昇華の果てに、春が来る
――夜。
やる気が、起きない。
何もする気が起きなかった。
友達にも謝らなければいけない。途中でいなくなった俺を心配して、担任の先生から電話もかかってきた。
そろそろ、入学のための書類も書かなくてはいけない。もう立ち直って、前に進まなければいけない。
頭では分かっている。それでも、俺の気分は一向に良くならなかった。
とつに、玄関のチャイムが鳴った。時刻はもう午後9時を回っている。玄関で母親がなにやら応対しているのが聞こえる。
誰だよ……、こんな時間に。
しかし次の瞬間、床を激しく踏み鳴らしながら、妹が俺の部屋に飛び込んできた。
「お兄ちゃん! 何か女の人がきてるよ! なに? あの人彼女?」
好奇心たっぷりな目で俺を見つめる真奈を無視して、俺は階段を駆け下りていた。
「――穂佳、さん?」
「あ、あの、こんばんは」
深々と頭を下げるのは、まぎれもなく穂佳さん本人だった。
言葉が何も出てこない俺を見て、彼女は小さな声でいった。
「……え、っと、ちょっと外でてこれる、かな?」
い、一体どういうことなんだろう。
こんな夜遅くに、俺のうちにまで来て。
というか、何でうちの住所を知ってるんだ?
長い沈黙が耐えられなくなった俺は、頭に思いついた質問をそのまま口にした。
「えっと、どうして、俺のうち分かったの?」
「それは、あの、名簿の住所見て、その……」
ああ、そうだよ。というか、それ以外に考えられないじゃないか。なに聞いてるんだ俺。
そうじゃないだろう。本当に聞きたかったことは、他にあるだろう。
とにかく穂佳さん、わざわざ何しにきたんだよ。
まさか、告白、じゃないよな。あんなことがあったあとに「好きです」なんて辻褄があわなすぎる。
じゃあやっぱり、無難に謝りにきたってところか?
『ちょっと言い過ぎちゃった。ごめん、そんなつもりじゃなかったの』
うん。それが一番しっくりくるな。
でも、それならまだメールでも済むことだし、わざわざ訪ねてくる必要もないよな。ちなみにあの後、一回もメールはしていない。
だったら、もしかして、
『どうして私が落ちてあなたなんかが受かったのよ! 納得いかない! 代わってよ! むしろ死んで! 死んでぇぇー!!』
とか言われて、そのまま出刃包丁で俺、殺されるのかな。
うん、それなら、わざわざ俺のうちまで訪ねてくるのも理解できるな。
って何冷静に理解してるんだ。そりゃまずいだろう。てかそれはイヤ過ぎる!
またもやメビウスの輪ごとく思考の渦に巻き込まれた俺は、視線が定まらないまま彼女より、一歩後ろを歩いていた。
「じゃあ、何で?」
10分も黙ったまま歩き続けて、俺はついにそう聞いた。
「えっと、そ、その……。あの――、浩紀くんに、あ、謝らなくちゃ思って……」
彼女は言葉をつまらせながら、か細い声をしぼりだした。
「あ……」
「私、浩紀くんに、ひどいこと、いったから」
泣きそうな顔をして、震えるような声で彼女はそういった。どこか怯えるような、そんな風に。
けれども俺の方は、不安な気持ちが一気に取り払われていくようだった。
肩に入っていた力も、スッと抜けていくのを感じた。
ああ、いつもの、穂佳さんだ。
俺が好きになった、彼女だ。
「よかった――」
意識するでもなく出た言葉に、彼女は目を丸くした。
「え……、な、何が?」
不思議そうな声をあげる彼女。
「不安だったんだ。わざわざ俺を呼び出したりしてさ。はは、――何か、俺、恨まれて殺されるのかと思ったよ」
ホント、さっきまでマジでこんなことを考えていた自分がおかしくて、俺はふき出した。
「えぇッ? ひどい! 私のこと、そんな風に思ってたんだ!」
彼女も、驚いたような、困惑したような表情でそう叫んだ。
「ごめんごめん。――でも俺も、この前、そう思った」
その言葉を聞いた彼女の目から、ついに涙が零れ落ちた。
「あ――ごめん。ごめんな、さい……。私、ホント、ひどいこと言った……」
し、しまった。そ、そうじゃなくて。
「い、いや、いいんだよ! 俺、別に気にしてないから。ホントごめん」
って何で俺の方が謝ってるんだよ。今日彼女が来たのは、俺に謝りにきたんだろうに。
「――あのね、私、なんだか、分けわかんなくなっちゃって。落ちたって、それで、浩紀くんが受かって、私、悔しくて、悲しくて、それで……」
泣き出した彼女をなだめようと、俺は彼女の肩を掴み、まじまじと顔を見つめた。
「ホント、気にしてないから。それより、穂佳さんが、わざわざ俺のうちまで来てくれたことが嬉しいよ」
「浩紀くん……ホント、本当に、ごめんなさい!」
俺は、今までの苦しい気持ちが、すべてなくなっていくように思えた。
今、言葉で表せる感情は、良かった、それだけだ。
あはは、そうだよ。穂佳さんがこれくらいのことで、そんなに変わってしまうはず、ないじゃないか。どうして二日間も俺、落ち込んでなんかいたんだろう。はは、ホント、今考えるとバカみたいだ。
「私、来年、頑張るから、それまで浩紀くん、一足先に頑張ってて」
「――うん。分かった。ずっと待ってる」
……って、こ、これはもしや、千載一遇のチャンスじゃないか?
二人きりで夜の道。こんな雰囲気めったに遭遇できるもんじゃないだろう。加えてさらに、二人が仲直りできた直後ときたもんだ。
『俺、君の事が前から好きだった。だから、ずっと待ってる』
これだ。そうだ! 今しかあるまい! いけ! 俺、宮下浩紀!
「俺……!」
「ありがとう! やっぱり浩紀くんは最高の友達だよ!」
「!?」
超満面の笑みで言った彼女に対し、俺は本当に、どんな表情をしていいのか分からなかった。口元と眉毛はねじれの位置になったし、目も焦点が合わない。ものすごく高度な変顔が完成した気がした。
おっとッ! これまた一年前と同じく、先に口を塞がれましたわ。
あっはっはっは。嬉しいけれど、心に深く突き刺さる「最高の友達」という言葉。
俺、ホント、どうすりゃいいのよ!!
――でも、確かに、嬉しさと悲しさが入り混じる妙な気持ちではあったが、不思議と嫌な気分ではなかった。
そりゃあまだ、脈は全然なさそうだけれども、これで、まだ彼女を好きでいてもいいんだって、そう思えたから。
……いいや、なーに。
告白するチャンスなんて、これから先、まだたくさんあるさ!
何も焦る必要はありますまい!
今日は、そう。こうして、穂佳さんと仲直りできたということで、万事オーケーとしようじゃないか。
春はまた、何度でも巡ってくる。
好きという気持ちを失わない限り、そう何度でも。
――終わり――