吾の怒りを燃え上がらせるには十分だった。
「痛いか? 痛いよなぁ。これがルールを守らない奴へのお仕置きってわけだ。言っとくが書類にはちゃんと書いてあんだよ。『期日を超えて尚も返済の見込みがない時は然るべき処置をとる』ってな。
ジジイから書類が送られた時、何も疑わなかったのか? あぁ、それともジジイがウチから借りてるなんて知らなかったか。どっちにしても、書類に細工があるヤツなんて今時ザラにあるのに、お前らはなんの疑いもなくサインをした。連帯保証人になるって欄にな」
身体中から絶え間なく響く痛みが、輝夜と祖父への怒りに乗って更に激しくなる。
しかし屈強な男たちの前には、龍吾の力は悲しいほど無力。
「テメェのジジイ、今も逃げ回ってんだよなぁ……。借りるだけ借りて、蒸発するなんて……コッチはとても迷惑なんだよな!」
男が龍吾の腹部めがけてつま先で蹴りつけると同時に、龍吾の背後にある波止場に地面をへこませて何かが降ってきた。
周囲があ然としている中で、龍吾にとって絶対に忘れられない声が向けられる。
「そこの貴方。まだ生きているかしら?」
痛みも怒りも忘れて顔を上げれば、そこにいたのは輝夜本人がいた。
唐突な乱入者で呆気に取られる男たちを無視して、輝夜は龍吾に歩いてきて半腰で話しかける。
「あぁ、よかった。まだ生きているわね」
「テメェ、どの面下げて来たんだ」
「文句は後で言ってちょうだい。それより貴方。事情がどうあれ、ここで死ぬのは御免でしょう? さっきはああしたけど、気が変わったわ。貴方を助けてあげる」
「ふざけてんのかお前! そもそもこんな状態に誰のせいで━━」
「嫌ならいいわよ。今度こそ他を当たるから」
何という理不尽。何という身勝手さ。悪びれて謝る素振りさえも見せない姿に、龍吾は怒りと呆れを覚える。
しかし輝夜の言葉を信じるなら、彼女はこの状況を打破するほどの何かを持っているのでは、というのを龍吾は感じ取っていた。
龍吾は渋々承諾をすると、輝夜はおもむろに立ち上がって「じゃあ帰りましょう」と当たり前のように言った。
その言葉にサングラスの男が「待ちやがれ」と怒号を立てる。
「邪魔するならお前もタダじゃおかねえぞ!」
我に帰った男たちは、たちまち元の勢いに戻って輝夜と龍吾の前へ立ち塞がる。
すると輝夜は男たちを見据えながら、龍吾に見せたときのように紫色の目を光らせて男たちを睨む。
「うるさいわよ、貴方達」
ただの一言。ただの一睨みで、周囲の空気が凍てつく。輝夜の前に立ち塞がっていた男たちは、本能で彼女が只者でないと確信した。
「そんな貧相な身で、タダじゃ済まないですって? 身の程を弁えろ小僧ども」
輝夜にとっては悪意のない一言であったのだろうが、男達からすれば火にガソリンをかけられたような言葉であった。
完全に激昂した男は懐から拳銃を取り出すと、激昂に声を荒げながら輝夜に向けて発砲した。それに合わせて部下たちも各々の銃器を取り出し、輝夜と龍吾に向けて発砲する。
龍吾は輝夜の傍で腰を抜かしながら縮こまっている。
ところが彼のところには、弾の一発すら来ない。震えながら輝夜の方を見ると、輝夜のドレスが変形して幾何学模様の壁となっていた。
弾を撃ち尽くした男たちも、輝夜の姿を見ると魂が抜けたように唖然としていた。
模様の奥から覗く輝夜の目が紫色に光る。
幾何学模様の壁がドレスへ戻っていき、受け止めていた幾つもの弾丸が軽い音を立てて落ちていく。
「先に手を出したのは貴方たちよ。悪く思わないことね」
