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侯爵令息エドワルドと、子爵令嬢リーナは――生まれたときから隣り合う世界にいた。
ふたつの領地は、境をなす小川を挟んで寄り添うように広がっている。春には花弁を浮かべ、夏には子どもたちが裸足で駆け、秋には落ち葉を流し、冬には氷の橋を渡る。そんな小川が、いつしか二人の遊び場となり、そして、思い出のすべての舞台となっていった。
幼いエドワルドは、領地の警備兵よりも先に、リーナの屋敷の裏門の鍵の癖を覚えた。
リーナもまた、エドワルドの庭に咲く薔薇の季節を、庭師より正確に言い当てた。
互いの屋敷の間取りも、家の者の名前も、馬小屋の匂いまでも知っている。まるで、二人でひとつの世界を形づくっているようだった。
両家の仲も良好だった。交易でも祭事でも助け合い、年に一度の合同収穫祭では、侯爵夫妻と子爵夫妻が並んで酒を酌み交わした。
そんな中で、同じ年に生まれたエドワルドとリーナの存在は、まさに祝福の象徴だった。
「あなたたちは将来一緒になるのよ」
そう言われたのは、まだ七歳のとき。
庭の藤棚の下で、大人たちは微笑み、二人の頭をやさしく撫でた。
その言葉に、リーナは小首を傾げ、エドワルドは少し照れくさそうに笑った。
その日以来、二人の世界には「将来」という言葉が、やさしい魔法のようにかかっていた。
誰も疑わなかった。
少なくとも、彼女は。
――そうなるものだと、信じていたのだ。
日が沈むころ、リーナはいつもエドワルドの屋敷の丘を見上げた。屋根越しにのぞく灯りを見て、「今日も同じ空を見ている」と思うのが、彼女の日課だった。
まだ愛という言葉を知らなかった頃の、確かなつながり。
それは、血縁でも契約でもなく、幼い心の中で静かに育った運命という名の芽だった。
◆
貴族学園に入学する少し前のこと。
侯爵家と子爵家のあいだで、形式だけの婚約を結ぶことが決まった。
書面にサインをするだけの、小さな儀式。
親たちは穏やかに笑い、執事や書記官が立ち会い、日常の一幕のようにその婚約は取り交わされた。
エドワルドは、その時――笑っていたような気がする。
「永遠を誓うための署名」だと説明されたはずなのに、彼の笑みには緊張も、決意も、感慨もなかった。
けれど、それは彼が無神経だからではない。
むしろ、あまりにも自然だったのだ。
ペンを取り、名前を書き、インクを乾かすその一連の動作が、まるで毎日の食後のように当たり前で、習慣の一部であるかのようだった。
――だから、少しだけ驚いた。
胸の奥がざらりと揺れて、リーナはふと、自分でも説明できない違和感を覚えた。
けれど、その違和感の正体は、時間が経ってようやく理解できた。
「ふたりでいることが当たり前だったから」――そう気づいたのは、学園に入ってからのことだった。
貴族学園の春は、あざやかな花の香りと新しい制服の糊の匂いに包まれていた。
石畳の道を歩く足音が重なり、鐘の音が高く響く。
リーナとエドワルドは同じ馬車で登校したが、入学式が終わるとすぐに別々のクラスへと割り振られた。
初めて、日常の大部分を別々に過ごすことになった。
その事実を、リーナは胸の奥でそっと転がすように噛みしめる。
リーナにも新しい友人ができた。
朗らかな令嬢、少し生意気な同級生、物腰柔らかな先輩、厳しいが誠実な先生――。
新しい人間関係は目まぐるしく、華やかで、世界がひとまわり広がったように感じた。
彼女の中で、いままで隣にあった世界が少しずつ、別の輪郭を持ち始めていた。
もちろん、エドワルドとの距離が遠くなったわけではない。
領地にいたときと同じくらい、リーナは話をした。
