闇の帳 風の唄
鬱蒼とした暗がりに包まれていた緑地内は、今や目を覆いたくなるほどの光で満ち溢れていた。
神々しい光は冥の闇を打ち消し、放たれる圧はその場にいる全員の足を固定させる。
目の前にいる相手が絶対に勝てない存在であると否が応でも輝夜と雛月の本能が認めていた。それほどまでに言葉として形容できない凄みがあるのだ。
ボタンを操る雛月もまた、空前絶後の力に圧倒されていた。
溢れ出る魔力の奔流は主であるはずの雛月を容易に飲み込んで灼いていき、精靈を通して伝わる鼓動は雛月の心身だけでなく魂をも震わせる。
(これが荒魂の力……! ボタンはまだ何もしていないのに、魔力がどんどん奪われていく!)
緊張の張り詰めている雛月に対し、ボタンは敵である冥を静かに見据えている。
先述の通り本能で力の差を分からせるほどの存在がハッキリと自分を見ているのだ。その身にかかるプレッシャーは尋常ではない……はずだった。
しかし冥は、あろうことか武器を強く握ってボタンへと突っ込んでいく。
無謀という言葉が当てはまる冥の行動に、輝夜と雛月は彼女に何か策があっての行動と捉えていた。が、そんな予想に反して、冥の口から出た言葉は━━。
「なんか分からんが、先にお前を倒す!」
知性のかけらもない理由だった。
輝夜は思わず軽い目眩を起こし、雛月は体にかかる負荷を一瞬だけ忘れてしまうほどの脱力感に見舞われる。
かくして冥の手にした武器がボタンに牙を向いたが、光の刃はボタンの目の前で時が止まったように動かなくなった。
真っ直ぐ見ているボタンへ必死に押し通そうと冥は力むが、切っ先は微かな揺れ一つ起こらない。
するとボタンがおもむろに目を薄く閉じて開眼すると、冥が弾かれるように吹き飛んだ。
優に数十メートルほど飛ばされた冥はすぐさま体勢を整えて反撃をしようとするも、すでに目の前にはボタンが立っている。
反射的に冥がボタンを突き刺そうとした瞬間、音が一拍遅れて鳴るほどの一撃が食い込み、冥は子供向けアニメでよく見るような飛び方で彼方へと吹っ飛ばされていった。
呆気なさすぎる形での決着に呆然としている輝夜は、ボタンがその場から消えたことでようやく我に帰る。
「……何はともあれ一件落着ね。雛月、帰るわよ」
言って雛月の方を見ると、雛月は虫の息で倒れていた。
顔には魔力が枯渇間近であることを示す黒いヒビがいくつも足を伸ばしている。
「どうしたの貴女。もう魔力が切れたというの?」
空気の抜けるような声とも言えない声で返す雛月はひどく衰弱していた。
しかしそれも雛月の特性上、致し方のないことであった。
先の鉄花との戦いでもそうだったように彼女の能力は補助を中心とした術をメインにしていて、攻撃の術では通常よりも多く魔力を消費してしまう。
それが戦うことに特化した神たるボタンともなれば、どれほどの過負荷となるかは火を見るより明らかだ。
「まいったわね。どこか食事処とかないかしら。ちょっと、まさかこんなところで主人を放っておいて死ぬ気じゃないでしょうね?」
自分の従者だというのに、輝夜は手を貸すことなく冷たい言葉を投げる。
覚束ないながらもゆっくり身を起こし魔力回復に努ようとすると、不意に周りの木々がざわめき始めた。
二人の肌を撫でている風が徐々に強くなっていく。
木々の隙間から見える空は快晴そのもの。しかし輝夜たちに吹く風の強さは、天気の状態からして不自然な強さだ。
輝夜はこの風が自然のものではなく、能力によってもたらされるものだと察知した途端、目の前の木々が風圧によってなぎ倒された。
燦々と輝く太陽の光を背に、小柄な少女が浮かんでいる。
「そこまでです、輝夜。冥様の部下が一人、風華、加勢に参じます。大人しくしないと、この人間がメチャクチャのバラバラになっちゃいますよ」
意気揚々に脅しにかかる少女、風華は傍で捕われている龍吾を前に出した。
龍吾の体と両手足には、風が渦巻く球体が付けられている。
「か、輝夜様……。先ほど龍吾様が自分から助けを求めてくると仰ってたのは、まさかこのためですか?」
辿々しい声で聞いてくる雛月に、輝夜は怒気のこもった声で「そんな訳ないでしょう」と返した。
雛月には眉一つ動かすことなかった輝夜だが、人質にされている龍吾を見ると途端に敵意のこもった目で見返し、紫色の目を光らせる。
「いくらなんでも、おいたが過ぎるわよ」
「なんとでもどうぞ。勝つためならどんな手段だって使うんです。それが勝負というものでしょう。
