占領下日本の悲劇
アメリカ支配下の戦後日本は、アメリカ発のプロパガンダに満ち満ちています。日本政府もマスメディアも歴史教科書でさえプロパガンダばかりです。よって、戦後日本の真相を知るためには、あらゆるプロパガンダを排除する作業をせねばなりません。
戦後日本に蔓延しているプロパガンダによれば、アメリカが占領期に日本を民主化し、自由化したとされていますが、バカバカしいほどに明白な大嘘です。実際にアメリカがやったことは、日本国民への虐待であり、日本の弱体化、共産化、朝鮮化でした。
アメリカが日本に押し付けた日本国憲法には確かに基本的人権が明記されています。しかし、現実の占領下において日本国民の基本的人権を踏みにじったのはアメリカ軍を中心とする連合国軍将兵でした。まるで雑草を刈るかのように日本国民を殺し、傷つけ、犯しました。そこに良心の呵責はなく、傲慢で苛烈な人種差別意識だけがありました。言語と振る舞いがまったく矛盾しているのがアメリカです。それを恥とも思わず、不条理とも考えないのがアメリカです。長い歴史と伝統をもつ日本の法制度を、まるで嬰児がオモチャをいじくりまわすように扱い、日本の国体を破壊したのが傲慢な侵略国家アメリカの占領政策です。
《戦争末期の大虐殺》
大東亜戦争中の昭和十九年後半から昭和二十年八月の終戦まで、アメリカ軍は日本本土への激烈な空襲をくりかえし実施しました。この間に二百以上の都市が空襲を受け、およそ一千万人が被災し、一般市民百数十万人が死亡しました。戦争末期になると、アメリカ軍の戦闘機が日本本土上空を縦横無尽に飛び回り、動くものを見つけると尽く銃撃しました。列車、船舶、自動車はもちろんのこと登下校中の小学生までが標的となりました。動かないものでも目立つ建物はもちろん民家まで銃撃されました。小学校が爆撃されて多くの小学生が死亡した例もあります。もはや戦争ではなく、人間狩りともいべきう虐殺行為です。アメリカの歴史で繰り返されてきた民間人に対する大虐殺という惨劇がついに日本においても起きてしまいました。
結果、都市という都市が廃墟と化し、都市機能は完全に破壊されました。巷には無数の焼死体と戦災孤児があふれました。焼夷弾による大焼殺です。これら民間人に対する攻撃は完全な戦争犯罪です。
日本軍は本土上空で懸命の防戦に努めましたが、すでに連合艦隊は壊滅しており、海上から接近するアメリカ軍の空母艦隊を追い返す力はなく、アメリカ軍の大型爆撃機の編隊を防ぐことができませんでした。
すでに日本政府は敗北を認識していましたし、停戦の意思を明らかにしていました。しかし、ルーズベルト大統領が日独に対して無条件降伏を強いる旨を幾度も明言していたため、日本軍としては戦いを継続せざるを得ませんでした。
日本軍は硫黄島と沖縄に大規模な守備隊を送り、堅固な地下要塞を築いて防戦しました。また、海上、海中、空中からする特別攻撃を敢行しました。その目的は、アメリカ軍に打撃を与え、停戦交渉の糸口をつかむことでした。この絶望的な努力は一定の成果をもたらします。
硫黄島と沖縄の戦闘で日本軍守備隊は全滅したものの、アメリカ軍に大きな損害を強い、長い時間を浪費させることに成功しました。これに驚いたアメリカ政府はポツダム宣言を発出し、日本に対して降伏を勧告しました。これは無条件降伏を求めていたルーズベルト大統領の態度とは異なるものであり、あきらかに条件付き降伏の勧告でした。
この機をとらえて鈴木貫太郎総理大臣は政府内の意見をまとめてポツダム宣言を受諾しようとします。しかし、降伏条件の内容について意見が割れたため、調整に手間取りました。この間に広島および長崎への原爆投下があり、さらにソビエト連邦の対日参戦がありました。最終的に鈴木総理は昭和天皇の御聖断を仰ぐことによって意見を統一し、ポツダム宣言を受諾し、終戦を達成します。なお、御聖断の際、昭和天皇は次のように仰せられ、皆を説得なさいました。
「陸海軍の将兵にとって武装の解除なり、保障占領というようなことは誠に耐え難いことで、それらの心持ちはわたしにはよくわかる。しかし、自分はいかになろうとも万民の生命を助けたい。このうえ戦争を続けては、結局、わが国が全く焦土となり、万民にこれ以上の苦悩をなめさせることはわたしとしては実に忍びがたい。祖宗の霊にお応えができない。和平の手段によるとしても素より先方のやり方に全幅の信頼を措きがたいことは当然ではあるが、日本が全く無くなるという結果に比べて、少しでも種子が残りさえすればさらにまた復興という光明も考えられる」
昭和二十年八月十五日、陸軍参謀次長河辺虎四郎中将は、腑抜けのように時を過ごし、日記に次のように記しました。
「彼らはまだ知らぬ。亡国史を知らぬが故に亡国の惨状を認識せず、毛唐白人の根底的なる残虐性を知らぬ故に、何とか理屈を言えば先方は許してくれると思っている。我々は全面的降伏を知らぬ。全面的降伏とはいかなることであるかを知らぬ。今まで幸福なりし国民よ。彼らは知らぬ。真に亡国の実相がこれから日に月に現れてくることを。死んでしまった人は幸福な人々なり。領土は三、四世紀と変わらぬ状態に入らん。民族の純血は急速度に衰微するならん。武士道の撲滅策を蒙るならん。耶蘇教信者が急速に殖えるならん。アメリカ語が急速に用いらるるに至らん。家々に刀の保存も絶禁せらるるならん。国家のための献身などという気持ちは棄てよと教えらるるならん。自殺の罪悪性を教えらるるならん。日本歴史の内容は根底より改竄せらるるならん。西洋文化のありがたさを極度に教え込まるるならん。日本の英雄や忠臣らは抹殺せられん」
令和の今日に至ってこの文章を読み返すと、河辺中将の予想は驚くほど正確に戦後日本の状況を言い当てていたことがわかります。
《占領状態という地獄》
戦後日本の教科書には、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が日本を民主化し、日本国民に基本的人権を与え、国民主権と平和主義を確立したと書かれています。しかし、前章で明らかにしたとおり、アメリカの言う「民主化」とは植民地化のことです。つまり、「民主化」は最も頻繁に使われるプロパガンダ用語です。大日本帝国は、三権の分立した立憲国家であり、世界で最も早く普通選挙を実施した国です。もともと国民主権はありました。そして、平和主義でもありました。好き好んで大東亜戦争の開戦に踏み切ったわけではありません。アメリカに追い詰められてやむなく開戦したのです。そして、戦争が始まってしまえば戦時体制をとらざるを得ませんでした。これを軍国主義というのなら、建国以来、絶え間なく戦争を繰り返してきたアメリカこそ軍国主義の帝国だと言わねばなりません。
戦後日本の映画、ドラマ、小説などでは終戦とともに平和がよみがえったかのように描かれますが、これは絶句するほどの虚構であり、プロパガンダです。占領期の日本は、戦争末期とは異なる意味での地獄でした。何しろ無差別大量爆撃のために都市機能は完全に麻痺していました。家屋がことごとく焼け落ちてしまい寝るところさえありません。流通が滞ったため都市には食糧がありません。身内の消息もわからず、家財も焼けてしまい、日本人の多くが途方に暮れていました。人心が乱れ、治安も悪化しました。街には戦災孤児と傷痍軍人があふれかえっていました。空腹を抱えながら今日のねぐらの心配をしていたのが終戦直後の日本人です。平和も希望もありはしませんでした。まして憲法のことを考える余裕は皆無でした。
焼け野原となった都市は極端な住居不足となりました。四百万人以上が住居を失っていました。そこへ大陸からの引揚者と復員者が加わります。さらに、占領軍が焼け残ったビル、商業施設、学校、病院、公園、住宅などを接収したため住宅不足が極度に深刻化します。個人の住宅がGHQに接収された場合、そこの住人は行くあてもないままに強制退去させられました。基本的人権を踏みにじったのはGHQです。
占領軍の将兵とその家族は、広々とした敷地内に日本政府の費用で新築された広壮な住居に暮らしました。電気、ガス、水道代はすべて日本政府が負担させられました。マッカーサー元帥に至っては、豪邸に住み、豪壮なオフィスに勤務し、まるで植民地に君臨する総督のような生活を送りました。その費用も日本政府が負担させられました。他方、占領軍基地とフェンス一枚で隔てられた焼野原では日本人が粗末なバラックや掘っ立て小屋やバス車両や路面電車の車両などで雨露をしのぎつつ空腹を抱えていました。この住居不足は昭和二十三年になっても改善しませんでした。
こうした真相をGHQはプロパガンダで懸命に隠蔽しました。日本政府もアメリカに迎合するほかありません。なにしろ国家主権を喪失していたため、日本政府は連合国軍の下部機関に成り下がっていました。国権の喪失は、民権の消滅を意味します。それが占領状態です。日本国民の基本的人権は蹂躙されつくしました。
アメリカ軍を中心とする連合国軍将兵は、人種差別意識をむき出しにして日本国民を殺し、殴り、犯しました。殺すのも、奪うのも、犯すのも自由でした。逮捕もされず、訴追もされませんでした。被害者となった日本国民は泣き寝入りです。一家の大黒柱を奪われた日本人の家族は経済的に困窮しました。運よく生き延びた被害者は、重い身体障害を負わされて生活に苦労しました。
占領とは、戦闘こそ終わっているものの、なお戦争状態です。戦争は講和条約によってようやく終わります。国家が敵国軍によって占領されると、国家主権が失われます。すべての国家機関は、占領軍の下部組織となり、占領軍のための機関に変貌します。すると、必然的に占領された敗戦国の国民は、国家による一切の保護から放置されてしまいます。国民に対する国家の保護が失われ、国民の生殺与奪は、すべて占領軍によって掌握されます。国権なくして民権なしです。
大日本帝国政府が主権を喪失したため、日本国民の人権は、連合国軍の手に委ねられました。インディアン虐殺や奴隷貿易などの人種差別をやり尽くしてきた欧米白人の軍隊が日本国民をどのように扱ったか、想像に難くありません。日本国民は、まさに奴隷のように扱われました。殺され、傷つけられ、奪われ、強姦されました。そして、その被害が救済されることはありませんでした。補償も謝罪も皆無でした。それが占領状態です。しかも、その実態はGHQによって隠蔽されてしまい、いっさいの公式文書に残されず、その全体像は不明なままです。戦後日本では占領期に起きた連合国軍将兵による日本国民への加害行為に言及することはタブーとされ、封印されています。見事なまでの情報統制です。
とはいえ手掛かりがないわけではありません。「進駐軍の不法行為」という文書があります。これは日本に上陸した連合国軍将兵の不法行為を特別高等警察が監視した報告を内務省警保局がまとめた記録です。五島勉著「黒い春 米軍・パンパン・女たちの戦後」は、五島氏が千名の強姦被害女性に取材したノンフィクションです。水野浩編「死に臨んでうったえる」は、不幸にも米兵に強姦され、パンパンに身を落とした女性たちの悔恨の文章です。新井鉱一郎著「花のない墓標 進駐軍による日本人虐殺の記録」は、全国進駐軍被害者連合会に寄せられた被害の数々をまとめたものです。その目次はすさまじく、「射つ」、「奪う」、「轢く」、「壊す」、「犯す」となっています。そして、全国調達庁職員労働組合によって収集された「占領期間中の被害者実態調査表」を整理した藤目ゆき著「占領軍被害の研究」があります。これらの記録は、連合国軍将兵による虐待の被害者と被害者遺族が血涙とともに訴えた抗議の叫びです。
《理由なき射殺》
占領期の日本では何の理由もなく、まるで野獣や小鳥を狩るように連合国軍将兵が遊戯的に日本国民を射殺する事件が頻発しました。
昭和二十年十月二日、宮城県村田町沼辺館では農民たちが早朝の農作業に精を出していました。その中に吉野としえ(三十七才)もいました。そこへアメリカ軍のジープが接近してきました。ジープには六名のGIが乗っていましたが、面白半分に農民たちを撃ち始めました。農民たちは「伏せろ」と注意しあい、地べたに伏せました。吉野としえも伏せましたが、不幸にも腹部に銃弾が命中して死亡しました。
昭和二十年十一月十三日、長崎県西海村の海岸にアメリカ兵二名が上陸用舟艇で乗り付けました。アメリカ兵らは山田清吉(二十九才)宅の戸をたたき、遊郭へ案内せよと強要しました。アメリカ兵二名はむりやりに清吉を上陸用舟艇に乗せて出発しましたが、清吉は帰ってきませんでした。数日後、佐世保湾の向後海岸で漂流死体が発見されました。それが清吉でした。死体には数か所に弾創がありました。
昭和二十年十二月七日午後十時頃、神奈川県大和町の山辺芳造宅に背の高いアメリカ兵が押し入りました。山辺宅には家族のほか、近所の住人数名が遊びに来ていました。アメリカ兵はピストルを突きつけて何かを言いましたが言葉が通じません。金が欲しいのだろうと考えた芳造がお金をわたそうとして土間から座敷に上がったとたん、アメリカ兵は引き金を引き、芳造を射殺しました。六人の子供を抱えて未亡人となった妻は大変な苦労を強いられました。
