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前篇

前後篇にて投稿!後篇は本日22時頃の予定!



 侯爵令息エドワルドと、子爵令嬢リーナは――生まれたときから隣り合う世界にいた。


 ふたつの領地は、境をなす小川を挟んで寄り添うように広がっている。春には花弁を浮かべ、夏には子どもたちが裸足で駆け、秋には落ち葉を流し、冬には氷の橋を渡る。そんな小川が、いつしか二人の遊び場となり、そして、思い出のすべての舞台となっていった。


 幼いエドワルドは、領地の警備兵よりも先に、リーナの屋敷の裏門の鍵の癖を覚えた。

 リーナもまた、エドワルドの庭に咲く薔薇の季節を、庭師より正確に言い当てた。

 互いの屋敷の間取りも、家の者の名前も、馬小屋の匂いまでも知っている。まるで、二人でひとつの世界を形づくっているようだった。


 両家の仲も良好だった。交易でも祭事でも助け合い、年に一度の合同収穫祭では、侯爵夫妻と子爵夫妻が並んで酒を酌み交わした。

 そんな中で、同じ年に生まれたエドワルドとリーナの存在は、まさに祝福の象徴だった。


 「あなたたちは将来一緒になるのよ」


 そう言われたのは、まだ七歳のとき。

 庭の藤棚の下で、大人たちは微笑み、二人の頭をやさしく撫でた。

 その言葉に、リーナは小首を傾げ、エドワルドは少し照れくさそうに笑った。

 その日以来、二人の世界には「将来」という言葉が、やさしい魔法のようにかかっていた。


 誰も疑わなかった。

 少なくとも、彼女は。

 ――そうなるものだと、信じていたのだ。


 日が沈むころ、リーナはいつもエドワルドの屋敷の丘を見上げた。屋根越しにのぞく灯りを見て、「今日も同じ空を見ている」と思うのが、彼女の日課だった。


 まだ愛という言葉を知らなかった頃の、確かなつながり。

 それは、血縁でも契約でもなく、幼い心の中で静かに育った運命という名の芽だった。







 貴族学園に入学する少し前のこと。

 侯爵家と子爵家のあいだで、形式だけの婚約を結ぶことが決まった。


 書面にサインをするだけの、小さな儀式。

 親たちは穏やかに笑い、執事や書記官が立ち会い、日常の一幕のようにその婚約は取り交わされた。


 エドワルドは、その時――笑っていたような気がする。

 「永遠を誓うための署名」だと説明されたはずなのに、彼の笑みには緊張も、決意も、感慨もなかった。


 けれど、それは彼が無神経だからではない。

 むしろ、あまりにも自然だったのだ。

 ペンを取り、名前を書き、インクを乾かすその一連の動作が、まるで毎日の食後のように当たり前で、習慣の一部であるかのようだった。


 ――だから、少しだけ驚いた。

 胸の奥がざらりと揺れて、リーナはふと、自分でも説明できない違和感を覚えた。


 けれど、その違和感の正体は、時間が経ってようやく理解できた。

 「ふたりでいることが当たり前だったから」――そう気づいたのは、学園に入ってからのことだった。




 貴族学園の春は、あざやかな花の香りと新しい制服の糊の匂いに包まれていた。

 石畳の道を歩く足音が重なり、鐘の音が高く響く。

 リーナとエドワルドは同じ馬車で登校したが、入学式が終わるとすぐに別々のクラスへと割り振られた。


 初めて、日常の大部分を別々に過ごすことになった。

 その事実を、リーナは胸の奥でそっと転がすように噛みしめる。


 リーナにも新しい友人ができた。

 朗らかな令嬢、少し生意気な同級生、物腰柔らかな先輩、厳しいが誠実な先生――。

 新しい人間関係は目まぐるしく、華やかで、世界がひとまわり広がったように感じた。

 彼女の中で、いままで隣にあった世界が少しずつ、別の輪郭を持ち始めていた。


 もちろん、エドワルドとの距離が遠くなったわけではない。

 領地にいたときと同じくらい、リーナは話をした。

