後篇
お付き合いいただきありがとうございます!
こちらは後篇となっております。エドワルド視点です。
エドワルドは、幼いころから気づいていた。
――リーナは、自分よりもっとふさわしい相手がいる、と。
それは、ほんの些細な違和感から始まった。
侯爵家の長男として生まれたエドワルドは、幼少より礼儀作法や剣術、学問に勤しむのが当然とされてきた。
彼の髪は金色――陽光の下では麦の穂のように輝き、橙にも見える。
瞳は穏やかな碧。特筆すべきほど深くも、鮮やかでもない。
勉学も運動も、平均より少し上。
剣の稽古でも、舞踏の授業でも、失敗は少ないが突出もしない。
家族からは「良い子だ」と褒められ、教師からは「模範的」と評価された。
だが、エドワルド自身がその言葉の裏に平凡という響きを感じ取っていた。
そんな彼の隣に、いつもリーナがいた。
湖面のように透きとおる銀青の髪。
淡い光を閉じ込めたような瞳。
それらが陽の光を浴びるたび、まるで空気そのものが柔らかく輝くようだった。
彼女の所作には、幼い頃からすでに完成された優雅さがあった。
ダンスのとき、エドワルドの一歩遅れた足取りに合わせるために、彼女がほんのわずか体を傾ける――その一瞬の流れるような動きでさえ、絵画のように美しかった。
学問でも、リーナはいつも完璧に近い位置にいた。
教えられたことを完璧に理解するだけでなく、応用問題でも答えを導き出す。
エドワルドが努力して辿り着く地点に、彼女はただ立っていた。
そこに無理はなく、自然体のまま。
ボードゲームでも、彼は一度としてリーナに勝てなかった。
駒を置くたびに彼女の表情が変わるわけではない。
ただ静かに、穏やかに――気づけば、勝負は終わっている。
「……また、負けたな」
苦笑する彼に、リーナはいつも同じように言った。
「楽しかったですわ、エドワルド様」
その声音には、優しさしかなかった。
そこに侮蔑も、優越もない。
けれど、その優しさこそが、幼いエドワルドの胸をひどく締めつけた。
――どうして、彼女はこんなにも完璧なのだろう。
――どうして、自分は隣にいれるのだろう。
侯爵令息として、エドワルドの立場は確かに上だった。
けれど、それはただ血筋という偶然にすぎない。
リーナの生まれが子爵家でなければ、あるいは自分の家が侯爵でなければ――きっと、自分など彼女の隣には立てなかっただろう。
その現実に気づいたのは、まだ十歳にも満たない頃だった。
幼いながらに、エドワルドは悟っていた。
リーナは、自分にはもったいない。
手に余る存在だ、と。
そう思えば思うほど、エドワルドの胸の中に、言葉にできない感情が積もっていった。
憧れ。嫉妬。劣等感。そして――申し訳なさ。
親の期待がなければ。自分がもっと優秀であれば。
エドワルドはその感情を、幼い理性で押し殺す術を覚えていった。
笑って誤魔化し、優しさで覆い隠し、いつの間にかそれが彼の普通になった。
けれどその『普通』こそが、やがて歪みの根となる。
自分より光るものを、いつか手放すための言い訳に変わっていくことを――
この時のエドワルドは、まだ知らなかった。
◆
それは、学園に入学してから顕著になった。
入学式の日。春の陽光はまだ柔らかく、噴水の水面に反射した光が石畳の上で踊っていた。
白い制服に金のボタン、肩には家紋を模した刺繍。
貴族の子弟ばかりが集うこの学園には、誰もが誇りと、そしてわずかな緊張を胸に秘めている。
エドワルドとリーナは、入学を機に別々のクラスとなった。
貴族といえど、成績によって序列は分けられる。
入学前に課された試験の結果、エドワルドは上から二番目のクラスに配属された。
上出来だ。公爵家の子息や他国からの留学生がいる中で、侯爵家の令息としてはまずまずといえるだろう。
けれど、胸の奥には小さな不安が残っていた。――リーナは、どのクラスなのだろう。
校舎前に設けられた掲示板の前は、朝から人であふれていた。新しい出会い、期待、そして静かな競争心。エドワルドは人混みをかき分けながら、金の髪を揺らしてリーナを探す。
ふと、見慣れた淡い銀青色の髪が目に入った。透明な湖面を思わせるその色は、陽光を浴びると淡く光を返す。
「――あ、リーナはどのクラスに……」
呼びかけかけて、言葉が喉に引っかかった。
掲示板の最上段、上から二番目の位置にリーナの名前があった。
全体成績で上から二番目。文句のつけようがないくらい優秀だ。
そのすぐ隣で、リーナは誰かと話していた。
「すごいなリーナ嬢、文学のテストでは満点か……。あの最終問題はどうやって解いたんだ?」