授業が終われば、彼は必ずリーナの教室前で待っていた。
寮から学舎まで、放課後の帰り道も、決まって彼が隣を歩いた。
ある日のこと。
リーナはふと、申し訳なさそうに言った。
「毎日わたしを送り迎えすると、エドワルド様のお時間が……」
その言葉に、エドワルドは少し笑って答えた。
「これくらいさせてほしいな。一応、婚約者なんだし」
そのとき、彼の頬はわずかに赤く染まっていた。
春風に混じるように、ほんの一瞬。
その照れくさそうな表情に、リーナは思わず微笑んでしまった。
胸の奥が、ゆるやかに温かくなるのを感じる。
それから、彼女はあえて言い返さなくなった。
エドワルドの善意に甘えること――それは、ほんの少しの贅沢のように思えた。
小川のほとりで一緒に遊んだ幼い日々の続きが、まだどこかで繋がっている。
そんな気がして、リーナはその隣にいる時間を、大切に抱きしめるように過ごした。
だが、リーナはまだ知らなかった。
彼女の当たり前の日々が、少しずつ音を立てて崩れはじめていることを。
◆
夏の陽射しが、石畳を白く照らしていた。
窓越しに差し込む光は、夕方ということもあり橙の陽が強い。
図書館の木机の上に長い影を落とす。
蝉の声が遠くに聞こえ、リーナは額に落ちる一筋の汗をそっとぬぐった。
もうすぐ、夏の長期休暇前の考査が始まる。
友人たちは皆、今日は予定が合わず、リーナはひとりで机に向かっていた。
真面目な彼女にとって、それは特別なことではない。けれど、ページをめくるたびに感じる静けさが、いつもより少し広く、少し寂しく響いていた。
ふと、気がつくと、図書館の時計の針が閉館時刻を指している。
司書の女性が気遣わしげにリーナの方を見ていた。
慌ててペンケースと紙束を整え、椅子を押し戻す。
重厚な扉を押して外に出ると、夕暮れの風が頬を撫でた。
大噴水の前――そこが、今日の待ち合わせ場所だった。
水面に映る橙色の光がゆらゆらと揺れ、子どもたちの笑い声はもう遠い。
だが、エドワルドの姿はなかった。
石の縁に腰かけ、リーナは懐中時計を見た。
五分、十分、二十分……気づけば、三十分が経っていた。
心のどこかで「何かの用事が入ったのかも」と自分に言い聞かせる。
けれど、時間は残酷に流れていく。
寮の門限が迫っていた。
後ろ髪を引かれる思いで、リーナは噴水をあとにした。
夕暮れの街を歩きながら、足元に落ちた自分の影が、やけに長く感じられた。
――それが、最初の違和感だった。
◆
考査が終わり、夏の長期休暇が目前に迫ったある昼下がり。
学園の食堂のテラスで、リーナはようやくエドワルドと顔を合わせた。
あの日以来、二週間ぶりの再会だった。
テーブルの上には、涼しげなミントの香りの紅茶。
空には薄雲が広がり、吹き抜ける風が花壇のラベンダーを揺らしていた。
久々の食事――けれど、エドワルドの表情はどこか他人行儀だった。
談笑もなく、リーナが話しかけても、短く頷くだけ。
何を話しても、彼の視線はどこか遠くを見ているように思えた。
リーナは紅茶のカップを置き、少しだけ笑みを作って言った。
「あと少しで、私は領地に戻ると思いますが、エドワルド様か、わたし、この夏はどちらの領地に滞在しますか?」
それは、婚約者同士として自然な問いかけだった。
卒業後の生活を見据えた、当たり前の会話。
だが、返ってきたのは思いもよらぬ言葉だった。
「いや、今年はクラスの友人に避暑に誘われていてね。ひとりで帰ってくれないか」
「……え?」
リーナの声は小さく震えた。
彼の口調はあまりに穏やかで、あまりに明るく、それが余計に胸を刺した。
「それに、もう何年もそういうことしてただろ?