 授業が終われば、彼は必ずリーナの教室前で待っていた。

 寮から学舎まで、放課後の帰り道も、決まって彼が隣を歩いた。


 ある日のこと。

 リーナはふと、申し訳なさそうに言った。


 「毎日わたしを送り迎えすると、エドワルド様のお時間が……」


 その言葉に、エドワルドは少し笑って答えた。


 「これくらいさせてほしいな。一応、婚約者なんだし」


 そのとき、彼の頬はわずかに赤く染まっていた。

 春風に混じるように、ほんの一瞬。

 その照れくさそうな表情に、リーナは思わず微笑んでしまった。

 胸の奥が、ゆるやかに温かくなるのを感じる。


 それから、彼女はあえて言い返さなくなった。

 エドワルドの善意に甘えること――それは、ほんの少しの贅沢のように思えた。

 小川のほとりで一緒に遊んだ幼い日々の続きが、まだどこかで繋がっている。

 そんな気がして、リーナはその隣にいる時間を、大切に抱きしめるように過ごした。


 だが、リーナはまだ知らなかった。

 彼女の当たり前の日々が、少しずつ音を立てて崩れはじめていることを。







 夏の陽射しが、石畳を白く照らしていた。

 窓越しに差し込む光は、夕方ということもあり橙の陽が強い。

 図書館の木机の上に長い影を落とす。

 蝉の声が遠くに聞こえ、リーナは額に落ちる一筋の汗をそっとぬぐった。


 もうすぐ、夏の長期休暇前の考査が始まる。

 友人たちは皆、今日は予定が合わず、リーナはひとりで机に向かっていた。

 真面目な彼女にとって、それは特別なことではない。けれど、ページをめくるたびに感じる静けさが、いつもより少し広く、少し寂しく響いていた。


 ふと、気がつくと、図書館の時計の針が閉館時刻を指している。

 司書の女性が気遣わしげにリーナの方を見ていた。

 慌ててペンケースと紙束を整え、椅子を押し戻す。

 重厚な扉を押して外に出ると、夕暮れの風が頬を撫でた。


 大噴水の前――そこが、今日の待ち合わせ場所だった。

 水面に映る橙色の光がゆらゆらと揺れ、子どもたちの笑い声はもう遠い。

 だが、エドワルドの姿はなかった。


 石の縁に腰かけ、リーナは懐中時計を見た。

 五分、十分、二十分……気づけば、三十分が経っていた。

 心のどこかで「何かの用事が入ったのかも」と自分に言い聞かせる。

 けれど、時間は残酷に流れていく。


 寮の門限が迫っていた。

 後ろ髪を引かれる思いで、リーナは噴水をあとにした。

 夕暮れの街を歩きながら、足元に落ちた自分の影が、やけに長く感じられた。


 ――それが、最初の違和感だった。







 考査が終わり、夏の長期休暇が目前に迫ったある昼下がり。

 学園の食堂のテラスで、リーナはようやくエドワルドと顔を合わせた。

 あの日以来、二週間ぶりの再会だった。


 テーブルの上には、涼しげなミントの香りの紅茶。

 空には薄雲が広がり、吹き抜ける風が花壇のラベンダーを揺らしていた。


 久々の食事――けれど、エドワルドの表情はどこか他人行儀だった。

 談笑もなく、リーナが話しかけても、短く頷くだけ。

 何を話しても、彼の視線はどこか遠くを見ているように思えた。


 リーナは紅茶のカップを置き、少しだけ笑みを作って言った。


 「あと少しで、私は領地に戻ると思いますが、エドワルド様か、わたし、この夏はどちらの領地に滞在しますか?」


 それは、婚約者同士として自然な問いかけだった。

 卒業後の生活を見据えた、当たり前の会話。

 だが、返ってきたのは思いもよらぬ言葉だった。


 「いや、今年はクラスの友人に避暑に誘われていてね。ひとりで帰ってくれないか」


 「……え?」


 リーナの声は小さく震えた。

 彼の口調はあまりに穏やかで、あまりに明るく、それが余計に胸を刺した。


 「それに、もう何年もそういうことしてただろ?

