華よ蝶よ
忌々しげに冥は自分の手元を見て輝夜へと目を移す。
唐突に能力が解除された冥は、驚きこそしているが大きくうろたえることはしない。大きな動揺をしてしまえば瞬く間に理性を失うからだ。
(この喉に詰まるような感覚。これが輝夜の能力なのね。だけど、初符の方は……これは使えるな)
しまったヴァジュラを再度取り出して光の刃を出すと、足元からいくつもの闇の手を作り出して輝夜と対峙する。
冥は決して頭が良いとは言えない。しかし戦闘に関しては天性の勘を持つ。
切り札の終符は確かに封じられた。しかし基本の技である初符は使える。
全ての能力を封じれば戦闘は断然楽になるはずなのに、何故か初符だけは使える。そこから自ずと導かれる結論はただ一つ。
(輝夜の能力は、相手の能力を一つだけ使えなくさせる能力だ。だがそこは分かってもまだ全部が分かった訳ではない。
私一人だけしか封じれないのか。それとも対峙した相手全員の能力を一つ封じられるのか? 初符か終符。封じられるのは決まっているのか? まずはここを明かさないと)
冥は輝夜に向かって駆け出し、ヴァジュラを振りかざす。
身構えた輝夜は、しかし向かって来る途中で冥が闇に溶けてその場から消えた。
「雛月、精靈を出して探しなさい。奴はこの近辺にいるはずよ」
だがここにきて雛月の魔力が、いよいよスミレさえ出せないほどに無くなってしまった。
荒い息遣いの雛月を傍らで心配そうに龍吾が寄り添っているのを見れば、もはやまともに戦えるのは輝夜一人だけ。
冥と風華は龍吾も狙っている。迂闊に移動をすれば何が起こるかも分からない。輝夜の知らない援軍や、新手の奇襲が絶対にないとは断言出来ないために動きたくても動けないジレンマに陥る。
(これはいよいよもってマズいわね。二人を連れて逃げるべきかしら。……いえ、逃げる道中で、あのバカ二人が追ってきたら一巻の終わりだわ。何とも歯痒いことね)
※
先ほど輝夜に吹っ飛ばされた風華は、緑地内の隣にある園庭で目を回しながら伸びていた。
「起きて起きて起きて! 伸びるなら後で伸びなさい!」
激しく揺さぶられた風華はひどく不機嫌そうに意識を取り戻すと、開口一番に「勝ったのですか?」と聞いた。
「まだだ。これから勝ちに行くのよ。奴の能力を掴んだのだからね」
「掴んだ? それは?」
「奴の能力は、能力を一つ封じる能力よ。現に今、私は終符を封じられているけど初符は使える。封じられるのは終符だけなのか、それとも初符も可能なのかは分からんが、私の見立てでは恐らく私が能力を封じられている間は、風華の能力を封じることは出来ないと踏んだ」
冥は底抜けな自身に満ちた目で風華に説明をする。能力の一つが封じられているというのに、まるで危機感を感じさせない。
それに対して風華は、冥の口から判明した情報を聞いていく度に冥とは対照的に顔色を曇らせていく。雛月はもう戦える状態ではないということを聞いてもなお。
そうして風華は子供ならではの正直な意見を口にした。
「あの……私、ここで一旦退いた方がいいと思うのです。戦略的撤退というヤツですよ」
「何を弱気なことを━━」
「━━もちろん私だって勝てる見込みがあれば向かいますよ。だけど私、あの輝夜さんが一番恐ろしいと思うのです。
だってあの人は、私が作り出した木砕級の竜巻を、殴った衝撃波だけで消し飛ばしたんですよ?」
冥の自身に満ちた顔が陰っていく。
風華も冥も、互いの能力については仔細まで知り尽くしている。だからこそ風華が身をもって味わった輝夜の強さが、対峙していない冥に明確な形となって伝わって来るのである。
「それに私、気になることがあります。あの異様なまでの腕力は、輝夜さんの能力なのでしょうか。私はそうとは思いません。
冥様、輝夜さんが能力を封じる際、終符の言葉を言っていましたか?」
「……言っていなかった……はず」
「戦闘慣れしている冥様ほどの人が、終符を聞き逃すことはないでしょう。言っていないということは、つまり、その能力を封じる能力は、輝夜さんにとっての初符なのですよ」
冥の顔から完全に自信が消え、変わりに汗がにじむ。
能力を一つ封じる能力。
他の天月人からすれば最終奥義である終符に匹敵する内容の能力が、魔力の消費も少ない基本中の基本の技である初符によるものだと分かれば怖気が立つのも無理はない。
