再来
単と鴉との死闘から一夜明けて龍吾が目を覚ましたときには、魔力切れで衰弱していた雛月の黒ずんだ肌が艶のある色になり、顔を蝕むように刻まれていたヒビも完全に消えていた。
いつもの健康な雛月に戻って、龍吾は安堵の息を吐く。しかしあの戦いはこれまでの比ではなく、受けた被害も大きな物だった。
輝夜はもう朝だと言うのに未だ深い眠りに就いている。
二人の安否に後ろ髪を引かれる思いだが、龍吾は学生の身。学校へ行く為に、鞄へ教科書や筆記用具一式詰め込んで用意をし、龍吾は高校へと行こうとした。
すると雛月が龍吾を呼び止めた。どうしたのかと思うように振り返ると、雛月は両手で龍吾の両手を持ち上げて包んだ。
雛月の両手の温もりを感じて龍吾の顔は自分でも分かるほど赤くなって戸惑いの表情を出すが、雛月は頭を下げて祈っているように何も言わない。
一分ほど時間が経つと、雛月は頭を上げ一息吐きながら龍吾の方へと目を合わせた。
「貴方に私の精靈、スミレを授けました。これでいつでも貴方を守ってくれますよ」
「俺は能力者じゃないぞ。それにどうやったらスミレを出せるんだ?」
「その点は大丈夫です。龍吾様の身に危機が迫った時、もしくは名前を呼ぶだけでも、自動的に彼女が出現して戦ってくれますので、何ら難しいことはありませんよ。ただ、龍吾様は人間です。なので出現させてる間は精力……この地球の言葉を使っていうなら『すたみな』というものが減っていきます。と言っても、スミレはさほど魔力や、持久力を消費しない精靈なので、安心して下さいね」
「分かった。で、雛月はどうするんだ? 残っている精靈は確か……オダマキとボタンだったよな。ボタンは雛月の魔力を一気に削る精靈なんだろ? 雛月こそ大丈夫なのか?」
「前回までの戦いでボタンと言う精靈の扱いは大まかにですが分かりました。龍吾様が外出中に私なりに訓練しますので、お気遣いなく」
「分かった。でも無理はするなよ?」
「お心遣いありがとうございます。龍吾様も無理はしないで下さいね。お気を付けて、行ってらっしゃいませ」
龍吾とさほど年齢の差がない雛月は母親のようでもあり、ホテルマンのようでもある丁寧で優しげな声色にうろたえながらも龍吾は学校へと向かった。
その日、月からの刺客は現れなかった。
帰宅したときには輝夜も眠りから覚め、身体の傷もなくなっており、乱れ髪だった髪は艶めいた絹のようなサラサラとした状態へと戻っていた。
輝夜も雛月も万全の状態になっていたが、家にいた二人は刺客とは会わなかった上に敵の気配を察知することもなかったと言う。あのウサギの耳飾りを付けた女が離れたところから見ていたとなれば、それはそれで話も変わってくるが、その割には敵の襲来がなかったのが輝夜にとっては解せないことだった。
━━そして二週間が過ぎた。
輝夜たちも流石に暇に耐え兼ねて外出をしたりしたが家にいた雛月も、外に頻繁に出ていた輝夜も、通学していた龍吾も、誰一人として刺客と出会わなかった。
「ここのところ何も起きないけれど、なんか違和感があるな。二人の強さが想定外過ぎたから、連中諦めたとかは無いよな?」
夕食を食べながら龍吾は二人に問い掛ける。いつもと変わらぬ簡素な夕食だが、二人は変わらず黙々と吟味しながら食べている。
「無いわね。神無は私の強さなんて、百も承知で刺客を送っているでしょう。だけど諦めるなんて、あいつが安易にするとは考えられない。否、有り得ないわ」
「ですがこの二週間、何一つ気配も、視線も、魔力も感じないのは確かに不自然です。神無は何を考えているんでしょう? あ、龍吾様この『小松菜とにんにくのぱすた』のお代わりを下さい」
「良く食べるな。これで四回目だぞ。雛月は今日もボタンと訓練をしていたのか?」
「それもありますけど、普通に美味しいんですよ。月界なら間違いなく上級の板前として名を馳せるでしょう」
「バカ言うな俺の腕なんて……」