 お互い違う交友関係もあるんだし、リーナは俺にとらわれず、自由に過ごしてほしいんだ」


 ――まるで、リーナのためを思っているかのような声音で。

 彼は朗々と笑いながら言った。


 けれど、その笑みは、どこかで見た彼の優しさとは違っていた。

 その言葉の端々から、まるで距離を測るような冷たさが滲んでいた。


 「……わかりました。では、そのように実家へ連絡させていただきます」


 そう答えるのが精一杯だった。

 喉の奥がつまって、呼吸が少し苦しい。

 それでも、リーナは貴族令嬢としての礼節を崩さなかった。


 「ああ、頼んだ」


 短くそう言って、エドワルドは立ち上がる。

 椅子の脚が石畳を擦る音が、やけに耳に残った。


 そして、振り返ることもなく、そのまま去っていった。




 リーナはその場に残され、ただ静かに息をついた。

 どうして、世間話すらしてくれなくなったのだろう。

 どうして、目を合わせてくれなくなったのだろう。


 ――長年、共にいた自分に飽きたのだろうか。

 それとも、私が何かいけないことをしたのだろうか。


 答えのない問いが、胸の中で波紋のように広がっていく。

 けれど、それを確かめる術はもうなかった。


 数日後、リーナは帰省のために学園を発つ。

 馬車の中には、ひとりきり。

 窓の外を流れていく街並みが、やけに遠く見えた。


 エドワルドの姿は、どこにもなかった。

 それがこんなにも胸を締めつけるとは、思ってもいなかった。


 ――私は、当たり前に甘えすぎていたのかもしれない。


 リーナは両手を膝の上で組み、唇を噛みしめた。

 心の奥底で渦巻く不安や不満、寂しさ。

 それらを一つひとつ、トランクの中に詰め込むような気持ちで。


 「この感情は、エドワルド様に迷惑がかかってしまうから」


 そう、強く自分に言い聞かせた。


 馬車の車輪がゆっくりと動き出す。

 夏の空の下、リーナを乗せた馬車は、静かに学園を離れていった。

 遠ざかる塔の影が、まるで誰かの背中のように見えた。







 ときが過ぎて、夏の長期休暇明け最初の登校日。

 季節は秋。

 学園の中庭を彩る並木が、赤や金の衣をまとって風に揺れていた。

 昼下がりの陽射しは柔らかく、石畳に落ちた木漏れ日がきらきらと揺れている。


 食堂のテラス席に座り、リーナは静かに紅茶の香りを吸い込んだ。

 久しぶりの登校。長い夏を経て、またいつもの昼食が始まろうとしている。

 カップの向こうには、まだ誰もいない席。――エドワルドの席。


 彼は少し遅れてくることが多かった。だから今日も、待つことは苦ではなかった。

 けれど、胸の奥にかすかな不安があった。

 また、あの日のように来ないのではないか――そんな思いが、秋の空気の中に小さく潜んでいた。


 「やぁリーナ、久しぶり。領地は特に変わりはなかったかな?」


 聞き慣れた声に顔を上げた瞬間、リーナの心臓が一瞬止まった。

 え? と、無意識に息とも声ともつかない音が漏れた。


 エドワルド――けれど、どこか違っていた。

 まず、服装。あの几帳面だった彼が、シャツのボタンを二つも外し、袖を無造作にまくり上げている。

 ポケットに片手を突っ込み、どこか余裕を演出するような歩き方。

 肌は日中ずっと外で遊んでいたかのように焼け、それはまるで領地で見る庶民のよう。