言うと輝夜のドレスが変形し、夜空を塗りつぶさんばかりに広がった。
さながらそれは揺らめく黒い炎か、月のようでもあった。
男たちが広がるドレスに釘付けとなっていると、影に混じって牙を生やした黒い触手がサングラスの男の足に噛みついた。
甲高い悲鳴を上げた次には男が輝夜の元へと勢いよく引きずられ、輝夜の目の前で口を離すと輝夜は払うように片手で叩いた。
それだけなら大したことのない表現ではあるが、叩かれた本人の被害は甚大だ。
何故なら叩かれた男は、数段に重ねられた大型のコンテナの最上部の壁面を、大きくへこませるほどに吹っ飛んだからだ。
力なく首を垂らして沈黙した男を見て、一帯が戦慄する。
「それじゃあ、少し遊んであげましょうか」
輝夜の目が紫色の残光をまといながら、男たちに向けられた。
にわかに辺りが騒然となる。
ある者は恐れをなして逃げ出し、ある者は腰を抜かし、ある者は逃げられないと悟って無意味な特攻をかける。
先陣を金属バットを持った男二人が輝夜を殴ろうと振りかざしたそのとき、傍らにいた龍吾が小さく浮くほどの衝撃と地響きを立てて輝夜が足元を勢いよく踏みつけた。
意表を突かれて足を止めた男たちが輝夜の足元を見ると、踏まれたところは地面が割れてへこんでいた。
驚く声を上げるより前に、銃声にも似た音を立てて輝夜の拳が男たちの顎を正確に捉えて弾く。
顎の骨は粉々に砕け、脳内は著しい損傷が起きるほどの激しい振動に見舞われる深刻な事態が起きている。
抜け殻のように崩れ落ちた先陣二人を見た他の仲間たちは「お前が行け」や「お前が先だ」の押し付け合いになって、規律も何もない。
その中で、唯一勇気を振り絞って輝夜に挑む男が、二丁の拳銃でさみだれに撃って輝夜を仕留めようとする。が、弾丸は広がるドレスに阻まれてしまう。
それでも仲間だけは逃がそうと時間を稼ごうとしたが、一筋の触手が体を抉るように噛みついた。
鋭利な牙が並ぶ二層の歯を持つ触手たちが影の中から現れ、さながら獲物に群がるピラニアのように猛烈な勢いで四方八方から喰らい尽くす。
ほんのわずかな時間で、男は所々から骨が露出した凄惨極まる姿で立ち往生していた。
戦意を喪失した男たちの中で、次に輝夜が目をつけたのは筋肉質の大柄な男だった。
距離にすれば数百メートル離れている相手を見据えると、輝夜は傍にいる龍吾に「そこを動かないで」と言った。
何のことかと龍吾が尋ねようとして顔を向けると、輝夜の姿がこつぜんと消えた。
直後に大気を裂くような叫びが上がって龍吾が目を向けると、筋肉質の男の両腕が異様な位置まで垂れ下がった男の前にいた。
何が起きたのか? 輝夜は男の目の前まで瞬時に移動して両手を掴むと、両手を勢いよく引き下げて無理やり肩関節から外したのだ。
それだけで終わらず輝夜は男の胸ぐらを掴むと、石を投げるかのように軽々と男を逃げ惑う別の仲間へ投げ飛ばす。
射線上にいた仲間は弾き飛ばされ、投げられた男はコンテナに突き刺さった。そうしている内に次々と仲間たちが倒れていく。
ここにきて龍吾は、輝夜の人外な腕力に加えて、人外な走力も彼女にはあるのだと理解した。
思えば奥多摩の駅にて龍吾が輝夜から逃げようとした際、背後にいたはずの輝夜が目の前に一瞬で移動していたのは、ひとえにあの目視不可能な速さで回り込んでいたからだったのだ。
龍吾は体の痛みも忘れて、一人で戦う輝夜の姿に魅入っていた。
夜の闇に舞う影の、剛さと柔らかさを備えた戦い方には、おおよそ流派や戦法といったものは感じられないのにその姿には息が漏れてしまう。
