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第1帖。ダシをとる。ご飯、味噌汁。

 春爛漫の桜並木も、6月に入ると葉さえ落ち、枯れ木に近い。

 正門からキャンパスまでまっすぐ伸びるこの道は、この大学自慢の道である。今年も桜吹雪が素晴らしかった。ほの桃色の花とともにかぐわしい薫りが漂い、新入生たちを歓迎していたものだ。


 10時をわずかに回っている。在校生なら分かるが、この時刻は重大な意味を持つ。なぜか。バス停で降りて正門から走れば、2コマ目の講義にギリギリ間に合う時刻だからである。

 遅刻するまいとかける学生たちがいる中、頭がボサボサした1人の男子在学生は異色だった。ノタノタした足取り。猫背。死んだような目をしている。無精髭も手伝って、とても20歳には見えない。しかも他の在校生たちの流れに逆行していた。彼は正門に向かっている。明らかに帰宅せんとしている。

 ボサボサ頭の学生は頭をかくと、あくびを1つ。自分も2年前は新入生(コイツら)みたいに若かったなあ……。走り過ぎ去る学生たちを懐かしく見ていた。


 入学当初、彼、 (いち)()(けい)太はこの道で桜吹雪に見とれたものだった。

 しかしさすがに3回目ともなると飽きる。それもみな同じ学年で迎えればなおさらだった。そう、慧太は留年生。そして今年、3回目の大学1年生が開始されたのであった。

 3回目の大学1年生。

 それだけだったらまだ気持ちは軽かったろう。今日、慧太は凄まじいことに気付いたのである。なんと進級に絶対必要な科目の履修登録を忘れていた。つまりはどうあがいても進級不可。


 ——4回目の1年生が決定です、ってか?


 慧太はあきらめたように笑うのだった。6月。このじめじめした梅雨の時期、すでにして留年決定。

 もはや笑わざるを得ない慧太だった。ここまで回数を重ねるとかえって清々しい。むしろ慧太は自分を絶賛せざるを得ないのだった。


 下宿に戻った。ドアを締め、鍵をかける。

 台所(ダイニング)に置かれた冷蔵庫から冷やしたお茶を取り出す。冷蔵庫の中はほとんどカラッポだった。自炊はこのところしていない。

 慧太はパソコン前の椅子に座り、お茶を飲んだ。気分は不思議なほど落ち着いていた。慣れっこなせいかも知れない。

 万年カーテンが閉め切られた部屋。以前カーテンを開けたのは何年前だったか慧太は覚えていない。薄いカーテン生地を通して陽光が部屋に差し込んでいた。部屋は簡素そのものだった。八畳一間の部屋にはベッド、コタツ机が置かれていた。隅にはテレビとパソコンが配線されている。

 いまどきの大学生にとって最低限の設備があった。本棚に本はほとんどない。そのせいか、あまり生活感の感じられない部屋だった。


「ふう」


 慧太はかばんをベッドに投げた。万年布団の布かれたベッドから、もわん、とほこりが浮く。それを見て空気清浄機の電源を入れ、流れるような動作でパソコンの主電源を入れるのだった。起動音とともにパソコンが起動し始める。


「あー……。何て言やあいいんだ」


 懊悩する。いくら何でも決定が早すぎるぞ、僕。慧太は頭をガシガシかいた。

 気分をごまかそう。慧太はそう決めた。現実から目をそむける手法に出た。パソコンが立ち上がりきってデスクトップが表示される。慧太はさっそくブラウザから書き込み専用掲示板を開き、書き込みを始めようとして、


 ぴんぽーん


 と、ジャストなタイミングで鳴ったインターホンに不愉快な気持ちになった。

 友達はいない。じゃ、誰だ。新聞や宗教やテレビ視聴費の徴収員ならば無視しようと決め込んだ。まさか大学関係者でもあるまい。大事なことならメールや電話で連絡が来るはずだし、留年決定と同時に学生を訪問してなぐさめてくれるほど大学は優しくない。

 カメラ付きインターホンだから相手の顔はすぐ知れた。


「女の子?」


 しかも制服を着ている。女子高生だった。JKだった。JKが僕に何の用だろうと慧太は首をひねる。妹などいない。存命中の家族に親戚はいても、あの年頃の親戚は記憶にない。だからたぶんこのJKは、部屋番号の間違いをしているのだと思った。

 妙な女の子だった。カメラに向かって首をかしげたかと思うや、次の瞬間には遭難者が救助隊を見つけたときみたいに両手をぶんぶん振った。もしかして僕に存在をアピールしている? それもかなり大げさに。そんな気がした。居留守を使われまいと必死な様子がカメラ越しに伝わってくる。

 通話ボタンを押す。


「はい、どなた?」

『おおぅ、返事があった。えーともしもし? って言えばいいんだっけ? えっへん。ワシじゃワシ。開けられよ』

「……ん? どなた?」


 いやに古めかしい喋り方だった。そして調子に乗った感じ。ちょっとイラっと来る慧太。中二病なのだろうか、この人は。画面の中でJKはなおも訴えかけて来る。


『おーい、ワシじゃったらワシ。入れてよー』

「部屋が間違っていますよ。切りますから。それじゃ」

『あー、待った待った! けいた、待った!』


 慧太は驚く。JKは自分の名前を知っていた。なぜだろう。引っ越して来てから近所付き合いは一度もないし、血のつながらない妹がいたという話も聞かない。では自分を知っているこの女の子は何者だ。

