魔女の助手
痛む腕をさすりながら、俺は薄暗い螺旋階段をのぼる。やたら足音が響くのも、窓が少なく照明がロウソクだけのせいで足下が全く見えないのも、ようやく慣れてきたところだ。やがてたどり着くのはシンプルな木製のドア。
「マスター戻りましたー」
ノックなく開けて踏み込むと、ふわりとほのかに暖かい風と嗅ぎ慣れたにおい。
ん?と思ったのも束の間、反射的に一歩下がり部屋の外に出て、扉を閉めた。
数瞬ののち、部屋の中からぼふん、という間抜けな音と、握ったノブからビリビリとした振動。
振動がある程度収まってから、俺はゆっくりと扉を開けた。
「マスター戻りましたー」
ピンクっぽい煙がどこからともなくもこもこと立ち込めていて、視界は悪いことこの上ない。粉っぽい空気のなか、俺は抱えていた書類を手短な机に置いた。
「おかえり! 大丈夫だった?」
奥の方から高い声が聞こえてきた。思わずあんたが大丈夫か?と突っ込みそうになってその言葉は飲み込んだ。
「生きてたんですね、さすがです」
「ふっふっふ。あたしは不死身だからね」
半分シャレになってないことを言いながら、声が近づいてくる。ピンクの煙の中から、まん丸な分厚い眼鏡をひっかけたマスターがひょっこり顔を出した。
「で?」
「ああ、なんとか追い返しましたよ」
俺はため息をつきながらまだじんじんと熱をもった腕をさする。数十分前まで、最近増えた困った客を追っ払っていた。全く疲れる。
「? 何を?」
マスターが小首を傾げ、ずれた眼鏡をくいっと直す。どうやら俺の苦労話には一切の興味もなかったようで、じゃああれか、と右ポケットからキラキラと光る粉状のものが入った小瓶を取り出した。
「すみません、こっちでしたか」
「あったんだ!」
眼鏡の奥の瞳が、ぱっと輝いた。
「もうこれでなかったんで発送依頼かけました。一瓶で良かったですか?」
「うん、さんきゅー!」
マスターは、ぐっと親指を立てると、俺から小瓶を受け取った。指先が触れあうと、「あれ?」と声を漏らす。
「怪我してる?」
「わかりましたか」
「熱が集まってるところがある」
無遠慮な手が僕の腕に触れた。ひんやりとした指先が的確に痛みにたどり着く。
「……い、って」
肘のあたりに思ったよりも痛みが走って、思わず手を退きそうになる。それを彼女は手首をきゅっと握って逃がさなかった。
「ちょーっと待っててね」
言うなり、今持ってきた小瓶のコルクを口で器用に開けると、止める間もなくそのまま赤くなっていた皮膚の上に中身をぶちまけた。
「あ、っっっーーーーーーー!!!」
制止しようとした声が、悲鳴に変わる。小さな手がむんず、と一切の遠慮なく怪我の部分を掴み上げたからだ。その間数秒。
「はい、おっけー!」
おっけー、じゃねぇ。俺は若干涙目のまま、顔をあげることができなかった。
「これ、チカラと合わせれば消炎症の効果もあるんだよー!」
得意気に胸を張ると、少し目のやり場に困るため正直やめてもらいたい。
実際、痛みも赤みも引いてきていた。とはいえ。
「……締め切り、間に合いませんよ」
「あ」
俺は呆れながら、視線を下げる。先程の爆発のせいで粉っぽい床の上を、空になってしまった小瓶が円をかいて転がっていた。
結局調合は諦めたらしい。新しいのが届いたらやるよ、となげやりだが、俺にはその辺りのことはさっぱりわかっていないので、はいそうですかとしか言えない。
助手とはいえど、彼女の専門分野に関しては一ミリもわかっていない。世界中から薬調合の依頼がくるほど、ものすごい知識やチカラを持っているくせに、見る限りは至って普通の、ただの世間知らずのお嬢さんだった。
「怪我、どこでぶつけてきたの?」
カチャカチャとよくわからない調合器具を片付けながら、彼女は首を捻った。珍しいとでも言いたげだ。
「たまには失敗するんですよ」
「あー、もしかしてまた候補さんが来てたんだ」
ようやく思い当たったのか、マスターは苦笑を浮かべた。答えは無言で返す。肘の辺りを軽く払うとさっきの粉がきらきらと舞った。
最近この魔女の屋敷にくる、やっかいな客。それは求婚目当ての男達だ。今までこの屋敷でひっそりと薬を調合し続けていた彼女は、つい最近まで薬が出回れどその存在を知られていなかった。
ちょっとしたミスで世間にその姿を晒してしまった際、容姿がいい意味でも悪い意味でも噂になってしまった。
結婚適齢期の、見目も飛び抜けて悪くはない普通の女の子。
さらに彼女の才能は金を生む木だ。囲いこめばその方面の分野は独占できるだろう。喉から手が出るほど欲しいものなどいくらでもいる。
「やー、魔女なんて素敵な二つ名が勝手に歩き回ってくれたおかげで、老女とか想像してくれてたクセにねぇ」
調合器は机のはしに適当に寄せて、彼女はお気に入りの背もたれ付きの椅子に深く座り込んで肩肘をついた。俺を見てにやりと意味ありげに口の端を持ち上げる。
「適当に婚約者でもいれば牽制にはなるんだけどなぁ」
「相手選びに失敗するとのちのち大変ですよ」
俺は一番近くの窓を開け放った。煙たい空気をパタパタと追い出す。窓が小さいためになかなか風が入ってこない。こう頻繁に爆発するなら換気の窓を増やすべきかもしれない。
「君みたいな子とか、可愛くて好きだなー」
「ケホッ……からかわないでくださいね?」
粉っぽい空気にむせつつ、ニヤニヤしているだろう彼女には背を向けたまま、はたきをパタパタと振った。
牽制のダシになんか真っ平ごめん。むしろ殴り込みが増える。荒っぽい療治も勘弁だ。
はたきを棚にずらりとならんだ本の上に滑らす。せっかく綺麗にしたところだったのに。すぐに山になってしまうピンクの粉に思わず眉根が寄る。
お茶ー、と催促する声に、軽く掃除してからですと淡々と返す。さすがにこの空気が入りそうなお茶は嫌だ。今さらだがこのピンクの埃は吸っても平気なんだろうか。言っとくけど俺は神経質ではない。マスターがおおらかすぎるんだ。
「マスター」
ふと思い付いて、はたきを置き、椅子にもたれてぷらぷらと足を揺らしている彼女の前に立つ。
彼女の眼鏡をひょいっと外した。驚いたように見開かれる目。椅子の背もたれに手をつき、覆い被さるように屈むと、そっと顔を寄せる。
「え?」
息がかかるほどの距離は、近眼の彼女にもさすがに見えているだろう。みるみるうちに顔が朱に染まっていく。
「熱、集まってますね」
少しだけ口の端をあげて見せると、俺は耳の方へ唇をよせる。
男を甘く見てると、後々痛いですよ。
耳元でささやくと、ゆでダコのようになった顔のマスターをおいてホウキを取りに向かった。
これで少し、こっちもいろいろ我慢していることをわかってくれればいいんだが。
頭は良いけど考え無しの彼女を心配しつつ、やっぱりキスくらい貰っておけば良かったかなと浮かんでくる狼的な思考は掃除で紛らわすことにした。