アメリカ軍は三重県石加村の小学校に進駐していました。校門に歩哨が立ちました。昭和二十年十二月八日午前五時、薪割の仕事に向かうため校門の前を急ぎ足で通り過ぎた伊藤友吉(二十六才)に対して、歩哨のアメリカ兵が誰何しました。友吉は、いきなり英語で怒鳴られたため、こわくなって逃げ出しました。その背中に向けて歩哨は発砲しました。友吉は病院に運ばれましたが、出血多量で死亡しました。
北海道亀田村の平田いと(六十一才)は開拓地の道産子で身体頑健でした。平田いとは、昭和二十一年一月二十六日、午後四時頃、函館市千代ガ岱町の付近をウロウロしていました。湯治のために湯の川温泉へ行こうとして道に迷ったのです。それを千代ガ岱兵営に進駐していたアメリカ軍の歩哨が怪しみ、平田いとを撃ちました。平田いとは病院に運ばれ、一命はとりとめたものの、入院四か月の重傷でした。退院後は足が不自由になりました。
昭和二十一年一月二十七日、大分県玖珠町の映画館森栄館では青年会主催の素人演芸会が行われていました。館内は超満員で大盛況でした。午後六時頃、突如、館内に銃声が響きました。ひとりのアメリカ兵がピストルを振り回しながら館外へと出て行くのが見えました。二階席から「撃たれた」との声が上がりました。不幸にも松本誠(三十一才)の右大腿部を銃弾が貫通していました。治療に一年かかり、義足となりました。
昭和二十一年二月二十五日午後九時頃、宮城県塩釜市土城の鐘森五郎(五十四才)は帰宅の途中、六名のGIとすれ違いました。GIたちは酔っていて口々に何かを喚いていましたが、鐘森には意味が分かりません。鐘森は自宅へ駆け込みましたが、GIたちは追いかけて鐘森宅に押し入ります。鐘森は裏口から逃げましたが、GIたちは「ユー、ユー」とわめきつつ執拗に追いかけます。そして、GIのひとりが拳銃で鐘森を射殺しました。GIたちは逃げ去り、目撃した町民が警察に連絡しました。鐘森は病院に運ばれましたが、死亡しました。あとには妻と四人の子供が残されました。長男と次男はいまだ復員しておらず、三男と四男はまだ子供でした。
昭和二十一年三月九日午前三時、広島県江田島町の下野雄平(六十九才)は波止場に向かいました。早朝の船出の準備のためです。すると、突然にオーストラリア兵数名に怒鳴りつけられ、捕らえられました。下野にはわけが分かりません。
「何をしなさる。はなしてくれ、はなせ。助けてくれ。おら、大根を売りに行くんだ。うそじゃねえ。助けてくれ」
下野は懇願しましたが、オーストラリア兵は下野を倉庫の前に連れて行き、下野を砂利の上に座らせました。下野は、きちんと正座して、
「日本語のわかる人を連れてきなされ、わしが何をしたかよ。やることがめちゃくちゃじゃがな。こんな年寄りをどうなさる」
と訴えました。オーストラリア兵は、下野の背に銃を向けて二発、発射しました。下野家には七十七才の老婆と小学生の孫娘が残されました。
上和野正雄(三十才)は、昭和二十一年三月三十一日、東京都芝区赤羽根町の小川の中で倒れているところを発見されました。病院に運ばれましたが、間もなく絶命しました。警察が調べたところ、アメリカ軍の黒人兵にピストルで頭部を撃たれ、給料と腕時計を強奪されていました。宮城県の実家には年老いた両親が残されました。
広島県呉市阿賀新開には英軍キャンプがありました。その近所の川原家に英軍兵士がときどき遊びに来ていました。とくに悪いことはせず、英国の品と日本の品とを交換したがりました。川原家には若い姉妹がいました。昭和二十一年八月のある日、川原家にきた英軍兵士が「帰国することになった。土産をあげるからおいで」と姉妹をキャンプに誘いました。姉妹はついていきました。父親はそれを許してしまいました。しばらくして帰宅した息子の松広(二十才)は、事情を聞いて危険を感じ、父親をなじりました。
「呉でも何十何百もの女が強姦されたじゃないか」
松広は姉妹を追いかけました。幸い、英軍キャンプの衛門のところで姉妹に追いつくことができました。
「帰ろう」
厳しい剣幕で松広は姉妹を説得しました。松広が姉妹の手を引いて衛門を出ようとすると、衛兵が何かを言いました。しかし、意味が分かりません。松広は衛兵にお辞儀をして、姉妹の手を引いて帰ろうとしました。すると衛兵は松広を撃ちました。松広は病院に運ばれて一命はとりとめたものの体調は元にもどらず、力仕事ができなくなりました。
昭和二十一年八月十八日早朝、神奈川県藤沢市の安藤作夫(二十九才)は芝刈りに行くべく畑道を歩いていました。そこは、元日本海軍予科練藤沢航空隊兵舎に近く、アメリカ軍が駐留していました。その歩哨が安藤作夫に向けて三発撃ちました。理由はありません。作夫は重傷でしたが、三百メートルを這い、自宅に帰りました。家族がリヤカーで病院に運びましたが死亡しました。
昭和二十一年九月十三日午前十一時頃、神奈川県綾瀬町に住む早川茂(八才)は、小学校からの帰り道を友達と一緒に歩いていました。そこに小型飛行機が飛んできました。飛行機は低空飛行していました。子供らは飛行機に手を振りました。しかし、その小型飛行機は散弾を発射しました。一弾が茂の頭部に命中し、茂は即死しました。
昭和二十一年十一月三十日午後八時、東京都杉並区下高井戸の堀本稲夫(四十八才)が帰宅すると、家内にアメリカ兵二二名がいました。堀本は驚く間もなく所持金などを強奪され、ピストルを一発撃たれました。近所の人が駆け付けて病院に運んでくれましたが、後頭部貫通銃創で瀕死でした。なんとか命はとりとめたものの、半身不随となり、毎日のように発作に悩まされることとなりました。経営していた土建会社はたたむしかありませんでした。
愛知県名古屋市中村区の国鉄中村寮にアメリカ軍が進駐していました。その近くには中村公園があり、近所の子供がよく遊びに来ていました。アメリカ兵が子供たちにチョコレートなどを配っていたので、子供たちはアメリカ兵になついていました。近所に住む水野千枝子(十三才)は、昭和二十二年六月二十二日、いつものように中村公園で友達と遊び、MPボックスに行き、アメリカ兵としばらくじゃれあっていました。ひとりのMPが「射つよ」と言い、千枝子にピストルを向けました。千枝子は冗談だと思い、笑いました。しかし、MPは引き金を引きました。
昭和二十二年一月四日午後十時、東京都葛飾区亀有でアメリカ兵による強盗事件が発生しました。アメリカ兵の強盗は逃走し、森川キク宅に潜伏しました。小川武(二十三才)は、犯人逮捕に協力するために森川宅を見張っていました。そこへ駆けつけてきたMPは、小川武にピストル三発を発射しました。MPは「犯人だと誤認した」と言い訳しました。
昭和二十二年八月五日深夜、宮城県北郷村の小野久右衛門(三十五才)は、友人宅で麦打ち作業を手伝い、仕事が片付いたので後片付けをしていました。
「痛え」
突然、久右衛門は倒れました。付近には連合軍の船岡キャンプがあります。久右衛門は病院に運ばれましたが、死亡しました。死因は流れ弾ということで処理されました。
昭和二十二年九月二十七日、兵庫県神戸税関内川西渡倉庫で夜勤の荷物運搬夫をしていた塚本明(十六才)は、深夜零時頃の休憩時間に身体を横たえて休んでいました。
「しんどいな」
すぐ横に同僚の若原時雄も寝そべりました。そこへ、アメリカ兵が来て、いきなり塚本の肩を蹴飛ばしました。塚本と若原は起き上がりましたが、日頃からアメリカ兵の横暴が頻繁だったので、「めんどうだ、逃げたれ」と二人して逃げ出しました。その背後からアメリカ兵が銃撃しました。二人は死亡しました。
昭和二十三年二月十五日午後八時半頃、東京都内東横線日吉駅構内において、衆人環視の中、酔っぱらったアメリカ軍軍属が野本兼太郎(二十才)を射殺しました。野本は進駐軍の労務者でした。
昭和二十三年五月二十二日、長崎県佐世保市若葉の池田勧(三十六才)は、前畑海岸に伝馬船を浮かべて友人と釣りをしていました。それをアメリカ兵が銃撃しました。理由はありません。二人は死亡しました。池田家には年老いた父親と幼い娘が残されました。
昭和二十四年二月十九日午後三時頃、宮城県柴田町船岡の国道でアメリカ軍キャンプを脱走した黒人兵を追跡していたMPが脱走兵に向けて銃を撃ちました。その流れ弾が高村よし子(十六才)に当たり、重傷を負いました。よし子は足が不自由になり、北海道へ移住しました。
昭和二十四年六月二十四日、北海道豊平町の佐藤軍治(四十九才)は畑仕事をしていました。午後六時頃、米軍キャンプから外出して小鳥撃ちをしていたGIは、佐藤軍治を射殺しました。残された家族は困窮しました。
昭和二十四年七月三日午前九時頃、福岡県志免町の小川で高野茂(五十二才)は幼い息子と魚獲りをしていました。突然、アメリカ兵が板付基地の柵外に出てきて、高野茂に銃を突きつけ、柵内に連れて行きました。息子は外に残されました。やがて銃声がしました。高野茂は五発の銃弾を受けて即死しました。
昭和二十四年八月六日、福岡県芦屋町の粟屋公民館に若者三名が泊まり込んで祭りの準備をしていました。そこへアメリカ空軍基地芦屋飛行場の哨戒兵が現れ、若者三名に銃を突き付けて基地内に連行し、三名を射殺しました。アメリカ軍基地司令官はいっさいの報道を禁じました。
昭和二十四年十一月十九日、熊本県人吉市下戸越で高村清(三十八才)一家が家族総出で稲刈りをしていました。一休みして、もうひと頑張りしようと老母のアイノが孫をおぶって数歩歩いた時、「あ痛」と言って倒れました。アイノはすでに死んでいました。アイノは、小鳥撃ちをしていたアメリカ兵に撃たれたことが後日わかりました。流れ弾ではなく、狙って撃たれていました。
昭和二十五年一月十八日夜、漁師の寺田三吉は娘婿とともに神戸港高浜岸壁付近で網を張っていました。夜十時頃、岸壁の方から声が聞こえましたが、意味が分かりません。そのうちパーンと銃声がして寺田三吉が倒れました。娘婿が駆け寄ると、すでに死んでいました。撃ったのはアメリカ軍の黒人兵でした。
昭和二十五年十月四日午後八時、佐世保港内の佐世保市営第二桟橋に停泊していた大盛丸(十トン)は、連絡業務のために出発しました。午後十時半、突如、大森丸は英貨物船フォート・シャローテ号から銃撃されました。撃ったのは同船の歩哨兵です。船長久保常市(五十七才)が即死しました。このほか、中丸(二十五トン)、みどり丸、第十一光洋丸、光安丸、その他数隻が銃撃されました。
昭和二十六年十一月八日午後、神奈川県高峯村の島田タエ(五十八才)は、裏山へのぼって薪を集めていました。午後三時過ぎ、島田家の家族は裏山の方から数発の銃声があがるのを聞きました。裏山でアメリカ軍の黒人兵がタエを撃った銃声です。タエは頭に八発、顔に七発、胴体も蜂の巣のように撃たれていました。
《金品も命も人生も奪う》
占領時代の日本では警察官は無力でした。拳銃も所持できず、権威もありませんでした。よって連合国軍の将兵は殺人でも強盗でもやり放題でした。日本国民は泣き寝入りするしかありませんでした。
昭和二十年九月十五日夜、神奈川県川崎市木月の国民酒場では、すでに店が閉められ、店主夫婦が売り上げを計算していました。そこへ裏口からアメリカ兵三名が侵入し、酒を要求しました。しかたなく酒を提供しましたが、店主はなんとなく危険を感じたので近所に住んでいる通訳を呼びました。妻と娘は難を避けるため近所の家に避難しました。しばらくすると国民酒場の方から銃声がしました。駆け付けると店主が倒れており、付近の路上に息子も倒れていました。二人とも銃で撃たれていました。
長崎県長崎市坂本町の長原太郎宅は原爆による焼失を免れていました。昭和二十年九月二十五日午前二時頃、ふたりのアメリカ兵が侵入してきました。家族は仰天し、婦女子と長男は便所に隠れ、長原太郎がアメリカ兵に応対しました。アメリカ兵は家の中を物色して貯金通帳を奪い、長原太郎の腕時計を奪いました。そして、長原太郎の手足を縛りあげて転がすと、さらに物色して回りました。やがて、帰りしなに長原の腹部をジャックナイフで突き刺しました。長原太郎は病院に運ばれましたが、出血多量で死亡しました。
広島県呉市広町大新開に住む三好峯槌(四十九才)は、昭和二十年十月二十一日、市内の路上で死体で発見されました。頭蓋骨を大きな石でつぶされていました。数名のアメリカ兵に殺されたものです。
昭和二十年十月三十日午後八時頃、広島県海田町の九十九橋をパトロール中の警官三名が通りかかりました。橋の向こうに数名のアメリカ兵が見えました。そのアメリカ兵らは、警官の姿を見るやジープに跳び乗って逃げて行きました。警官が駆け付けると、男性が倒れていました。
「進駐軍にやられた」