そして終符に至っては、冥と風華はまだ片鱗さえ知らない。このまま戦えばその全貌を拝めることは出来るだろうが、その際の命の保証はどこにもない。
更に冥は、輝夜のドレスから出てきた二層の牙を生やした触手や、幾何学模様に変態して冥の攻撃を防いだドレスのことを思い出す。
風華の推論で鑑みると、輝夜はドレスを変態させる際にも終符とは一言も言っていない。即ち彼女の着る可変式のドレスも、終符ではない。
「……そういえば……奴の外套は奇異な形にも変態してた。終符と口にしてもいない。ならば奴は、複数の能力を持っていることになるの?」
「外套については知らないので言えませんが、きっとそうでしょう。
冥様、一度退きましょうよ。私たち、輝夜さんについて知らないことが多過ぎます。知らないことが多いのに挑むのは危険ですし、無謀すぎますよ!」
ボタンという論外級の強さをもつ精靈に油断して大敗を喫したものの、ボタンのいない状況下に加え、雛月は魔力の枯渇によって衰弱。龍吾というひ弱な荷物がぶら下がっている中での戦いには、輝夜も苦戦を強いられると思っていた。
ところが冥より冷静な風華の推論で、全てが根底からひっくり返った。誤差の範囲内では済まされないほどに判明した未知の多さによって。
そんな状況下に追い討ちをかけるように、風華からの撤退進言。人によってはこれ以上ない屈辱的なものだろう。
しかし一から十まで的を正確に射抜いている内容であるが故に、反論の余地はどこにもない。
横一文字に口を閉ざしていた冥はしばらく黙りこくった後、風華の顔を真っ直ぐに見て毅然と言い切った。
「そうね、一旦退きましょう」
あまりにあっさりとした返事を聞いて、風華は面食らったような面持ちで見返す。
「ほ、本当に退くんですか?」
「風華が退こうって言ったんじゃないの」
「い、いえ確かにそうですけど。……あの、怒らないのですか? 私みたいな子どもが冥様のような大人に反論したのに……」
すると冥は、それこそ言っている意味が分からないと言いたげに首を傾げて返した。
「言っていることが正しいのに、なんで怒る必要があるの?」
当たり前といえば当たり前の、しかし今のご時世からすればそうそういない素直な答えに、風華はしばらく実感を持てずにいた。
「そうと決まれば」と冥はおもむろに立ち上がり、輝夜たちが未だ待っている森の方へと歩いていった。
退くと言ったのにもかかわらず相手の方へと向かう冥を、風華は何事かと思いながら後をついていく。
そうして森の中で静かにたたずむ輝夜を見るや否や「今日はこのくらいにしておいてやるわ!」と、無駄に大きな胸を張りながら一昔前の悪役みたいな捨て台詞を高らかに言った。
「私は勝てない戦にむざむざ赴くほどバカじゃないからね。でも、次にあったときは容赦しないわよ。すでにお前たちのことは……六割くらい分かったんだからね!」
非常に曖昧な数字なのに得意気で言い切った冥は、闇の球体を作り出して風華もろとも包み込み、そのままどこかへと消えた。
気配が周囲から完全に消えたことを確認すると、輝夜は「変な奴」と一人呟いた。
「輝夜、あの二人は本当にいなくなったのか?」
「ええ。少なくともこの近辺にはもういないわ。それで、龍吾。お願いがあるのだけれど、料理とか作れるかしら?」
「……料理? それどころじゃないだろう。雛月がこんな弱っているのに━━」
「━━その雛月のためよ。断るなら雛月を見殺しにすることになるけれど?」
傍らで倒れている雛月の息はもう虫の息で、自己回復すら追いつかない危険な状態だ。
生気を失いつつある雛月を横目に、龍吾は即座に気持ちを切り替えて承諾して帰路についた。
※
ただでさえ龍吾の財政状況は逼迫しているために、あるだけの食材で作った料理は非常に簡素で豪華とよべるようなものではない。パックを開封して皿に乗せ、野菜などを焼いて、炒めて、少しの香りをつける程度の誰でも出来る調理方法だ。
しかし雛月は、文句を言うどころか顔を綻ばせて感激しながら食事にありついている。
ことあるごとに「美味しい」と連呼しながら食の手を進ませる雛月は、魔力切れで衰弱していたこともあってか食べる量が尋常ではない。