見た目からはおおよそ屈強ともいえないたった一人の女性に、取り立て屋たちがなす術もなくやられていく非現実的な光景。
一挙一動で確実に誰かがやられ、その余波で地鳴りや耳をつんざく炸裂音が港に轟く。
港の一角は空爆を受けたような有様で、車は有り得ない角度で突き刺さっていたり、陳列していたコンテナは崩れ、あるはずのない場所にコンテナが移動しているものもある。
生きているのか死んでいるのか分からない取り立て屋たちの姿を見て、やり過ぎだという感情は龍吾にもあった。だが止めようとしたところで、あの人外の力を止められるはずもない。
何よりも龍吾自身がこれまで取り立て屋の影に散々怯えてきたこともあったので、むしろ精々しているようでもあった。
「終わったわよ」
静寂が戻った港に輝夜の妖艶な声が響く。
優雅に歩いて戻る輝夜の姿も、夜の闇と遠くで光る常夜灯の後光が合わさった神秘的な姿を醸し出している。
「あらあら、派手にやられたわね。さぞ痛かったでしょうに」
相変わらず悪びれる様子もない輝夜に龍吾が切り出そうとすると、おもむろに輝夜が龍吾の鎖骨の部分へ片手をそっと当てた。
水面に石が投げられたような波紋が目の前で広がると、龍吾は目を見開いて自分の体を見た。
「どうなっている? 体の痛み……アザも無くなって……」
「治療術の初歩の初歩よ。こういうのは門外漢な私でも、今日一日安静にしていれば完治させるくらいのは出来るわ」
輝夜は倉庫に寄りかかっている車を片手で戻すと、ロックがかかっているドアごと外して中で放心している男の胸ぐらを掴み上げた。
「起きなさい。私はこの……」
突然輝夜は言葉を止めて「そういえば」と言いながら龍吾の方を見る。
「貴方、名前は何ていうの?」
龍吾が気の抜けた面持ちで輝夜を見る。
奥多摩で出会ってから、龍吾は一度も名を名乗っていない。そんな名前も素性も知らない、ただ最初に出会った人だからという理由で着いてきて、突き放し、そして助けに来たという。
龍吾は夢から覚めたように嘆息すると、投げやり気味に「龍吾だ」とぼやくように言った。
「雪下 龍吾。それが俺の名前だ」
不信感に呆れを帯びた目で見る龍吾に、輝夜は少しだけ目を泳がせていたが、すぐに「そう」と返して掴み上げた男の方へと振り向いた。
「ねえ聞いたでしょう貴方。さっさと龍吾のいる地元まで送りなさい」
「だ、だれがお前らなんか……」
「何?」
語気を強めて言うと、男の抵抗はあっさり崩れ、六回返事で了承を下した。
運転席のドアがない車は、一刻一秒を争うように高速で用賀まで向かう。
※
道中は信号待ちをするたびに好奇の視線に晒された。運転席側のドアが無い車なぞ、世界を見渡したところで一つとない。
幾つもの視線を乗り越え、車は用賀の街へと戻ってきた。夜もそこそこに更けてきたので人影もまばらだ。
「ご苦労様。では褒美として、どのような形で始末されたいか、貴方が決めなさい」
さも当たり前のように言う輝夜へ、龍吾の顔が弾かれるように向いた。輝夜に冗談を言っている雰囲気はない。
「おい、待てよ。コイツは何もしていないだろう。それに、いくらなんでもやり過ぎだ」
すると輝夜は、間の抜けたような顔で見返して「やり過ぎ?」と言い返した。
「いいえ、これは適切な処置よ。誰かに挑むならば、相手も自分も降参か討たれるかのどちらかの道しかない。
それに、彼を庇うというなら、貴方。近いうちに報復に合うでしょうね。私の目が届かないところで。それでもいいのかしら?」