「自分を卑下することはないわ。貴方の味付けはいつも感心するのよ。くど過ぎず、辛過ぎず、変に飾ったような味もない。いつだって正直な、優しい味だわ」
輝夜や雛月の賞賛の声が直球で飛んで来るが、龍吾はそれを素直には受け止められない。性分と言うものか、捻くれた性格なのかもしれないが、と自虐するように龍吾は苦笑する。
※
翌朝、龍吾はいつものように学校へと出発した。
朝だと言うのに肌に粘りつく暑さの中、龍吾は駅へと向かう。その後ろ姿を一人の少女が電柱の影からジッと見ていた。
「冥様! 今、人間が外に出ました!」
電柱の影に隠れる少女、風華は宙に浮いた薄いリングに、小さく映された冥に報告をし始めた。
『でかしたわ風華! 今こそ、この二週間の張り込みの成果を生かすとき! ただ、この範囲だと輝夜たちに察知される。駅に着いたら奇襲をかけるわよ!』
「了解です!」
意気揚々として風華は駅で冥と合流した。
スーツ姿の会社員、学生、私服の人。多くの人間が入り混じる用賀駅は朝の混雑も相まって人の密度が非常に濃い。
冥と風華が合流したことなど露にも思わずに、龍吾はそのまま学校へと向かう電車に乗り込んでいく。その様子を見ていた冥と風華は、日本の通勤ラッシュの混雑ぶりに唖然としている。
特に、到着した電車の尋常ではない密度には、二人はもはや唖然とするよりも前に恐れを抱くほどだ。
「……地球の人間はこんな時間に、これほどの人が勤め先に行くの?」
「異常ですよね……。月では絶対あり得ない光景ですよ。しかもこれ、後二時間ほど続くんですけど……乗りますか?」
「……風華。あの人間の勤め先は分かっている?」
「把握済みです」
「それならここは一先ず見逃してやろう。どっち道、今日は奴一人。あいつを捉えて、輝夜たちをおびき出す出汁にしてやるわ。で、それはそれで一旦ここを出ましょう。切符代返金出来るかしら」
「領収書ありますし、大丈夫だと思いますよ」
二人は混雑したホームから逃げるように去って行く。
満員を超えた超満員の電車から出て来る人、人、人。催眠術でも掛けられてるのかと錯覚してしまうくらいの量は、戦意は元より追跡する意思も削ぐほどだ。
二人は駅から少し歩いた所にある、大きな三角の形をした造形物が特徴の公園の一角に座り、今回の作戦を再確認していた。
クチバシの先が切り落とされたような形の薄い金属が、左右に分かれて龍吾と、東京都の地図を同時に映し出す。
「まずあの人間の通っている学校ですが、新宿と言う場所にある瑞川前高等学校という学校です。駅から大体歩いて十分ほどの距離の所にあります。授業が終わるのが大体十六時。その後勤め先の奥多摩へと向かいます」
映像が龍吾の通学する学校から離れて奥多摩の上空へと移動し、駅から離れた場所にある龍吾のバイト先を映し出す。
「勤め先は、随分離れた所にあるわね。でも逆を言えば、これだけ離れていれば輝夜たちが気が付いても、駆け付けるのに時間が掛かるということ。因みに今日は奴の仕事が休みということはないわよね? 先回りしたけど今日は休みでした、なんてオチだったら笑えないわよ」
「その点も大丈夫です。彼の勤めている職場は日曜の休日以外全て営業しています。なので今日も、必ず仕事先に向かうでしょう」
「よし、そうと分かれば奴の勤務先に向かいましょう。奴もまさか仕事先で襲撃されるとは、夢にも思わんでしょうに」
「了解です。……それと、冥様、一つお尋ねしてもいいですか? どうして私たちは輝夜だけでなく、この人間まで狙うのですか?」
風華はこれまで本部から下された命令を受けた冥に従って付いてきた。しかし風華も人の子。大罪人輝夜を狙うならまだしも、大罪人とは全く無関係の人間を狙うならば、それなりの理由があるはずだと思っていた。
しかし本部である月宮解放軍の上層部は、この理由については一貫して沈黙。詰め寄ろうものなら恫喝と脅迫めいた言葉を投げて無理やり現場へと向かわせてくるので、誰一人としてその理由を問いただせなかった。