「ええと、実はあの著者の他の本を読んだことがあるのです」
柔らかに微笑むリーナの横で、黒髪の青年が穏やかに頷く。
レイ・ディードランド公爵令息――この国に二つしかない公爵家の嫡男にして、次期公爵と名高い人物だ。
エドワルドは幼い頃の社交の場で数回会ったことがある。
聡明で、公明正大。人を貴賤で分け隔てず、自然体で誰とでも言葉を交わせる稀有な人物。
その漆黒の髪と、静謐な紫の瞳。まるで夜空と月光を同時に閉じ込めたような美しさだった。
――傍から見れば、リーナと釣り合うのは彼の方だ。
断じて、エドワルドではない。
「……あっ、エドワルド様! やっと合流できましたね」
振り返ったリーナが、嬉しそうに笑う。
「クラスはいかがでしたか?」
「あ、ああ。残念だがリーナと一緒にはなれなかった」
「……そうですか。では来年ですね!」
「頑張りましょう」と添えられた笑みは、春風のように柔らかい。
だがその奥に、どこか危うい影があった。
リーナは、なにかとエドワルドの意志を優先したがる。
幼い頃からそうだった。彼が欲しがれば譲り、彼が迷えば黙って待つ。
自分の希望よりも、常にエドワルドの心を気にかける。
まるで、彼を中心に世界を作っているように。
それは献身を超えて、依存にも似ていた。
――おそらく、エドワルドとの将来しか示されてこなかったことの、弊害だろう。
ならば、彼が胸を張っていられればよかった。
自信をもって「君を幸せにする」と言えれば、すべては違ったのかもしれない。
だが、エドワルドにはその気概も、能力も、なかった。
クラス分けは成績順。考査で手を抜けば、成績は下げられる。
リーナがそれをしてしまう未来を、エドワルドは本能的に感じ取っていた。
彼女が、自分のせいで輝きを鈍らせること――それだけは、絶対にさせたくなかった。
校庭の向こう、鐘の音が響く。
新入生たちが笑い声を上げる中、エドワルドは静かに拳を握った。
春風が制服の裾を揺らし、淡い光がリーナの髪を照らしている。
――もう、彼女を自分から解放してやるのだ。
エドワルドは初めて、一人の男としての決心をした。
◆
わざと、迎えに行かない日が増えた。
朝も昼も放課後も、エドワルドは用事があると理由をつけ、リーナと距離を取った。
しかし、その実、彼女のことが心配で仕方がない。
――ちゃんと帰れているだろうか。寂しそうにしていないだろうか。
気づけば、今日も足は自然と待ち合わせ場所へ向かっていた。
学園の中央にある大噴水。真っ白な大理石でできた天使像が、両手から水を零している。午後の陽光を受けて、飛沫が虹色に輝いていた。
その前に、リーナは立っていた。
小柄な体を少しすぼめ、そわそわと懐中時計を取り出しては時刻を確認している。
夏風が彼女の淡い銀青の髪を揺らし、光を受けてきらきらと舞った。
その姿が、痛いほどに愛おしい。
――今のところ、関係の自然消滅を狙っている。
だが、どうにも上手くいかない。
リーナの当たり前は、すでに彼女の中で根を張っているらしい。
エドワルドと会うのが日常。話すのが当たり前。隣にいるのが、当然。
きっと本人は無意識なのだ。
彼が少し遠ざかっても、信じて待ってしまう。
そうして、離れた場所からリーナを見つめていると――
不意に、肩をぽん、と叩かれた。
「……っ! びっくりしたぁ!」
「びっくりしたのはこちらですわ。
なにをコソコソと女性徒を隠れて見ていますの? 不審者かしら」
「ち、違う。その、色々あって」
「あらあら? 言い淀むほどやましいことでもあるのね」
エドワルドはため息をつき、肩を落とす。
振り返れば、マリアンド・ジュナーブ伯爵令嬢が、艶やかな金の髪を肩に流しながらこちらを見ていた。
彼女はリーナと同じクラスで、爵位的にも年齢的にも、レイの婚約者候補筆頭と噂されている女性だ。
穏やかながらも芯の強い物言いをするその姿勢に、エドワルドはどこか苦手意識を持っていた。
「あのなぁ……頼むから脅かさないでくれよ。今リーナを見守っているんだ」
「あなた、リーナさんの婚約者でしょう? 行けばいいではないですか」
「婚約を解消したいんだよ、僕は」
その言葉に、マリアンドは一瞬目を瞬かせ、それから「まあ」と小さく息を漏らした。
学園内では、エドワルドとリーナが常に一緒に過ごしているのは有名だ。
それだけに、まるで冗談のように聞こえたのだろう。
「僕にリーナはもったいない。だから、せめて在学中に婚約をどうにかしたいんだ」
「そうですわねぇ……婚約解消、ですか。それもひとつの手かと存じます」
マリアンドは扇子を軽く開き、風を送りながら言葉を続ける。
「でも、その先は?