と言ってぐったりしたのは五十嵐正澄(四十四才)でした。全身打撲、右腕骨折のほか、頭部を軍靴で蹴られており、右目がえぐられていました。所持金とメガネが奪われていました。
昭和二十年十一月十六日午後六時頃、東京都港区芝浦に住む君原幸一郎(四十四才)は立小便をしていました。そこへ三名の黒人兵が近寄り、いきなり棍棒で君原の後頭部を殴りました。君原は死にました。黒人兵は口笛を吹きながら立ち去りました。
大阪市中垣内の浜口善四郎宅の表戸が激しくたたかれたのは昭和二十年十二月四日の夜更けです。声でアメリカ兵だとわかりました。浜口は仕方なく戸を開けました。すると、「ビール、ビール」といってアメリカ兵が入ってきました。やむなく浜口は酒を出しました。やがて、ありあわせの酒がなくなりましたが、アメリカ兵は「サーケー」とさらに酒を要求しました。浜口が「ノー」と言うと、アメリカ兵は浜口の襟首をつかんで表に連れ出し、土間に掛かっていた草刈り鎌を持ちだしました。そのまま善四郎は帰ってきません。浜口家の長男が様子を見に行くと、付近の路上で父親が倒れていました。善四郎は頸動脈を切断されていました。残された妻は五人の子供を抱えて苦労を強いられました。
堺虎之助(三十二才)は、山口県下関市で食料品製造会社を経営していました。昭和二十年十二月二十五日、百貨店の四階の食堂でビールを飲んでいると、酔っぱらったアメリカ兵がよろめきつつ近づいて、いきなり卓上のビール瓶で虎之助の頭を殴りました。虎之助は「大丈夫」と言って旅館に入りましたが、容体が悪化しました。医者が呼ばれたころには脳内出血で死亡していました。
二黒川みよ子(二十七才)は、山口県山口市占熊の叔母の家に通い、裁縫を手伝っていました。昭和二十一年一月のある日、午後二時頃、アメリカ兵数名が侵入してきて、みよ子にピストルを突きつけて外へ連れ出し、ジープに乗せようとしました。みよ子は助けを求めつつ抵抗しました。すると、アメリカ兵らはみよ子を殴り、蹴り、押し倒して軍靴で踏みにじりました。みよ子がぐったりするとアメリカ兵はジープで立ち去りました。みよ子は病院に運ばれましたが、重傷を負い、苦しみ続け、その年の十一月に死亡しました。
昭和二十一年一月十一日午後八時頃、福岡県小倉市紫町の関利吉(五十五才)の家に、同じ町内に住む佐山が駆け込んできました。
「助けてくれ女房が殺される」
と佐山は言います。アメリカ兵が佐山家に侵入し、妻を強姦しているので助けを求めに来たとのことです。関家の家族が事情を聞くうち、アメリカ兵三名が関家に侵入し、関家の家族に乱暴しはじめました。関家には妻と息子二人がいました。利吉は「がまんせろ、叩かれても手向かうんじゃなかぞ、相手は占領軍だ」と言いました。息子二人は我慢して殴られ続けました。しかし、我慢しろと言った利吉が我慢の限界に達し、起き上がるとアメリカ兵に殴りかかりました。息子二人も抵抗しました。妻は気絶していたため比較的に軽傷でしたが、利吉は重傷を負いました。妻のウメノは語ります。
「アメリカ軍の進駐以来、小倉市内でアメリカ兵の悪事は何百というほどあったそうですが、みな泣き寝入りしており、日本人が抵抗したのはわたしたちが最初だった、と警察の人が言っていました」
重傷を負った利吉は手術しましたが、左脚が不自由になりました。精神的にも衰え、昭和二十三年に死亡しました。
昭和二十一年三月十日、宮城県塩釜市では終戦後はじめての春祭りが行われていました。午後五時頃、市内神ノ前十番地の工藤軍平(六十才)宅にアメリカ兵五名が乱入しました。アメリカ兵は軍平を殴り倒し、病臥していた息子の布団を引っぺがし、家中を物色して衣類、時計、かみそり、現金、貯金通帳などを強奪し、ガラス四十枚、障子、ふすま、ラジオ、柱時計などを破壊して引き揚げました。殴られた軍平は血を吐いて死に、息子も症状を悪化させて三十九日後に死去しました。
昭和二十一年六月五日、午後二時頃、長崎県佐世保市に住む山根幸子(十四才)と健一郎(十才)は、旧佐世保海軍工廠記念講堂の付近で薬草を採っていました。母に頼まれたからです。誰かが呼ぶので顔を上げると講堂にいるアメリカ兵がチョコレートを見せて手招きしていました。健一郎は無邪気に駆けていき、幸子も心配になって後を追いました。しばらくして、講堂の中で健一郎と幸子は死体で発見されました。いずれも頸動脈をジャックナイフで斬られ、軍靴で踏みつけられていました。
昭和二十一年六月二十六日午後十時頃、札幌市北五条の通りを岡田徳雄(二十才)と友人の佐久間が自転車で走っていました。たまたま四人のアメリカ兵とすれ違いました。その際、ひとりのアメリカ兵が棍棒で岡田の頭を一撃しました。岡田は転落して動かなくなりました。佐久間は岡田家に急報し、警察にも訴えました。しかし、巡査はなにもしてくれませんでした。岡田徳雄は病院に運ばれましたが、翌朝に死亡しました。札幌市内では似たような事件が頻発し、石川吉造、山崎寿明が殺され、黒川善一が左目を失明しました。
昭和二十年十月に北海道大学構内の一部が進駐軍に接収されましたが、これ以後、学内の治安が劣悪化しました。教授が暴行されたり、学生が空気銃で撃たれたり、講義中にパンパンを連れたアメリカ兵が侵入したりしました。吉田順五教授は理学部の裏のポプラ並木で背後からジープに轢かれ、重傷を負いました。
昭和二十三年二月、北海道大学農学部三年の溝江宗武(二十四才)が札幌市内北八条十丁目の踏切付近で倒れているところを発見されました。アメリカ兵にピストルの台尻で殴られ、発見時には虫の息でした。同月二十七日に死去しました。犯人は、アメリカ軍兵士のセーベスとエーチンジだとわかりました。この二人は大学病院助手の岸本三郎(三十五才)にも頭蓋骨骨折の重傷を負わせるなど計八名を殺傷していたことが逮捕後にわかりました。
昭和二十一年八月二十五日午後六時頃、埼玉県所沢市に住む市川団一(四十三才)と長男素司(十五才)が自転車で東京都大和村の田んぼ道を走っていました。その後方から走行してきたアメリカ軍のジープが市川団一の自転車に追突しました。市川は電信柱とジープの間に挟まれて呻いていました。ジープを運転していた黒人兵はジープを後退させることなく、パイプをくわえて笑っています。息子の素司が助けを求めると、付近にいた農夫が事態を知り、人を集めてくれました。黒人兵はようやくジープを後退させ、市川親子をジープに乗せると立川市の進駐軍病院へ運びました。しかし、同病院では日本人は診察できないと断られ、ようやく国立立川病院に収容されましたが、手遅れになっていました。
昭和二十二年一月五日午後六時、福岡署千代町派出所勤務の服部新巡査(二十七才)は、板付飛行場警備に向かうため、田中儀一巡査とともにジープで福岡市郊外を走行していました。路上にアメリカ軍の黒人兵三名が立っており、手を挙げたので服部巡査はジープを停めました。黒人兵らは煙草を差し出して「これを買え」と言いました。田中巡査が断ると、黒人兵は巡査二人に暴行しました。田中巡査は殴られて気絶しました。服部巡査は銃器で頭部を強打されました。田中巡査は無事でしたが、服部巡査はその夜に死亡しました。あとには年老いた父親と幼い子供が残されました。黒人兵三名は逃げてしまいました。
昭和二十二年一月二十四日午後九時頃、広島県呉市仁方町の堀田良一宅にオーストラリア兵三名が乱入しました。すでに酩酊しており、「ビール、サーケー、ムスメサン」とわめいて要求しました。堀田家の長男一彦(二十九才)が応対しましたが、言葉が通じませんでした。オーストラリア兵のひとりは一彦を引っ張り出し、仁方トンネルの近くに連れて行き、ジャックナイフで一彦の眉間を斬り、さらに両目を抉り出し、身体中八か所を斬りました。一彦は翌早朝に死亡しました。
昭和二十二年一月三十一日、神奈川県相模湖町の荒川良夫(二十三才)は、午後九時頃、自宅への道を歩いていました。たまたま数名のアメリカ兵とすれ違いました。そのとたん、ひとりのアメリカ兵が荒井の頭を棍棒で殴りました。荒井は昏倒したところを、アメリカ兵によって崖下へ蹴り落されました。正気に返った荒井は声を上げて助けを求め、病院に運ばれて、なんとか一命をとりとめました。ところが病床で聞かされた深刻な事実に荒井良夫は驚愕します。荒井の父親が同じ夜に、しかも同じアメリカ兵に殺されていました。犯人はカール・ハバルダというアメリカ軍一等兵でした。カール・ハバルダはすでに東京都浅川町でも一名を殺害し、山梨県甲府市でも二名を殺害していました。
昭和二十二年二月二日、午後六時半頃、山口県防府市宮市新町の洋裁店に二人のオーストラリア兵が来訪し、オーバーコートを買ってくれと店主の田中モコ(五十九才)に頼みました。コート二枚で二千五百円で話がまとまり、田中はコートを買い取りました。しばらくするとオーストラリア兵が戻ってきました。ポケットに忘れ物があると言います。田中モコがコートを渡すと、オーストラリア兵はコートを持ったまま出て行こうとしました。
「ドロボー」
と田中モコが声を上げると、オーストラリア兵は「ジャップ」と言って田中を突き飛ばしました。田中モコは腰を打って動けなくなりました。二人のオーストラリア兵は土足のまま家に上がり、家探しをして有り金を全て奪って逃げました。以後、田中モコは腰を悪くして脊椎カリエスになりました。
昭和二十二年三月九日、東京都言問橋近くに住んでいた石上俊雄は、自家用ダットサンで帰宅途中にアメリカ兵二人に呼び止められました。「ウエノまで乗せていけ」と言います。嫌々ながら乗せて上野に向かいました。同夜の午後十時半頃、江東区牡丹町で一台のダットサンがヘッドライトをつけたまま停車していました。運転席には石上俊雄が血だらけで倒れていました。アメリカ兵にジャッキで殴られていました。
「しんちゅう、ぐんに、やられた」
と言うと石上は意識を失いました。石上は病院に運ばれましたが、早朝に死亡しました。あとには石上の祖母、未亡人、五人の子供が残されました。
昭和二十二年五月十三日、仙台市東二番町の路上で香味甫(五十四才)は、五名ほどのアメリカ兵に襲われて昏倒し、死亡しました。その未亡人の述懐です。
「当時は進駐軍の勢力圧力がとても強くて、日本政府の力は全然ないといってもいいときでしたから、こうした歴然とした事実があっても、結末は被害者の泣き寝入りのありようです」
昭和二十二年六月一日、神奈川県厚木市中通を堤武夫(三十三才)は歩いていました。アメリカ兵二名とすれ違ったとき、突然、後ろから抱きつかれました。そう思った瞬間に首を刃物で斬られ、突き飛ばされました。堤は首の傷口を抑えつつ病院の前まで歩いていき、倒れました。傷は長さ十五センチ、深さ三センチで大量に出血していました。堤は意識を失いましたが、一命をとりとめ、入院三十日で退院しました。しかし、舌の神経が麻痺し、傷痕がうずき、顔面神経痛と頭痛に悩まされるようになりました。
昭和二十二年十月二十六日午前四時頃、神奈川県海老名町の羽石健治宅にアメリカ軍の黒人兵が侵入し、健治(四十三才)と三男祐彦(九才)をハンマーで惨殺しました。さらに妻アキに重傷を負わせ、次男と四男にも軽傷を負わせました。黒人兵はゴリラのように暴れた後、逃走しました。この黒人兵は、近所でも婦女子二名を殺害していました。犯人はアメリカ黒人兵ストラトマン・アースミテット一等兵でした。
昭和二十三年二月二十六日午後七時頃、京都市宮川町の貸席業「たむら」の玄関先で田村スエ(六十才)と中村勝海(四十七才)が立ち話をしていました。そこに酔っぱらった白人アメリカ兵ふたりが通りかかりました。珍しくもないので田村と中村は立ち話を続けていましたが、ふたりのアメリカ兵はいきなり中村の頭を殴りました。殴られた中村は驚いて逃げ出します。田村スエも驚いて逃げ出しましたが、アメリカ兵は中村の襟首をつかむと表通りに引きずり出し、殴る蹴るの暴行を加えました。「たむら」の女将田村ちえが異変に気付いて飛び出し、「ノー、ノー」とアメリカ兵を叱りましたが、アメリカ兵に蹴飛ばされました。周囲は黒山の人だかりとなりましたが、日本人はみな沈黙するのみでした。田村スエは半身不随となり、田村ちえも全治まで三週間かかりました。
昭和二十三年三月十九日午後十時頃、大阪市南区谷町三丁目付近で新城光夫(四十才)は、通りがかりのアメリカ兵二名にいきなり石で殴られ、即死しました。あとには未亡人と三人の子供が残されました。役所は未亡人に生活保護を支給せず、警察は彼女に口止めしました。
昭和二十三年九月二十三日午後七時頃、大阪市南区桃谷町の森忠三(三十九才)宅にアメリカ兵が乱入しました。忠三は、とっさに妻と子供を逃がしました。アメリカ兵は忠三を突き飛ばし、殴打しました。警官が駆け付けましたが、警官は何もせずにMPの到着を待ちます。そのあいだもアメリカ兵は暴れ続け、忠三を殴り、蹴りました。子供を近所に預けた妻が戻ってアメリカ兵を止めようとしました。するとアメリカ兵は「ママサン」と言って抱き着こうとしました。妻は抵抗しました。その隙に忠三がアメリカ兵の脚を引っ掛け、転倒させました。森夫婦はその隙に子供を預けている近所の家に逃げました。アメリカ兵はそれを追い、近所の家でも暴れまわりました。この間、警察官は何もせずに見ていました。集まっていた野次馬たちは警官を非難します。