しかし、冥の返事は風華の疑問をさらに深まらせるものだった。
「私もその理由を教えてもらっていないの。人間だからすぐに仕留められるということもあって、輝夜ほど優先度は低いけど、それでも放置はするな。人間の彼も狙えとの一点張りよ」
「それって何か変じゃありませんか? どうして輝夜さんと同じほどに、あの人間も対象なのでしょうか」
「私も上層部の意向はまるで掴めないわ。でもね、それを聞こうとすればどうなるかくらい、風華も分かっているでしょう? だからこの件は胸の奥にしまっておくのよ。あの気狂いじみた癇癪はお互い聞きたくないでしょう」
納得のいく答えではない。隠蔽による不満と疑問が積もり積もれば、組織の分裂や内紛を招きかねない。まだ十歳にも満たない風華でも、そのくらいのことは理解していた。
そして風華はすでに危惧していた。冥ほどの上層に立つ存在ですら、任務の実態と遂行に至る理由が明かせないということに疑問を持つ者は少なくない。そのような因子はいずれ、あらぬ憶測から始まって虚実ないまぜの情報が組織内に満ちていき、やがて内部分裂を生むだろうと。
晴れぬ思いに胸を曇らせていることをよそに、冥は「で、彼が来るまでの間はどうしようか」と一人呟く。
「私はお腹がへりました。携帯食料はあるのですが、あっても食べたくないです。マズいですし。この際ここで何か食べませんか?」
風華の言葉を聞いた途端、二人の腹の虫が待っていたと言わんばかりに鳴り出した。
「どうせ月の者は誰も見てないし、腹が減っては戦はできぬと古書にも書かれてる。どこかで食べましょう!」
屈託のない風華の明るい返事を聞くと、二人は朝の街中を歩き始めた。
用賀という街が月界に比べれば飲食には困らない所だろうというのは見て分かる。それ故に彼女たちはどこで何を食べるかという喜ばしい悩みに頭を抱えていた。
陽が登って腹の虫が大合唱をし始めたとき、一軒の店前で足を止めた。
インドのカレーなどを扱うアジアンレストラン。当然だが月界でカレーというものは存在しない。
しかし空腹の二人の食欲をそそる香ばしい香りと、インド人のきさくな店員に誘われ、二人は店へと入っていった。
昼前ともあって、店内の客は冥たちの二人だけ。
店内の装飾や雰囲気は二人の知らない異国の文化を表しているようで、そこだけが日本から別の世界に飛ばされた感覚におちいる。
二人は適当に席に座って品書きを見たが、異国の言葉だらけの品書きを前に二人は頭を悩ませる。
「……こ、これはどういう意味? かれー? らーめん? なん? ここ本当に食事処?」
「そうだと思いますが……ここまで知らない言葉だらけだと……どれを選べば良いか分からないですね」
品書きの名前に頭を悩ませている事など露知らず、店員は二人におしぼりと水を持って来た。
「え? 水は頼んでいないぞ」
店員は、不思議そうな目で見ながら「無料デス」と言って、冥は驚きを心中に抑えつつ冷静に返した。
「今、ランチセットガ食べレマス。コチラの四ツのカレーと、サラダ、ドリンク付キマス。ライスとナン、ドリンクはオカワリ、デキマス」
二人は手を拭きながらうなずいているが、カタコトの和語と外来語。さらには外国人独特の訛りもあってか、ますます二人は混乱していく。
そうして二人の頭脳の情報処理が追いつかなることを考え、二人は映りのいい品を頼むことにした。
冥はチーズとほうれん草カレー。風華はランチセットのラムカレー。
すると店員は冥の方を向いて問い掛けて来た。
「ご飯ニシマスカ? ナンニシマスカ?」
「……何だって?」
「ご飯ガイイデスカ? ナンニシマスカ?」
「め、冥様……ご飯は分かりますが、ナンって何か分かりますか?」
「風華が知らないことを私が知ってると思う?! ……えぇと、とりあえず私はご飯で」
注文を受け付けた店員はにこやかに対応すると、調理場の方へと行って聞いたことのない言葉を出して出入り口に立った。