リーナさんに見合う男性が、その辺にほいほいといると思っているのですか?」
その一言が、エドワルドの胸を鋭く貫いた。
自身の中で築かれていた「身を引く正しさ」が、音を立てて崩れていくのを感じた。
マリアンドの言葉は、まるで鋭い刃のように、静かにエドワルドの胸を切り裂いく。
――婚約を解消したあと、リーナはどうなる?
その問いが、頭の中で反響する。
確かに、婚約を解消すればリーナは自由になる。
だが同時に、『侯爵令息に婚約を破棄された令嬢』という烙印を押されるのだ。
貴族社会は噂でできている。
たとえリーナがどれほど優秀でも、「なにか問題があったのでは」と訝しむ者は必ず現れる。
美しさも才能も、疑念の前では霞んでしまう。
そんな娘を、わざわざ婚約者に迎えたいと思う男など――ほとんどいない。
エドワルドは、その単純な事実に今まで気づいていなかった。
自分のことでいっぱいいっぱいで、目の前の「正義」ばかり見つめていたのだ。
リーナを解放するつもりで、実際には社会的に縛ることになっていた。
「……ありがとう、ひとりで突っ走るところだった」
ようやく絞り出すように言うと、マリアンドは扇子をたたみ、にっこりと微笑んだ。
「どういたしまして。これでもわたくし、お友達ですもの。
――リーナさんのその後のお相手にも、アテがありますし」
夜風がふわりと吹き抜け、彼女の金糸のような髪が柔らかく舞う。
夕陽を受けてきらきらと光るその髪は、痛いほどまぶしい。
彼女の声音には冗談めいた響きがあったが、その裏には確かな意図が感じられた。
――本心からリーナの幸せを願っている、というだけではない。
マリアンドは、聡明で計算高い女性だ。
彼女の微笑みの奥にある別の目的に、エドワルドはうすうす気づいていた。
彼女はおそらく、レイとの婚約を望んでいない。
なぜかは知る由もないが、おそらくは。
今、学園でもっとも高貴な血を引く公爵家の嫡男。
冷静沈着、そして完璧。
だがその完璧さは、どこか人間らしさを拒むようで――多くの令嬢たちが夢見る相手でありながら、近寄りがたい。
それからマリアンドと小一時間ほど言葉を交わした中で、彼女はふと本音をこぼした。
「あんな、なにを考えているかわからない方より、あなたのように表情をころころ変えて、人を思いやれる殿方の方が百倍マシですわ」
あまりに率直な言葉に、エドワルドは目を瞬いた。
ほんとうに、誰しも振り返るほどの美貌を持つ公爵令息と婚約したくないだなんて。
普通なら、信じられない話だ。
だが、マリアンドの瞳は真剣だった。
婚約者候補として接する中で、あの冷ややかな紫の瞳を、彼女はきっと気味悪いと思ったのだろう。
そして、リーナをその代わりにしようとしている――そんな予感がした。
月が高く昇る。
校舎の尖塔が長く影を落とし、噴水の水面に揺れる。
その光景の中で、エドワルドは自嘲するように小さく笑った。
――自分は、誰かを救うこともできず、誰かの策にも気づけない愚か者だ。
夜に染まりかけている風が肌を撫でる。
冷たくも、どこか目を覚ますような感覚だった。
リーナをどうするか。自分は何を望むのか。
ようやく、真正面から考えるべき時が来たのだ。
◆
夏の陽光は、北にあるマリアンドの領地でも容赦がなかった。
空は雲一つなく、陽炎が石畳の上で揺れている。
森を抜ける風は湿り気を帯びているものの、時おり花と草の匂いを運んできて、いくらか心地よかった。
そんな昼下がり、エドワルドは馬車の中で胸の鼓動を抑えきれずにいた。
――この訪問は、単なる『友人同士の夏の休暇』ではない。
彼には、どうしても話をしなければならない相手がいた。
「おふたりは旧知の仲ということでご紹介は不要ですわね。
それではわたくしは退席いたしますので、ごゆっくりどうぞ」