 かつての、真面目で誠実な彼の姿とはまるで別人だった。


 ふわり、と強い香水の香りが風に乗ってリーナの鼻をくすぐった。

 悪い香りではない。けれど、濃すぎてむせ返りそうになる。

 こんな香り、絶対につけなかったのに――リーナは無意識に指先を握りしめた。


 「……えっと、そうですね。わたしの方もエドワルド様の方も、特になにもありませんでした。

 しかし今年は例年より多く小麦がとれるそうです。領民たちが喜んで──」


 彼に報告する言葉を、リーナは自然に選んだ。

 これまでずっと、そうやって話してきたから。

 けれどその途中で、彼が軽く手を上げて遮る。


 「そんなことより、リーナに紹介したい人がいるんだ。こっちにおいで」


 唐突な言葉。

 リーナが戸惑う間に、彼の後ろからひとりの女生徒が姿を現した。


 陽の光を受けて、ゆるく巻かれた金髪が太陽のように輝く。

 小さな白い顔に淡い桃色の瞳――その柔らかな微笑みが、空気を一瞬で染めた。

 リーナは思わず息をのんだ。知っている顔だった。


 「……お久しぶりです、マリアンド様」


 「ああ、なんだ。知り合いだったのか。紹介する手間が省けたな」


 エドワルドが笑う。その声が軽やかすぎて、リーナの鼓動がずれた。


 マリアンド――それはリーナの友人のひとり。

 同じクラスの女生徒同士、仲良くしていた。リーナはつもりだ。

 それに夏の手紙を何通も交わし、婚約者との関係に悩むリーナの話を真剣に聞いてくれた相手でもあった。

 彼女は、リーナの心をもっとも理解してくれる人だと信じていたのに。


 「リーナさん、ごきげんよう。……ふふ、どうして? といった顔をしているわね」


 「動揺しないほうがおかしいというものですわ」


 努めて微笑む。声は震えていなかったが、心の奥は真っ黒に塗りつぶされていた。


 マリアンドは、エドワルドの隣にすっと腰を下ろす。

 そして、何のためらいもなく彼の腕に手を添えた。

 その親密な仕草に、リーナの呼吸が一瞬止まる。


 ふたりの間に流れる空気。

 それは、リーナが知る『婚約者同士』の距離ではなかった。

 まるで彼女こそが、エドワルドの隣にいるべき人であるかのように自然だった。


 「……リーナ?」

 「大丈夫ですの、リーナさん?」


 表面上は心配する声。

 けれど、その響きはどこか遠く、届かない。

 悪意があるのか、それとも無邪気なのか。リーナにはもう分からなかった。


 「いえ、特に問題ありませんわ」


 声だけが、自分とは別の誰かのもののように冷たく響く。


 「そう。ではエドワルド様……」


 「ああ。……リーナ。

 今日はきみに許可をもらいたくて、こうして来てもらったんだ」


 来てもらった?

 その言葉が、心の奥に小さな違和感を落とす。

 ここは本来、ふたりの昼食の時間のはず。

 それなのに、まるで自分が呼び出された側のように扱われている。


 「なんでしょう、わたしには皆目見当も……」


 「──リーナ。婚約を、一旦白紙、もしくは解消してほしい」


 その瞬間、世界の音が消えた。

 周囲のざわめきも、木々のざわめきも、遠くの鐘の音すらも。

 ただ、エドワルドの声だけが、冷たく、現実として胸に突き刺さる。


 「……どうしてですか。わたしになにか、ご不満がありましたか?