お互い違う交友関係もあるんだし、リーナは俺にとらわれず、自由に過ごしてほしいんだ」
――まるで、リーナのためを思っているかのような声音で。
彼は朗々と笑いながら言った。
けれど、その笑みは、どこかで見た彼の優しさとは違っていた。
その言葉の端々から、まるで距離を測るような冷たさが滲んでいた。
「……わかりました。では、そのように実家へ連絡させていただきます」
そう答えるのが精一杯だった。
喉の奥がつまって、呼吸が少し苦しい。
それでも、リーナは貴族令嬢としての礼節を崩さなかった。
「ああ、頼んだ」
短くそう言って、エドワルドは立ち上がる。
椅子の脚が石畳を擦る音が、やけに耳に残った。
そして、振り返ることもなく、そのまま去っていった。
リーナはその場に残され、ただ静かに息をついた。
どうして、世間話すらしてくれなくなったのだろう。
どうして、目を合わせてくれなくなったのだろう。
――長年、共にいた自分に飽きたのだろうか。
それとも、私が何かいけないことをしたのだろうか。
答えのない問いが、胸の中で波紋のように広がっていく。
けれど、それを確かめる術はもうなかった。
数日後、リーナは帰省のために学園を発つ。
馬車の中には、ひとりきり。
窓の外を流れていく街並みが、やけに遠く見えた。
エドワルドの姿は、どこにもなかった。
それがこんなにも胸を締めつけるとは、思ってもいなかった。
――私は、当たり前に甘えすぎていたのかもしれない。
リーナは両手を膝の上で組み、唇を噛みしめた。
心の奥底で渦巻く不安や不満、寂しさ。
それらを一つひとつ、トランクの中に詰め込むような気持ちで。
「この感情は、エドワルド様に迷惑がかかってしまうから」
そう、強く自分に言い聞かせた。
馬車の車輪がゆっくりと動き出す。
夏の空の下、リーナを乗せた馬車は、静かに学園を離れていった。
遠ざかる塔の影が、まるで誰かの背中のように見えた。
◆
ときが過ぎて、夏の長期休暇明け最初の登校日。
季節は秋。
学園の中庭を彩る並木が、赤や金の衣をまとって風に揺れていた。
昼下がりの陽射しは柔らかく、石畳に落ちた木漏れ日がきらきらと揺れている。
食堂のテラス席に座り、リーナは静かに紅茶の香りを吸い込んだ。
久しぶりの登校。長い夏を経て、またいつもの昼食が始まろうとしている。
カップの向こうには、まだ誰もいない席。――エドワルドの席。
彼は少し遅れてくることが多かった。だから今日も、待つことは苦ではなかった。
けれど、胸の奥にかすかな不安があった。
また、あの日のように来ないのではないか――そんな思いが、秋の空気の中に小さく潜んでいた。
「やぁリーナ、久しぶり。領地は特に変わりはなかったかな?」
聞き慣れた声に顔を上げた瞬間、リーナの心臓が一瞬止まった。
え? と、無意識に息とも声ともつかない音が漏れた。
エドワルド――けれど、どこか違っていた。
まず、服装。あの几帳面だった彼が、シャツのボタンを二つも外し、袖を無造作にまくり上げている。
ポケットに片手を突っ込み、どこか余裕を演出するような歩き方。
肌は日中ずっと外で遊んでいたかのように焼け、それはまるで領地で見る庶民のよう。
かつての、真面目で誠実な彼の姿とはまるで別人だった。
ふわり、と強い香水の香りが風に乗ってリーナの鼻をくすぐった。
悪い香りではない。けれど、濃すぎてむせ返りそうになる。
こんな香り、絶対につけなかったのに――リーナは無意識に指先を握りしめた。
「……えっと、そうですね。わたしの方もエドワルド様の方も、特になにもありませんでした。
しかし今年は例年より多く小麦がとれるそうです。領民たちが喜んで──」
彼に報告する言葉を、リーナは自然に選んだ。
これまでずっと、そうやって話してきたから。
けれどその途中で、彼が軽く手を上げて遮る。
「そんなことより、リーナに紹介したい人がいるんだ。こっちにおいで」
唐突な言葉。
リーナが戸惑う間に、彼の後ろからひとりの女生徒が姿を現した。
陽の光を受けて、ゆるく巻かれた金髪が太陽のように輝く。
小さな白い顔に淡い桃色の瞳――その柔らかな微笑みが、空気を一瞬で染めた。
リーナは思わず息をのんだ。知っている顔だった。
「……お久しぶりです、マリアンド様」
「ああ、なんだ。知り合いだったのか。紹介する手間が省けたな」
エドワルドが笑う。その声が軽やかすぎて、リーナの鼓動がずれた。
マリアンド――それはリーナの友人のひとり。
同じクラスの女生徒同士、仲良くしていた。リーナはつもりだ。
それに夏の手紙を何通も交わし、婚約者との関係に悩むリーナの話を真剣に聞いてくれた相手でもあった。
彼女は、リーナの心をもっとも理解してくれる人だと信じていたのに。
「リーナさん、ごきげんよう。……ふふ、どうして? といった顔をしているわね」
「動揺しないほうがおかしいというものですわ」
努めて微笑む。声は震えていなかったが、心の奥は真っ黒に塗りつぶされていた。
マリアンドは、エドワルドの隣にすっと腰を下ろす。
そして、何のためらいもなく彼の腕に手を添えた。
その親密な仕草に、リーナの呼吸が一瞬止まる。
ふたりの間に流れる空気。
それは、リーナが知る『婚約者同士』の距離ではなかった。
まるで彼女こそが、エドワルドの隣にいるべき人であるかのように自然だった。
「……リーナ?」
「大丈夫ですの、リーナさん?」
表面上は心配する声。
けれど、その響きはどこか遠く、届かない。
悪意があるのか、それとも無邪気なのか。リーナにはもう分からなかった。
「いえ、特に問題ありませんわ」
声だけが、自分とは別の誰かのもののように冷たく響く。
「そう。ではエドワルド様……」
「ああ。……リーナ。
今日はきみに許可をもらいたくて、こうして来てもらったんだ」
来てもらった?