白い帽子をかぶったマリアンドが、お盆を持ちながら柔らかく笑った。
その仕草の裏に、少しだけいたずらっぽい女の笑みが覗く。
エドワルドとレイが向かい合って座るのは、小さなコテージの中だった。
窓の外では、夏草がざわめき、遠くで蝉の声が重なっている。
木の壁が陽に温められ、甘い樹脂の匂いが漂っていた。
――密室。
他に誰の目も、耳もない空間。
それを意図して、エドワルドはマリアンドに協力を仰いだのだった。
自分の領地にレイを呼べば、周囲が騒ぐ。
学園の友人たちを巻き込むのも気が引けた。
その点、マリアンドは信頼でき、何より、得たい結末が同じだった。
結果として、彼女は嬉々としてこの舞台を整えてくれた。
――公爵令息、レイ・ディードランド。
学院随一の美貌を持つ青年。
けれど、誰もが心の底では彼の本心を知らない。
その瞳の奥に、どんな思考が沈んでいるのかを。
「……それで、私はまんまとマリアンド嬢にしてやられたわけだが」
軽く肩をすくめながら、レイが口を開いた。
紅茶を置く指の動きまで無駄がない。
どんな仕草も絵になる男――だが、その完璧さが、どこか人間味を削いでいる。
「エドワルドはこんな密室を用意して、なにがしたいんだ?
小説のような密室殺人でもしてみるか?」
その声は、柔らかい冗談の調子を装っていた。
けれど、どこか刃のような鋭さを含んでいる。
――一歩間違えれば、相手を試すような響きだ。
エドワルドはわずかに笑みを返す。
「とんでもありません」
喉が乾いていた。冷めた紅茶が、まるで砂を飲むように感じる。
息を整え、ようやく本題を切り出した。
「そうですね……学内でのリーナの話を、聞きたくて」
その瞬間。
レイの瞳の色が、ほんのわずかに変わった。
氷が光を受けて冷たく輝くような――温度のない色。
さっきまで穏やかだった空気が、一気に張りつめる。
紅茶の表面に、夏の日差しが反射して揺れていた。
冷めかけた琥珀の液面が、まるでレイの瞳のように静かで、底が見えない。
「……本気で言っているのか」
低く、抑えた声だった。
けれどそこには、わずかに震える怒気が潜んでいる。
「はい。最近会えていないので、心配で」
エドワルドは姿勢を正し、できるだけ穏やかに答える。
「ディードランド公爵令息はリーナと同じクラスだと伺っています。
今日はマリアンドの領地の近くに私用があって、ちょうどいいかと思いまして」
その言葉に、レイの眉間に一瞬、ぐっと深い皺が刻まれた。
しかしそれよりも、室内の空気がふと重くなる。
「きみがそれを言うのか? リーナ嬢を婚約者として適切に扱っていない、きみが」
「ええ。傍から見ればそうでしょうね」
エドワルドは視線を逸らさない。
その口調は柔らかいが、どこかに確信があった。
さも、あなたは部外者だから知らなくて当然、と言いたげに。
挑発をした。
しかしレイの表情は動かない。
まるで氷の面のように、冷たく、整っている。
さすが次期公爵――一つの感情すら漏らさないその完璧さは、エドワルドから見ても確かに不気味だった。
「その婚約関係のために、今、動いているのです」
エドワルドの声は少しだけ熱を帯びる。
「他ならぬリーナのために」
「それは独りよがりではないだろうな?」
レイは静かに、しかし確実に圧をかけてくる。
「少なくともリーナ嬢に話は通すべきだと思うが」
「まさか……僕はリーナを愛しています」
言葉はまっすぐに出た。
その形が、親族に対する愛としても。
――嘘ではないのだから。
「これはサプライズなのです、くれぐれも内密に」
エドワルドはわずかに笑みを浮かべ、続ける。
「──日時は夏の長期休暇明け、昼休み中庭にて。改めてリーナにプロポーズしようと考えています」
その瞬間。
レイの表情に、明確な影が落ちた。
瞳の奥で、何かがきらりと光る。