それに私たちからすれば、この人間も輝夜と同じ対象の一人なんですから、好きにしろと言うんでしたら喜んでしますけど?」
「……私と同じ? 待ちなさい。どうして龍吾が?」
「言うと思いますか? 言いませんよ、敵なんですから! さあ冥様、一緒に輝夜たちを倒して……」
自信に満ちていた表情で周りを見渡すも、先にいるはずの冥はどこにもいない。
つい先ほどボタンに吹っ飛ばされた由を知らない風華は、たちどころに強気な笑みが薄れていき「あれ?」と口からこぼした。
引きつった笑みを浮かべつつ、風華はもう一度周りを見渡す。が、何度目を細めて確かめても冥はいない。
「相方ならさっきお星さまになったわよ。ここにいる私の従者が操る精靈にね」
すると風華は氷水に浸かったように青ざめて跳ね上がり、龍吾を盾にするように前へと出した。
「う、動かないでくださいよ! 動いたらこの人間をバラバラにしちゃうんですから! 私は本気ですよ!」
龍吾の両手足にまとった風の球が背中の方へと動き、龍吾の体が前に反り出すような形にさせた。
風華が恐れているのは輝夜と戦うことであり、龍吾を痛めつけることには何の苦も感じていない。
現に、少しづつ龍吾の手足が風力によって引き伸ばされ、悲痛な呻き声を真隣で上げているのに風華は何も感じていない。
だが輝夜の方も無策に動けば本当に龍吾の身が危ういと察したか、すぐに距離が詰められる距離であるのに二の足を踏んでいる。
互いがジリ貧の状況下にある拮抗状態だったが、そんな状況はあっさりと終わってしまう。
風華が龍吾を盾にその場から離れようとしたところを背後から音もなく現れたスミレが、龍吾の両手足にまとわりついていた風の球を全て切ったのだ。
音を立てて地面に落ちた龍吾を風華が慌てて回収しようとしたときには、すでにスミレの持つ剣の切っ先が喉元に添えられていた。
「そ、そんな……。だ、だって従者さんには、黒いヒビがあんなに伸びているのに!」
「……そうですよ。ですが……完全に無くなったとは……一言も言っていません」
幾ばくか光を戻した目で風華を見据える雛月。
それに対して風華は要の人質を失い、戦うにしても多数に無勢でパニック寸前だった。
「切り札とは、何も強力なものばかりではないのです」
その言葉を合図にスミレは攻撃を始めた。
風華がスミレと距離を離そうとするも、パニック状態に陥っているので冷静な対処が出来ていない。
慌てて作られた風の弾はほとんどあさっての方向に飛んで行ってしまいスミレは苦もなく風華との距離を埋めた。
最初の攻撃こそ風華はすれすれで避けていたが、次第にスミレの攻撃が風華の柔肌を切っていく。
「い、痛っ! ひぃっ! きゃあっ!」
幼い少女とは言えど、やろうとした事は到底見過ごすことの出来ないことだ。
だが、目の前で繰り広げられる一方的な戦いに、龍吾は胸を痛めていく。
雛月は自分の精靈が幼い風華を容赦なく傷つけているのに、雛月にはどこ吹く風という感じに意に介していない。
「ちょっとやりすぎじゃないか? 相手はあんな幼い女の子だぞ?」
「やりすぎ? お言葉ですが、そのような情けは天月人には無用です。月界ではあのような年端も行かぬ少女であっても、刺客として生きる者は珍しくありません。そのような情けは、自らを殺めることになりますよ」
龍吾は言葉を失った。そして瞬時に理解した。
これが月界で生きる人間と、地球で生きる人間の感覚の違いなのだと。
無論、人によって認識の違いこそあれど、子供相手でも容赦のないところは天月人にとて常識なのだろう。
「あぁっ! い、痛い……! や、やだ! もうイヤ! やめて! 助けてぇっ!」
しかしそのような事情があるにせよ今もなお続く風華の悲痛な叫び声が、龍吾の良心を激しく揺さぶる。
龍吾には我慢できず雛月へ強く懇願した。
雛月は到底理解できないといったように動揺している。
「止めるべきではないわ。龍吾、こればかりは私から嘘偽りなく言うけども。貴方、彼女への攻撃を止めたら、真っ先に貴方を狙うわよ」
割って入った輝夜からの進言を聞いてもなお、龍吾は「それでも止めろ」と言うはずだった。
龍吾の喉奥に溜めていた言葉を外へと吐き出そうとしたとき、急に輝夜が龍吾を引っ張って遮ったのだ。
直後に龍吾の背後。拳一つ分にも満たない距離で鋭利な闇が風を切って通り過ぎた。
一方でスミレの降りかざした剣が勢いよく風華に降ろされようとしたところを光の刃が直前で受け止めた。