「警察はグルや」
「みんなしてアメ公の軍事裁判にいったろ」
「そやそや人民を守るのは人民だけでっせ」
「このアメチョロめ」
「戦争やめたいうに、こんなのが日本に居くさるんや」
やがて群衆は声を掛け合い、アメリカ兵を縛り上げました。やがてMPが来たので、群衆がMPにアメリカ兵を突き出しました。
昭和二十四年年四月中旬、兵庫県神戸市兵庫区水木町通りを山本賢一(三十二才)が歩いていました。両手には商品の見本を入れたカバンをさげていました。そこに、ふたりの黒人兵が現れて、「マネー、マネー」と二度、三度と言います。ひとりの黒人兵は山本の背後に回って羽交い絞めにし、もうひとりが山本のポケットを探りました。背後の黒人兵はコンクリートの破片で山本の頭を殴りました。山本は昏倒し、気を失いました。その付近の防空壕で生活していた婦人が山本を助けました。山本は金品いっさいを奪われていました。警察に連絡すると、警官が来て、医院に山本を連れていきました。そこで応急処置をし、さらにアメリカ軍憲兵隊へ連れていかれました。アメリカ軍憲兵は、まるで山本を犯人であるかのように扱いました。
昭和二十四年七月二十一日、茨城県那珂湊市で農作業をしていた男性が、アメリカ軍機から機銃掃射を受けて死亡しました。
昭和二十四年八月二十四日、広島県呉市に住む平野勝敏(九才)は兄の昭とともに小舟で海に出て魚釣りをしていました。そこにアメリカ軍の上陸用バージが接近してきました。平野兄弟は回避しようとしましたが、バージは減速することなく小舟に衝突しました。兄弟は海に投げ出されましたが、バージに助けられました。不幸にも勝敏は全身打撲と左足関節に裂傷を負い、入院しました。
昭和二十四年九月十三日午後九時頃、福岡県福岡市のキャバレーからアメリカ兵三名が出てきました。ひどく酔っていました。彼らのひとりは、近寄ってきたパンパンを地面にたたきつけました。ほかのひとりは通りかかった中年の婦人を追いかけ、地面にたたきつけました。さらに彼ら三名は青年二人を捕まえて殴りつけました。不幸にも、そこを通りかかった阿部久(四十三才)も殴り殺されました。阿部には妻と幼い三人の子供がいました。
昭和二十五年七月四日午前六時頃、福岡県小倉市城野の垣孫次郎(六十三才)宅にアメリカ軍の白人兵四名が乱入し、炊事場で妻を背後からナイフで刺し、さらにめった刺しにしました。何事かと顔を出した孫次郎も刺されて即死しました。二人の息子が炊事場に来ると、やはりめった刺しにされて死亡しました。あとには幼い恵子だけが残されました。
福岡県北崎村玄海島の林喜八(四十二才)は、昭和二十五年七月十四日夜、息子とともに漁船で沖に出て、エビを獲っていました。そこにアメリカ軍の輸送船が近づいてきました。息子が角灯を手にして合図しましたが、輸送船は回避せずに突進してきます。喜八は船室に入り、エンジンをかけて回避しようとしました。しかし、間に合わず、両船は衝突し、喜八の漁船が大破しました。息子は海に飛び込んで無事でしたが、喜八はアメリカ軍輸送船のプロペラに巻き込まれ、バラバラ死体になって発見されました。林家には未亡人と七人の子供が残されました。
昭和二十五年七月十七日、茨城県阿字ヶ浦小学校の生徒が先生の指導の下、海水浴をしていました。ちょうど海から上がって身体を拭いていた時、アメリカ軍の戦闘機が低空飛行で接近し、機銃を掃射しました。生徒も先生も逃げ散りました。不幸にも小学生がひとり銃弾に当たり、死亡しました。その場所は演習区域からは遠く離れていました。
昭和二十五年八月二十日午前十一時頃、神奈川県横浜市金沢区須崎町の加藤安二郎(四十九才)は、焼玉船に五人の客を乗せて沖に出ていました。そこにアメリカ軍の上陸用舟艇が接近してきました。公務ではなく、アメリカ兵が遊びで舟艇を乗り回していました。それが加藤の焼玉船に乗り上げました。客のうち二人が溺れて死亡しました。
昭和二十五年年十一月七日夜、輪タクの運転手である吉岡多十(五十才)は佐世保市内の占領軍専用キャバレー前でふたりのアメリカ兵を乗せ、市内名切町まで来ました。そこで輪タクを停めたところ、アメリカ兵にいきなり殴られ、首を絞められて殺されました。アメリカ兵は吉岡の持ち金を奪って逃げました。吉岡家には家族六人が残されました。
《数えきれない輪禍》
占領が始まると連合国軍の車両が日本国内を縦横無尽に走り回るようになりました。軍用ジープ、軍用トラック、上陸用舟艇、戦車、装甲車などが、ただでさえ狭小な日本の道路を暴走し、多くの日本人を殺傷しました。これらは不注意による交通事故ばかりでなく、故意に車両を暴走させて日本人を遊戯的に殺傷する例が少なくありませんでした。車両の接近に気づいた日本人が道路わきに身を寄せていると、そこに向かってアメリカ軍の車両が突っ込み、明らかに故意に日本人を殺傷しました。特に橋の上では逃げ場所がありません。欄干に身を寄せている日本人めがけて軍用車両が幅寄せし、日本人を殺す事例が多々ありました。あるいは車両を避けるために付近の店舗に入ると、その店舗に車両が突入して店舗ごと破壊されることさえありました。
悲惨な事例としては、子供たちを標的にした危険運転があります。先行する車両が道路上にキャンディーやチョコレートをバラまいて走り去ります。それを拾おうと子供たちが道路上に殺到したところに後続車両が突進して多くの子供たちを轢き殺しました。
人身だけでなく家屋も多くの被害を受けました。占領軍の車両は故意に民家に突進して破壊し、酒酔い運転や悪ふざけで家屋を倒壊させました。これらの事例は、もはや交通事故というようなものでなく、明らかな殺人行為でした。同じことは空や海でも起こりました。日本の漁船が操業していると、アメリカ軍の戦闘機が急降下し、プロペラを漁民の頭に引っ掛けて殺傷し、アメリカ軍艦船が故意に衝突して漁船を沈没させました。
昭和二十年九月十日、大分県名護屋岬沖において鯛の一本釣りをしていた漁船の帆柱がアメリカ軍機のプロペラによって破壊され、さらに近藤徳松(四十九才)が頭部をえぐり取られて死亡しました。
昭和二十年九月十四日午後四時頃、神奈川県藤沢市片瀬の県道を占領軍の自動車部隊が走行していました。数名の小学生がそれを路傍から見ています。
「ハロー、ボーイ」
アメリカ兵が車上からキャンディーをバラまきました。小学生たちは路上に出て、争ってそれを拾います。そこへ、後続の占領軍車両が容赦なく突進しました。逃げ遅れた高尾信夫(十才)は即死しました。アメリカ兵たちは口笛を吹きながら通過していきました。
昭和二十一年六月十三日、仙台市で菅原洋一(十六才)が軍用ジープに轢かれて即死しました。
昭和二十一年三月二十日、山口県岩国市中津に住む姉妹(十一才と三才)は、橋を渡る最中、占領軍の車両に気づいて欄干へ身を寄せました。しかし、占領軍車両と欄干の間に挟まれました。姉は重傷を負い、妹は死亡しました。
昭和二十一年五月二日、福島県岩沼町で大川竹夫(六才)がアメリカ軍の大型トラックにはねられて即死しました。同日、名取市増田では瀬野尾幸雄宅にアメリカ軍のトラックが激突し、家の柱を倒しました。その柱に頭をぶつけた長男(十才)が即死しました。
昭和二十一年十二月、宮城県仙台市で黒人兵の運転するジープが二組の母子連れを轢き、母一人子一人を死亡させ、残る二人に重傷を負わせました。
昭和二十一年七月七日、東京都世田谷区上北沢町では、午前六時、三歳の幼児が路上にいたところ、猛スピードで走行する占領軍のジープに轢かれて即死しました。若い両親は悲嘆して田舎へ帰りました。
昭和二十一年一月十五日、熊本県熊本市に住む乗馬好きの多吉(十四才)は、乗馬に出かけました。午後五時頃、帰る途中、多吉は馬から降りて自宅に向かっていました。そこへアメリカ軍のトラックが後ろから接近し、馬の後ろでクラクションをしきりに鳴らしました。馬は驚いて走りだそうとします。それを多吉が懸命に「ドウドウ」と鎮めました。アメリカ軍のトラック運転手による悪ふざけです。そうこうするうちアメリカ軍のトラックは馬に追突し、さらに多吉を巻き込んで三十メートルも引き摺りました。多吉は血まみれとなり、市民病院に運ばれましたが、出血多量で死亡しました。進駐軍は現場検証も事故調査もしませんでした。
昭和二十一年二月二日午前、鹿児島市常盤町に住む北村賢瑞(六十二才)は、同市千石町十字路でアメリカ軍のジープにはねられ、死亡しました。妻と四人の子供が残されました。
昭和二十一年二月二十一日、山形県山形市の深瀬太平(五十八才)は、国道を歩いていました。アメリカ軍の自動車隊が轟然と走ってきたので、深瀬は道路の端に身を寄せていました。しかし、車列の中の三台目のトラックが幅寄せして深瀬をはねました。深瀬は雪の中に跳ね飛ばされました。深瀬は自力で近所の家に助けを求め、翌日になってようやく病院に入院しました。右腕が骨折していました。
昭和二十一年二月十三日正午頃、兵庫県神戸市生田区海岸通で歩道を歩いていた中原源二郎(二十八才)は、走行中のアメリカ軍大型トラックから外れた後輪に衝突され、横死しました。残された妻は妊娠中でした。
昭和二十一年六月二十一日午後二時頃、角田桑吉(四十七才)は墨田区言問橋の歩道に立って同僚を待っていました。その背後からアメリカ軍のトラックが歩道に乗り上げて角田を轢きました。即死でした。あとに妻一人、子一人が残されました。
昭和二十一年九月十一日午前十時頃、神奈川県横浜市磯子区の市電停留所で市電を待っていた人々の列にアメリカ軍第一騎兵師団所属のジープが突入しました。運転していたアメリカ兵は被害者の応急処置をするでもなく、パイプをふかして笑って傍観していました。
昭和二十一年十月二日午前零時頃、茨城県結城町に住む鹿又正夫(三十一才)は、会社帰りに同僚二人とともに国道の歩道を歩いていました。そこへアメリカ軍の大型トラックが疾走してきて、車道側を歩いていた鹿又を跳ね飛ばしました。鹿又は即死でした。鹿又の同僚二人は交番と病院に手分けして走り、急報しました。二人が現場に戻ったとき、鹿又の腕時計と財布がなくなっていました。鹿又の妻と子供四人が残されました。
昭和二十年十一月八日午後四時頃、神奈川県焼野ヶ原で占領軍に雇われた日本人労務者が大きな穴を掘っていました。深さは一メートル半ほどありました。労務者四人が穴の中で作業中、大型トラックがその穴に突入しました。四人は下敷きとなり、全員が圧死しました。
昭和二十一年五月四日、兵庫県明石市の錦江橋の上で幼い姉妹(六才と二才)が疾走する軍用トラックと欄干の間に挟まれました。姉は両足を負傷し、妹は即死しました。
昭和二十一年五月十三日午後十時頃、広島県呉市宮原通にある呉ハウスからジープが出発しました。呉ハウスはオーストラリア兵のための娯楽施設です。そこで働く日本人女性をオーストラリア兵が送るところでした。しかし、運転手のオーストラリア兵は酔っていました。ジープは川に転落し、金本富子(二十一才)が死亡しました。
昭和二十一年八月二十二日午前八時頃、宮城県塩釜市第三小学校前で黒人兵の運転する占領軍大型トラックに轢かれて古尾谷辰雄(二十六才)が死亡しました。
昭和二十一年十一月七日、兵庫県神戸市の国道をアメリカ軍のジープ二台が暴走していました。二台は互いに競争していました。そして、運転する黒人兵はいずれも酔っていました。午後四時半頃、薪を積んだトラックから日本人男性が薪を下す作業をしていました。その近くでは女の子三人が縄跳びをして遊んでいました。そこへアメリカ軍の暴走ジープ二台が接近し、うち一台がトラックに追突しました。薪おろしをしていた男性が跳ね飛ばされました。さらに、ジープは縄跳びをしていた女の子三人を轢きました。男性と女の子は四人とも即死でした。
昭和二十二年四月二十一日午後五時頃、神奈川県横浜市西区に住む城山善次(五十才)は商用のため自転車で外出していました。アメリカ軍の大型トラックがすごい速度で接近してきたので、城山は用心し、道の端に身を寄せていました。そこをめがけてアメリカ軍の大型トラックが突っ込み、城山は路上にたたきつけられ死亡しました。妻一人子一人が残されました。
昭和二十二年八月一日朝、東京都文京区駒込の富士銀行にアメリカ兵が侵入し、強盗をはたらき、付近にあったトラックを奪って逃走しました。そのトラックは猛スピードで走行するうち山岡金三郎(四十六才)を跳ね飛ばして即死させました。あとには妻と四人の子が残されました。
