第二話 ある日川の傍
クマさんに~♪出会ぁった~♪
序盤の強制戦闘中ボス編でございます。
川熊――。
体高、四キュビット。立ち上がった時の体長、一パーチ半。
主に北半球の北部、寒冷地の水場に生息している。
細く長い黒毛は、空気を大量に含むことができる。その下の皮は、厚くしなやかで強靭。さらにその下には、分厚い皮下脂肪がある。そのどれもが、長時間水中に居ても体温が下がらないように、という進化の結果である。皮肉なことに、そのおかげで、夏場は水から出られないという欠点もあるが。
肉食ながら性格は比較的温厚。
「……あれ?“温厚”なら逃げられるんじゃない?」
「それには理由があるんだよ……」
彼らは嗅覚が発達していて、血の匂いを数リーグ先からでも感知できる。
獲物が捕食者に襲われ美味しく食べられている最中に、捕食者ごと美味しく頂きに現れるのが彼らのスタイルだ。
全体の生息数自体が少なく、それぞれの個体の縄張りが広大なため、縄張りのどこかで必ずそういったことが起きている。その為、今日明日食べる餌に困らない、ということが上げられる。
彼らにとって獲物とは、血眼になって探すものでは無く、誰かが倒したものを横取りし、そこで挑みかかってくるならなぎ倒してそれも頂く――労せず手に入れられる物に過ぎない。
「でもあたしたち、ピンピンしてるし……」
逃げられるんじゃない?という意味で言ったのだが、
「オオカミの血でベッタリだがな」
「おぉう……」
なぜ二人がこんなにも落ち着いて会話しているのかと言えば、目の前の彼は、絶賛お食事中だからだ。
斬り殺されたオオカミ達の死体をバリボリと食べている様は、形容するに難い。黒いフサフサの体毛は、オオカミの血で体に張り付き、テラテラと黒光りしている。
一方のリチャードとクロエも、返り血を浴びたせいで、オオカミの血で全身ベッタリとしている。
今すぐ川に飛び込んで血を落としてもいいが、河は目の前の捕食者の縄張り。川熊は泳ぎも得意だ。
鈍重そうな見た目に騙されがちだが、熊自体が走るのも速い。人よりも馬の速度に近いだろう。
「てことは……詰んだ?」
「……あいつを倒せば問題ない」
「倒せる?」
「…………」
「……えぇ~……」
倒せない訳ではない。
ただ、川熊は全身を、厚く強い皮と、さらに厚い脂肪の層で覆われており、筋肉や内臓に剣や矢が通りにくい。
クロエの刺突剣では、途中で折れる可能性の方が高いだろう。
加えて、一抱えもある太い腕とそこから伸びる鋭い爪、小柄なクロエの上半身ほどもある巨大な頭と長い牙。
分厚い肉の壁に全身を覆われ、その内側は凝縮した筋肉の塊。
かなりの強敵であることは間違いがない。
「とにかく、まずは準備だ」
そう言うと、クロエも頷いて、二人は血まみれの外套――フードつきのロングコートを脱いで足元に落とす。
剣に付いた血を拭い、欠けが無いかを確認していく。
リチャードは、地面に下していた短弓と矢筒を手に取り、左手に短弓を、腰の後ろに矢筒を、それぞれ身に着ける。
川熊はそれに目もくれず、一心不乱にオオカミの肉を食していく。
それは油断でもなんでもなく、ただ単に、彼を攻撃して一撃で倒せるものなどいないことを、経験で知っているからである。
目の前のまだ動いている獲物達も、背中を見せて逃げようものなら、即座に襲い掛かり、その五臓六腑の全てに至るまで、美味しく頂くつもりである。
彼はその為の足と爪を持っている。だからこそ、彼は『平原の王』でいられたのだ。
「……有効な攻撃は限られる。頭部――特に眼球か眉間か口腔内。あとは足裏しかダメージは入らないと考えて良い。それ以外は、厚い皮と脂肪にぶつかって、急所に届く前に刃の勢いが止められる。そんな時に奴が腕を振ったら、それだけで上半身と下半身が“さよなら”することになるぞ」
足裏は無いよなぁ……とかボンヤリと考えるクロエ。
と同時に、自分の武器と腕で、あの巨大な野獣の頭蓋骨を貫けるだろうか、と考えてもいた。