 慧太は怪しさ半分、期待半分でモニターのJKを見るのだった。


『ねー、けいたったら! 聞いてるんでしょー? 入れてよー。ワシじゃよー』

「ワシって言われても……」

『けーこじゃよー』

「けーこ?」


 ハッとなる。

 思い出す。近所の女の子。幼なじみ。そうだ、そういえばそんなのがいた気がする。小学校のときだったか、それ以前か、近所に住んでいた女の子とよく遊んでいた。というより近所に年齢の近い子がその子しかいなかったし、それでもかなり年下だった覚えがある。遊んであげていた、という言い方が正しいのかもしれない。だが名前はちゃんと覚えている。


「けーこ? もしかして(まつ)輪野(わの)けーこ?」

『そうじゃそうじゃ! ワシワシ! けーこじゃ! 開けてー』

「お、おう。ちょちょちょっと待ってて」

『どのくらい?』

「えーと、5分いや10分!」

『しょうがないのう。早くな』


 インターホンを切る慧太。慌てて室内の換気を始めるのだった。引きこもり留年生にも見栄というものがある。部屋を汚いと言われてもしょうがない。けど臭いと言われたら立ち直れない。女の子に。JKに。ただでさえ今日は気分がすさんでいるのに、可愛い子にそんなこと言われたたちまち失禁して泣き出してしまう。


 この部屋に人が来るのは数年ぶりだった。最初で最後の訪問者は親だった。とりあえずカーテンを開ききる。ガラス戸を開け、網戸にして空気の通りを確認して安堵。それから空気清浄機のスイッチをひねり、機能を最大にした。トイレの掃除を軽くやる。小便線があったら恥なので便器掃除の柄付きスポンジで便座をこすっておいた。


「どうぞ」


 ひと通りの掃除を終え、9分55秒で玄関をガチャリと開けた慧太だった。

 カメラ越しで見たときよりJKは可愛い。

 肩まで達する黒髪を耳元で束ねている。これはツインテールと呼べばいいのだろうか。お肌はスベスベ。化粧っ気ないのにほっぺたはプルプルしている。引きこもってビタミンDの合成が不足している慧太とはまるで対照的だった。

 ぱっちりとした目。整った顔立ち。けーこはこんなにカワイかったかなと慧太は思ってしまった。昔のことだし当時は女の子という概念がなかった。

 けーこは思い悩む慧太と裏腹にハツラツとした笑みで語りかけてくるのだった。


「おう。久し振りじゃのう。けいた。元気にしとったか?」

「おー。久し振りだなあ。うん、まあまあね。会うのは何年振りだ?」

「その話もおいおいの。入っていい? というか入るぞ」


 慧太が「いい」とも「イエス」とも言わないのに、けーこは勝手に闖入するのだった。家主の許可を取らぬけーこにびっくりする慧太だったが、すぐに苦笑する。そうだ、けーこは昔からこんな風だったっけ。

 ずかずかと部屋に入ってきたけーこは室内を見回すのだった。背後から様子を見る慧太は心臓バクバク。心拍数がハネ上がる。汚いとか臭いとか言われたらもうその時点で腹を切る覚悟だった。


「ふーん。広いのう。前の部屋よりも」


 いたって普通の感想だったので慧太は内心ホッとした。

 気を遣って言ったのではないことは分かる。けーこは昔からそうなのだから。思ったことがすぐ口に出る、口から生まれたような少女。言い方を良くすれば裏表のない女の子。


「そう? 前の部屋って僕が小学校のときの部屋のことか? よく覚えてるなあ」

「まーねまーね。どっか座っても良いか? イイヨー。よし、じゃあ座ろう」


 一人芝居をしてけーこはベッドのふちにどかりと腰を下ろす。へりに両手を付いて足をぷらぷらさせる。スカート短いなあ、げへへ。ナイス太もも。やっぱり現物はいい。

 そんな感想はともかく、けーこは言うのだった。


「けいたよ。やっと会えたな。お主は家に全然帰って来なかったのう。風の便りでどうにかここに下宿しておると聞いての。はるばるやって来たのじゃ。やれやれ骨が折れたわい」