昭和二十二年九月十四日、アメリカ軍の大型トラックに轢かれて森本はるが即死しました。夫の平吉は「考えるに米軍は後方からわざと打ち付けてはねとばしたのです」と述懐しました。夫と五人の子供が残されました。
昭和二十三年正月、埼玉県大宮市の氷川神社は初詣の人々で混雑していました。午後二時半頃、その混雑の中にアメリカ軍の大型トラックが猛スピードで突入し、しかも蛇行運転をしました。多くの初詣客を巻き込んで死傷させ、参道の屋台を押しつぶしてようやく停車しました。この事故で菅野貞治の五人の子供のうち二人が即死し、二人が負傷しました。
昭和二十三年六月十二日、神奈川県厚木市の相模橋の上で、十七才の女性が欄干と占領軍車両とに挟まれて、頭部を轢かれて死亡しました。
昭和二十三年十一月二十二日午後二時半頃、山形県鶴岡市家中新町の十字路においてアメリカ軍のジープが自転車に衝突しました。自転車に乗っていた辻義重(二十三才)は五メートルほど飛ばされて意識不明となりました。幸い、病院に運ばれて一命はとりとめましたが、身体に障害が残り、思うように働けなくなりました。
昭和二十三年四月のある日、午前十一時頃、兵庫県山崎町の森下卯作の時計店にジープが突っ込んできました。たまたま店先にいた妻のはるの(三十六才)と三男修(十一才)が跳ね飛ばされました。はるのは死亡し、修は痴呆になりました。店舗も破壊されました。
昭和二十三年六月二十日午後五時頃、大阪府和泉市の沢田角蔵は、アメリカ軍のジープに跳ね飛ばされました。ジープは停まりもしないで逃走しました。沢田は病院に運ばれたものの重傷で不具の身となりました。
昭和二十四年四月二十日、大阪市福島区の狭い路地でアメリカ軍の黒人兵とパンパンの乗るジープが後進中に三才の男の子を轢きました。三才児は脳底骨折で即死でした。両親は悲嘆にくれ気力を失いました。
昭和二十三年八月三日、熊本県本渡市は祭りの日でした。神輿を見ようとして道路に出た宮本マリ子(八才)は不運にもアメリカ軍のジープに轢かれて片足を失いました。
昭和二十四年四月二十六日午後一時頃、兵庫県宝塚市山本で五才の男の子がアメリカ軍のジープに轢かれて死亡しました。
昭和二十四年十月五日午後十一時頃、大阪府豊中市簡易裁判所前の産業道路で男性三名がアメリカ軍のジープにはねられました。二人は軽傷でしたが、和田宅蔵は重傷を負い、後遺症に悩まされました。
昭和二十四年十二月二十四日午後三時頃、埼玉県浦和市六辻交番前で日本人男性がアメリカ軍のジープにはねられて死亡しました。妻と三人の子が残されました。
昭和二十五年六月四日午前八時頃、東京都豊島区雑司ヶ谷の路上でアメリカ軍の車両に引っ掛けられて鳥山正吉(三十七才)が死亡しました。妻子六人があとに残されました。
昭和二十六年一月二日午後七時頃、神奈川県横浜市桜木町において武田勝蔵(四十四才)がアメリカ軍のジープにはねられて、翌日に死亡しました。
《日本人労務者の爆死》
連合国軍が日本に進駐すると、様々な労務に多くの日本人が雇用されました。しかし、労務環境が劣悪だったため多くの事故が発生し、死者や重傷者が出ました。単に言葉が通じないというだけで日本人労務者が射殺されたり、明らかに遊び半分で日本労務者が射殺されたりすることがありました。アメリカ軍基地内の設備や住宅を建設するために多くの日本人労務者が雇用されていましたが、日本人労務者を荷台に満載したトラックが故意に急ハンドルを切り、荷台の労務者を振り落とすような悪ふざけが頻発しました。そのたびに労務者が転落して死傷者が出ました。
旧日本軍の弾薬を処理する際にも多くの日本人労務者が雇われましたが、弾薬が暴発する事故が発生し、多くの死傷者が出ました。弾薬を海中投棄する際に爆発が生じて貨物船が沈没したり、地下弾薬庫が爆発して付近の集落ごと吹き飛ばしたりすることもありました。
朝鮮戦争が始まると日本人労務者は輸送船に乗り、朝鮮半島の港湾で荷役や輸送や戦闘に従事させられました。朝鮮海峡では日本の海上保安庁が掃海作業に従事しました。
連合国軍の演習地では盛んに演習が実施され、その砲弾は時に演習地の外にまで飛散しました。また、不発弾や薬莢などの金属は換金できたため、日本人がそれらを拾ううちに暴発事故に遭い、死傷する例が少なくありませんでした。飛行場の周辺では、飛行機の墜落や、飛行機からの落下物により家屋や人身に被害が出ました。
昭和二十年八月二十八日正午頃、神戸県庁前で深井正(二十七才)が死亡しました。死因はアメリカ軍機からの落下物の直撃を頭に受けたからでした。即死でした。
昭和二十年九月三日、アメリカ軍機が福岡県戸畑市中原にあった俘虜収容所に向けて物資コンテナを投下しました。このうち落下傘が開かなかった物資コンテナが日本発送電戸畑発電所の事務所を直撃し、同事務所で休憩していた吉川千雄(四十九才)が死亡しました。
昭和二十年九月三十日、小樽港にて旧日本軍の弾薬を海中投棄作業中、爆発事故が起こりました。荒天の中、無理な作業を占領軍の命令で強行した結果です。アメリカ軍兵士四名が死亡しました。日本人は、死者十三名、重傷者十名の被害を受けました。
終戦後、アメリカ軍の指揮下、鹿児島の旧海軍鹿屋航空基地では日本人労務者による弾薬の集積作業が行われていました。昭和二十年十月十八日、弾薬集積場で小学生が遊んでいたところ不発弾が爆発し、二名死亡、四名重軽傷という被害が出ました。アメリカ軍による弾薬集積場の管理はきわめて杜撰でした。さらに、昭和二十年十一月八日午前十時頃、同じ集積所において、集積されていた膨大な弾薬が大爆発を起こし、郷ノ原町のおよそ八十戸の集落がまるごと焼失してしまいました。爆発原因はわかっていません。
日本陸軍は、戦時中、福岡県添田町の二又トンネル内に大量の弾薬を貯蔵していました。戦後、連合軍の指揮下、その弾薬を処理することになりました。昭和二十年十一月十二日午後五時頃、アメリカ軍のジープが二又トンネル前にやってきて、無造作に小銃をトンネルに向けて数発発射すると退避していきました。付近には地元の警察と消防が警戒のために集まっていました。やがて地面が揺れだしたので皆が逃げ出しました。大爆発が発生し、トンネルから轟音と爆風と爆炎が天に噴き上がりました。トンネルに近い落合部落は全滅しました。被災戸数百三十五戸でした。百四十名の死体が発見され、重軽傷者百五十一名が出ました。
昭和二十年十一月十日、西之表港に停泊中の大神丸(六十九トン)は、占領軍から命令を受けました。種子島にある旧日本軍の兵器弾薬を接収し、海中投棄するため鹿児島県中種子町浜津脇に回航せよとのことでした。中種子町では強制命令による町民総出の積み込み作業が毎日行われました。十二月三日は荒天だったため大神丸は西之表港に避難しました。翌四日早朝、大神丸は出港し、島間港に仮停泊していたところ大爆発を起こしました。積載していた六十トンの弾薬が爆発したものです。機関員の安永太一(十八才)が死亡しました。
昭和二十年十二月十五日、荒天下、小樽沖において旧日本軍の武器弾薬を海中投棄していた真岡丸(千二百トン)が爆発し、轟沈しました。全乗組員八十八名が死亡しました。
連合国軍は、旧日本海軍逗子火薬庫の火薬を貨車で辻堂駅に運び、さらにトラックで辻堂海岸へ運び、そこで爆破処理していました。昭和二十年十二月十八日、午前七時過ぎ、辻堂駅で突如、大爆発が起こりました。弾薬を塔載した貨車二両が爆発したのです。このため辻堂駅裏若松の菊池恒次郎宅では戸という戸がすべて吹き飛ばされ、ガラスの破片が飛び散りました。さらに爆発が起こり、菊池家はペチャンコにつぶれて焼失しました。恒次郎(五十才)、ノブ(四十一)、慈子(十才)、弘子(七才)、英二郎(四才)が倒壊家屋の下敷きになって焼け死にました。幼い兄弟ふたりだけが生き残りました。
愛知県豊橋市向草間町に住む山上しな(二十三才)は、夫を戦争で亡くしていました。昭和二十年十二月二十一日、畑仕事をしていました。豊橋では旧日本陸軍の兵器弾薬爆破作業が行われていましたが、山上の家は危険指定区域外でした。突然、爆発音がとどろき、彼女は気を失いました。飛来してきた砲弾片にあたり、重傷を負いました。右足の自由が利かなくなり、左手の親指を失ました。しかし、いっさいの補償はありませんでした。
横浜市磯子区野島町には旧海軍の野島砲台がありました。戦後、見晴らしの良い砲台は子供の遊び場になっていました。昭和二十年十二月二十一日午後四時、アメリカ軍は野島砲台を爆破処理しました。しかし、このことを地元の役場にも近所の住民にも小学校にも通達していませんでした。このため、この日、たまたま砲台に遊びに来ていた藤田広行(十才)と寺原信一郎(十四才)が爆破に巻き込まれて死亡しました。
大阪陸軍造兵廠播磨製造所を中心とする旧日本軍施設には膨大な砲弾爆薬兵器がありました。連合国軍は、これを処理するため多くの日本人労務者を使役し、砲爆弾の処理を行い、海中投棄させていました。昭和二十年十二月二十八日午前九時頃、信管の入っている箱を開ける作業をしていました。そのとき梃子が信管に触れ、大爆発し、火災が発生し、数名が即死しました。その付近には弾薬を満載して係留していた機帆船があり、ここに引火しました。火を消すために消火活動が開始されましたが、消火作業中、火薬に引火して大爆発音とともに機帆船は大破座礁しました。アメリカ軍兵士三名、日本人労務者十名、消防手六名が肉片すら残さずに吹き飛ばされました。
昭和二十一年二月一日、鹿児島県溝部村の元海軍飛行場でアメリカ軍指導の下、爆薬処理作業中、爆発事故が起こり、小川与三次(四十三才)が重傷を負いました。顔面火傷、右目失眼、右上半身麻痺でした。
白鳥丸(五十トン)は、昭和二十一年五月七日、アメリカ軍の命令に従い、宇品港を出港しました。旧日本軍の武器銃砲等を海中投棄するためです。この日、荒天でした。白鳥丸の乗員はアメリカ軍に「出港は無理だ」と訴えました。しかし、聞き入れられず、無理に出港しました。結果、白鳥丸は、機関の罐に海水が侵入し、波を受けて沈没しました。乗組員のうち四人が行方不明となりました。
昭和二十二年九月、連合国軍は福岡県久留米の演習場で実弾射撃訓練をしていました。訓練する時には付近の民家に通知があります。同月十一日は雨模様で訓練の通知がありませんでした。付近の住人は演習がないものと思っていました。雨が上がり、晴れ間の出た午後四時頃、久留米市藤山町の尾上正蔵宅に砲弾が命中しました。妻のマツが死亡し、四女が重傷を負いました。
昭和二十二年十月十五日、高知県室戸岬町三津港で旧日本軍の機雷を解体作業中、その機雷が爆発しました。この事故でアメリカ軍人二名、日本人三十六名が死亡しました。
兵庫県姫路市上砥堀に杉村定一の住まいがありました。アメリカ空軍のジェット機が頻繁に上空で訓練飛行をしており、その騒音に悩まされていました。昭和二十三年一月二十三日正午頃、上空にジェット機の騒音がしました。しかし、この日は様子が違いました。異様な轟音がして、杉村宅の屋根を突き破って大きな物体が落下してきました。定一には、わけがわかりませんでした。子供の悲鳴で正気に返ると、妻が大きな物体の下敷きになって死亡していました。定一は全身にガソリンを浴びていました。近所の人々が駆け付け、ガソリンを拭いてくれました。落下してきた物体はガソリンタンクでした。
朝鮮戦争がはじまると、アメリカ軍機は帰投時に日本の山中に爆弾を投下してから着陸するようになりました。昭和二十四年二月十四日、鹿児島県鹿児島市高免町の山林中に焼夷弾四発が投棄されました。いずれも不発でした。その爆弾を処理するためアメリカ軍人二名、地元警察七名が現地に向かいました。午後三時頃、作業中に一弾が突如として爆発し、時田寅吉が焼死、中山正利が全身火傷の重傷を負いました。中村は全身に麻痺が残り、左目を失明しました。
昭和二十四年九月十二日、広島県江田島で石炭荷揚げ作業をしていた徳永亀二(二十八才)は、船を岸につけたとき、マストが電柱に触れたため感電死してしまいました。あとには家族六人が残されました。
昭和二十五年九月十八日午前十時頃、兵庫県川西市久代の今井家では、妻が縁側で針仕事をし、子供たちは庭で遊んでいました。そこへ轟音とともにアメリカ軍機のガソリンタンクが落下しました。家中が燃え上がったため、妻は全身火傷を負い、後遺症に悩まされました。
昭和二十五年十月十七日、朝鮮半島元山沖で掃海作業中の日本特別掃海隊MS十四号艇が蝕雷し、海上保安官中谷坂太郎(二十一才)が死亡し、十八名が負傷しました。中谷の遺族はアメリカ軍将校に固く口止めされました。
宮城県色麻村王城寺では、開拓地とアメリカ軍の演習場が隣接していました。相原亀は開拓農家でした。昭和二十六年十一月一日正午前、大人は畑仕事をし、子供たちは畑の隅でママゴトをしていました。そのとき、偶然に四才の三男が手榴弾を見つけてしまいました。不幸にも爆発し、三男は死亡、四男は重傷を負いました。一家は土地を手放しました。