「……問題ない。気にするな。あれは、どう考えてもレジィより下だから」
今は遥か遠く、故郷の師匠を思い出す。
(うん……。確かにあれもクマ寄りだよね……。)
二人は、目の前に自分の命を脅かす存在がいるにも拘らず、あまり恐怖心というものを感じていなかった。
何故かと問われれば、それは日々の修行の成果だ、と言えるのだろう。
見上げるほど巨大な野獣の如き大男が、確固たる理性と洗練された戦術をもって迫ってくる。
その経験から見れば、食っちゃ寝しているだけの、単なる野生動物に敗ける気は起こらないだろう。
二人の準備が整うのと同時に、彼の食事も一息ついたようだ。今は、目の前のデザートをより美味しく食するために、手や口元に付いた血を丹念になめとる作業を行っている。
――ヴウウウゥゥゥゥ……
準備は良いか?と問いかけるような、腹の底に響いてくるような低いうなり声を上げ、目線を二人に向ける黒いクマ。
準備とはもちろん、食材になる、である。
「おいおい……。そんなにガッつくなよ、照れるじゃないか」
「わたしたちは、負ける気はないよ」
二人も構えを取る。
クロエは、右足を半歩引き、短剣の左手を前に、刺突剣の右手を自然に下に下す構え。
リチャードは、右足を一歩引き、左手の弓を前に、右手の剣を顎の下に剣先を前に、の構え。
いつもの訓練と同じ。
違うのは、『互いに向けて』ではないこと。
「さぁ、殺し合いだ……」
先に動いたのは川熊の方だった。
彼にとってはいつもの事。
相手が臨戦態勢を取ろうが取るまいが彼には関係ない。ただその爪で蹂躙し、その牙で食らう。
獲物が複数いるときは、弱者から狙う。
それが確実に食物を手に入れるコツ。
彼は本能でそれを知っている。
だから、小さい方を狙う。いつものように。
川熊は、四本の太い足でぬかるんだ川岸の土を踏ん張ると、黒い砲弾のように跳びかかってくる。
その巨躯に詰め込まれた大量の筋肉が生み出す膂力は、人のそれとは遥かに異なっていた。
常人であればもちろん、人に倍する能力を持つ野生生物をすら仕留める力を持つのだから、それも当然と言える。
川熊は、その標的となったクロエに対して、右腕を振りかぶる。
クロエの右手側――クマから見れば左側――は川が流れているので逃げられない。
それは、必殺の一撃となるはずだった。
クロエは川熊の爪が届く前に、音も無く、滑るように左――川とは反対側に逃れる。
ついで、とばかりに右腕を振り上げ、比較的肉の薄いと思われる彼の右腋下を斬りつける。
――……ヴゥ……
突然目の前から獲物が消え、たたらを踏んで転ぶのを堪えた彼は、低いうなり声を上げながら自分のやや後ろを振り返る。
その唸り声は、斬られた痛みによるものでは無く、未知の強敵に対する警戒の声であろう。
前後を挟まれる形になったことを警戒する様子は、怪我をしたと感じさせるものでは無かった。
「――手応えはあったのに……」
クロエは振り上げた刺突剣を下ろし、数瞬前と同じ構えを取ると、苦々しく呟いた。
彼女の刺突剣は『突き』に特化した物だが、『斬る』ことができない訳ではない。むしろ刀身が薄いことで、切れ味は普通の長剣よりも良かったりする。
シッカリとした肉を切り裂く手ごたえを感じたにもかかわらず、何もなかったような顔をされることほど、精神的にダメージを負うことは無い。
警戒感を露わにした川熊は、後ろ足だけで立ち上がった。
この体勢は、突進力を生かせない代わりに、両腕の自由を確保すると共に、自身唯一の弱点でもある頭部を守ることができる、強敵に対峙した時に彼がとる姿勢である。
立ち上がった時の高さは、一パーチ半。
リチャードの倍近くはある高さに届く者は、彼の縄張りにはいない。
川を背に、東西に立つ二人を見下ろす川熊。
彼は今迷っていた。
右手の小さいのは、一見弱そうに見えるが、彼の必殺の一撃を躱した上、自分に掠り傷ながら――相手が他の獣や人ならば致命傷の深さだ――一太刀を浴びせた強敵。