「あーうん。大学に入ったから下宿を始めてね。よく来た。何しに来たんだ」

「うむ。その、ヒマじゃからの」と目をそらすようにけーこは言った。


 これは悪いことをしている顔である。けーこのクセも変わっていない。いろいろなことが思い出されてくる。

 しかし妙な口調だった。ジジイみたいなしゃべり方。昔はそんなんではなかったはずだ。


「あれ? 今日は平日だよな。けーこ、学校はどうしたんだ」

「ぎくり」

「ん? ぎくりって……? まさかサボ」

「行っとる行っとる! もちろん行っとるぞ! だがそんな話はこの際、置いといての、ワシの話を聞いてほしいんじゃよ。いいか?」

「媚びるような目をしなくたって聞くよ。話ならちゃんと聞く。で、どんな話だい」

「おお! けいた。ワシの話を聞いてくれるのか。痛み入るぞ。実はじゃのう」と、けーこはマジメに話を切り出すのだった。


 6000年前、地上に出現した史上初の地上統一国家シヴィライ帝国。皇帝を頂点に戴く集中強権国家は統一から何千年もの長期にわたり興隆の極みにあった。ところが皇帝の世襲が何世代も続くうち、皇帝の血筋が途絶える危機に遭遇するのだった。男系が皇帝を継ぐと典範に記され、それを遵守することで帝国は繁栄してきた。ところが前帝は1人の女を生んで他界したのだった。側室にも子はない。このままでは帝統が絶える。時の宰相バームーはこれを憂い、全土から皇帝の血筋を探し出すのだった。正妻の子にしても側室の子にしても、皇帝の座に就けなければ帝都を離れ、在野で暮らす。典範ではそう決めてきた。つまり直系でなくとも何世代か前の皇帝を祖に持つ者が必ずいる。ところがここで近衛師団長レンツゥが反逆行為を起こす。レンツゥは前帝に1人生まれた姫を、亡き皇帝の子ではないと全土に吹聴し、軍を率いて王宮に攻め込んだのだった。帝国はその時、姫を仮帝としていた。これをレンツゥが不満に思ったのか、それとも私心のために軍を起したか。それは分からない。しかしレンツゥは皇帝を守る近衛師団を統べている。一にも二にも仮帝は逃げねばならなかった。間一髪、仮帝……姫は居城を逃げ出した。以後、泥をすすり草を()む生活を送り追っ手の目をごまかし続ける。そしてとうとう、縁戚にあたる在野の貴族の居城に逃げ込んだのだった。しかしそこにも追っ手はやって来る。姫はやむなく逃亡生活を続け、在野の奥の奥。奥深い僻地に逃れんとする。そこには初代皇帝の墓があり、墓守という名目で駐屯する兵たちがいる。土地柄、皇帝への忠義は厚い人々の里があるのだ。姫はそこを目指した。しかしレンツゥもそれを知っている。レンツゥは姫の山越えを恐れ、仮帝の保護を名目に山間の道の守備を強化した。それは盤石そのもの。まさしくアリの這い出る隙間もない。水も漏らさぬ封鎖に姫はとうとう気力も果てたのだった。そしてお供の占い師に問うた。ワシはこの世で生きられるのか、と。占い師は答えた。この世では恵まれなくも来世においてきっと救われ、それを以てシヴィライ帝国の血統もまた保たれる。反逆者には正義の鉄槌が下され世にはびこる悪は光の前にメクラとなるであろう。占い師は言うや魔方陣を描き、姫をこの世から別の世界に飛ばした。時来るまで御身大事にと。かくして姫は異世界こと地球において生を享けた。転生先は松輪野けーこという日本人少女。当初は普通の日本人の少女なるも、いよいよ高校生となるのを機にけーこに前世の記憶が目覚め、自分はこの異世界こと地球に転生したことを知った……。


「そういうわけでワシはこっちの世界に転生したんだ。生まれは日本でも本当の故郷はここではない。だから帰らねばならん。戻って帝国を悪魔の手から救い出さねば帝祖帝宗の祖に面目が立たん。じゃがワシひとりではどうにも戻れん。困っとる。助けてはくれんかの……って、なんで家から追い出そうとするんじゃ! 押すな押すな!」

「よく分からないからお引き取り願うんだよ! じゃ、またね!」

「むー! 大声あげるぞ! セクハラじゃぞ!」

「転生したとか言う割には現代語に詳しいな! 普通に日本語しゃべってるし! ウソつくんならもっとマシなウソ……を……?」


 けーこの肩が震えていた。華奢な方が震える。強く握れば割り箸よりも簡単にポキリと折れそうだった。


「もしかして泣いてる?」

「泣いてはおらん。ただウソと言われたのが悲しくて」


 その姿は単なるひとりの少女だった。慧太は言う。


「だってあんまりにも突飛すぎて。内容がまるっきりラノベやなろうの世界の話だ」

「うー。でも本当のことじゃ」

「はいはい」

「お主は信じとらんな! 昔っからけーたはそうじゃ! ワシの話をロクに聞かん! そのクセ、ワシをウソ呼ばわりする!」

「そういやそんなこともあったな。よく覚えてる」

「ふふ、思い人のことなら5億年経っても覚えとるぞ」

「お、思い人ォ?」

「どうした赤面して。ははあ、嬉しいか? ワシがお主に好きと言ったときそうじゃった。赤かったのう。嬉しいのじゃなー?」

「う、うるさい。座れよ」


 けーこは気付いていないが慧太は感じている。ふよんとした感触。おっぱい。あまりに近付きすぎておっぱいが触れているのだ。もちろん嬉しい。だが同時に困惑する。初めてのおっぱいの感触だった。おお、柔らかなり。ふくよかなり。至福なり。