それは怒りか、嫉妬か、それとも――悲哀か。
エドワルドは確信した。
……やはり、レイはリーナを想っている。
学内でリーナを見ているとき、エドワルドは思ったことがある。
レイの、リーナを見る視線の柔らかさ。
話題に出るたび、口調がわずかに和らぐこと。
それら全てが、ただの友情ではないことを、薄々感じていた。
だから今、こうして確かめた。
レイの眼差しは、もはや隠そうともしない。
嫉妬。
独占。
そして――悔しさ。
それらの感情が、氷の仮面の下で静かに燃えている。
リーナをぞんざいに扱ってきたはずの、男が目の前にいる現状。
それをさんざんレイは知っていて、分かった上で、エドワルドを見下ろすように見ている。
その視線に、エドワルドの胸がちり、と焼けた。
しかし、表面上はどうあれ、今のリーナはエドワルドを慕っている。
そしてエドワルド自身も、彼女を「愛している」と口にした。
その事実が、レイの胸を最も深く抉っていた。
冷静を装っているものの、視線の奥には言葉にできない苦味があった。
――出る幕ではない。
その現実を、誰よりも理解しているのはレイ自身だった。
エドワルドは、その痛みを察していた。
不器用な男なりに、レイに同情した。
彼の立場なら、自分もきっと同じ苦しみを覚えただろう。
「今後とも、リーナのことをお願いします」
エドワルドは、柔らかく微笑みながらそう言った。
含みを込めて。
――この先、エドワルドはリーナの隣にはいない。
だが、リーナを想ってくれる者がいるのなら。
それでいい、と。
「あぁ。リーナ嬢になにかあれば助けられるよう、私も尽力しよう」
レイの声は落ち着いていた。
だが、その一言の裏には、胸の奥で押し殺した何かが確かに潜んでいた。
彼の握るティーカップの取っ手に、白く力がこもっているのを、エドワルドは見逃さなかった。
――そして、対話は終わった。
誰も傷つけず、誰も満たされないまま、にこやかに。
だが、エドワルドの背中を伝う汗は冷たく、止まることを知らなかった。
小さなコテージを出る頃には、襟元までぐっしょりと湿っていた。
この夏、エドワルドはたしかに変わろうとしていた。
リーナに関することも、自分のことも。
だから――避暑の誘いを受けたという口実でリーナに嘘をついた。
実際にはあのレイとの対談の一日だけ外出し、友人の別荘などには行かなかった。
エドワルドは、領内の小さな村で住み込みの労働をしていた。
両親には話を通している。
朝は陽が昇る前から起きて、井戸の水を汲み、手を洗い、畑に出た。
慣れぬ鍬を握りしめ、土の重みを感じる。
侯爵家の令息として育った手が、ひび割れて、少しずつ黒くなっていく。
――これが、人の暮らし。
これが、侯爵家嫡子として守るべき世界の一部。
涼しい風が吹く夕刻、彼は働き詰めた体を引きずって街へ下りた。
労働で貯めた金を手に、彼は仕立て屋を訪ねる。
「この布地で、学園の制服を一式。少し着崩しても見栄えが悪くないように」
鏡に映る自分は、どこか別人のようだった。
無骨な手、焼けた肌。
それでも不思議と心は軽い。
そのあと香水店へ立ち寄り、華やかすぎる香りを選ぶ。
軽薄に見える香り、軽やかに笑う仮面。
それらはすべて、リーナと自分を切り離すための道具だった。
――次に彼女と会うとき。
もう、同じ場所には立てない。
それでも、せめて笑顔で別れたいと、エドワルドは思った。
◆
その日、空はどこまでも澄み渡っていた。
深く透き通るような青の上に、紅く染まりかけた木々の葉が揺れる。風は乾いて、少し冷たい。夏の名残をひとつも残さない、まぎれもない秋の風だった。
エドワルドはそんな空気の中で、己の心を押し殺していた。
──今日で終わりにしよう。
そう決めたのは、自分自身を守るためではない。彼女を、リーナを、このくだらない婚約の縛りから解き放つためだった。