同じ王城寺で、昭和二十七年三月二十一日、鎌田勉の親戚家族は畑に出て農作業をしていました。田んぼの水を落とすために四人で原っぱに入っていきました。そこで不発弾に触れ、爆発が起こり、四人とも死亡しました。
昭和二十五年十一月十五日、朝鮮半島元山沖を航行していた大型曳船六三六号が沈没し、日本人船員二十二名が死亡しました。
昭和二十五年十一月二十日、朝鮮咸鏡南道興南で荷役作業をしていた日本人労働者が事故に遭い、三名が負傷しました。
昭和二十七年四月七日午前八時頃、宮城県塩釜市の山本しず方の玄関で子供二人が遊んでいました。男の子は、それとは知らず、手に手榴弾を持っていました。近所の楠田秀人は通りかかりに見て、それが手榴弾ではないかと疑い、近寄りました。「投げるよ」と言って男の子は手榴弾を敷居にぶつけました。女の子は怖がって逃げたので助かりました。男の子は死亡し、楠田秀人は病院に収容されて事情を語りましたが、やがて死亡しました。
山口県秋吉町青景で三人の女子がキノコ採りをしていました。そこにアメリカ軍機の投棄した焼夷弾がありました。それが爆発して三人の女の子は吹き飛ばされ、三人とも重傷を負い、後遺症に悩まされました。
昭和二十六年十月十二日、北海道千歳のアメリカ第八〇九二部隊青葉キャンプでは基地充実作業が行われ、多くの日本人労務者が働いていました。川口ら五名はボーリング作業をしていました。その作業中、川口が硬直して五体を震わせるとパッタリ倒れました。感電したのです。居合わせた作業員はすぐに事態を理解して、川口を病院に運んだものの、川口は蘇生しませんでした。あとには妻の貞子、三才と一才の子供が残されました。
《鬼畜米英の強姦》
占領期間中、連合国軍将兵による強姦事件が頻発しました。このため多くの混血児が生まれ、至る所に嬰児が捨て置かれるまでになりました。しかし、GHQがこうした事実を隠蔽したため強姦被害の総数は不明です。当時の新聞記者たちは「おそらく毎年最低三万人からの女が犯されてきただろう」と一様に語り合いました。
アメリカ海兵隊が神奈川県に上陸を開始したのは昭和二十年八月三十日でしたが、いきなり事件が発生しています。八月三十日午後六時頃、横須賀市の住宅で三十四歳の女中が留守番をしていたところ、アメリカ兵二名が侵入し、一名が外を見張るあいだ、他の一名が二階四畳半において女中を強姦しました。その手口は、はじめ検査と言って家内を見分し、女一人であることを確認し、いったん帰り、再び侵入して犯行を実行するという悪質なものでした。
八月三十日午後一時三十分頃 横須賀市の住宅の裏口からアメリカ兵二名が侵入し、留守居していた三十六歳の妻と十七歳の長女を拳銃で威嚇しつつ、二階と勝手口にてそれぞれ強姦しました。
九月一日午後六時頃 トラックに乗ったアメリカ兵二名は、市内において二十四歳の女性をトラックに載せて連れ去り、野毛山公園内のアメリカ軍宿舎に連行し、アメリカ兵二十七名により輪姦しました。女性は仮死状態に陥りました。
九月十九日午後十一時頃、横浜市内の住宅に侵入したアメリカ兵三名は、二十七歳の妻に情交を迫りました。その妻は拒否して戸外に逃げたものの捕えられ、畑に連行されて輪姦され、さらに別の黒人アメリカ兵三名によっても輪姦されました。
外務省外局終戦連絡委員会横浜事務所でタイピストをしていた北林余志子の述懐が五島勉著「黒い春」に掲載されています。
「街路で突然、意味なくアメリカ兵のために殴り倒される日本人、白昼ピストルで脅迫され、腕時計や財布を巻き上げられたり、屋内に侵入して金庫を破られ、財布全部を強奪されたり、そしてもっと悲惨なことには若い人妻が凌辱され、清純な娘が処女を蹂躙され、等々の事件は各所に起こって、横浜は『死の街』から、それ以上の『地獄の街』になってしまいました」
昭和二十年八月三十日から九月十日までのわずか十二日間だけで、強姦事件九件、わいせつ事件六件、警察官に対する略奪事件七十七件、一般人に対する略奪事件四百二十四件が発生しました。アメリカ軍には軍律も何もなかったことがわかります。これに対して日本の警察官は無力でした。アメリカ兵は日本の警察官を馬鹿にして暴行を加え、拳銃を取り上げさえしました。日本国民はアメリカ兵にとって奴隷であり、家畜であり、雑草も同然でした。
アメリカ軍将兵の獣性を露骨に示した凄惨な事件がありました。小学五年生の少女三名が武蔵野の森で写生をしていたところ、トコロザワ・キャンプのアメリカ兵に襲われました。
東京大森にあった中村病院では、アメリカ兵による集団強姦が発生しました。トラック三台に分乗したアメリカ兵三百名は、中村病院に侵入すると、患者婦人や看護婦、付添婦、雑役婦などおよそ七十名を凌辱しました。その間、生後二日の嬰児が床に蹴落とされて死亡しました。この中村病院事件の模様を五島勉著「黒い春」から引用します。
「彼等は大病室に乱入し、妊婦・産婦・病気の婦人たちのふとんを剥ぎとり、その上にのりかかった。村塚セツさんの、二日前に生まれたばかりの赤ちゃんフミ子ちゃんは、一人の兵隊に床に蹴落とされて死んだ。安らかな病室は一瞬にして眼を蔽うばかりの地獄と化してしまった。この病室に入ったアメリカ兵はみんなで九人ばかりだった。一人の婦人が隅の電話器へ飛びつこうとしたが、その前にアメリカ兵が拳銃を撃ってそれをこわした。隣の病室にも女性はたくさんいたが、みんな重症患者だったのでここにはアメリカ兵たちも手を出さなかった。軽症の男の患者たちが病室から出て抵抗しようとしたが、拳銃を突きつけられたのでだめだった。
一方、看護婦さんの寄宿舎の裏口から十五、六人のアメリカ兵が侵入してきた。廊下の方からも十人ほどやってきたので、彼女たちはどっちへも逃げられなくなった。彼女たちは大声で『助けて、助けて』と叫びながらそこらにあるものを片っぱしから投げつけて彼らを近寄らせまいとしたが、ここでも拳銃が威力を発揮した。彼女たちはひとりまたひとりと抱きかかえられ、裸にされ、仰向けに転がされた。十分もたたないうちに彼女たちはひとりのこらずアメリカ兵の下になってしまった。ミス中村病院のM子などは続けざまに七人の兵隊に犯され、気絶した。彼らはおよそ一時間近くも病院中を荒らしまわった。六十人ほどの婦人患者のうち臨月の婦人や重傷者を除く四十数人が凌辱され、看護婦は十七人が全部凌辱され、ほかに十五人ないし二十人の付添婦・雑役婦などが凌辱された」
日本政府は早くから強姦被害が発生することを予見し、「性の防波堤」として占領軍専用の慰安施設として特殊慰安施設を昭和二十年九月に岩手、秋田、山形、東京、神奈川、静岡、愛知、大阪、兵庫、広島に設置しました。最盛期には七万人の慰安婦が働いていました。しかし、この慰安施設に大量のアメリカ兵が突入して集団強姦するという事件が発生しました。売春宿が強姦宿になってしまったわけです。こうして「性の防波堤」はいとも簡単に崩落してしまいました。
連合国軍の大軍が日本に進駐したため、演習場が必要になりました。旧日本軍の演習地だけでは不足したため、開拓農地の隣接地に連合軍の演習地が設けられました。すると、その開拓農家にアメリカ兵が侵入して強姦を働くようになりました。開拓農家ではアメリカ兵の侵入に備えて寝ずの番をする必要が生じました。離農者が増え、農地が荒れました。空いた農家が売春宿に代わり、開拓農村の風紀が乱れる結果となりました。北富士演習場付近で農業を営んでいたにもかかわらず、やむなく離農した農婦の述懐が残っています。
「思い出しても身体が震えます。営農の道を断たれたわたしたちは、アメリカ軍とともに部落に押し寄せた売春婦に部屋を貸し、部屋代を取りました。政府の役人たちは、その時なんと言ったでしょうか。『良かったな、これで楽して金が取れる。あんたたちは働かなくても良いんだ』。それが日本の役人であり、日本政府です。わたしたちは確かに愚かで恥知らずでした。売春婦の部屋貸しを政府に励まされているうちに部落は地獄のようになりました。部屋を貸し、遊んで食っているうちに、本当に失ったのは精神であり、道徳でした。部落では若い人たちが身を誤り、堕落した者が少なくありません。それでも政府がわたしたちに与えたものは、嘲笑だけでした。『楽して金が取れる、よかったな』。悪魔の言葉です。政府は、農民に農業を忘れさせ、女郎屋のようなことをさせようとしたのです」
まさに亡国です。占領下では日本の官僚はアメリカの傀儡と化し、日本国民同胞を蔑視していました。これこそ戦後日本の元型です。
日本女性は、かつて黒人奴隷の女性やインディアンの女性やハワイ王国の女性やフィリピン女性がそうされたであろうようにアメリカ軍将兵に凌辱されました。その惨劇は、まさに唐突に女性たちを襲い、その人生を根底から狂わせました。「黒い春」から、いくつかの事例を紹介してみます。
真野与喜子、智子、君子の三姉妹は、兄の与一郎と一緒に厚木飛行場から二里ほど離れた家に住んでいました。一九四五年九月十一日、武装した八人のアメリカ兵が日系二世の通訳を従え、「武器を隠してないか調べる」という理由で家に入ってきました。彼らはそこら中を散々かき回しただけでいったん引き上げましたが、その晩ふたたびやってきて、「サービスのため娘たちを出せ」と言いいます。「できない」と与一郎が断ると、「では、勝手に借りてゆこう」と日系二世通訳が言うと、アメリカ兵たちはてんでに、悲鳴を上げる三姉妹に襲いかかりました。与一郎が野球のバットでひとりのアメリカ兵を殴ったとき、ほかのふたりのアメリカ兵が自動小銃で与一郎を撃ちました。与一郎は即死しました。それから三姉妹はめちゃくちゃな暴行を受け、智子などは裸のまま玄関の石の上へ投げだされました。夜中になるとアメリカ兵たちは煙草をふかしながら「ゴメンナサイ」と言って帰っていきました。十日後、子宮の傷から敗血症をおこした君子は苦しみながら死に、智子はしばらくして発狂しました。与喜子は横浜で街娼の仲間にはいり、一時、浦安ハウスにもいましたが、その後の行方は知れません。
大井みどりは資産家の愛くるしいひとり娘だったが、空襲で父親と邸宅・財産のすべてを失い、母親と二人でつつましく暮らしていました。食うに困るほどではありませんでしたが、彼女はそんな生活がだんだんいやになり、金と良い服と良い食べ物をもとめて、昭和二十一年五月、あるダンスホールに勤め始めました。毎日、進駐軍や闇商人と踊っているうち、伊丹基地からやってくるアメリカ空軍の下士官と愛しあうようになって、とうとうホールをやめ、基地の近くに部屋を借りて同棲し始めました。パンひときれが宝石のように尊かった時代に、彼女は情夫が運んでくる肉や卵をふんだんに食べ、国民服やモンペのほか何も持たぬひとびとの間を、新調の外套を着、ハイヒールをはいて、情夫と腕を組んで歩いきました。ある日、きっとくるはずの時間に情夫が来ないので、基地に電話してみると、彼は今日アメリカへ帰った、ということでした。彼女は電話器の前で卒倒しました。
午前一時という真夜中に、三人のアメリカ兵がS子さんのバラックに侵入してきました。懐中電灯で照らしながら、広くもない部屋中をひとわたり見まわしてから、「一時間たったらまた来るぞ」と言い残して出ていきました。なぜそんなことを言ったのか、わかりません。しかし、そう宣言されても、警察は遠いので訴えに行くことはできず、逃げ出すこともできず、ただ恐怖に家中の者がおろおろしているうちに、やがて三人の兵隊が引き返してきました。二人はピストルを持って戸外に立ち、一人が入ってきて、S子さんの父親に「この娘の年はいくつか?」と手まねで尋ねました。父親は、これは危ないと思ったので、本当の年より二つ若く「まだ十六です」と手まねで答えました。十六ならまだ子供の部類だし、見逃してくれるだろうと思ったからです。ところが、十六才と聞くと、アメリカ兵らはいきなりS子さんをつかまえて外へ連れ出し、三人がかりで泣き叫ぶS子さんの肉体を自由にしました。S子さんは純潔な処女だったし、裂傷のための出血と、傷つけられた心の痛みに、それから以後、かなり長いあいだ入院しなければなりませんでした。
東京の山口治子は、昭和二十年九月十二日の夕方、渋谷の闇市で米を買い、ついでにマーケットの中の靴屋で靴を直そうとしました。その店にはちょうど美男子のアメリカ兵がふたり来合わせていて、彼女の靴のために本物のクリームをくれ、しきりに彼女の美しさをほめました。
「あなたの美しさのために乾杯」
ひとりのアメリカ兵がそういって、ポケットから差し出したウイスキーを小さなグラスで無理に彼女に飲ませました。そのうち靴屋はどこかへいなくなってしまい、しばらくすると彼女は眠くなって、変にぐったりしてきました。アメリカ兵は店の奥へ彼女をつれていって寝せたところまでは知っていたが、あとの覚えはなくなりました。