 それはそうと慧太は聞き返す。


「ていうか転生したんだったらけーこはどこに行ったんだよ」

「ん? どういう意味じゃ? けーこはワシじゃぞ」

「そうだけど。いや違う、そうじゃない。さっき言ってたろ。お前はえーと、異世界からこっちの世界に転生してきた。つまりそのときけーこの肉体に乗り移ったんだろ。だったら昔、僕と遊んだけーこはどこに行った? お前はけーこを乗っ取ったってことだろうが」

「イマイチ要領を得んぞ。ワシはワシじゃよ。けーこじゃよ。生まれたときからけーこじゃ。もともとは異世界の生まれだったけど転生してこっちの世界に生まれ直したんじゃー。日本人の赤ん坊からやり直しでの。そんでちょっと前に記憶がよみがえったんじゃ。前世の記憶がな。そして現在に至る」

「な、なるほど。分からん」

「むう……。これ以上なく簡潔な説明なのに。つまり上書きされたのではない。〝ハッ〟と昔のことがフラッシュバックした。そんな感じじゃ。じゃからワシはけーこじゃ」


 ぷうとほっぺたを膨らませるけーこ。何だかやること為すことが幼い。子供っぽい。慧太はよく知らないがJKとはみんなこうなのだろうか。


「とにかくワシはけーこであるぞ。けいた、お主とは幼なじみのけーこである。そして帝国の姫じゃ!」

「そうか。そういう設定なわけだ」

「設定じゃないぞ! ホンモノじゃあ!!」

「わ、分かった分かった」

「うむ。昔からチョロいの。けいたは。そういうわけだから手伝ってくれ」

「何を? まさか王位継承の七つ道具を見つけろとか?」

「おお、さすがじゃけいた! まさしくそうなんじゃよ! あれがないとワシは帰れん。それに帝位継承の正当性を証明できん。逆臣レンツゥが奪った帝位を復古せしめることが出来んのじゃ」

「う、あ、はあ」

「帝国の危機を救ってはくれまいか」


 けーこは手を取る。柔かだった。女の子はかくも柔らか。開け放たれた玄関から部屋を通り窓辺に向かって風が吹いた。それに乗って香るいい匂い。かぐわしい。部屋の空気がきれいになるのを感じた。


「どうじゃろう」

「……僕は」


 そのときだった。けーこの腹が、ぐう、と鳴る。


「……」あたふた。

「……」

「い、今のは何でもないぞ」

「っく」

「?」

「く、ははっはは! な、何だよけーこ。腹減ってたのか」

「わ、笑うでない。うん。空腹じゃ。ハラペコじゃ」

「飯食ってないのか」

「朝から食うておらぬ」

「なんで」

「ワシはの、高校入学と同時にひとり暮らしを始めたんじゃ。ところが自炊する能力がない。その上、けいたを探していた。飯を食う機会がなくてのう。今日だって取るものも取らずここへ来たんじゃ」

「そうか。そんな遠くからわざわざ」

「ああ、遠かった。ワシの下宿から歩いて30分かかった」

「近いなオイ思ったよりも! 自転車なら5、6分の距離だぞ! 腰の曲がったおじいちゃんでも散歩できる距離じゃねえか!」

「腹が減った……」

「分かった分かった。僕が飯を作る」

「おお! なんと! 礼は必ずするぞウオッ。なぜワシの頭をなでるのじゃじゃじゃ」

「奇声を発するんじゃないよ。まったくもう」


 けーこは子供そのものな気がした。思ったことがそのまま口をついて出て来る。そんな子供。けーこは頭をなでられてマンザラでもないようで、口元がだんだんゆるくなる。とうとう顔全体が弛緩して、ついにスライムみたいにでろんとしてしまった。


「うへへへ」

「デレデレだな」

「お主も昔、ワシに惚れておろうて。いや今もか?」

「なっ」

「ふふふ隠さんでもよい。顔がそう言っておるぞ。ゆるみきったダラシナイ顔をしておるぞ、けいた」

「と、とにかく! 礼なんて考えてるヒマあれば飯にも気を使え。野菜とか肉とかバランス良く食べるように自炊しろ。そりゃあ僕だって人のこと言えた義理じゃないけどさ」

「むー。無理じゃ」

「なんで」

「何を作ったらいいか分からん」

「それじゃ、作り方を教えるからちゃんと食べなよ。ひとり暮らししているなら今までどうやってたんだ? どうやって生きてたんだよ」

「うーむ分からん。ワシが転生したのはここ最近でのう。それより前のことは記憶がボンヤリしておる」

「でもご飯なしで過ごした日はないでしょ。忘れるはずない」

「お主だって昨日の夕食が何だったか覚えておるか?」

「そう言われると自信ない」

「じゃろう?」


 けーこはなぜか勝ち誇った顔をするのだった。

 しょうがない。自炊せよと偉そうに言った手前、ここで何か作って見本を示すしかない。慧太は台所で食材を探す。かろうじて鍋を見つけてきた。もちろんこれを食えと言うつもりはない。慧太は鍋に水を張る。そして最後に1枚残っていたダシ昆布(こぶ)を沈めた。透明な濾過水に深い緑色の昆布が入る。昆布の周囲には早くも浅黒いものが出始めていた。よし、ダシが出始めている。鍋にふたをした。