けれど、いざ目の前にリーナが立つと、喉が詰まる。
見慣れた淡い銀青の髪が風に揺れ、長い睫毛が影を落とす。
その表情を見ていると、今にも心が折れそうになった。
それでも、言わなければならない。
自分を嫌ってもらわなければ、リーナは自由になれない。
「正直うんざりなんだ。なぜ婚約者であるきみに、いちいち意見を聞かれなければならないのか。訂正を求められなければならないのか」
口を開いた瞬間、心がきしんだ。
思ってもいない言葉を吐き出すたび、喉の奥が焼けるように痛む。
本心と嘘が混ざり合って、もう自分でも何を言っているのか分からない。
リーナの顔がみるみるうちに歪んでいく。
泣くな──と、叫びたくなった。
けれど、それでは駄目だ。泣かせてでも、突き放さなければ。
横に控えているマリアンドが、小さく唇を噛んだ。
彼女にはおおまなかあらすじを事前に伝えてある。
それでも、友人としてリーナを傷つけるのは辛いのだろう。
言葉に覇気がなく、リーナを庇うように視線を逸らしていた。
……優しい人だ。リーナのことを、ちゃんと想ってくれている。
そして、予定通り彼が現れた。
レイ。リーナのクラスメイトで、ずっと彼女を気遣ってきた青年。
手にしていたバスタオルを見て、エドワルドは思わず苦笑を零す。
――準備がいいにも程がある。まったく、できる男だ。
それが悔しいのか、安堵なのか、自分でも分からなかった。
これでいい。
リーナは彼に託す。レイなら、彼女を守ってくれる。
そう思った瞬間だった。
レイがリーナの頭にタオルを被せ、そっとその手を押さえながら、テーブルを挟んだエドワルドに耳打ちをした。
誰にも聞こえないほどの声で、囁く。
「──愛してるんじゃ、なかったのか?」
息が詰まった。
困惑と、どこか痛ましげな表情。レイの瞳は、真っすぐにこちらを見ていた。
その問いに、エドワルドは答えることができなかった。
言葉の代わりに、ふっと笑った。
諦めにも似た微笑みだった。
これが、自分にできる最後の虚勢。
今泣いてしまっては、示しがつかないだろう。
やがて、レイがリーナに歩み寄り、彼女に婚約を申し出る。
その光景を、エドワルドはどこか遠くから眺めているような錯覚を起こした。
頬を撫でる風が冷たくて、どこか現実味を奪っていく。
ああ、これで終わりなのだと、ようやく実感した。
この場にいる学生も、教師たちも、全員事情は知っている。
水の入ったポットの位置も、リーナが座る席も、何度も打ち合わせて決めた。
誰も彼もが台本どおりに動く中で、ただふたり──リーナとレイだけが、真実を知らない。
ここは婚約を結ぶことも、破棄することも、まるで遊びのように行われる学園で。
だが、エドワルドにとっては違った。
この別れは、すべてを賭けた、たったひとつの本気だった。
◆
三日後の午後。
灰色の雲が空を覆い、窓の外には微かな雨が滲んでいた。
昼下がりの学園は静かで、人気のない廊下には足音がよく響く。
呼び出されたのは、空き教室だった。
エドワルドは扉の前で一度だけ深呼吸をし、ゆっくりとノブを回す。
中にはレイがいた。
窓際に立ち、雨に煙る庭を見下ろしていたその姿は、どこか冷たく、怒りを押し殺した獣のようにも見えた。
「来たか」
短い声。
エドワルドが一歩足を踏み入れると、レイは無言で扉の方へ向かい、背後の鍵をカチリと閉めた。
振り返るその刹那――拳が飛んだ。
「──ッ!」
鈍い衝撃が頬を打ち抜く。
視界が一瞬、揺らめいた。
間を置かずにもう一発。頬骨の下が熱を帯び、鉄の味が口に広がる。
「お前が……『愛している』と言ったから……!」
レイの声が震えていた。
怒りと悲しみの入り混じった、制御できない感情の爆発。
「それに、彼女も……リーナ嬢も、お前を婚約者として大切に思っていた……!