目が覚めた時、彼女はやっぱり靴屋の奥に寝ていました。あわてて起き上がったところ、下半身は裸にされ、スカートもズロースもそばに放り出されてありました。まわりでは三人の与太者がゲラゲラ笑いながら彼女のあわてぶりを見ていました。身体の感じで彼女は辱めを受けたことを知りました。
「進駐軍の命令で迎えに来た。騒ぐと命はねえぞ。おめえの身体じゃもう家へは帰れねえから、おとなしくしな」
与太者たちは半狂乱の彼女をトラックに乗せ、大森の慰安所へ連れて行きました。何度も逃げようとしましたが、監視がきびしくてダメでした。彼女は泣きながら、これも運命だとあきらめました。
彼女の夫、山口賢は気狂いのようになって妻をさがして歩きました。日本の警察はまったく冷淡な態度を示しました。アメリカ兵に凌辱されたらしいとわかると、警察は完全に手を引いてしまいました。彼はある日、同居していた弟にCIC(対敵諜報部隊)へ行ってくるといって出かけたきり消息を絶ちました。CICに問い合わせてみても、そんな日本人は来なかった、という返事があっただけです。そして、十七日、自殺とも他殺ともわからない彼の死体が、蒲田の海岸で発見されました。
この山口治子の事例からわかることは、アメリカ兵が強姦すると、それに紐づいたヤクザが現場に駆け付け、被害女性を拉致して売春婦にしてしまうという仕組みができ上っていたことです。まさに日本女性を強制連行して売春婦にしていたのです。これが占領の現実です。
五島勉の調べによると洋娼、いわゆるパンパンの人数は、連合国軍の上陸後に急増し、三か月で五万人に達しました。このことを五島は「戦災や暴行を受けた娘たちを駆り集めて慰安所へ送り込んだ日本政府、警察、勧業銀行、売春業者そして暴力団の許しがたい犯罪の痕跡」と書いています。
洋娼の数はしばらく五万人程度で推移しますが、昭和二十二年には七万人に迫るまで増加します。そして、以後は六万人台で推移し、昭和二十六年に十二万七千人に達してピークを迎えます。
五島は、千名の洋娼に取材した結果を統計にまとめています。それによると、「なぜ洋娼になったのか?」という問いに対して洋娼たちは、「生活苦から生きるために」、「米兵・国連兵と付き合っているうち何となくやめられなくなって」、「米兵・国連兵に暴行され、絶望し、ヤケになって」、「派手な生活に憧れて」、「家庭が面白くなく家出した結果」、「先輩の洋娼・業者・家族などから強制され、または勧められて」という回答が得られています。
以上のように占領期の日本は強姦地獄でした。
「こんな女に誰がした」
というのは、アメリカ兵に強姦されて人生を狂わされ、パンパンと軽蔑されるようになってしまった日本女性たちの恨みの言葉です。さらにいくつかの例を掲げます。
宮城県仙台市新寺小路の赤松正一家では、正一がまだ復員していなかったため、政江(二十一才)が一家六人の面倒をみていました。昭和二十一年三月十日、政江はアメリカ兵に犯されたうえ、ピストルで射殺されました。
神奈川県相模原市新戸の長谷川ウメ子(十七才)は、昭和二十一年四月月八日午前八時半頃、路上で六名のアメリカ兵に追われました。ウメ子は逃げましたが、橋のところでMPのジープに止められました。MPはウメ子をパンパンと誤認して撃ちました。弾丸は左足に命中しましたが、ウメ子は家まで自力で帰り、その後、入院しました。
昭和二十一年八月十六日午後七時頃、大阪府豊中市原田に住む十八才の少女は、護国神社の境内でアメリカ兵に強姦されたうえ、深い傷を負わされました。翌月、この少女は死亡しました。
昭和二十四年十一月十六日夜、吉川千恵子(二十二才)は仕事帰り、同僚四人と帰途についていました。そこへラッセル・ブラックというアメリカ軍軍属が自動車で寄ってきて、「オジョーサン、オクリマス、ノリナサイ」という。四人はつい乗ってしまいました。池袋でひとり降り、中野でひとり降り、高円寺でひとり降りました。このとき千恵子は「駅で降ろして」と言いました。しかし、ラッセルは「ドライブ、シマショ」と言い、千恵子の肩を抱きます。千恵子は抵抗しましたが、「ユルサナイ、ホテル、ホテル」と言う。ついに千恵子はドアを開けて走行中の自動車から飛び降りました。千恵子は頭蓋骨骨折、肋骨骨折で死亡しました。
埼玉県入間郡奥富村入間川の河原にアメリカ軍の砂利採取場がありました。そこの立哨小屋に勤務していたクレンツ・ウィラード軍曹は、近くの草原に若い女がいるのを見ました。ウィラード軍曹は、近くで遊んでいた少年を呼び、「アノムスメサン、ヨンデキナサイ」と言いました。呼ばれたのは葉子(十七才)でした。葉子が呼ばれたままに立哨小屋に行くと、ウィラード軍曹が葉子に銃を向け、テントに行くよう指図しました。立哨小屋には兵士がふたりいましたが、ニヤニヤ笑いました。テントの中で葉子は強姦されました。後日、葉子の父親が被害を訴えたものの、軍曹も兵士も容疑を否定しました。日本の警察はまったく頼りになりませんでした。
ここまでに示したように、連合国軍の日本進駐に伴って暴行、傷害、殺人、強姦、交通事故、労務災害など日本国民に甚大な被害が生じました。しかし、これらの被害は隠蔽され、連合国軍将兵の加害者が処罰されることはなく、日本国民の被害が補償されることもありませんでした。つまり、占領期日本はまさに無法地帯だったわけであり、日本国民は奴隷も同然でした。西欧列強に侵略されたアジアやアフリカや南北アメリカ大陸の先住民たちと同じ境遇に日本人も陥れられました。そして、日本国民の惨状をGHQは隠蔽し、「民主化」、「基本的人権」とプロパガンダすることによって日本国民を洗脳しました。
昭和二十年九月十九日にGHQから発令されたプレス・コートによって連合国軍将兵の不法行為はいっさい報道されなくなりました。プレス・コードとは情報統制の基準です。要するに連合国の悪口を書くな、アメリカの批判をするな、GHQの政策を疑うなと報道機関に命令したわけです。違反すると操業停止命令が出されます。報道機関はやむを得ず、GHQの言いなりになっていきました。この状況は、驚くべきことに、令和の今日まで続いています。
現在、韓国政府や左翼メディアによって拡散されている朝鮮人慰安婦強制連行問題とは、占領期にアメリカ軍将兵が犯した強姦の事実を隠蔽するために拡散されたプロパガンダであると解釈すれば腑に落ちます。日本軍が朝鮮人女性を強制連行したという、ありもしない捏造プロパガンダを拡散する意図は、実際に存在したアメリカ軍将兵による日本女性への性暴力を隠蔽するためのものです。
ハーグ陸戦法規という国際法があります。もちろんアメリカも批准しています。その第四十六条には「私有財産は没収できない」とあります。第四十七条には「略奪はこれを厳禁とする」とあります。しかし、アメリカ軍が同法規を守らなかったことは明白です。アメリカは無法国家です。
大東亜戦争で戦死した英霊たちは靖国神社に祀られています。広島と長崎では原爆投下によって死亡した人々の慰霊が毎年おこなわれています。その他の都市空襲における戦没者の慰霊もおこなわれています。しかし、占領期にアメリカ軍将兵によって虫けらのように殺され、強奪され、強姦され、そして何らの補償もされず、恨みを呑んで死んでいった占領軍被害者の霊魂は全く顧みられていません。これこそ戦後日本最大の問題です。
《国体破壊》
昭和二十年八月、アメリカ軍の大艦隊は神奈川沖に集結し、その先遣隊は厚木飛行場に着陸しました。八月三十日、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥は厚木飛行場に到着し、横浜のホテルニューグランドに入りました。九月二日、横浜沖の戦艦ミズーリ艦上で降伏文書の調印が行われ、九月八日にGHQが東京に設置され、九月十一日に第一次戦犯指名が行われ、九月十七日にマッカーサー元帥が東京に着任します。そして、GHQは矢継ぎ早に占領政策を発表します。日本管理方針、武装解除、治安維持法廃止を含む人権指令などです。
これに対して東久邇宮内閣は、国体護持を政権の基本方針としていました。総理大臣東久邇宮稔彦王は、九月五日、貴族院本会議において、いわゆる一億総懺悔の演説をします。
「至尊の聖明をもってさえも今日なおこの悲局を招来し、かくも深く宸襟を悩まし奉りましたことは臣子と致しまして、誠に申訳なき極みであります、それと共に、民草の上をこれほどまでに御軫念あらせらるる有難き御仁慈の大御心に対し我々国民は御仁慈のほどを深く肝に銘じて自粛自省しなければならないのであります、敗戦のよってきたる所はもとより一にして止りませぬ。後世史家の慎重なる研究批判にまつべきであり、今日、我々がいたずらに過去にさかのぼって、誰を責め、何を咎むることもないのでありますが、前線も銃後も軍も官も民も国民ことごとく靜かに反省する所がなければなりませぬ。我々は今こそ総懺悔をして神の前に一切の邪心を洗い浄め、過去をもって将来の戒めとなし、心を新たにして、戦の日にも増して挙国一家、乏しきを分ち、苦しきを労り、温き心に相援け、相携へて、各々その本分に最善をつくし、きたるべき苦難の途を踏超えて帝国招来の進運を開くべきであると思ひます」
この演説は、戦いに敗れたことを全国民が反省し、祖先の神々に懺悔し、新たな日本を切り開く決意を固めるというものであり、まさに国体護持の信念を表明したものです。
日本人を洗脳し、日本の国体を破壊し、日本を植民地化しようと考えていたGHQがこの演説を見逃すはずはありません。GHQは新聞発行停止命令を根拠にして、この「一億総懺悔」演説の拡散を抑止し、戦犯裁判の準備を急ぎました。
昭和天皇とマッカーサー元帥が会見した際の写真について東久邇宮内閣とGHQは意見を対立させました。東久邇宮内閣は、内務大臣の権限によってその写真を発禁処分にしました。これを不服としたGHQは内務大臣を逮捕すると恫喝し、結果、昭和天皇とマッカーサー元帥が並んで映っている写真が新聞各紙に掲載されることになりました。
十月四日、GHQは人権指令を発し、治安維持法の撤廃、特別高等警察の廃止、内務大臣、警保局長、警視総監、道府県警察部長、特高課長の一斉罷免を要求しました。容共主義者だったフランクリン・ルーズベルト大統領の死去に伴って職を失っていたニュー・ディーラーすなわち共産主義者たちは、職を求め、大挙して来日していました。したがって、GHQが治安維持法の撤廃を要求したのは当然の成り行きでした。しかし、国体護持を基本方針とする東久邇宮内閣はこれに同意できませんでした。治安維持法の撤廃は、日本の共産化つまり国体破壊を意味したからです。東久邇宮内閣は抗議の意思を明らかにするため総辞職しました。
以後、GHQは指示に従わない内閣には総辞職を強要し、日本政府を完全な傀儡にしていきます。日本政府も帝国議会も最高裁判所も、日本の三権はすべてGHQの意のままになりました。まさにアメリカ専制下におけるGHQ翼賛体制というべき状態です。国体護持は死語となり、GHQによる国体破壊が推進されていきます。
連合国は、大日本帝国の領土を分割しました。カイロ宣言では「領土拡張の何等の念をも有するものに非ず」と謳っていたはずですが、これは嘘でした。日本の領土はポツダム宣言のとおり、本州、北海道、九州および四国ならびに諸小島に局限されました。朝鮮半島と台湾の日本国民は自動的に日本国籍を喪失しました。
そして、GHQによる国体破壊政策が推進されていきます。その意図は明確です。日本の弱体化と植民地化です。アメリカは日本の弱体化を「平和主義」と呼び、日本の植民地化を「民主化」と呼び、日本国民にそう信じ込ませましたが、すべてはプロパガンダです。GHQは、日本の法律を改変し、情報と言論を統制して日本国民をだまし、日本の教育と文化を破壊していきます。その推進者は、ニュー・ディーラーという共産主義者でしたから、戦後日本の共産化が進みました。
日本の国体にかかわる最重要事項は天皇陛下でした。アメリカは天皇陛下を殺すこともできたし、幽閉することもできました。かつてハワイ国王を幽閉した事実もあります。とはいえ、日本国民の天皇陛下に対する信頼の篤さはGHQの想像を超えるものでした。そこでGHQは天皇陛下の地位を保全することとし、日本国憲法GHQ草案において天皇を象徴と位置づけます。
しかし、GHQは皇室の経済基盤を破壊することで、その衰退を図ります。昭和二十一年五月二十一日、GHQは、「皇族の財産上その他の特権廃止に関する総司令部覚書」を発出して、十四宮家に対する歳費支出と課税免除の中止を指令しました。
さらに、GHQは十一宮家を皇族と認めることはできないという意思を皇室に伝えます。宮家を減少させて将来的な皇統の断絶を狙った悪賢い措置です。この情勢を受けて、昭和天皇は十一宮家の臣籍降下を決断し、伝達します。占領下という非常事態であり、経済基盤を奪われてしまった以上やむを得ませんでした。昭和天皇は臣籍降下した十一宮家を旧皇族とし、菊栄親睦会を設立して遇しました。むろん将来的な皇籍復帰を考えてのことです。