「けいた。そりゃなんじゃ。鍋に入れたのはコンブか」

「そうそう。コブでダシを取る」

「ダシ? そんなもんで何をするんじゃ」

「味噌汁を作る。基本食だ」

「えー嫌じゃ。味噌汁って味噌の入った汁じゃぞ? 味噌(あじ)の汁じゃぞ。あんなマズイもの飲めたもんじゃない。ラーメンでも作ってたもれ」

「味噌汁がマズイ? そりゃ作り方がいかんのじゃないのか。僕が作ったのを食べてからにしてくれ。さて買い物に行くか」

「どこへ行くのじゃけいた! けいた! ワシを見捨ててどこへ!」

「ちょ、うっさい。静かにして。ご近所迷惑でしょ。付き合いないけど。買い物に行かないと食べ物が何もないんだよ」

「こんな時間から買い物か?」

「食材がなけりゃ何かを作りようがない。えーと、スーパーの投げ入れがあったはずだ。あ、これだ。米5キロが590円だぞ? 信じられん。しかもあきたこまち。これは買わんわけにはいかん。けーこも来るんだ」

「なぜじゃ。ん? チラシの隅っこ? えーと、お米は1家族1袋まで? なるほど。ワシは頭数要因というわけじゃな。ふーむ。いじましいというかセセコマしいというか」

「ナマ言うない。これは庶民の知恵だ。ひとり暮らしするなら家計簿を必ず付けるんだぞ。1円単位で支出を記録するんだ。〝明日からやろう〟とか思ってると永久にやらんぞ。それから出来れば1ヶ月の予算を決めて……何をニヤニヤしてるんだ」

「ふふっ。けいた。何だか生き生きしておるぞ。さっきまで死にそうな顔をしておったのに」

「僕が? 僕の話か?」

「ワシはお主しか見とらん」


 けーこは言うのだった。ニヒと笑った口元に八重歯がカワイイ。魅入った。やっぱりけーこは可愛い。だが何だかシャクに思えたので、慧太は何も言わなかった。



「けいた。ここがスーパーか。野菜がいっぱいあるぞ」

「生鮮食品のコーナーだからな。味噌汁といやあジャガイモとタマネギだ。そいつらが欲しいんだが、うーん高いな。もう6月だからなあ」

「ジャガイモならあそこにあるぞ。買えば良いではないか。だって買わねばならんのだろう」

「そうだけどジャガイモは冬の野菜だ。今は6月。旬でない野菜だから高い」

「タマネギは?」

「タマネギも冬の野菜だよ」

「ふーん。なるほど、季節ものが安い、と」


 慧太の下宿から一番近いスーパーまで徒歩10分。けーこが自転車を準備して(後ろに自分を乗せて慧太がこぐよう)主張したが、慧太はこれを却下した。理由がある。買い物帰りで荷物がパンパンになる。往復は楽だが、大荷物でこぐには意外とワザがいる。


「よし。新ジャガイモと新タマネギを買おう」

「買うのか。さっきは高いとか言って渋っとったじゃないか」

「新ジャガと新タマは今が旬なんだ。安くて量がある」

「ほー? 同じ野菜でも旬が複数回あるのか?」

「そんなところだね。あと豆腐が欲しいな」

「ずいぶん買うのう。作るのは味噌汁だけではないのか」

「その他にも使えるからね。それに買いすぎたら冷凍すればいいんだ」

「冷凍を? ほー。こっちの世界は便利じゃなあ」

「けーこの生まれ故郷じゃ冷蔵庫ないのか」

「うむ。そうじゃのう。ワシの故郷の生活レベル……。うん、中世を予想すれば良い。それがワシのおった世界じゃ」

「中世? 騎士がいて……って? 冷蔵庫もクソもねえな」

「然り。日本は便利じゃのう」


 けーこは懐かしそうに目を細めた。本当かウソか分からない。とりあえず話を合わせておく慧太だった。それから乾物コーナーでワカメと麩を買い、特売の米を確保した。むろん2袋。これで万全。


「さーて帰るか。ん? なんでそでを引っ張る」

「けいた、氷があるぞ」

「そりゃ冷凍のコーナーだから氷くらいあるでしょ。さ、帰るぞ……。こら、なぜアイスをカゴに入れる? 買わないよ。戻すよ」

「えーヤダ」

「な、なんで」

「食べたいの! の! の! ののののの!」

「ダメ」

「なんで!」

「無駄遣いだ。アイスを食べないと死ぬの? 死なないでしょ。だから無駄遣いだ」

「むー! 必要経費! 必要経費!」

「ダメなもんはダメ!」

「むー……。ヤダヤダヤダ!」


 店内で暴れるけーこ。はた目には妹を御ししきれない兄に見えるかもしれない。人目を気にする慧太は焦った。


「わ、分かった分かった。1個だけだぞ」

「うおおー! 感謝するぞけいた! チョロいのう! 扱いやすい!」

「けーこはひと言余計なんだよ!」



 スーパーからの帰り道、川原を2人並んで歩く。もちろん買ったものは全部慧太が持っている。レディーファーストけーこはビニール袋の中をのぞき込んだ。


「たくさん買ったのう。こんなに食いきれるのか」

「食べきれなければ冷凍庫に入れればいい。これが庶民の知恵だ」

「ほー。そうか。てっきり買い物には毎日行くのかと思ったわい。何たる手間のかかることを庶民はやっておるのかと心配じゃった」

「けーこはお嬢様だな」

「うむ。6000年続く帝国の姫じゃ」


 皮肉のつもりだった。だが案に相違してえへんと胸を張るのだった。というか胸、大きいなあ。JK17歳でこの大きさならば、将来にかけてもっともっと膨らんでついにはボインボインになるんだ。これは恐るべきことだ。揉ませてくれないかな。


