第01話 白は呑み込む
~1月7日 水曜日 8:10 日本 北海道 千歳市~
「「お兄ちゃん朝ー」
仄かに暖かい暗闇の中で、外から自身を呼ぶ声で少年、雲井夜明は目を覚ました。強烈な閃光が視界を埋め尽くした後、光が段々と弱まり、輪郭が浮かび上がってくる。現れたのは窓だった。その向こうでは、雪が降っている。
「兄ちゃーん。朝ご飯だよー」
「先生に怒られるぞー。遅刻遅刻ー」
左右からの声が意識を、引っ張る力が身体を揺らす。袖を引っ張りながら左右にグラグラ揺らす小学生程の少年少女の手を振り払って立ち上がると、箪笥の中からハンガーに掛けられら学ランに着替えて部屋を後にした。
リビングに辿り着くと、部屋の中央にはが繋げて並べられたテーブルがあり、石狩鍋や周りに厚焼き玉子や果物が皿に載せられ、先に座っていた6人の少年少女達と2人の大人の男女が食事を取っていた。
後ろからも夜明を起こした子供が駆け足で横を通り抜けて席へと付いた。窓側の調理台へ向かった少年は、そこにいたエプロンを付けた女性からご飯が盛られた茶碗と麦茶が入ったコップを受け取り、空いている席へと座る。先に置かれていた空の茶碗に料理をよそい、手を合わせて食事を始めた。味噌の香りが鼻孔を通って肺に入り、汁の熱さが喉と胃袋を焼き、具の咀嚼をする度に目が冴えていく。
「兄ちゃーん。今日から学校?」
「うん。そうだよ」
「私達、まだお休みだよー」
「そっか……雪掻き手伝うんだよ。先生達も大変だから」
「うんー!」
料理を食べ終えた夜明は、食器を流し台に置いて部屋へと戻り、バックパックを背負い、厚手のコートとブーツを身に着け、建物を出た。
玄関を出ると、辺りは一面、白い海が広がる。夜明はフードを被り、雪に埋もれた庭を横断して、〝千歳児童養護施設〟と書かれた札が飾られた塀と面した歩道を歩いていった。雪が降り、雪が積もり、雪に染まる街。真っ白な空から真っ白な雪が降り、その眼下――人々は雪に埋れた道を歩いている。
横に積まれた、人の背丈を遥かに超える雪山の横を歩き、サックリと音を鳴らし、少し沈んでは引き上げて、また沈ませては引き上げて。重々しくも手慣れた様子で少年は道を歩く。
車は雪を踏み除けて、雪原と化した道路に奔る電車のレールの様な黒い2本の線、轍に沿って進んで行く。動きにくい筈のこの状況でも、人々と車は手慣れた様子で進んでいく。これが日常。この光景、辛さが当たり前。
踝を覆う程の大きなブーツで白い地面をへこます。ザクザクと音を鳴らして足跡を付けて行く、人知れずゆっくりと。そうして歩き、時々白い息を吐きながら進んで行くと、少年は身体の向きを変えて一瞬止まる。目の前にあるのは校舎、市立千歳中学校。
校内の道も校外の道と同じく雪が積もるも、先に来ていた生徒達が踏んでいったおかげで殆ど溶けていた。横に除けられた雪山の横を歩く一方、隣接するグラウンドに視線を向ける。野球部かサッカー部かテニス部か。土の上の雪を雪掻きでどけていた。
グラウンドの隅に幾つもある雪山。それに混じって並び立つ縦に重なった2つの球体――雪だるまだった。雪山もよく見れば女子生徒位の高さで揃えられている。この後、内部を掘ってかまくらにでもするのだろうか――そう少年は思った。
そのまま校舎の方へ向かって歩き進んで共同玄関に入る。ほんのりと伝わる暖房で温められた空気が隠れた顔の肌に触れた。外気との温度差で体して暖かくない空気を熱く感じ、同時に自身の身体が冷え切っている事を自覚した。少し歩いて少年は犬の様にブルブルと身体を振るい、コートに掛かった雪を落とす。
再度歩き出し、冷えた両手を擦り合わせて乾布摩擦の様に温める。といっても完全に手が人肌程度には温まらない。気休め程度――冷え固まった指を動かす位に温めるには充分だった。自身の下駄箱の前に着くと、少年は上履きを取り出しながらブーツを脱いで履き替える。ブーツを持ち上げ、下駄箱に入れると少年は廊下を歩いて行った。
廊下を歩き、階段を登り、廊下を歩く。すれ違う生徒には挨拶もしなければ目も向けずに、ただその横を通り過ぎる。生徒もその少年には目をくれない。まるでそこにいないかのように。互いに干渉せずにすれ違う。廊下を歩いた少年は教室に入る。後ろ側の一番扉側の席。教室に置かれた教卓から見て1番左奥の席が夜明の席だった。
夜明はリュックを下ろして机の側面のフックに掛け、コートを脱ぐと、黒い学ランが露わになる。今日は冬休み明け。教室内の生徒は基本再開の挨拶と休み中の出来事を話していた。しかし夜明は誰とも話さなかった。誰も夜明に話し掛けようともしなかった。夜明は携帯電話を出して見るでもなく、机に伏して寝るわけでもなく、そこに座り、時が過ぎるのを待っていた。