その言葉が、心の奥に小さな違和感を落とす。
ここは本来、ふたりの昼食の時間のはず。
それなのに、まるで自分が呼び出された側のように扱われている。
「なんでしょう、わたしには皆目見当も……」
「──リーナ。婚約を、一旦白紙、もしくは解消してほしい」
その瞬間、世界の音が消えた。
周囲のざわめきも、木々のざわめきも、遠くの鐘の音すらも。
ただ、エドワルドの声だけが、冷たく、現実として胸に突き刺さる。
「……どうしてですか。わたしになにか、ご不満がありましたか?
指摘していただければ──」
言葉が震えた。
けれど、それでも彼に縋りたくて。理由がほしくて。
「そう。それだよ、リーナ」
エドワルドは大きくため息をついた。
わざとらしく、誰にでも聞こえるほどの音で。
その瞬間、リーナの中で何かが崩れ落ちた。
呆れられた、失望された――そう理解した瞬間、胸の奥が焼けるように痛んだ。
目の前のエドワルドは、まるで別人だった。
あの柔らかに微笑む彼ではない。
笑ってはいるのに、どこか冷たい。
視線の奥には、もうリーナという存在を映していない。
「正直うんざりなんだ。なぜ婚約者であるきみに、
いちいち意見を聞かれなければならないのか。
訂正を求められなければならないのか」
「も、申し訳……」
声が震えた。
喉の奥が焼けつくように痛いのに、言葉が止まらない。
止めなければ、また傷が増えると分かっているのに。
身体の震えが止まらない。
今、初めて――本当に、初めて。
リーナは捨てられるかもしれないという恐怖を感じていた。
今までずっと、彼が優しかったのは、愛があったからだと思っていた。
けれど違ったのかもしれない。
彼はただ、我慢してくれていただけ。
あるいは、世界を知らない狭い箱庭の中で、偶然リーナしか見えていなかっただけで。
「謝って済むのか? リーナ。きみも学園に来て学んだだろ?
婚約者なんて、結婚までのつなぎの関係であることを」
その言葉が、胸を突き刺す。
リーナは俯いた。
紅葉が一枚、風に舞い、彼女の膝の上に落ちた。赤い。まるで血のようだと思った。
そう、この国では婚約期間は短く、形ばかりのものも多い。
しかし――それでも、リーナにとっては違った。
エドワルドは人生の支えであり、世界そのものだったのだ。
「し、しかし……っ」
「あらまぁ、震えていらっしゃいますわ。お可哀想なリーナさん」
くすくすと、マリアンドが笑った。
その声音は鈴のように澄んでいるのに、冷たい刃のようにリーナの心を切り裂く。
恥ずかしい。
惨めだ。
もう前を向けない。視線を上げれば、エドワルドがマリアンドと並んでいるのが見えてしまう。
二人の距離が、こんなにも近いことが――痛い。
逃げ出したい。
でも、どこへ?