 指摘していただければ──」


 言葉が震えた。

 けれど、それでも彼に縋りたくて。理由がほしくて。


 「そう。それだよ、リーナ」


 エドワルドは大きくため息をついた。

 わざとらしく、誰にでも聞こえるほどの音で。


 その瞬間、リーナの中で何かが崩れ落ちた。

 呆れられた、失望された――そう理解した瞬間、胸の奥が焼けるように痛んだ。


 目の前のエドワルドは、まるで別人だった。

 あの柔らかに微笑む彼ではない。

 笑ってはいるのに、どこか冷たい。

 視線の奥には、もうリーナという存在を映していない。


「正直うんざりなんだ。なぜ婚約者であるきみに、

 いちいち意見を聞かれなければならないのか。

 訂正を求められなければならないのか」


「も、申し訳……」


 声が震えた。

 喉の奥が焼けつくように痛いのに、言葉が止まらない。

 止めなければ、また傷が増えると分かっているのに。


 身体の震えが止まらない。

 今、初めて――本当に、初めて。

 リーナは捨てられるかもしれないという恐怖を感じていた。


 今までずっと、彼が優しかったのは、愛があったからだと思っていた。

 けれど違ったのかもしれない。

 彼はただ、我慢してくれていただけ。

 あるいは、世界を知らない狭い箱庭の中で、偶然リーナしか見えていなかっただけで。


「謝って済むのか? リーナ。きみも学園に来て学んだだろ?

 婚約者なんて、結婚までのつなぎの関係であることを」


 その言葉が、胸を突き刺す。

 リーナは俯いた。

 紅葉が一枚、風に舞い、彼女の膝の上に落ちた。赤い。まるで血のようだと思った。


 そう、この国では婚約期間は短く、形ばかりのものも多い。

 しかし――それでも、リーナにとっては違った。

 エドワルドは人生の支えであり、世界そのものだったのだ。


「し、しかし……っ」


「あらまぁ、震えていらっしゃいますわ。お可哀想なリーナさん」


 くすくすと、マリアンドが笑った。

 その声音は鈴のように澄んでいるのに、冷たい刃のようにリーナの心を切り裂く。


 恥ずかしい。

 惨めだ。

 もう前を向けない。視線を上げれば、エドワルドがマリアンドと並んでいるのが見えてしまう。

 二人の距離が、こんなにも近いことが――痛い。


 逃げ出したい。

 でも、どこへ?