なのに、なぜ……なぜ、あんな仕打ちを?!」
胸ぐらを掴まれ、引き寄せられる。
間近に見たレイの瞳は、怒りよりも苦痛で濡れていた。
エドワルドは抵抗しなかった。
それどころか、ぼんやりと頭の片隅で思っていた。
――案外、完璧な男にも人間らしいところがあるものだな。
まるで他人事のように。
痛みすら、自分とは関係のない遠い出来事のように。
唇を割ったまま、エドワルドはかすかに笑った。
「──愛ゆえですよ、ディードランド公爵令息」
その言葉に、レイの動きが一瞬止まる。
だが、エドワルドは視線を逸らした。
今この瞬間、正面から見てしまえば――きっと、レイの悲痛な顔と、あの日泣いたリーナの顔が重なってしまう。
それだけは、耐えられなかった。
静寂が落ちたそのとき、突然、空き教室の扉が開いた。
重たい音が室内に響く。
「あらあら、やっぱりレイ様でしたのね」
軽やかな声。
そこに立っていたのはマリアンドだった。
その手には教師用の鍵束があり、淡い笑みを浮かべている。
「先生が貸し出し用の鍵を紛失したと言っておりました。
バレる前にさっさと返却しに行きましょう」
くるくるとそれを回して、エドワルドとレイを眺める。
「……それで、エドワルド様は何も話さず、一生涯憎まれて過ごすのですか?」
そして、はぁ、と大きくため息をついた。
その声音には皮肉と、ほんの少しの憂いが混じっている。
レイが眉をひそめ、ゆっくりとエドワルドの胸の上から身を起こした。
「……どういうことだ?」
マリアンドは肩をすくめる。
「まったく、ほっとけませんわね」
「……マリアンド、お節介が過ぎると思うんだけど?」
「それで結構ですわ」
ぷい、とそっぽを向く仕草が、妙にあどけなく見えた。
気まずい沈黙が流れる。
雨音だけが窓を叩いていた。
やがて、エドワルドは静かに息を吸った。
レイに向かって、深く頭を下げる。
「まず、この度は──善意に付け込んでリーナをお任せしてしまったこと、大変申し訳なく思っています」
その声は、掠れていた。
「しかし……そうでもしなければ、リーナは自由になれない。そう愚考しました」
言葉を絞り出す。
その瞳には後悔も、懺悔も、決意もあった。
レイはしばらく沈黙していた。
拳を握りしめたまま、何かを押し殺すように唇を噛みしめる。
そして、ようやく搾り出すように問うた。
「……それで、君は幸せなのか?」
エドワルドは答えなかった。
ただ、ゆっくりと首を横に振った。
窓の外、灰色の空が滲んでいた。
その涙のような雨を見つめながら、彼は小さく呟いた。
「彼女が笑えるなら……それでいいのです」
雨はいつの間にか止み、雲の切れ間から淡い光が差し込んでいた。
夕暮れの教室。窓際の机の上には、いつからか置かれたままのチョークの箱があり、その白がやけにまぶしく見えた。
誰もいない学舎の片隅、エドワルドとレイ、そしてマリアンドの三人だけがその場所にいた。
重たい沈黙を破ったのは、エドワルドだった。
長く息を吸い、まるで胸の奥の迷いを吐き出すように言葉を紡ぐ。
「学内で婚約解消を言いましたが、正式な手続きはまだなんです」
淡々とした口調の裏に、わずかな震えがあった。
窓から差し込む光が、埃の粒を金色に染めて漂わせている。
「マリアンドと相談して、味方が多い中で円満に解消できた方がいいと、その判断に至りました。
ちなみに、あの場にいた全員は僕が呼んだエキストラで、きちんと口止めはしています」
マリアンドは何も言わず、静かに頷く。
彼女の横顔には、友としての憂いと誇りが入り混じっていた。
エドワルドは拳を握りしめた。
次の言葉を告げるには、勇気が必要だった。
それでも言わなければ、誰も救われない。
「リーナは、僕にはもったいないほどの女性です。
しかし、幼い頃より、彼女は僕に依存気味でした」
その声には、深い愛情と、切ない諦めが宿っていた。
机の上に置かれた指先が、かすかに震える。
「今、『捨てられた』と深く印象づけておかなければ、刷り込まれたまま『当たり前の婚約者』として、ずっと生き続けるでしょう」
口にするたび、胸が痛んだ。
過去が、今さらになって喉を締めつける。
深呼吸。
肩を震わせながら、それでも笑みを作った。
「僕は幼なじみとして、リーナには幸せになってほしいのです」
そこには恋ではない。
ただ、妹を想う兄のような、静かな愛情があった。