リーナにはエドワルドしかいない。
家族も、友人も、すべての繋がりは彼を中心に築かれてきた。
彼がいなければ、自分は立っていられない。
エドワルドには、未来がある。
けれど自分には、もう何もない。
そんな現実が、肌の下にまで染みてくる。
「リーナ。同意、してくれるよね?」
酷く優しい声だった。
まるで傷ついた小動物を宥めるような、柔らかな響きで。
その優しさが、かえって残酷だった。
「い、や……です」
唇が震えながら、かろうじて絞り出した言葉。
声が掠れて、風に消えていく。
客観的に見れば、この場で拒む理由はない。
こんな人前で、婚約解消という仕打ちを受けてなお、縋るなど、どれほど惨めな姿か。
けれど、言えなかった。
――あなたとの婚約なんてこちらから願い下げよ。
そんな強さを、リーナは持ち合わせていなかった。
ただ静かに、涙が目に溜まる。
それでも、彼女は声を上げなかった。
泣けば、もっと嫌われる気がしたから。
木々の葉が舞い落ちる。風が一瞬だけ強く吹き抜け、リーナのスカートの裾を揺らした。
思えば、ずっとそうだった。
リーナは昔から「こんなものか」と思って生きてきた。
与えられたものを、与えられた分だけ消化して。
親の言葉に、エドワルドの希望に、逆らうこともなく頷いてきた。
――だから、当たり前について考えるということを、いつの間にかやめてしまっていた。
リーナの意思なんて、とうの昔に枯れている。
だからこそ今、目の前のこの婚約が消え去るという現実を突きつけられても、どう生きていけば良いのかわからないのだ。
彼がいない世界で、どうやって呼吸をすればいいのか。
どうして涙が溢れるのか、リーナ自身にもわからなかった。
それでも、必死にこらえる。唇を噛みしめ、滲む涙を誤魔化しながら、リーナは声を絞り出す。
「女の嫉妬は見苦しいですわよ?」
マリアンドの声が、甘く響く。
その言葉に、リーナは静かに目を伏せた。
笑おうとしても頬が引きつる。もう、笑い方も忘れてしまったみたいだ。
「……っそれでも、わたしは──」
――ばしゃり。
唐突に、頬に冷たい衝撃が走った。
制服の襟元から、冷水がつうっと流れ込む。
秋風がその水を凍らせるように肌を刺した。
髪が水を吸って重くなり、肩から背へと冷たさが染みていく。
「……え。どう、して」
目の前の光景が、理解できなかった。
水面のようにゆらぐ視界の先で、エドワルドは冷ややかに立っていた。
「どうしてもなにも。リーナの判断が遅いから、催促しただけだけど?」
あまりにも平然とした声だった。
ふん、と鼻を鳴らすその仕草は、まるで当然の教育でもしたかのような態度だ。
周囲の学生たちがざわめき立つ。
小声でささやきあい、誰かがくすりと笑う気配がした。
声が、耳に届いてしまう。
心臓がぎゅっと掴まれるようだった。
リーナはもう、涙を堪えられなかった。
頬を伝うのは冷水か、それとも涙か――もはやわからない。
その時だった。
「黙って見ていたが、解消ごときにいささか度が過ぎるんじゃないか?」
低く、澄んだ声。
風よりも冷たい、しかし凛とした響き。
ふわり、と何かがリーナの頭にかけられた。
厚手のバスタオル。
温かさがじんわりと広がる。リーナは驚いて顔を上げようとするが、上からすっぽりとタオルを被せられ、その人の姿は見えなかった。
さらにタオルの上から、そっと押さえられる。
視界が封じられ、ただ声だけが頼りになる。
「これはこれはディードランド公爵令息。夏の休暇ぶりですね、本日は──」
「そんなことはどうでもいい。
私が聞いているのは、リーナ嬢への仕打ちについてだが?」
風よりも冷たい声。
その名を聞いて、リーナは思い出した。
――レイ・ディードランド。
同じクラスの公爵令息。学業優秀で、冷静沈着と噂される青年。
「ああ、リーナがなかなか解消に応じてくれないのです。
どうかあなた様からもお力添え願えませんでしょうか?」
エドワルドは笑っていた。
まるで悪びれもせず、リーナの肩をなにげなく指で示しながら。
彼の口から語られる自分の名前が、ひどく遠い。
……リーナが悪いのか。
応じずに婚約者という地位にしがみつく自分が醜いのか。
胸の奥が、きゅうっと痛んだ。
「……ふむ。では、リーナ嬢。私からもお願いする」
レイの声は静かで、穏やかだった。
その口調が優しいだけに、リーナはもう完全に諦めの境地に達していた。
――ああ、やっぱり。
わたしは、この世界から爪弾きにされる存在なんだ。
けれど、その次の言葉で、世界が一変した。
「どうかエドワルドとの婚約を解消し──私と、婚約してくれないだろうか」
「……え?」
耳を疑った。
声を呑む音が、自分のものだと気づくのに時間がかかる。
ぱっと弾かれたようにリーナは顔を上げた。
タオルの隙間から覗くと、レイが微笑んでいた。
知的なアメジストのような瞳が、まっすぐにリーナを見つめている。
「その、えっと……」
「ああ、こんな公衆の面前では考えもまとまらないか。
エドワルドとマリアンド嬢の話はこれで終わりか?」
「はい。書類は改めて送らせていただきます」
リーナが目を白黒させている間に、話がどんどん進んでいく。
まるで彼女の意思など関係ないかのように。
どうして子爵令嬢の自分が、公爵令息に婚約を申し込まれているの?