 リーナにはエドワルドしかいない。

 家族も、友人も、すべての繋がりは彼を中心に築かれてきた。

 彼がいなければ、自分は立っていられない。


 エドワルドには、未来がある。

 けれど自分には、もう何もない。


 そんな現実が、肌の下にまで染みてくる。


「リーナ。同意、してくれるよね?」


 酷く優しい声だった。

 まるで傷ついた小動物を宥めるような、柔らかな響きで。


 その優しさが、かえって残酷だった。


「い、や……です」


 唇が震えながら、かろうじて絞り出した言葉。

 声が掠れて、風に消えていく。

 客観的に見れば、この場で拒む理由はない。

 こんな人前で、婚約解消という仕打ちを受けてなお、縋るなど、どれほど惨めな姿か。


 けれど、言えなかった。

 ――あなたとの婚約なんてこちらから願い下げよ。

 そんな強さを、リーナは持ち合わせていなかった。


 ただ静かに、涙が目に溜まる。

 それでも、彼女は声を上げなかった。

 泣けば、もっと嫌われる気がしたから。


 木々の葉が舞い落ちる。風が一瞬だけ強く吹き抜け、リーナのスカートの裾を揺らした。


 思えば、ずっとそうだった。


 リーナは昔から「こんなものか」と思って生きてきた。

 与えられたものを、与えられた分だけ消化して。

 親の言葉に、エドワルドの希望に、逆らうこともなく頷いてきた。


 ――だから、当たり前について考えるということを、いつの間にかやめてしまっていた。


 リーナの意思なんて、とうの昔に枯れている。

 だからこそ今、目の前のこの婚約が消え去るという現実を突きつけられても、どう生きていけば良いのかわからないのだ。


 彼がいない世界で、どうやって呼吸をすればいいのか。

 どうして涙が溢れるのか、リーナ自身にもわからなかった。


 それでも、必死にこらえる。唇を噛みしめ、滲む涙を誤魔化しながら、リーナは声を絞り出す。


「女の嫉妬は見苦しいですわよ?」


 マリアンドの声が、甘く響く。

 その言葉に、リーナは静かに目を伏せた。

 笑おうとしても頬が引きつる。もう、笑い方も忘れてしまったみたいだ。


「……っそれでも、わたしは──」


 ――ばしゃり。


 唐突に、頬に冷たい衝撃が走った。

 制服の襟元から、冷水がつうっと流れ込む。

 秋風がその水を凍らせるように肌を刺した。

 髪が水を吸って重くなり、肩から背へと冷たさが染みていく。


「……え。どう、して」


 目の前の光景が、理解できなかった。

 水面のようにゆらぐ視界の先で、エドワルドは冷ややかに立っていた。


「どうしてもなにも。リーナの判断が遅いから、催促しただけだけど?」


 あまりにも平然とした声だった。

 ふん、と鼻を鳴らすその仕草は、まるで当然の教育でもしたかのような態度だ。


 周囲の学生たちがざわめき立つ。

 小声でささやきあい、誰かがくすりと笑う気配がした。

 声が、耳に届いてしまう。


 心臓がぎゅっと掴まれるようだった。

 リーナはもう、涙を堪えられなかった。


 頬を伝うのは冷水か、それとも涙か――もはやわからない。

 その時だった。


「黙って見ていたが、解消ごときにいささか度が過ぎるんじゃないか?」


 低く、澄んだ声。

 風よりも冷たい、しかし凛とした響き。


 ふわり、と何かがリーナの頭にかけられた。

 厚手のバスタオル。

 温かさがじんわりと広がる。リーナは驚いて顔を上げようとするが、上からすっぽりとタオルを被せられ、その人の姿は見えなかった。

 さらにタオルの上から、そっと押さえられる。

 視界が封じられ、ただ声だけが頼りになる。


「これはこれはディードランド公爵令息。夏の休暇ぶりですね、本日は──」


「そんなことはどうでもいい。

 私が聞いているのは、リーナ嬢への仕打ちについてだが?」


 風よりも冷たい声。

 その名を聞いて、リーナは思い出した。

 ――レイ・ディードランド。

 同じクラスの公爵令息。学業優秀で、冷静沈着と噂される青年。


「ああ、リーナがなかなか解消に応じてくれないのです。

 どうかあなた様からもお力添え願えませんでしょうか?」


 エドワルドは笑っていた。

 まるで悪びれもせず、リーナの肩をなにげなく指で示しながら。

 彼の口から語られる自分の名前が、ひどく遠い。


 ……リーナが悪いのか。

 応じずに婚約者という地位にしがみつく自分が醜いのか。

 胸の奥が、きゅうっと痛んだ。


「……ふむ。では、リーナ嬢。私からもお願いする」


 レイの声は静かで、穏やかだった。

 その口調が優しいだけに、リーナはもう完全に諦めの境地に達していた。

 ――ああ、やっぱり。

 わたしは、この世界から爪弾きにされる存在なんだ。


 けれど、その次の言葉で、世界が一変した。


「どうかエドワルドとの婚約を解消し──私と、婚約してくれないだろうか」


「……え?」


 耳を疑った。

 声を呑む音が、自分のものだと気づくのに時間がかかる。


 ぱっと弾かれたようにリーナは顔を上げた。

 タオルの隙間から覗くと、レイが微笑んでいた。

 知的なアメジストのような瞳が、まっすぐにリーナを見つめている。


「その、えっと……」


「ああ、こんな公衆の面前では考えもまとまらないか。

 エドワルドとマリアンド嬢の話はこれで終わりか?」


「はい。書類は改めて送らせていただきます」


 リーナが目を白黒させている間に、話がどんどん進んでいく。

 まるで彼女の意思など関係ないかのように。


 どうして子爵令嬢の自分が、公爵令息に婚約を申し込まれているの?