――時刻は12時近く。中年男性教師が、教壇を取っていた。教室内は静かで、男性の言葉とペンかボードをなぞる音だけが響き渡っていた。生徒達は朝の寒さからか、それとも教室内に満ちる暖房の温かさからか、1/4が座りながら眠っていた。生徒達は手元には開かれた教科書とノート、筆箱が置かれ、ノートにボードの内容を書き込んでいく。
「始まりは20年前、生物学者、丸山弘志による全世界へ向けての発信が始まりだ。
彼はザックリ言うと、こう言ったそうだ。『人類は地球の癌である。同じ人類としての責任を取って、この〝ファルマコ〟を用いて、手始めにアメリカから、皆さんを絶滅します』と。
それから1ヶ月後。ファルマコはアラスカに姿を現した。これに対して軍は、兵や戦車の出撃で対処した。あっけなく倒される怪物故に、人々は平和であり続けた」
教師は黒板に張られた世界地図のアラスカに、マグネットを張り付けたファルマコの写真をくっ付ける。
「しかし、次第にその数は増やしていき、ぱったりと出現しない2週間後に、市街地に万単位のファルマコが突如出現。圧倒的物量で押し切り、次々に陥落する市街。カナダも制圧され、アメリカ本土にも出現。発見当初よりも更に巨大化したファルマコの前では、歩兵の武器では効果が薄く、戦闘機と同等の機動力を見せる個体や戦車を楽々とひっくり返す程のパワーを持つ、動物に酷似している個体も確認された。
これに対し各国も軍を派遣するも状況は改善されず、遂には最終兵器の核が、怪物に埋め尽くされた市街地に向けて使用された。――しかし、攻撃された地域に核攻撃を耐え抜いた個体が多数確認された事により、事実上の敗北に期したのである」
そう説明すると、ファルマコの写真を南アメリカ大陸間近にまで近付けた。
「後にこの戦いは〝アメリカ敗戦〟と呼ばれ、人々に恐怖を与えると同時に、人類は〝駆逐される立場〟であると自覚させたのであった。
そしてファルマコは、パナマ運河へと侵攻する。何十億という怪物達が軍靴を響かせながら河を詰め尽して人類を蹂躙する中、それを迎え撃つ国際連合軍の中に、鎧と刃物を持った日本人部隊が、一際目立って奮闘したという。それが〝世界で最もファルマコを討伐した国〟、日本だ。
として世界から注目を浴びる訳だ。パナマ運河防衛戦で確認されたファルマコ個体数はおよそ6200万。その中でも日本軍は約2000万――実に全体の約30%を駆逐した。その中でも特に注目を集めたのは〝マウガン〟と呼ばれる特殊部隊」
そう言って教師が取り出して黒板に張ったのは、マウガンの今年度の入隊者募集のポスターだった、
「公式では、対ファルマコ殲滅の名目で設立されたこの部隊は、初陣である筈のパナマ運河防衛戦で日本軍討伐数の2割を白兵戦、つまり歩兵のみで構成された約2000人、4個大隊規模で撃破した。薬殺し、河を埋め立てる者達血塗れの軍隊……幾つものあだ名が付けられた部隊は、逆に何万の敵を討ち倒しし過ぎて河を死骸で埋め立ててしまい侵攻の手助けをという逸話すら残っている。
パナマで負けたと言えど、圧倒的な戦闘力で功績を遺した彼等は、一時期は人類の希望とまでいわれ、部隊を基軸にして日本首相直属の対ファルマコ殲滅機関マウガンとして独立させたという訳だ」
区切りの良い所で、教室内にチャイムが響いた。
「今日はこれにておしまい。次回は今回の戦いによって起きた社会の変化についてだ。予習したい奴は家でしておけよ。んじゃ号令」
教師の一言で、授業は幕を閉じた。今日は冬休み明けで、教員達の職員会議もある。今日の学校は社会科で終わった。
放課後――。雪は殆ど軒並み道路の端に退けられていた。その殆どが帰宅する生徒だが、雪玉やかまくら、雪だるまを作って遊ぶ生徒がいた。教師に怒られるまで、ずっとああしているだろうか。雪は依然として振り続ける。アスファルトの上には灰色に染まった溶けた雪。夜明はその上を踏んで帰路に着いた。格好は登校時と同じ。
朝とは違って、新雪に混じって踏まれて溶けた黒い氷水が歩道を濡らし、少年は転ばない様に一歩一歩踏み締めて歩いていると――。
「――?」
夜明は立ち止まった。場所は町の大通りの交差点前。横を自動車が通り過ぎて行く。自動車が通ったからか、はたまた勘違いか、夜明は感じた。
(揺れた――?)
「ギャギャギャアアアアッッ!!」
突如木霊したのはこの世のものとは思えないおぞましい声。それに混じって重い摩擦音が此方へ迫っていた。交差点から飛び出たのは大型トラック――日本陸軍のトラック。
車載のサイレンを鳴らしながら突き進んでいた。その後ろを追い掛ける様に――否、血相を変えて走る人々。悲鳴が上がる。絶望の声。悪魔の声が混ざる。交差点から悪魔が現れた。白く丸い無骨な外殻。全長3m以上ある巨躯を長く太く尖った多脚で運ぶ。数え切れない数の怪物が波の様に道路を埋め尽くしていた。
「ファルマコ……!」