「けいた。お主今変なこと考えたじゃろ」

「は、え?」

「隠してもムダじゃぞ。ワシにはお主の考えとることくらい分かるわい。ったく、男とはかくもおっぱいが好きなのか」

「はー? ガキのくせに!」

「17は立派な大人じゃろうが! ワシの世界なぞ平均寿命50じゃったわい! ワシもそろそろ嫁に行かねば行き遅れるところじゃったわい」


 どこまで設定でどこまで本当なのだろう。慧太には分からない。だがおっぱいを見ていたことがバレた。これがショックだった。気をつけているつもりだったのに。


「ときにけいた。お主は今、何をしておるんじゃ。大学生じゃろ」

「その大学で進級に失敗したんだ。どーすっかな。休学届けでも出すかな。そうすりゃ在学年数にカウントされないし、このまま行ってても進級できないんじゃいてもしょうがないもんなあ」


  留年が決まった大学生はまず親の顔を思い浮かべる。下宿代も去ることながら学費は親持ち。本人はバイトしていても生活費は結局親持ち、というのは珍しくない。しかし慧太に限っては事情が違う。両親も祖父母もすでに亡い。大学入学のときは全員いたが3年経った今では誰もいない。

 慧太はすでに20歳を超えている。未成年ではない。自分のことは文字通り自分で決めねばならない処遇にあるのだった。通帳の数字が頭の中に浮かぶ。それは慧太の全財産だった。慎ましやかに暮らすなら人間1人が死ぬまで生きられる額。金の心配はいらない。だが草葉の陰で親たちは泣いていよう。その泣き顔が思い浮かばれてしょうがなかったのだった。


 高校のときは授業を受けていればテストでそこそこ点数が取れていた。高校はそれで何とかなった。友達がいなくとも自分ひとりでなんとかなった。

 ところが大学では事情が変わる。授業内容がテストに出るとは限らない。そして過去問題……いわゆる過去問がないとどうしようもない講義が出現する。過去問は自分から動かねば入手できない。サークルに入るなり部活に入るなりすればいい話だったが、1回目の1年生のとき数回行っただけで辞めてしまっている。サークルにも部活にも足を運ばず、従って友達も出来ず、八方手詰まりした結果、留年を繰り返した慧太だった。


「お互い大変なんじゃなあ。しかしけいたよ。味噌汁はマズイ、とワシの記憶が言っておるぞえ。大事なことゆえ2回目じゃ、言うのは」

「何が〝ぞえ〟だよ。そりゃ作り方が不味いんだろう。味のせいにするんじゃない。大事なことだから僕も2回言うけどな」


 そんなこんな話をしているうちに下宿に戻る2人だった。セキュリティ万全のアパートだった。エントランスにはカメラ付きインターホン。そして部屋の扉には鍵が2個。

 さてダシを取らねば始まらない。慧太は鍋を火にかける。頭とワタを取った煮干しをサービスで追加しておく。

 その間にご飯を炊く。2人分だから1合で足りるだろう。でもけーこは育ち盛りだしおっぱいにはもっと育ってほしい。だから2合炊くことにした。ご飯4杯分だ。まず米を研ぐ。炊飯器のお釜に米を入れる。水を入れる。水は米がわずかに(ひた)る程度。爪を立てるようにしてシャカシャカと小刻みにとぐ。栄養のある部分まで取れてはいけないので力は込めすぎない。かといって弱すぎない適度なほど。水が白色に濁ったら捨て、捨てた分だけ足し、再びとぐ。これを3回も繰り返せば充分だ。


「ほー。けーた。お主本当に料理が出来るんじゃのう」

「ばかにすんな。まだ米をかしてるだけだ」

「かす?」

「とぐ」

「方言かの。そういえばけーた、昔はコックさんになりたいとか言っておったのう。どうじゃ、夢は叶いそうか」

「けーこは言い方がイチイチ年寄りっぽいな。しかし、あー。そんなこと僕言ってたなあ。……昔の話だ。よく覚えるもんだ。感心する」

「ふふふ。ワシの記憶力は強力だぞ。けーた。お主は当時、ワシのことが好痛たたたた! 頭しめないで!」

「このままペシャンコにしてやろうか家なき姫!」

「なんだとこの穀潰し! 親泣かせ!」

「言うんじゃねえガキんちょ姫!」


 互いに罵倒しながら料理は続く。といでから水を張ったお釜を炊飯器にセット。スイッチを入れれば、あとはもう放っておけばご飯になるのだ。

 続いて慧太は鍋をのぞき込む。さっき火にかけておいた。鍋の底から泡がふつふつと湧くのが見え、慧太は火を弱めるのだった。けーこが横からひょっこり現れ、鍋から立ち上る湯気に鼻をひくひくさせた。