長い年月の中で積み重なった絆が、ようやく別の形で報われようとしていた。
沈黙を破るように、エドワルドは視線を上げる。
光の中で、レイの瞳がまっすぐに彼を見ていた。
強いのに、優しい眼差しだった。
「だから──幸せにしてやってください。今後とも、リーナのことをお願いします」
その言葉を言い切った瞬間、視界がゆらぎ始める。
おそらく涙が溜まってきたのだろう。
頬を伝う前にと、笑ってみせた。
だがそれが、ちゃんと笑顔になっていたかはわからなかった。
次の瞬間、レイに抱きしめられた。
強く、痛いほどに。
「──ッあぁ、必ず……!!」
レイの声が震えていた。
それは約束の声であり、赦しの声でもあった。
エドワルドは、そっと目を閉じた。
胸の奥で何かが静かに溶けていく。
あぁ、これでいいのだ。
リーナが自由に笑えるのなら。
レイの想いが報われるのなら。
そして、自分がその光景を遠くから見届けられるのなら。
初めて、エドワルドはリーナではなく、自分が認められたような気がした。
長い年月を経てようやく感じた、穏やかな痛みだった。
外では再び、夕立が降り始めていた。
音を立てて窓を打つ雨の中で、彼の笑みだけが静かに滲んでいった。
◆
秋の終わり、学園の礼拝堂は淡い陽光に包まれていた。
長いアーチ窓から差し込む光が、古い木の床を穏やかに照らしている。
白いカーテンが風に揺れ、ステンドグラスの青と赤が床に散った。
そこに集まっているのは、ほんの数名。
形式ばった式というより、静かな儀式のようだった。
リーナは純白のドレスに身を包み、レイの隣に立っていた。
けれどその視線は、ずっとエドワルドの方を向いている。
まっすぐに、切なげに。
まるで何かを言いたいのに、喉の奥で言葉が凍ってしまったように。
エドワルドは、視線を受け止めながらも口を開かなかった。
今、彼女がようやく自分自身を見つめられるようになったのなら、それでいい。
おそらく数日の間に、レイが普通の婚約者というものを教えたのだろう。
笑い方、手をつなぐ意味、想いを伝える方法。
リーナはきっと、今までの自分たちの関係が少し歪だったと気づけたはずだ。
──それでいい。
それでこそ、意味がある。
神父が一歩前に出る。
灰色のローブがかすかに擦れ、礼拝堂の静寂を破った。
「──それでは、正式に婚約解消と、新たな婚約を結ぶための書類をお渡しします。
双方、なにか言い残すことはありますか?」
その問いに、エドワルドはゆっくりと前へ出た。
木の床がわずかに軋む。
視線の先で、リーナがほんの一瞬だけ唇を動かした。
待って、とでも言いたげなその仕草を無視して、彼は穏やかに微笑んだ。
「特にありません」
その声は不思議なほどに澄んでいた。
もう痛みはなかった。
ただ、少しだけ胸の奥が温かくなった。
リーナもレイも、静かに首を横に振る。
神父が頷き、二枚の書類をそれぞれの手に渡した。
紙の擦れる音が、やけに大きく響く。
それが終わりの合図だった。
──こうして、エドワルドとリーナの関係は幕を閉じた。
礼拝堂を出ると、風が冷たかった。
秋の匂いがして、木々の葉が黄金色に光っていた。
遠くで鐘が鳴る。
その音を聞きながら、エドワルドは空を仰いだ。
これからは、リーナの婚約者ではなく、ただのエドワルドとして生きていく。
肩書きも、役割も、もうない。
けれどそれは、失ったのではなく、取り戻したのだ。
ようやく、自分という人間を。
ふと、背後からマリアンドの声がした。
「……やり遂げましたわね、エドワルド様」
「ああ、ありがとう。君がいなければ、僕は逃げていたかもしれないな」
マリアンドは微笑んだ。
その笑みは少しだけ寂しく、けれど誇らしげでもあった。
風が二人の間を抜けていく。
木漏れ日が揺れ、鐘の音がゆるやかに遠ざかっていった。
──リーナが幸せになりますように。
心の中でそう祈りながら、エドワルドはゆっくりと歩き出した。
踏みしめるたび、過去が少しずつ遠ざかっていく。
その背中を見送りながら、マリアンドは小さくつぶやいた。
「……ほんとうに、愛ゆえの愚行でしたのね」
答える声は、もうどこにもなかった。
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【浮気性な夫が殉職したそうなので】
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