……いや、きっと今だけ。盾になってくれているだけに違いない。
そうでなければ、勘違いしてしまうから。
しかし周囲はすでに黄色い声で満ちていた。
「レイ様が!」「あの子爵令嬢を?」
誰もが驚きと羨望を入り混ぜた表情でリーナを見つめている。
次の瞬間、ふわりと身体が浮いた。
レイが、リーナを横抱きにしていた。
エドワルドから一度もされたことのない浮遊感。
温かな腕の中で、リーナは完全に動けなくなる。
タオルに包まれたその姿は、まるで赤子のようだった。
「きゃ……っ」
小さく声を上げたものの、すぐに口を押さえる。
恥ずかしさと、そして――胸の奥に湧いた、知らない感情に圧倒されて。
冷たい水の跡が、じんわりと温かくなっていく。
リーナの世界が、ゆっくりと、確かに色を取り戻していった。
ふわり、まるで天使のように優しい穏やかな笑みを携えて、マリアンドは言った。
そこにはなんの悔恨も嫉妬も籠もっていなかった。
「まぁ! レイ様が新しい婚約者なんて、羨ましいですわ」
そんな声が、風に乗って遠くから届く。
中庭の喧騒がまだ背後で渦巻いていた。
だが、リーナの耳にはもう、誰の声もはっきりとは届かなかった。
「でも、その方が安心だろう」
エドワルドの低く穏やかな声が、静かに胸の奥に染み込む。
その一言で、リーナの中の何かが――ようやく、終わった。
もう、彼らの姿は映らない。
あんなに縋って、あんなに信じていたのに。結局、リーナを捨てたのだ。
あの瞬間、水をかけられた痛みよりも、彼らの表情の方がずっと冷たくて、ずっと深く心に残っている。
レイはふたりに短く別れを告げると、迷うことなく歩き出した。
彼の足取りは揺るぎなく、まるで最初からすべて知っていたかのようだった。
リーナはその腕の中で、ただ小さく息をする。自分の足で歩く力など、もう残っていなかった。
校舎へと続く石畳は、秋の午後の日差しに照らされて淡く光る。冷たい風が頬を撫で、濡れた髪を揺らす。
そのたびにレイが少し腕に力を込めて、タオルの端を整えてくれる。
その仕草が、優しすぎて――胸が締めつけられた。
「……最初から、なにも始まっていなかったのですね。エドワルド様とも、それにマリアンド様とも」
リーナはかすれた声で呟いた。涙はもう出なかった。
泣く力すら、もう残っていなかった。
それでも、言葉は零れてしまう。まるで何かを確かめるように。
レイは答えなかった。ただ静かに歩を進め、リーナの頭を撫でた。
その掌の温かさが、冬の毛布のように優しかった。慰めるというより、ただ『ここにいる』と伝えるための仕草。
中庭のざわめきが遠のいていく。人の気配も、嘲笑も、風に溶けて消えていった。
見上げれば、木々の間からのぞく空はどこまでも高く、どこまでも青い。
リーナはその腕の中で、初めて息を吐いた。
胸の奥で、重く錆びついていた鎖が、ひとつ、音を立てて外れていくような気がした。
――ああ。
あんなにも大切だったはずの人が、もう遠い。
レイの背に感じる温度だけが、今の自分を現実に繋ぎとめていた。
彼の手が、またリーナを撫でる。
それだけで、世界が少しだけ優しく見えた。
「……レイ様」
名前を呼ぶ声は、震えていた。けれど、それは悲しみのせいではなかった。
初めて、自分の意志で誰かを呼んだような気がしたから。
レイは歩みを止めず、静かに言った。
「もう大丈夫。君は、君のままでいい」
その言葉が、リーナの心に灯をともした。
泣けなかったはずの目から、ようやく一筋の涙が零れた。
それは冷たくもなく、痛くもなかった。