左手の大きいのは、比較して強そうだが、まだ実力の見えない相手。
彼は、『強敵は後回し』という、彼の本能に従うことにした。
「――で、俺をやろうってか」
クマの骨格は直立姿勢を取れるようには出来ていない。
その為、初撃のような素早さは無く、非常に緩慢な動きではあったが、リチャードは手を出さなかった。
ポッコリと膨れた無防備な腹も、固い皮と厚い脂肪の鎧に覆われているし、頭部を狙おうにも、下からでは矢の射線が上手く通らない。
「『四足』じゃないと倒すのは無理っぽいぞ」
「じゃあ、足狙いで」
阿吽の呼吸とでもいうべきか。
してほしいことは、言葉にするまでもなく伝わる。
それが彼らの距離だった。
川熊はリチャードに狙いを定めると、右腕を抱える様に振るう。
リチャードは、それを後ろに跳ぶことで躱す。
川熊の攻撃はそれで終わらなかった。
腕を振るったことで、重心は前に傾き倒れそうになる。その動きを利用して、後ろ足を前にだし、左の腕で第二撃を放ってくる。
常に前に進みつつ、左右の腕を振り回す。それが直立姿勢の川熊の攻撃方法だった。
着地とほぼ同時に迫ってくる左腕に対して、リチャードは右前方に転がることで回避した。
――ギャオゥッ!!
リチャードを追いかけ、そちらに向きを変えた川熊の背後に迫っていたのは、クロエだった。
大きく左に体を向けるために高くあげられた、川熊の右足首の腱を狙ったのだ。
一本の足では巨体を支えることはできず、堪らず前足を付く。
下りてきた頭の下には、剣先を上に向けられた幅広の剣があった。
――ガァッ!!!!
ズボッと真下に引き抜くと、そのまま逆手に持ち換える。
そして、腰の後ろにある矢筒に手を伸ばすと、矢を一本取り出す。
剣を持ったままの右手で矢を番え、開け放たれたままの口腔内に目掛けて、矢を放つ。
その流れに、一切の淀みは無い。
放たれた矢は、下あごから開けられた上あごの穴に入り込み、頭骨を貫通した鏃の先端が後頭部から覗かせている。
剣では急所に届かない。
矢では頭骨を貫けない。
ならば、『剣で貫いて矢で届かせれば』良い。
それは、彼にとって初めての敗北だった。
そしてそれは、最後の敗北でもあった。
全身の力が抜け、ゆっくりと、右に横倒しになっていく。
その瞳は、すでに光を失い、ただ鈍い輝きを湛えるだけだった。
「ん~~~♪ん~~~♪」
クロエは、たっぷり切り出され、こんがりと焼き色のついたクマ肉を頬張っている。
リチャードとクロエの二人は、あの後、川上である東に向かって歩いた。
外套に付いていたオオカミの血と、川熊を解体した時の血を川に流した為だ。下流では、血の匂いに惹かれて、たくさんの獣が集まるだろう。
川熊の死体は、色々と利用価値の高い『皮』と、保存のきかない肉は今日明日食べる分だけ切り出して、残りは放置してきた。
これも、数日もしないうちに、骨だけになることだろう。
川に沿ってしばらく歩き、改めてテントを張りなおすことにした頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
「~~うまいッ!!クマ肉って意外にイケるね!!」
多少の臭みはあるものの、それを楽しめる者にとっては、クマ肉は美味だった。
クロエは、焚火の傍で、ただひたすらに肉にかぶりついている。
リチャードは、剥いだクマの皮をテントの外側に掛けていた。
「……何してるの?」
「獣避け。アイツの臭いがすれば、大抵の獣は近寄ってこない。“平原の王者”は伊達じゃないってことさ」
「じゃあ、これからの野宿でもグッスリ?」
「それは無いな。なめしてないから、数日もすれば腐る。そうなったら捨てるしかないから、その前に村か町にでも着ければいいんだが……」
そっか、とクロエは再び、肉に口をつける。
二人きりの初めての夜は、ただ平穏に過ぎていく。
書いていて気づきましたが、現代最大種のホッキョクグマよりもデカいんですよね、彼……。
ワォ……。




