その1 思い出を振り返るミノリ
とても、いいお天気だった。
窓の覆いを全部上げて、ミノリとトウヤは〈記録の地平線〉のギルドホールにモップをかけていた。
「トウヤ、もう少しちゃんとお水を絞らないと、床が濡れちゃうよ」
「えっ、これどうやって絞るんだ?」
「ローラーにはさんで引っ張ればいいの」
ミノリはトウヤにモップの絞り方を教えようとして、はっとした。
(そういえばお母さんが、すぐに手を出すんじゃなくて、最初は失敗してもいいからゆっくりやらせてあげるのが大事よ、って言ってたっけ)
ミノリは、途中まで出した手をひっこめた。
「トウヤ、もしうまくできなくっても怒らないから、もう一度ゆっくりやってみて」
「ええっ…。それ、ホントに?」
トウヤは、ミノリの顔色を伺うような、ちょっと不安そうな顔をした。
(あっ……私、トウヤにあれしちゃいけない、これしちゃいけない、って口うるさく言いすぎてるかも)
ミノリはトウヤの表情を見て、きゅっと胸が引き絞られるように痛くなった。
「うん。いつも叱ってばっかりでごめんね。これからは気をつけるから。ゆっくりやればできると思うから、もう一度やってみて?」
「う、うん!」
ミノリの言葉に励まされたのか、トウヤの表情がぱっと晴れやかになった。
トウヤはモップを二本のローラーの間にはさむと、ゆっくりと上に引き上げた。
「あっ……ほんとだ、できた……!」
トウヤはすごく嬉しそうに笑った。
「良かったね。トウヤ、偉いなあ」
ミノリはトウヤの素直さに気持ちが明るくなった。
「さあ、もう少しがんばっちゃおう」
「了解祭りだぜっ!」
「それ、直継さんの真似?」
「えへへ。そうそう!」
二人はエントランスホールの真ん中から端に向かってモップをかけていた。あまり人が歩かない壁際は砂埃が少なく、楽に綺麗にすることができた。
「よし、これで全部終わりね」
「姉ちゃん、俺バケツの水を捨ててくるよ」
「ありがとう、トウヤ。私はモップを片づけるね」
「うん」
そこへ、ちょうどシロエがアカツキと一緒に降りてきた。
「すごくピカピカにしてくれたんだね。ありがとう、ミノリ、トウヤ」
ミノリは、ゆっくりとした歩調で階段を降りてくるシロエを見上げた。
長い〈杖〉を片手にマントをなびかせ伏し目がちに歩くその姿は、まるでファンタジー小説に登場する白皙の〈賢者〉のようだった。
(なんだか夢を見てるみたい)
〈エルダー・テイル〉がまだゲームだった頃、パソコンのモニターの中で歩くシロエのポリゴンモデルは、ハーフアルヴ特有の妖精と人間のあいのこのような無機質な顔立ちをしていた。
けれど〈大災害〉以降、はじめて会ったシロエは雰囲気がまったく違っていた。丸い眼鏡をかけていたし、弓形の秀麗な眉はハーフアルヴのときよりももっと賢そうで、繊細に見えた。
「ごめんね。なかなか助けることができなくて……」
シロエはトウヤとミノリに会ってすぐ、とても辛そうな顔でそう言った。
声は変わっていなかった。落ち着いていて、聞いているととても安心してやすらかな気持ちになれる懐かしい声。
「そんな……私たちのほうこそ、シロエさんにご迷惑をおかけしてしまって……すみません」
「兄ちゃん、助けに来てもらったとき、すごく嬉しかった……ありがとう」
ミノリとトウヤはそれぞれに、謝り、礼を言った。
(そして、今は同じギルドにいる)
それはまだ師弟機能を使ってシロエから〈エルダー・テイル〉の基本的な攻略法を習っていたときには考えられないことだった。
ミノリにとってシロエは、自分たちよりも遥か先を悠々と旅するベテランの〈冒険者〉で、今しばらくは側について指導してもらうことができてもいつかは会えなくなるだろう゛旅人゛のように感じていた。
ひとつところに束縛されることを嫌い、自由に〈エルダー・テイル〉の世界を旅する孤高の人だ、と。
「どうした?ぼんやりして」
アカツキの、すずやかな声がした。
「えっ」
「あまりまだ無理はしなくていい……掃除などゆっくりやればいい」
アカツキの大きく黒目がちの瞳がミノリを心配そうに見上げていた。
「いえ……大丈夫です」
ミノリはあらためて、アカツキをとても美しい人だと思った。
艶やかな黒髪をひとつにまとめ、高く結い上げている。いつも凛と背筋を伸ばし、射抜くような視線で鋭く世界を見つめている。直継とアカツキの二人で連携プレーを取りながら〈人喰い草〉と戦う訓練をしているようすを見学したことがあったが、小太刀を閃かせるその姿は空を切り裂く黒い稲妻のようだった。
「これから〈ロデリック商会〉に行ってくるよ。お昼には戻るから」
「はい」
「……ではまた」
アカツキはミノリに何か言いたげだったが、軽く頭を下げるとシロエの隣に付き従い、一緒に行ってしまった。
ミノリはそのあとモップを洗うと、乾かすために外に持ち出し、南側の壁に立て掛けた。
トウヤは見当たらなかった。どこかに遊びに行ったのだろう。
ミノリは階段を上り、自分の部屋に入った。
窓の覆いを巻き上げたあと、布団を干す。
「ああ、お日さまが気持ちいいなぁ」
日の当たるベッドに寝転んだとき、腰につけていた〈小雀の守り鈴〉がちりん、と可愛い音をたてた。
(あっ……今は音がするんだっけ)
ミノリは腰から鈴をはずすと、目の前にかざしてみた。
(この鈴を手に入れるクエストが、私にとって初めてのちいさな冒険だったな)
ミノリは、その日のことをまだよく覚えていた。
夏の始めの、風が爽やかな夜だった。
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迷いましたが、できてる分を先にアップしますね(^^