 ……いや、きっと今だけ。盾になってくれているだけに違いない。

 そうでなければ、勘違いしてしまうから。


 しかし周囲はすでに黄色い声で満ちていた。

 「レイ様が!」「あの子爵令嬢を?」

 誰もが驚きと羨望を入り混ぜた表情でリーナを見つめている。


 次の瞬間、ふわりと身体が浮いた。

 レイが、リーナを横抱きにしていた。


 エドワルドから一度もされたことのない浮遊感。

 温かな腕の中で、リーナは完全に動けなくなる。

 タオルに包まれたその姿は、まるで赤子のようだった。


「きゃ……っ」


 小さく声を上げたものの、すぐに口を押さえる。

 恥ずかしさと、そして――胸の奥に湧いた、知らない感情に圧倒されて。


 冷たい水の跡が、じんわりと温かくなっていく。

 リーナの世界が、ゆっくりと、確かに色を取り戻していった。


 ふわり、まるで天使のように優しい穏やかな笑みを携えて、マリアンドは言った。

 そこにはなんの悔恨も嫉妬も籠もっていなかった。


 「まぁ! レイ様が新しい婚約者なんて、羨ましいですわ」


 そんな声が、風に乗って遠くから届く。

 中庭の喧騒がまだ背後で渦巻いていた。

 だが、リーナの耳にはもう、誰の声もはっきりとは届かなかった。


 「でも、その方が安心だろう」


 エドワルドの低く穏やかな声が、静かに胸の奥に染み込む。

 その一言で、リーナの中の何かが――ようやく、終わった。


 もう、彼らの姿は映らない。

 あんなに縋って、あんなに信じていたのに。結局、リーナを捨てたのだ。

 あの瞬間、水をかけられた痛みよりも、彼らの表情の方がずっと冷たくて、ずっと深く心に残っている。


 レイはふたりに短く別れを告げると、迷うことなく歩き出した。

 彼の足取りは揺るぎなく、まるで最初からすべて知っていたかのようだった。

 リーナはその腕の中で、ただ小さく息をする。自分の足で歩く力など、もう残っていなかった。


 校舎へと続く石畳は、秋の午後の日差しに照らされて淡く光る。冷たい風が頬を撫で、濡れた髪を揺らす。

 そのたびにレイが少し腕に力を込めて、タオルの端を整えてくれる。

 その仕草が、優しすぎて――胸が締めつけられた。


 「……最初から、なにも始まっていなかったのですね。エドワルド様とも、それにマリアンド様とも」


 リーナはかすれた声で呟いた。涙はもう出なかった。

 泣く力すら、もう残っていなかった。

 それでも、言葉は零れてしまう。まるで何かを確かめるように。


 レイは答えなかった。ただ静かに歩を進め、リーナの頭を撫でた。

 その掌の温かさが、冬の毛布のように優しかった。慰めるというより、ただ『ここにいる』と伝えるための仕草。


 中庭のざわめきが遠のいていく。人の気配も、嘲笑も、風に溶けて消えていった。

 見上げれば、木々の間からのぞく空はどこまでも高く、どこまでも青い。


 リーナはその腕の中で、初めて息を吐いた。

 胸の奥で、重く錆びついていた鎖が、ひとつ、音を立てて外れていくような気がした。


 ――ああ。

 あんなにも大切だったはずの人が、もう遠い。

 レイの背に感じる温度だけが、今の自分を現実に繋ぎとめていた。


 彼の手が、またリーナを撫でる。

 それだけで、世界が少しだけ優しく見えた。


 「……レイ様」

 名前を呼ぶ声は、震えていた。けれど、それは悲しみのせいではなかった。

 初めて、自分の意志で誰かを呼んだような気がしたから。


 レイは歩みを止めず、静かに言った。

 「もう大丈夫。君は、君のままでいい」


 その言葉が、リーナの心に灯をともした。

 泣けなかったはずの目から、ようやく一筋の涙が零れた。

 それは冷たくもなく、痛くもなかった。


 ――まるで、再び生まれ変わる合図のように。







 あの日の騒ぎから、一週間が経った。


 秋の風が少し冷たくなってきた午後、リーナはレイに呼び出されていた。

 学院の中庭の奥――人の少ない林のほとりに、レイは立っていた。