「……この国は本当に不思議で満ち溢れているわね。和語、外来語、現代語がこうも一緒くたになっているのに、よく混乱しないわね。それに水が当たり前のように出るのは本当に驚きね」
「私も驚きました。当たり前のように出すものですから、この星ではこれが常識なのでしょうか」
冥と風華の束の間の平穏に話の花が咲く。店内には店員たちの故郷で流れてるであろう歌がテレビから流れている。陽気なリズムと男女の歌手が高低音を上手く重ね、背後では大勢の踊り手がリズムに合わせて踊り、歌を盛り上げている。
当の二人は歌手が何を言っているのかさっぱり分からないが、月の世界には存在しない独特な音楽で話の輪がさらに広がっていく。
そうして待っている内に二人が頼んだ物が順々に運ばれて来た。
どちらも香辛料の香りが小皿でありながら強く、匂いだけで辛い物であることは理解した。
しかしその直後、ご飯と共に出された物に二人の目は大きく見開かれた。
「えっ……何これは……」
当然というべきか、ご飯に対して受け皿の大きさをはるかに超えるナンに二人の目が釘付けになる。無論、月界にナンなぞ存在しない。
「あ、あの……店員さん、これは何ですか?」
「コチラハ、ナンデス」
「……いえ、あのー……コレは何ですか?」
「ナン、トイウ食べ物デス。パンノヨウニ、チギッテ食ベテクダサイ」
麦の香りとカレーの香りが二人の鼻を刺激し、唾を飲み込ませる。
ナンに触れると、もちもちしてて温度も丁度良い。風華はナンを千切ってカレーに浸けて食べると、風華は感嘆の声を出した。
「辛い! だけど美味しいです! それにこのナンというのが辛さを和らげて、ほど良い辛さになってます!」
風華の感嘆ぶりに冥も目の前に運ばれて来た自分の注文品を目にして、スプーンやナイフ、フォークが入ってる木箱からスプーンを取り出し、カレーを一口啜ってみた。
「確かに辛い。でも美味しい! 甘さが辛味と絡まって辛いのにまろやかな味。コレ、ご飯と相性が良すぎる!」
組織に入隊してからロクなものを食べたことがない風華と冥は、完全にカレーの虜となっていた。
「ねえ、風華のカレー、私にも分けてちょうだい」
「えー? じゃあ冥様のカレーも私に下さいよ」
「分かった。じゃあ一口ね」
「一口じゃそのカレーの真髄が分かりませんよ! 半分は下さい」
従者なのに従者らしからぬ返しに冥は呆気に取られながら銀皿に入っていたカレーを半分分け、風華も自分のカレーを冥へと手渡した。
「か、辛っ! 美味しいけど辛すぎる! 風華、何で普通に食べれるの?!」
「その辛いのが美味しいんじゃないですか。お子様ですねー冥様。で、冥様のカレーは少し甘いですね。コレはコレで美味しいですが、やっぱり私はこの子羊肉のカレーが美味しいですね!」
お子様の風華にお子様と言われてシャクに触った冥は、辛さを無視してカレーを一気に食べ始めた。
冥の口内が辛味と言う名の炎に包まれ、口の中が今まさに映像に映っている異国の踊り手たちのように所狭しと踊っていく。
「何してるんですか冥様! せっかくのカレーの辛味をしっかり堪能して下さいよ!」
「堪能してるわ! すひません! 私も、らむのカレーをお願いします! 後、水! 水を下さい!!」
店員は苦笑しながら水を持ってくるが、冥が幾ら水を飲んでも辛味という踊りが激しさを増していく。舌はヒリヒリと痺れ、喉は炎天下の砂漠のような乾燥した状態となっていた。
「がら"い"。しかしクセになるわねこの辛さ。今まで食べて来た月の料理がバカみたいに思える!」
まだ幼い風華の言葉に反応して負けじと張り合う冥を、風華は何か哀愁めいたものを感じながら見ている。
風華は顔を逸らしながら残ったカレーを食べて、取って付けたような白々しい笑みでカレーを食べ続けた。
その後冥は何を血迷ったかもう一つカレーを頼んだ。「どうって事はない」と言いたげに風華へ見せつけるように食べているが、鼻水と大量の汗と流しながら食べていく残念な美人を見て、風華は絶対に冥のようにはならないと自分へ誓った。