龍吾は思わず口を閉じた。言っていることは確かにその通りである。
もっとも、輝夜が取り立て屋を壊滅させた以上、報復は確定しているようなものだから、報復は遅いか早いかの違いでしかない。
しかし彼女のやり方は明らかに度を超している。先の戦いでは確実に死者も出た。
「だけど殺すことはないだろう。やるにしても、せめてもっと穏便なやり方をだな」
「……不思議なことを言うのね。自分を散々脅かした存在に、情けをかけるなんて。でも、それならそれで構わないわ。ただし、念には念を入れておきましょう」
心底不思議そうに言うと、輝夜は運転席の方へと向かい運転手を無理やり外へと引きずり出した。
男は必死に「助けてくれ」と命乞いをしている。輝夜は男の胸ぐらを掴むとおもむろに目を閉じて、紫色の目を黄色く変色させて男を睨んだ。
途端、空気が凍ったような冷たさと、体が引き裂かれそうな威圧感が辺りを瞬時に覆い尽くす。
車内にいる龍吾は、睨まれてもいないのに顔が青ざめ、大きく肩を震わせた。
しかし、それだけで済む龍吾は幸運である。
目の前で睨まれた男は、発狂したように叫ぶと糸が切れた人形のように崩れ落ちた。男は生きてはいるが、空を仰ぎながら口をパクパクとして、人間らしさが消えていた。
「あら、壊れちゃった」
生きた屍同然の男を前にまるで子供のようにあっさりとした一言をかけると、輝夜は「これでいいかしら」と龍吾を見ながらやや得意げに首を傾げた。
曖昧な返事をする龍吾は不安に駆られていた。もしも彼女の機嫌を損ねれば、いつかあの壊れた男のようになるかもしれない。そんな不安と恐怖を抱くのは人間であるならば必然である。
輝夜は龍吾の部屋へと上がると、一通り部屋を見て「いい家ね」と呟いた。
「……そりゃあ光栄だよ」
「ちょっと、嫌味で言ったわけじゃないわ。私はね、もう豪勢な暮らしも、派手な衣装もいらないの。あんな虚飾まみれの生活なんて、犬畜生の糞にも劣るわ」
しかし月界のことを知らない龍吾には、輝夜の言うことは取ってつけたような言い分にしか聞こえず「そうかよ」と一言だけで片付けた。
遅めの夕食では、終始輝夜が感激していた。
食材の一つ一つを取り上げて「コレは一体何?」だとか「本物の野菜!」とはしゃぎまわり、料理を見ては感嘆の息を漏らし、簡素な味付けにも関わらず狂喜乱舞していた。
嘘を言っているようには見えなくても、龍吾は輝夜の素性が全く読めないし、時折見せる子供のような一面にも疑問を抱いていた。
が、それを詮索して機嫌を損なって人外の暴力が振るわれることを恐れ、結局その日は何も尋ねずに終わった。
その一方、東京の夜空に水色の髪をなびかせる、ネコのような丸い耳飾りを付けた女性が一点を見つめていた。
「もう他の天月人も来ている……。急がないと……」
女性は滑るように空を飛んでいく。
向かう先は、輝夜と龍吾がいる世田谷区は、用賀。
夜空には流れ星とも見える一筋の細い光が、幾つも降り注いでいた。
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輝夜 能力値 特 上 普 下 苦
腕力 特
走力 特
守備力 上
察知力 上
持久力 特
知識 上
初符 新月
特徴:相手の能力を一つ使えなくさせる
弱点:能力を使えなくさせれるのは一人で、かつ一つだけ
生来から備わっている腕力や才能、武術の技等、魔力を使わないものは封じられない
終符 不明