 金の光を吸収するかのようにある黒い髪が、木漏れ日の中で柔らかく揺れている。


 「もう、婚約者がいない日常は慣れたか?」


 声は穏やかだった。けれど、どこか探るようでもある。

 リーナは一瞬、胸の奥がきゅっと縮まるのを感じた。

 彼の問いかけは、優しさであり、同時に現実の確認でもあった。


 「ご心配おかけして申し訳ありません。

 ……そうですね、まだ少し、戸惑うこともあります。当たり前だったので」


 そう言って、リーナは微笑んだ。

 笑ったつもりだったが、その笑みは少しだけ苦かった。

 長い間、エドワルドの隣にいることが当然だった。

 朝のあいさつも、授業の合間の何気ない言葉も。

 その当たり前が突然消えてしまった今、何をどう感じればいいのか、自分でも分からない。


 レイは、その笑みを見てすっと真顔になった。

 そして、リーナの前で片膝をつく。


 「……リーナ嬢。もう一度、改めて言わせていただきたい。

 あなたの当たり前を、これから私と作っていかないか?」


 目を剥いた。

 自分に価値などないと、信じきっていたから。


 「し、しかしっ……あれは、あの場を収めるための言葉だったのでは……?」


 しかし、リーナは思わず息をのむ。

 頬が熱くなる。胸の鼓動が早くなって、どう言葉を返せばいいのかわからない。


 ――だって、あの時のあれは。

 みんなの前でレイが庇ってくれた、ただそれだけのことだと思っていた。

 公爵令息が、子爵令嬢に本気で想いを告げるなんて、あるはずがない。


 リーナは自分にそう言い聞かせていた。

 けれど、レイは苦笑して、頬をかいた。


 「あぁ、だからこの一週間、教室でも全然意識してくれなかったんだな」


 ──だからやけに会話する回数が多かったのか。

 そう思考がよぎった瞬間。


 からかうように、レイは自然な動作でリーナの手を取った。

 そのまま、指先に唇を落とす。


 「……っ!」


 リーナの体がびくりと震える。顔が一瞬で真っ赤になった。

 レイはそんな彼女の反応に、少しだけ目を細めた。


 「リーナ嬢、私はあなたと一生を添い遂げたい。

 一緒に笑って、悩んで、時には泣いたり。……そんな関係になりたいんだ」


 その声は静かで、真剣だった。

 胸の底に隠していた本心を、ひとつひとつ解き放つような声音。

 その瞳には、打算も、義務もなかった。あるのはただ、真っすぐな想いだけ。


 リーナは目を見開いたまま、言葉を失っていた。

 こんなにも大切に扱われたことがない。

 自分の意思や気持ちを、ここまで真剣に尊重されたことが、今まで一度もなかった。


 胸の奥で、温かい何かがじわりと広がっていく。

 それは涙ではなく――希望のような、柔らかな光だった。


 「……ひとつずつ、当たり前を作っていこう。まずは、隣にいることから」


 レイの言葉が、秋風に乗って届く。

 まるで約束のように、やさしく包み込むような響きだった。


 リーナはそっと顔を上げた。

 差し出された手。

 それは初めて、誰かが対等な位置から自分に向けてくれたものだった。


 「……はい」


 リーナは微笑んで、その手を取る。

 柔らかな掌が重なり合った瞬間、胸の奥に新しい『当たり前』が、静かに生まれた。


 風が木々を揺らし、遠くで鐘の音が響く。

 それはまるで、二人の未来を祝福するようだった。






いつも応援コメント、評価、リアクションありがとうございます!


寄せていただいたご意見には、同じ温度で、できる限り早く返信をさせていただいております。


ぜひ面白ければ★★★★★、退屈だったら★☆☆☆☆をお願いします。


次の投稿は本日22時頃です。


ここまで読んでくださったみなさんに感謝!!




⬇お時間ある方はこちらもどうぞ!⬇

【妹を大切にしてくださった婚約者様へ】

https://ncode.syosetu.com/n9252lh/




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