第三話 王都エルリア
続・説明回。
なかなか旅に出ません。
なかなか女の子が出てきません。
「どうした、リチャード?」
城の外に続く裏庭の石畳の道で、平民の少年は後ろから声をかけられた。
否。
叫び声をかけられた。
声に聞き覚えはある。
出来れば忘れたいのだが。
見た目に分かるほど不機嫌そうな顔をして振り返ったリチャードは、ごく限られたものしか呼べない呼び方でその男の名前を呼んだ。こちらはあくまで普通の声量で。
「――レジィ」
レジアス・ダンパー近衛隊副隊長。
彼の剣の師匠の一人。
適当でいい加減で、未だ剣では敵わない、リチャードの天敵一号。
世間一般の人間は、平民の少年はリチャードと呼び、国王の少年は陛下と呼ぶので、呼びかけられたのは自分なのだと自覚している。
リチャードとレジアスとは古い付き合いだ。
レジアスは、まだリチャードが言葉も話せない頃から知っている。
事あるごとに、幼い頃の「自分には思い出せない、思い出したくない醜聞」で弄ってくる、性質の悪い大人(その一)である。
少年の“精神的な歪み”の一因は間違いなくこの男のせいである。
リチャードから見れば「どうした?」と聞かれても、返すべき答えも答える義理も持ち合わせていないのだが。仕方なく、何か用?とだけ返しておく。
でないと後が面倒くさい。
鍛練と称して、こちらの意識が飛ぶまで剣を振って追いかけてくるのだから。
「用か?用などない。さっきのは、ただ話しかける切欠に過ぎないのだよ」
あるいは常套句とも言うなッ!アッハッハッ!!――と、滅多に見せない『学のある男』風な顔でのたまう。
リチャードが軽く殺意を抱き、躊躇なく、遠慮の欠片もない殺気をレジアスに向けるが、向けられた方の大男はただニヤニヤと少年を見下ろしている。
リチャードの身長は平均的な西方民族の成人男性のそれとほぼ同じで、四キュビットに数ディジットばかり届かない位。
一方のレジアスは、五キュビットに届くほどだ。
両者が直立姿勢を取ると、必然的にリチャードが一方的に見下ろされる形になる。
この事もまた、リチャードの、この大男に対する一方的な敵意を育てることになるのだが、レジアスはそれをむしろ楽しんでさえいる様に見える。
「用がないなら失礼します」
そういってリチャードは踵を返す。
先ほどまでの剣呑な殺気は見る影もなく霧散していた。
これがリチャードだった。
良く言えば切り替えが早い。悪く言えば“諦め”が早い。
この少年は幼いころから、本気で怒ることが少なかった。
腹を立てることは少ない、が有るには有る。
しかし、他人に対してその怒りをぶつけることはしない。「あぁ、こいつはこういう人間だから仕方ないのか」そう思ってしまう少年だった。
その時点で、彼の中には『説得する』や『更生させる』の様な選択肢は無い。
後は単純だ。
敵対するなら叩き潰し、そうでないなら放置する。
なんの感情も無く。なんの躊躇もなく。
彼にはそれをするだけの能力があった。
物心つく前から、一流の冒険者の父と王国若手騎士の雄であるレジアスにくっついて“遊んで”いたから。
彼の体捌き、身のこなしは、冒険者や騎士のそれに限りなく近いもので、同年代の子供の中では頭一つ二つ突き抜けていた。
それから数年。
既に十七才。
冒険者という、所謂町の〝何でも屋〟として正式に組合に登録してから、早二年。
今ではそれなりに名の知れた若手の雄として、世間に認知されるようにもなった。
だがそれでも、尊敬する父親にも、この目の前の憎たらしい大男にも届かない。
それが少し悔しくて、でもちょっぴり誇らしくて。
だからなのか、レジアスの言動には他の人間よりもいささか以上に沸点が低くなってしまうことを、リチャードは自覚していた。