龍吾が先に作り上げた料理は全て平らげ、雛月の傍らに皿が小さな塔を築いているほどだ。
「それで、魔力とやらはもう戻ったのか?」
龍吾が最後の一品を持ってくると、雛月は満面の笑みで感謝を述べた。
声や肌に潤いが戻っていて、先ほどの虫の息だった姿がウソのように思えてしまう。
「はい、おかげさまで完全復活です。本当にありがとうございました」
「……飯を食っただけで魔力って回復するものなのか? 俺のイメージ……認識だと、薬とか魔法陣とか使って回復する印象があるけどな」
「地球ならではの認識ですね。ですが天月人にとっては、そんな超常的なものではありません。
私たちにとって、魔力というのは精力のことを意味しているのです」
さもありなんという風に言い切った雛月は最後の一品をペロリと平らげて語る。
「精力? じゃあ、さっきまで弱っていたのは、腹が減っていたからってことか?」
「その通りです。能力を使っている間、私たちはその場で立っていても常に走っているような状態になります。
加えて先の戦いのように、能力だけでなく自分自身の体を駆使した肉弾戦も当然行います。肉弾戦と能力による戦いが並走してできるように進化したのが私たちですが、長引けば誰だって限界は来てしまいます」
「そうなのか。……そういえば……さっきあのドリル……じゃなくて鉄塊の天月人と戦っていたときにいた、女の人たちはどこにいったんだ? 剣を二つ持ってる人と、デカい岩みたいなのを持っていた女の人たち」
「ああ、スミレとオダマキのことですか? 丁度いいですね。挨拶がてら私の能力で従えている精靈を紹介しましょう」
雛月が宙に簡単な文字のようなものを描くと、スミレにオダマキ、そして先ほど新たに仲間となったボタンを出した。
空色のショートヘアとスミレ色の眼、凛として端整な顔つきの少女は、髪と同じ色のノースリーブドレスを着た双剣使い『スミレ』。
かたや白色のウルフカットと青みのある紫色の眼を持った、荒々しい目つきと乱暴な顔つき。
筋骨隆々な身体にボロボロな白シャツと、紫色のダボダボズボンを着た高圧的な女性は『オダマキ』。
そして白いショートヘアに、淡い桃色のテニスガールスイムウェアに似た服を着て、腰には月輪を引っ下げた、優然とした凛々しい女性が『ボタン』。
清楚と粗暴さ、神々しさを形にしたような精靈たちは、ファンタジー作品で見られる可憐で幻想的な精靈像とは違い、人間と変わらない生々しさを持っている。
「……雛月、この三人は本当に精靈なのか? どう見ても人間じゃないか」
「精靈ですよ? 受肉をすれば完全な肉体を得られますが、彼女たちには関係のない話ですね。三人とも、彼は私たちがこれから守るべき方です。ご挨拶をしなさい」
雛月の言うことを聞いたスミレとボタンはその場で軽い会釈を行ったが、オダマキだけは頑なにしない。それどころか守るべき相手であるはずの龍吾に、露骨なまでの嫌悪の眼差しを向けている。
それは先の鉄花との戦いで、鉄花に投げつけられた龍吾が彼女に覆いかぶさる形でぶつかったのだ。それを、彼女は未だに根に持っている。
ギラつくような鋭い目で隈なく睨むオダマキを雛月が叱るが、まるで意に介していない。
「雛月、精靈たちは喋らないのか?」
「いいえ、本来なら喋れますよ。ただ私は、話すよりもまず動くことを優先しているので、精靈を生み出す際もあえて喋れないようにしているのです」
何度もオダマキを戒めようと雛月が奮闘するも、オダマキにはどこ吹く風。
傍らのスミレは表情こそ崩さないものの、それ以上踏み込んでまで止めようとはしない。ボタンに至っては些事と言わんばかりに静観しているだけだ。
龍吾の眼前でオダマキと雛月が睨み合っていると、外に出ていた輝夜が戻ってきた。
「戻ったわ。どうやらあのバカ二人は本当に退いたみたいね。けど、あの様子だと近いうちにまた来るでしょうね」
輝夜の言葉で、解れつつあった空気が一転して緊張する。
特に龍吾は、今後もまた彼女らの人質になるかもしれない可能性が十二分にあることを思い出して一層沈んでいく。
「龍吾、私が思うに、それでもなお私たちを追い出そうとするのは危険だと思うのだけれど? 貴方だってその歳で死にたくなんかないでしょう?」