――まるで、再び生まれ変わる合図のように。
◆
あの日の騒ぎから、一週間が経った。
秋の風が少し冷たくなってきた午後、リーナはレイに呼び出されていた。
学院の中庭の奥――人の少ない林のほとりに、レイは立っていた。
金の光を吸収するかのようにある黒い髪が、木漏れ日の中で柔らかく揺れている。
「もう、婚約者がいない日常は慣れたか?」
声は穏やかだった。けれど、どこか探るようでもある。
リーナは一瞬、胸の奥がきゅっと縮まるのを感じた。
彼の問いかけは、優しさであり、同時に現実の確認でもあった。
「ご心配おかけして申し訳ありません。
……そうですね、まだ少し、戸惑うこともあります。当たり前だったので」
そう言って、リーナは微笑んだ。
笑ったつもりだったが、その笑みは少しだけ苦かった。
長い間、エドワルドの隣にいることが当然だった。
朝のあいさつも、授業の合間の何気ない言葉も。
その当たり前が突然消えてしまった今、何をどう感じればいいのか、自分でも分からない。
レイは、その笑みを見てすっと真顔になった。
そして、リーナの前で片膝をつく。
「……リーナ嬢。もう一度、改めて言わせていただきたい。
あなたの当たり前を、これから私と作っていかないか?」
目を剥いた。
自分に価値などないと、信じきっていたから。
「し、しかしっ……あれは、あの場を収めるための言葉だったのでは……?」
しかし、リーナは思わず息をのむ。
頬が熱くなる。胸の鼓動が早くなって、どう言葉を返せばいいのかわからない。
――だって、あの時のあれは。
みんなの前でレイが庇ってくれた、ただそれだけのことだと思っていた。
公爵令息が、子爵令嬢に本気で想いを告げるなんて、あるはずがない。
リーナは自分にそう言い聞かせていた。
けれど、レイは苦笑して、頬をかいた。
「あぁ、だからこの一週間、教室でも全然意識してくれなかったんだな」
──だからやけに会話する回数が多かったのか。
そう思考がよぎった瞬間。
からかうように、レイは自然な動作でリーナの手を取った。
そのまま、指先に唇を落とす。
「……っ!」
リーナの体がびくりと震える。顔が一瞬で真っ赤になった。
レイはそんな彼女の反応に、少しだけ目を細めた。
「リーナ嬢、私はあなたと一生を添い遂げたい。
一緒に笑って、悩んで、時には泣いたり。……そんな関係になりたいんだ」
その声は静かで、真剣だった。
胸の底に隠していた本心を、ひとつひとつ解き放つような声音。
その瞳には、打算も、義務もなかった。あるのはただ、真っすぐな想いだけ。
リーナは目を見開いたまま、言葉を失っていた。
こんなにも大切に扱われたことがない。
自分の意思や気持ちを、ここまで真剣に尊重されたことが、今まで一度もなかった。
胸の奥で、温かい何かがじわりと広がっていく。
それは涙ではなく――希望のような、柔らかな光だった。
「……ひとつずつ、当たり前を作っていこう。まずは、隣にいることから」
レイの言葉が、秋風に乗って届く。
まるで約束のように、やさしく包み込むような響きだった。
リーナはそっと顔を上げた。
差し出された手。
それは初めて、誰かが対等な位置から自分に向けてくれたものだった。
「……はい」
リーナは微笑んで、その手を取る。
柔らかな掌が重なり合った瞬間、胸の奥に新しい『当たり前』が、静かに生まれた。
風が木々を揺らし、遠くで鐘の音が響く。
それはまるで、二人の未来を祝福するようだった。
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