風華が怯えながら目を開けると、冥がスミレの攻撃を止めて睨んでいる。それを見た風華は緊張がほぐれたのか、わあわあと泣きじゃくった。
「どご行ってだんですか、冥様! 死ぬかと思いましたよ!」
「わ、悪かったわ。そ、それよりあの精靈はいない? あの従者が操るもう一人の精靈……」
スミレとの鍔迫り合いを弾かせて距離を取った冥は、自身の天敵であるボタンを恐れて辺りを見渡していた。
そんな姿に、風華は流していた涙を引っ込めて憤慨する。
「な、なんでそんな臆病なこと言っているんですか! しっかりして下さいよ!」
「お、臆病って……そんな言い方はないでしょう! ……で、い、いる? 隠れているんじゃない?」
「見て分かりませんか? その精靈がいるのかどうかが!」
圧倒的に年下で幼いはずの風華は、冥がたじろぐくらいに詰め寄っている。
言われて冥が再度見渡すと、魔力が未だ枯渇気味でやつれた姿の雛月を目にした。
すると、それまで弱気だった冥は手の平を返したように強気になった。
「僥倖ォ! この勝負、勝ったぞ! 風華はあの人間を狙って。私はまず従者を討つ!」
言うが早いか冥は即座に弱っている雛月へと向かい、風華は涙を拭うと龍吾へ狙いを定める。
雛月を守るためにスミレが応戦するも、闇の戻った森の中では能力と自らの武器を駆使した怒涛の攻めの前に、防御に徹するしか術がない。
風華は自分の能力である風の力を遺憾なく使う。
両手に左右で風向きの異なる竜巻を生み出すと龍吾目掛けて放ってきた。
軌道上にある木々はミキサーにかけられたように粉々に砕け散り、周囲にある木々は風圧によって道を開けるように傾いていく。
生身の人間に直撃したら絶命は確定。
迫りくる竜巻を前に、龍吾は先ほど雛月や輝夜が言っていたことが間違いではなかったことを如実に痛感していた。
風華に対して抱いていた慈悲なぞ、本人には全く届いていないということを。
「これで分かったかしら、龍吾。地球では通じるかもしれない倫理は、天月人には通じないものなのよ」
諭すように言う輝夜は龍吾の前に立つと、「そこを動かないで」と言って右手を大きく引いた。
竜巻は目と鼻の先。それでも輝夜は動じない。
引いた拳に力を込め、集中する。
輝夜の足下が音を立ててひび割れ、紫色の眼が徐々に光り灯っていく。
すると背後から冥の作り出した闇の手が現れ、輝夜を叩き潰そうとした。
どこか抜けている冥だが、戦闘ではスミレと戦いながら輝夜の方も常に見ていて隙を伺っていたのだ。
眼前の竜巻。後方の闇。
双方から迫る攻撃にも、輝夜は動じない。
後方から迫る闇の手は、幾何学模様に変態したドレスが受け止める。
そして輝夜と龍吾を飲み込もうとする竜巻
が、今まさに目の前へと差し掛かったとき、大きく振りかぶっていた拳を勢いよく前へと打ち込んだ。
途端、大砲のような爆音が轟いた。
二つの竜巻は弾け飛び、風華は不可視の衝撃波に直撃して向かい側にある園庭へと吹っ飛んだ。
音に気づいた冥が即座に状況を把握した次には、輝夜のドレスからお返しといわんばかりに二層の牙を生やした触手が迫りきていた。
が、冥も冥で動じずに触手とスミレの剣撃を片手でそれぞれで捌き、自身を闇に溶かして死角へと瞬間移動する。
輝夜と龍吾の死角であったにも関わらず察知した輝夜によって阻まれ、不意打ちの一閃は遂に届かなかった。
「中々やるじゃない、貴女。胸が大きいだけのバカと思っていたけど、そうでもないようね」
変態して受け止めていたドレスから牙を生やした触手が勢いよく飛び出るも、体を闇と一体化させて避けた。
「でも、お遊びはここまでよ。終わりとしましょうか」
「……言う相手を間違っているぞ。終わるのは、お前の方だ!」
言うと冥は光の刃を出しているヴァジュラをしまった。
紫色の眼が赤紫色に変色し、激しい光を放つ。
「終符 暗獄。食らってくたばれ、輝夜!」
終符。天月人の最終手段であり、切り札である終符が発動する。
冥の体が赤黒い闇に飲まれ、禍々しい光を放ちながら━━そのまま元の姿に戻った。
突然能力が解除されたことに驚いている冥が輝夜を見ると、輝夜は指を指して佇んでいた。
「させると思っていたのかしら?」
風華 能力値 特 上 普 下 苦
腕力 苦
走力 普
守備力 下 (能力を使えば 上)
察知力 普
持久力 上
知識 普
初符 風輪
特徴 風を操る。空気さえあれば距離を問わず様々な風を作り出す事が出来る。
弱点 本人が未だ幼いので能力の応用が未熟
大気の成分は変えられない
終符 颶時巻