鉄花に次いで風華と冥に狙われた以上、天月人が輝夜だけではなく人間である龍吾を狙ってきているのは揺るぎない事実である。
理由はどうあれ、輝夜は億を超える人々を死に追いやった。
しかし逆を言えば、それだけの実力を持つ存在が味方になっているというのも事実である。
彼女の逆鱗に触れさえしなければ、これから先、来たる月からの刺客も彼女と雛月の手によってほぼほぼ倒してくれるだろう。
龍吾の中にある天秤が大きく揺れる。
自分の命というかけがえの無いものと、いつ終わるとも知らぬ傍若無人な姫君との生活。
妙に長く感じられる静寂の中で、龍吾が厳選に厳選を重ねた取捨選択の中から導いた答えは『共生』だった。
「……その通りだ。俺はまだ生きたい。だけどな、前にも言った通り俺の生活は本当にヤバい状態なんだ。
今さっき雛月には出せるだけの食事とか出せたけど、これから先、酒が飲みたいだの、刺身が食いたいだの、贅沢なんて聞いていられない状態だってことを忘れないでくれよ」
強い声色で念を押す龍吾を、輝夜は満足気な笑顔をして返す。
「賢明な選択よ、龍吾。言われずとも私たちがここに住まわせてもらう以上、最大限の礼節と謝意。そして私の地球での生活を阻む刺客からの警護を約束するわ。
そうね。手始めに、まずはこれまでの食費を倍にして返しましょう。雛月、謝金を出しなさい」
輝夜が顎で指示を出すと、雛月は片手で空を軽く弾いた。
すると優に二十万円はあろうかという札束が雛月の両手に一瞬で現れ、丁寧に龍吾に差し出された。
強情に構えていても金に困窮している身に大金が差し出されば、たちどころに揺らいでしまうのは人の性。呆然としながら札数を数える龍吾に、輝夜は「満足?」と小悪魔めいた笑みをしながら聞いてくる。
魔性の笑みに軽く胸を小突かれた龍吾は、照れを隠すようにしどろもどろな返事で返した。
「それならよかったわ。それじゃあ龍吾。これからよろしくね」
※
龍吾の家から遠く離れた二子玉川の河川敷で、冥と風華は『音声通話』とだけ表示された画面から叩きつけるような怒号を受け止めていた。
『なんの申し出もなしに撤退だと。貴様らバカにしているのか! 折角の目標を目の前にしながら、何たる愚行をしてくれた!』
ヒステリー気味な声に風華は辟易としているが、冥だけは全く意に介さず主張を続ける。
「では聞くけど、本部の方で輝夜の能力について触れた人はこれまでいたかしら? 誰が「輝夜の能力は能力者の能力を一つ封じるものだ」と言った人がいたかしらね?」
「言い訳を言うな。大体お前たちは二人。相手は輝夜一人だろう。能力が使えないなら力づくで━━」
「━━輝夜には従者がいたわ。しかも従者は神霊級の精靈を味方につけていた。それだけじゃない。輝夜は、風華の能力を拳の衝撃波で打ち消す尋常じゃない力を持っている。しかもそれは、アイツの終符でも初符でもない。あと、変態する外套も身につけていたわね。
ここまで予想外の事態が発覚してなお突貫を命じるなら、はっきり言うけど、指揮官を降りた方がいいと思うわ」
画面の向こうにいるであろう指揮官は完全に論破されてしまい、唸り声を上げている。
「それに、私は確かに撤退はしたけれど、誰も諦めるとは一言も言っていないわ。今回の戦いで掴んだ情報を本部に送り、双方で再度作戦を立て直して挑むのよ。そうじゃなきゃ褒賞なんか貰えないということくらい、こっちだって分かっているっての」
『だったらさっさと作戦を立て直して、さっさと輝夜を討ってこい。次にお前たちの声を聞くときは、成果の一つでも上げてから通信しろ、グズどもが!』
吐き捨てるような遠吠えを言い終えると、指揮官は乱暴に通信を切った。
穏やかな川の流れを聞きながら、冥はうんざりしている風華に笑みを向ける。
「現場知らずの坊主には言わせておけば良いのよ。どうせ達者なのは口だけのカカシなんだから」
強気な笑みを向ける冥に、風華は子供ながらに隠された痛々しさを見抜いていた。しかし彼女はそんな様子を微塵も見せない。
「お腹減った〜」と快活に笑って済ます冥に、風華は彼女が解放軍の指揮官であればよかったのにと、誰にも聞こえない思いを胸中で愚痴る。
それほどまでに彼女の属する月宮解放軍は、綺麗事の裏で力と権力が蔓延しているのだ。