「なんじゃこの芳醇な()は……。すんすん。鼻腔の奥まで侵入するぞ。あたかも全海の旨味がこの鍋に集まったような香り」

「大げさな」

「いや、真実じゃ。ワシは生まれ故郷の記憶ももちろんあるが……。これほど奥行きあれど軽い香りは初めてじゃ」

「ふーん。中世の食事ってどんなんなんだ? 味噌汁に相当するものあるでしょ。スープみたいなもんとか」


 言いつつ、鍋のアクを取る慧太。おたまで鍋のフチにたまるアクを取り、捨てる。これを繰り返してダシは完成した。鍋一杯に作ってしまった。今から作る予定の、2人分の味噌汁には量が多い。やむなく慧太はドンブリ鉢にダシを移すのだった。そのうち粗熱も取れるだろう。そうしたらビンやペットボトルに詰め替えて冷蔵庫に入れておこう。いつでも使える。


「ほう。料理中か。ワシに出来ることは?」

「そこに正座しててくれ」

「はーい」


 素直なけーこだった。ちょこんと座る。


 慧太はそれを見て安心する。小鍋にダシを2人分入れ、火をつけた。それから皮をむいて短冊切りにした新ジャガを投入し、扇形の新タマを追加する。ややずらしてふたをした。隙間から新ジャガと新タマの煮立ついい音がする。

 ジャガイモが半透明になったのを見計らって味噌をとく。赤味噌はまず、麺きり用のザルに入れて、それから菜箸でとく。八丁味噌の茶色が鍋に広がる。赤味噌がダシとうまく合わさった香り。赤味噌は煮込めば煮込むほど味と香りが引き立つ。小皿にひとすくいして味見。うん。いい。一煮立ちさせ、そこに薄切りにした油揚げを入れた。これでさらに一煮立ちさせれば完成だ。火を消す直前、さいの目にした豆腐を入れた。豆腐は煮込み過ぎるとスが入り固くなる。


「味噌汁は完成。……あれ、けーこがいない」


 探す。見付けた。どうやら正座に飽いたらしく、慧太のベッドの上でうつ伏せ状態のままマンガを読んでいた。ヒジを立て、足をパタパタさせている。面白いのだろうか。

 しかし慧太は困った。けーこと来たらスカート短いし、足の裏をこっちに向けているものだから何とも艶かしい。というかギリギリです。あの薄い布切れたるスカートをめくったら犯罪だろうか。たぶん犯罪だろう。恐らく。あきらめた慧太だった。


 もう一品作っておこう。新タマネギだから水に軽くさらすだけでウマいサラダになる。慧太は新タマを包丁で薄切りにし、ザルで水にさらした。小皿に盛り、水で戻しておいたワカメを散らす。見切り品のミニトマトを添えた。

 これにあらかじめゆでて水切りした豆腐を薄切りにして乗せるのだった。新タマ豆腐サラダとでも名付けようか。あとは衝動買いしてしまった鳥の唐揚げがある。


 デザート代わりにパイナップルを買った。トサカをひねり捨てる。ささくれ立った皮をむく。するとそこから黄金色の果肉が姿を現した。最初にこれを食べた人は偉い。慧太は思う。誰がこんな日照りの地面みたいな皮の中にウマい果肉があると想像しよう。食べやすいひとくちサイズに切り分ける。それにしてもパイナップル1個をサイコロ切りにすると量が多い。2人分だけ器に盛って、残りはタッパーに入れて冷蔵庫行きだ。


 炊飯器がピーピー鳴った。


「ひゃっ! けいたけいた、炊飯器が悲鳴を上げとるぞー!」

「米が炊けたんだ」

「そ、そうか。ワシん家と鳴り方が違うもんでな。故障かと思ったわい」

「違わい」


 炊飯器を開く。秋田県産コシヒカリが銀色の輝きを放っていた。まさしく銀シャリ。米が立っている、という表現が実にふさわしい。

 けーこも同じく炊飯器をのぞき込み、目を丸くする。


「おお。輝いておる。白銀の雪のようじゃ。それに深い香り。ねっとりとしたものが伝わるぞ」

「かき混ぜて、また閉じる、と」

「閉じてしまうのか? なぜ混ぜるだけなのだ?」

「蒸すんだ。ご飯は炊きたてよりも5分蒸した方がウマい」

「そういうものか」

「そうだ。さーて味噌汁をよそうぞ。サラダを運んでくれ。コタツ机の上に並べてくれればいい」

「ほーい」


 味噌汁をおたまでよそい、薬味ネギを散らす。

 そしてお茶碗にご飯を盛り、コタツ机の上に配膳した。


「なんと……!」


 コタツ机の上の光景にけーこはほうけている。

 ホカホカご飯。ダシから作った味噌汁。それに新タマ豆腐サラダ。あとは鳥の唐揚げ。


「食べようか。いただきます」

「イタダキマス」とけーこ。


 けーこは味噌汁を恐る恐る口をつけた。一口すする。煮干しと昆布ダシを基に、赤味噌の香りが入り交じりる。何とも言えず食欲をそそった。新ジャガを口に運ぶ。ホロリと崩れた。新タマは噛むとじゅわっと甘い汁が湧き出た。甘さは熟れた果実と遜色ない。

