EPー2
「リハビリは辛く長いものになると思われます。筋肉はほぼ全てと言っていいほど落ちてしまいます。ですから走る為にはまた一から鍛え直す必要があります。」
医者は意識して説明口調で淡々と話す。まず頭で言葉を理解させようと目論む。
「赤子の頃から歩いたり走ったり、まぁ最初はハイハイですね、そういった事で育んできた筋肉と、さらに陸上競技を始めて鍛えてきた筋肉をつける必要があります。今まで日常生活で鍛えてきた分、それから今まで陸上競技で鍛えてきた分。」
「・・・つまり、また歩ける、いや、走れるようになる、という事でしょうか?」
待ちきれずに母親が口を挟むが先生はそれを無視して少女に話して聞かせる。いつのまにか少女、ウメノハラも先生の方をまだぼんやりとだが、見ながら話を聞いている。
「そしてそのリハビリをしている間に遅れた分を取り戻すためにさらに脚が何事も無ければ鍛えただろう分。そこまでやってやっとスタートラインで、勝つためにはそこから他人よりも早く走れるようになる為の、ここでやっと君だけの練習が始まる。」
少なくとも言葉はウメノハラの耳に届いているのを確認してから、先生は少し体を彼女に引き寄せその先を続ける。
「君のこの先の人生は二つに一つしかない。一つはまた陸上選手となり皆と一緒に、いや、皆より早く走り、自分にも皆にも勝つ人生。もう一つは走る事など二度と出来ない人生。君ならどっちを選ぶ?どっちを選びたい?」
「・・・軽く走るだけの人生は無いんですか。」
イヤイヤイヤ。否定理論がウメノハラの心を覆う。死ぬほど練習するのももうイヤ。きっと元には戻れっこない。このままなのもイヤ。これは私が望んだ結果じゃない、事故だ、事故だった。
簡単な努力、簡単な結果。それだけでいい。それが今のウメノハラの望みであり答えだった。
が、先生はきっぱりとそれを否定する。
「それは無い。そんな気持ちでリハビリに望んでも脚は回復しない。どっちかしか無い。走るか、走らないか。」
「先生、でも・・・」
再び母親が口を挟もうとするが先生は意に介さず、母親もその空気に引き下がってしまう。
「考えてみなさい。思い出してみなさい。自分の心に聞いてみなさい。走りたいかね?それとも走りたくないかね?」
言葉が染み込むように、口調を荒げる事はせずにゆっくり一言一言言い含めるように先生は問い質した。
ウメノハラは目をつぶって少し考える。
いや、思う。
そして目を開けた時、彼女の中には理屈など無かった。理論など無かった。
「走りたいです。」
(いい目をしている。)
先生はウメノハラのその一言に答えるように、力強く頷いた。
そして場所は遠いがこの病院から届いた通知を開けている母親が一人。
「・・・・。」
テーブルに座って紅茶を飲みながら眼鏡を掛けた知性的な女性、シュリーズの『元』社長は文面を目で追う。
「ままぁ、どう?」
そこに心愛ちゃんが可愛いワンピースを着て現れる。先週の週末に買ってあげた物で心愛ちゃんによく似合っていた。
くるり、とうれしそうに回る心愛ちゃんに『元』社長は微笑みながら、
「ええ、よく似合ってるわ。とっても可愛い。」
「やったぁ。」
そして『元』社長は椅子から滑るように降りるとそのまま膝を付いて心愛ちゃん、愛しの姪と目の高さを合わせる。
「心愛、手術すれば良くなるって。」
「えっ、・・やっぱり、すじゅつ、するの?」
怯えた目を見せる姪の頭に安心させるように叔母は手を置く。
「大丈夫。ぜぇんぶお医者さんが頑張ってくれるわ。それに、お母さんも手術の間ずっと側に居る。」
「・・・うん!」
覚悟を決めたように元気良く頷く心愛ちゃんだが、やはり目の怯えは隠せない。まだ小学生、それも仕方無い。
だから、精一杯私がこの子を支えてあげよう。
叔母はそう思いながら、優しく、そして力強く、姪を抱き締める。
姪もその叔母の体を抱き返した。
忙しかった時もいつも抱き締めてくれたその体。本当のお父さんのがっしりした体とも違う、本当のお母さんの柔らかい体とも違う、細いけれどしっかりした体。その感触は心愛ちゃんに安心というイメージと一緒になって染み込んでいる。
二人はこうやって抱き合う事で言葉に出来ない感情を伝えあえた。言葉に出来ない感情が伝いあった。だから心愛ちゃんは、どんなに怖くても辛くなかった。
いつもお母さんがいてくれる。
「いってらっしゃい。気をつけてね。」
「うん、行ってきます!」
そして遊びに出かける心愛ちゃんを見送ると、『元』社長は椅子に座り紅茶のカップとそこにあった二通目の手紙を手に取り眺める。
それは『子供の貧困救済プロジェクト事務局』からの手紙で、貧困で餓死したり学校に通えなかったりする子供達を救うための運動に、ぜひ民間の経営力を参考にしたいのでアドバイザーとして参加してくれないか、という内容だった。
(そろそろ罪滅ぼししても、いい頃合いかもね。)
脳裏にかつて自分が指揮した会社で働き過ぎの為身体を壊したり神経を病んだりした人達の事が脳裏をよぎる。
『元』社長は労働者の実態など知らなかった。あったのは、適当にやらせれば遊び出すだろうという労働者への不信感。だから徹底的に締めなければ仕事は任せられない、という思い込み。賃金の過払いは利益を減少させるという数字の理論。
結局その思い込みが間違いだと気付く事も無いまま、彼女は社長椅子を降りる事になった。
(でも、それで良かったのかも。)
ぽん、と、その事務局からの案内をテーブルに置く。テーブルには病院からの通知、その事務局からの通知、二通が無造作に並べられている。
その様子は彼女の現在を暗示しているように思えた。
(どうやら一番の願いは叶いそうだし。)
彼女は頭の中に心愛ちゃんの可愛い笑顔を思い浮かべた。
そんな彼女も、可愛く笑いながら。
「どんなに怖くても辛くなかった」って表現は気に入ってます。この章はエピローグなので感情表現等すべてを抑えてます。それが吉と出てるか凶と出てるか。