それが、少しばかり心地好いことも。
「平時の拙速は回避するべきだなぁ、少年。これから嬢ちゃんの家に行くのだろう?俺も連れてってくれ」
叫ぶほどではないが、それでも充分に大きな声量は、戦時では多くの味方を鼓舞する優秀な将軍の証だ。
平時では騒音以外の何物でもないが。
「彼女は……、クロエは俺と義母さん以外には会わないよ。貴方も知っているでしょう、あいつがどれだけ臆病なのかを」
「――まだ、なのか?」
「まだ、です」
そうか……と肩を落とす男。
自分のもう一人の親友の娘は、幼いころから愛らしかった。当人としては、猫っ可愛がりしたかったが結局寄り付いてくれず、今に至る。
どれだけ気配を消して近づいても、気づかれ逃げられる。最悪泣かれる。
その度にショックを受けたレジアスは、鍛練と称した八つ当たりを与える相手(部下&弟子)のことも考えずに、懲りることなく続ける。
成功した試しはない。
「用がそれだけなら、俺は行きます」
「あぁ、また明日な」
少年は軽く頭を下げ、男は右手を軽く上げてこたえる。
去っていく少年の背中を見ながら、男は“天使”に会えなかった憂さを晴らす相手を頭の中に見繕いながら、近衛隊の隊舎へと歩いていく。
見上げるほど巨大な白い南門を抜けると、少年は振り向く。
白氷殿。
他国でもそう呼ばれる、美しい城がそこにはあった。
総白大理石造り。二本の高い塔がそびえ立ち、その表面はツルンと磨き上げられていて、装飾の類はない。
その姿は、まるで二振りの白銀の剣の様である。
規則的に並ぶ採光用の窓と、そこに嵌められた木戸がわずかに表面を彩りを加えている。
白亜の宮殿。そう呼ぶのが相応しい、と誰もが納得するだろう。
城をひとしきり眺めると、家のある南側へ向き直り、目の前の緩い坂を見上げる。
道の左右に並ぶのは、大理石ではないが石造りの、白い街並みだ。
この街には貴族はいない。
暮らしているのは、王都の行政官吏とその家族、残りは平民。平民で一番多いのは商人だろう。
王都エルリアは直径二リーグの巨大な盆地で、エルリア城はその中央、最も低い場所にある。
エルリア城から伸びる道路は全て上り坂になっている。
この立地は軍事的にみると、『攻めるに易く守るに難い』という兵士泣かせなものなのだが、この地が攻められたことは一度もない。
北メスレル大陸。
長靴に形容されることが多い大陸のつま先部分、南西に突き出したカゼル半島一帯が、エルリエール王国の領土だ。
北メスレル大陸の中で最大の領土を持つ大国であり、その領土のほぼ中央にある王都エルリアは、東西南北の陸上貿易の要所でもある。
領土の東端、長靴の足首にあたる部分には、“天嶮”アテウ連峰が聳える。『アテウ』は古い言葉で「雪」や、転じて「白」を指す言葉だ。
平均二リーグ級の高さがある山々が延々と連なる様は圧巻の一言に尽きるだろう。
春から夏へと移っていく途中の今頃の季節でも、山の中腹より上は雪に閉ざされている。山頂部のほとんどは、一年中分厚い雪と氷が支配する一面の銀世界だ。
その南方、アテウ連峰の南端と“大海”メスレル海の間にあるのが、メスレル=ビル大樹林帯。
昼なお暗い鬱蒼とした木々の天然要塞である。
南から吹く、温かく湿った海風が、アテウの山の頂にぶつかり大量の雨を降らせる。
その結果、人を寄せ付けない大森林が生まれた。
この森においては、人間は生存競争の最底辺に位置する。
アテウ連峰以東の国々とは――夏のわずかな期間だけ雪と氷が無くなるジャクソン峠を通るか、深い雪と所々に底の見えないクレバスが口を開ける氷河群を抜けるか、盗賊も暮らさないメスレル=ビル大樹林帯を超えるか――いずれにしろ、陸路では困難な道のりしかない。