 けーこは味噌汁椀を眺める。豆腐の白とワカメの緑。そして油揚げのきつね色が見事な彩りを演じていた。


「ウマい」

「良かった」

「けいた。この一杯の中に宇宙があるぞ」

「大げさな」

「いや、本心じゃ。うん、このご飯もうまい。さっきよりも香りが強うなっておる。もっちりとして……と、とにかくうまい! この米、甘いぞ! 炊きたての米とはかくも神がかっておるものか……」

「そりゃ良かった」


 慧太は「ウマい」と言われた事実を反芻した。嬉しかった。いつ以来だろうか。誰かと一緒にご飯を食べるのは。

 けーこはサラダに箸を伸ばした。


「新タマとやらのサラダもいいのう。水でさらしただけなのにみずみずしい。おお! 噛むほどに甘みが……。汲めども尽きぬ無尽の井戸水のようじゃ。煮ぬワカメもクキクキと歯ごたえ満点。ほう、豆腐も一度湯がいたせいか大豆の味がするわい。ミニトマトは普通じゃ」

「表現がグルメマンガみたいだ」

「それに相当するだけのウマさがあるのじゃ」

「ウマいなら良かった。ミニトマトは見切り品だからちょっと質が落ちてたかな」

「あとこれうまい」

「ん? そりゃ出来合いの唐揚げだね」

「デキアイ? うむ、やはり肉はウマいのう。けーた、ほめてつかわす」


 ——唐揚げは僕が作ったんじゃないけどね。


 ちょっぴりさびしい慧太だった。でもけーこがあまりにウマそうにかっこんでいるものだから、水を差すようなことは言わずにおいた。


「ごちそうさま」

「お粗末さま」

「何が粗末なものか。帝国の晩餐会で出されても見劣りせぬぞ」

「それは嬉しい評価だ」

「うむ、決めた。けーた。お主、ワシと結婚せい」

「え、はあ? な、何を言うんだ」

「照れるな。日本には主夫という職業があるそうではないか。帝国にも似たような階級はあるにはある。主として貴族の男がそうなるのじゃがな。うむ、我ながら良いアイデアではないか? お主は飯を作れる。ワシはウマいものを食えて嬉しい」

「僕はご飯を作るだけか……」

「でも嬉しいのじゃろ?」

「は」

「飯を作っとる最中のお主、目が生き生きしておったわ」


 ニヒ、と再び笑うけーこだった。何やら不敵な笑み。お主のことは何でも知っておるぞ。そう言いたげだった。

 慧太はちょっとだけ嫌そうな表情を作る。まさしくけーこの言う通りだった。だから嫌そうに笑ったのだった。心が見透かされているのはどうにも心地よくない。引きこもりにだってプライドはあるのに。慧太は思った。

 そして言う。


「僕が主夫として、けーこはどうするんだ。主婦になるのか?」

「それも構わん」

「構えよ」

「じゃが悲しいかなワシはJK。学生の本分は勉学。じゃから高校に通わねばならん。そうじゃ、引っ越せば良いのだな? うむ、そうしよう。ここに引っ越そう。決めたぞけいた。ワシはこのアパートに引っ越してくるぞ!」

「ええ! そんなすぐ出来るもんじゃな」

「善は急げじゃ」


 ぴゅうとけーこは消えたのだった。

 あとにはカラッポになった炊飯器と小鍋が残された。


 ——引っ越しなんてそんなすぐ出来るもんじゃないのに。


 慧太は苦笑いした。向こう見ずというか、善は急げというべきか。たちまち行動に移せる身の軽さを慧太はうらやましく思った。自分はもう2年もズルズルと大学にいる。合わねば辞めればいいのにそれもしない。現状変化を嫌がるというか、変化を恐れている慧太とは別種の考えだった。


「ごちそうさまでした」


 慧太は台所に立ち、洗い物をする。


 無鉄砲な感じだった。だが建設的だと思う。そのあたりが実にけーこらしいと思う慧太だった。


「どこまで本当なんだよ、アイツ」


 グチるように慧太は言った。洗い物を終え、手をふく。そうだ、エプロンあったなあ。ずいぶん長いこと使っていないエプロンをながめる慧太だった。

 けーこは味噌汁をウマいと言ってくれた。それが純粋にうれしい慧太だった。頬を引っ張った。夢ではない。誰かと食う飯がこんなにもウマく、こんなにも充実した時間だとは知らなかった。

 だからこそ慧太は自分の頬を引っ張ったのだった。何だかけーこにはもう会えない気がしたのだった。願わくば、と慧太はけーこの顔を思い浮かべる。

 また会えれば。

 あまった味噌汁は陶製の容器に入れた。ご飯とサラダは完売している。それから、すっかり粗熱の取れたダシ汁はフタの出来るビンに詰める。冷蔵庫に入れて保存すればしばらく保つ。いつでも味噌汁が作れるのだ。けーこがウマいと言ってくれた、あの味噌汁を。

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