東方諸国との交流・通商は、基本的には海路で行われている。
四季折々な気候と広大な土地、安定した統治は実りを豊かにし、農畜産物はこの国の主要な輸出品でもある。
他国の侵攻がなかったわけではないが、王国東の門ジャクソン峠の麓にある、レルメシェー要塞を突破できた国は無い。
陸路の警戒が少なくて済む分、エルリエール王国は、水軍に注力している。
海賊、河賊の討伐に力を入れ、近年では、国内の海岸線はほぼ制圧しているという。
王都エルリアの東側を、アテウ連峰最高峰のモーリッツ=ベル山を起源に持つ大河、セネ河が流れており、河川を利用した交易も盛んに行われている。
王都エルリアは、その巨大な盆地の東側、セネ河と最も近い岩山をくり抜き、河川交易の一大拠点としている。
王都で暮らす平民のほとんどが商人なのは、エルリア城が王の居城になる前から、ここが商業の中心だったから。王と官吏がこの都市に引っ越してきたのは、ほんの三〇年前だ。
現在は、大陸西沖合のサンテラ島の領有問題で、西方のラダメリア共和国と多少揉めている程度で、目立った対立は無い。
平和そのものである。
リチャードはゆっくりと歩き始める。
意識しなければ分からないほどの緩い坂道を進む。
閑静な王宮官吏とその家族が住む住宅街の路地を、するすると南東方向に抜けると、一際大きな通りにでる。
今の時間は真昼を少し回った位で、エルリア城正門前の大通り、その商業区画は喧騒に包まれていた。
食材や金物を並べる店や、武器や衣服を売る店、中には異国情緒あふれる置物を売る露店もある。
白い石造りの建物が、肩を寄せ合うように、隙間なく並んでいる。
吹き抜ける風は涼しいが、日差しがやや強いため、皆薄着で歩いている。
すれ違う人々を苦も無く避けて進みながら、リチャードは街の外周部へと足を進める。
目指す建物はしばらく先だ。
家と家の間隔が広がり始め、次第に盆地の縁が近づいてくる。
南側の外周部は、大なり小なり影で覆われる時間があるため、あまり人気がない。
つまりは土地が余っているので、一軒一軒の家が大きくなっている。
リチャードが目指していた家も、そんな一角にある大きな屋敷だった。
本宅は二階建てで、両開きの窓が通りから見えるだけで八つ。単純に家の大きさだけで倍近い。
色調は街のほかの家と同じように、白。
基本は石造りで、漆喰によって補強されている。
腰の高さほどの生け垣がぐるりと囲んだ敷地には、本宅のほかに正面左手に厩舎と、右手にもう一棟の建物が建っている。
右手の建物からは、男の叱咤する声と、複数の男女の気合の入った掛け声が聞こえてくる。
普通の物より一回り大きな木戸は開け放たれ、中の様子が見えるようになっている。
そうでもしないと、これからの季節は蒸し風呂よりひどい状態になって死人が出かねない、という事情もある。
ここは、エリーズ剣術道場。
今はリチャードの実父でもある、アルベール・ケントが師範代を務める道場だ。
王国騎士の多くを輩出してきた名門で、その名声に比例するように訓練もかなりキツイ。
リチャードも幼いころから、ここで鍛練(という名の拷問)を積んできた。
感謝はしているが、あまり思い出したくはない日々である。――きっとこの道場を出た誰に聞いても、同じ答えが返ってくるだろう。
懐かしい掛け声を聞きながら、リチャードは本宅の方へと進んでいく。
鍵はかかっていない。
扉の取っ手を回し、静かに中に入る。
「――ただいま」
「おっっっっっかえりぃぃぃぃぃ~~~~~!!!!!」
どこからともなく現れ、リチャードの首に抱きついてきたのは、妙齢の女性。
最近できた、彼の二人目の母であり、天敵二号である。