昭和二十一年十一月十二日に成立した財産税法により、皇室財産の九割は国家に物納されました。皇室に残された財産は、宮中三殿、天皇の身の回り品、その他の私有財産だけとされました。
《法律改変》
GHQは占領期に数多くの日本の法律を改変しました。既存の法律を廃止したり、修正したりするとともに、日本国憲法をはじめとする多くの新法を制定しました。形式的には国会の議決により制定されましたが、すべてはGHQの指令によるものです。そして、これらGHQの行為はすべて国際法違反行為です。
ハーグ陸戦法規第四十三条には「占領者は絶対的な支障がない限り、占領地の現行法律を尊重して、なるべく公共の秩序及び生活を回復確保する為、施せる一切の手段を尽くさなければならない」とあります。しかし、アメリカは条約も憲法も法律も守らない国家です。GHQは、無知な幼児がオモチャをいじくりまわすように日本の法制度を改変しました。
昭和二十年十月五日、GHQの指令により治安維持法などが廃止されました。これにより連合国軍将兵の不法行為を監視していた特別高等警察が解体されました。
治安維持法は大正十四年に成立した法律です。大正十四年には日ソ基本条約が成立してソ連との国交が始まり、国内では普通選挙法が成立しています。治安維持法は、活発化して過激化していた共産主義運動に対する警戒感から生まれた法律です。戦後日本では治安維持法は悪法だったというプロパガンダが盛んですが、決して悪法ではありません。同法の趣旨は、国体を変革し、または私有財産制度を否認することを目的として結社を組織したり、その組織に加入したりすることを抑止するものでした。具体的には共産党、宗教カルト、暴力団など私有財産を没収しようとする組織に対する規制法です。つまり、国民の私有財産を保護する法律でした。
GHQの指令によって治安維持法とその関連法が廃止されることにより、思想犯が釈放されました。釈放された共産主義者は昭和二十年十二月一日に日本共産党を再建し、勢力を拡大し、各地で過激な労働運動や学生運動を展開しました。そして、共産主義者は日本社会の各分野、各階層に浸透していきました。結果的に戦後日本は、暴力団と宗教カルトが蔓延る社会になりました。令和の今日、共産主義勢力が社会各層に浸透して執拗な反日活動を展開し、暴力団や反社会勢力が執拗に悪事を働き、宗教カルトが蔓延して政党と結託し、政治を壟断するまでになっているのは、すべてGHQの指令に端を発する事態です。
戦前の日本には、いわゆる防諜関連法として国防保安法、軍機保護法、軍用資源秘密保護法などがありました。しかし、昭和二十年十月にこれらがGHQ指令によって廃棄されることとなり、戦後日本にはスパイを防止する法律が皆無となってしまいました。以来、日本はスパイ天国となりました。
そのほか、日本国憲法制定以前に行われた法律改変としては、農地調整法改正、労働関係調整法、自作農創設特別措置法などがあります。いずれも日本の弱体化と共産化を目的としてGHQが日本に押し付けた法律です。
《日本国憲法》
日本国憲法は昭和二十一年十一月三日に発布されました。日本国憲法の成立過程は、評論家の江藤淳が一連の著作によって明らかにしたとおりです。要するにGHQの官僚たち、それも憲法の素人たちが数日間の一夜漬けの勉強で作文した英文を和訳したものです。むろんGHQが日本に強要したものです。占領下にあっては日本政府も帝国議会も最高裁もGHQに逆らうことはできませんでした。ただ、あの劣悪な翻訳調の文体からは、当時の日本人たちの密かな抵抗を感じとることができます。日本国憲法は、アメリカによる国際法違反の証拠でしかなく、それ以外の価値はありません。
日本国憲法前文に書かれている文言の欺瞞たるや空前絶後というべきです。「平和を愛する諸国民」とは誰でしょうか。戦争国家アメリカの国民でしょうか、植民地帝国イギリスの国民でしょうか、共産党一党独裁国家ソ連の国民でしょうか。これほどの皮肉はありません。彼らが愛するのは平和ではなく侵略です。占領下日本で日本国民を車両で轢き殺し、強奪し、強姦しまくっている連合国軍将兵、つまり連合国諸国民の「公正と信義」は信頼に足るものでしょうか。国際法も条約も憲法も法律も守らず、広島と長崎に原爆を投下して一般市民を大虐殺したアメリカ国民の「公正と信義」は信頼できるのでしょうか。満洲で大虐殺を行い、日本人捕虜をシベリアに抑留したソ連国民の「公正と信義」は信頼できるものでしょうか。日本国憲法を起草したアメリカ人たちは幼稚な恥知らずだったというほかありません。
GHQは、日本国憲法の成立過程を秘匿し、プレス・コードにより報道規制しました。当然、知られてはならなかったでしょう。何しろ「民主化」というプロパガンダを大々的に実施していたわけですから、事実が知れたらアメリカの専横が明らかになってしまいます。
憲法が変われば、必然的に法律も変わります。日本国憲法の発布以後、多くの法律が制定されました。国会法、財政法、会計法改正、独占禁止法、過度経済力集中排除法、教育基本法、学校教育法、労働基準法、予防接種法、労働組合法などです。いずれもGHQが日本の弱体化と共産化を目的として実施したことはいうまでもありません。条文を読むだけではGHQの意図を感じとることは難しいわけですが、そもそもアメリカという国家がどんな国家であるのか、GHQ官僚がどんな集団であったのかを考えれば、日本の植民地化が占領期に行われたことは明確です。
GHQのいう「平和主義」と「戦争放棄」は、日本を非武装化して弱体化させ、植民地にするという意味です。GHQは日本の財閥を解体し、その資産を奪いました。しかし、アメリカ本国の財閥は野放しでした。教育現場ではアメリカのプロパガンダが鼓吹されるようになり、労働組合は共産主義者の牙城となりました。
《洗脳政策》
戦争が始まれば、どの国も戦時体制をとります。日本も大東亜戦争中は戦時体制でした。言論が統制され、検閲も実施され、紙の配給制度まで実施されました。
アメリカも同様です。第二次大戦中、アメリカ本国では大々的な情報統制と検閲が実施されました。合衆国憲法は検閲を禁止していますが、ルーズベルト政権は検閲局という官庁を設立してアメリカ国民に対する組織的な検閲を実施しました。最盛期には二万人の職員が勤務していました。そんなアメリカですから、GHQが占領下日本で同じことを実施したのは当然のことです。国家権力は意外と不器用なもので、自国でやったことを侵略先でも行います。GHQは、帝国日本の内務省が実施していた言論統制をはるかに超える大々的かつ厳格な規制を占領下日本に課しました。
GHQが厳しい言論統制を実施していたこと、そして、その言論統制が戦後日本の言論界にまで及んでいる事実は長く知られていませんでした。GHQの言論統制がいかに強力かつ巧妙だったかがわかります。そして、その事実を日本人に知らしめたのは平成元年に出版された江藤淳著「閉ざされた言語空間」です。同書が明らかにしたのはウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)という総合的洗脳政策の存在です。
前章で指摘したとおり、アメリカは戦争国家です。自国民を洗脳しては戦争を起こし、侵略するたびに占領地の諸国民を洗脳してきました。インディアンを洗脳し、黒人奴隷を洗脳し、アメリカ連合国を洗脳し、テキサス州民を洗脳し、カリフォルニア州民を洗脳し、ハワイ王国民を洗脳し、フィリピン人を洗脳してきた洗脳政策の集大成がWGIPだったと言えるでしょう。そして、その洗礼を受けたのがドイツと日本の国民です。
WGIPは、検閲、焚書、歴史捏造、戦犯裁判などから構成されています。その目的は、敗戦国民を洗脳して、戦争に関する罪悪感を植え付け、ドイツと日本が悪かったと信じ込ませることです。ドイツや日本がどうなろうとアメリカの知ったことではありません。そして、アメリカの戦争犯罪を隠蔽するためでもあります。さらに、ここが最も重要なところですが、アメリカ国民を戦争に対する責任感と罪悪感から解放し、次の戦争へと駆り立てるためでもあります。
《検閲》
神奈川沖の戦艦ミズーリ号艦上で降伏文書調印式が行われたのは昭和二十年九月二日でした。まもない九月十日、GHQの民間検閲支隊は早くもラジオ放送に対する放送事前検閲を開始しました。九月十八日、GHQは日本政府に対して朝日新聞を発行停止にするよう命令しました。その理由は、朝日新聞に掲載された衆議院議員鳩山一郎の談話です。
「正義は力なりを標榜する米国である以上、原子爆弾の使用や無辜の国民殺傷が病院船攻撃や毒ガス使用以上の国際法違反であることを否むことは出来ぬであろう」
これを見咎めたGHQは朝日新聞の発行停止を命じました。発行停止処分を喰った朝日新聞社は経営の危機を感じ、人事を大幅に刷新し、気骨を失い、GHQの言いなりになって傀儡化し、反日報道機関へと変貌していきます。
昭和二十年九月十九日、GHQは雑誌検閲を開始するとともに、プレス・コードを発令しました。つづいて九月二十二日にはラジオ・コードを発令しました。これらのコードは報道を規制するものです。連合国やGHQに対する一切の批判を封じ、大東亜戦争に関する日本側の言い分や弁護を封じるものです。また、GHQが日本国憲法を起草したこと、検閲が実施されていること、連合国軍将兵による暴行強姦事件などは、たとえ事実であっても言及が許されなくなりました。
同年十月一日、東洋経済新報九月二十九日号に掲載された「進駐米軍の暴行、世界の平和建設を妨げん」という石橋湛山執筆の記事が検閲にかかり、民間検閲支隊によって雑誌が押収されました。
アメリカが日本に押し付けた日本国憲法は検閲を禁じていますが、そんなことにはおかまいなく、GHQは検閲を大規模に実施しました。検閲スタッフは三百七十名という規模であり、これに加えて日本人嘱託がおよそ一万人いました。
新聞、雑誌、ラジオ、映画、小説までが検閲され、押収や改変を強いられました。吉田満著「戦艦大和の最期」も検閲によって全文削除とされたため、のちに出版されたものは全面的に書き換えられたものです。
GHQの検閲は郵便物にも及びました。個人の私信は十通に一通が検閲されました。検閲したのは日系二世の検閲官や日本人嘱託です。検閲の基準に抵触するものはすべて翻訳されました。そして、その私信が没収され、書いた者は危険人物と認定されてブラック・リストに載り、逮捕されたり罰金を科されたりしました。そして、問題のない私信は封筒に戻され、セロテープで封をされました。そのセロテープには英文で「開封 軍検閲局」と印字されていました。
英語を解するインテリ日本人の多くは、敗戦の混乱で職を失っていましたので、糊口をしのぐためにやむを得ず検閲という仕事に就き、同胞の私信を検閲し、翻訳して報告しました。実際に検閲に従事した甲斐弦は、「GHQ検閲官」という著書の中で当時の心境を次のようにつづっています。
「おれは米軍の犬だ、とある時は自嘲し、ある時は、妻子を養うためにはいかなる汚辱にも堪えよ、と己を励ます。時にはまた開き直って、よし、この機会にメリケンの正体を見極めてやろうと唇を噛む。これが昭和二十一年の秋から冬にかけてのわたしの心境であった。同胞の秘密を盗み見る。結果的にはアメリカの制覇を助ける。実に不快な仕事である」
《捏造歴史の流布》
昭和二十年十一月十三日、GHQは日本政府に奇妙な指令を発します。四百万台のラジオを国民に配布しろとの指令です。これはラジオ放送を通じて日本国民を洗脳するための布石でした。
昭和二十年十二月八日、新聞紙上で「太平洋戦史」の連載が始まりました。その内容は、完全なアメリカ史観であり、捏造でした。要約すれば、日本の軍国主義者が日本を乗っ取り、共同謀議をして、満洲事変を起こし、支那へ侵略し、さらにアジアへと魔手を伸ばし、世界制覇をたくらんだ。そこで自由と民主主義のアメリカが正義の鉄槌を下し、軍国主義者を打倒した。これによって日本国民も世界も救われた。「軍国主義者」という虚構の悪者を設定し、「自由と民主主義」のアメリカというこれまた虚構の正義を対立させています。バカバカしい三流映画のような捏造のストーリーです。しかし、驚くべきことに、この大馬鹿なインチキのストーリーが、極東軍事裁判の法廷で検察側によって主張されることになります。
翌十二月九日、NHKラジオ放送において「真相はこうだ」の放送が始まります。これこそ四百万台のラジオを配れと命じたGHQの目的です。プロパガンダのためです。捏造史観をラジオから日本国民に聞かせるためでした。その内容は「太平洋戦史」と同じであり、日本を悪の軍国主義国家とし、アメリカを自由と民主主義の正義として語る噴飯もののインチキ・ストーリーです。
十二月十五日にはGHQの指令により、公式文書における「大東亜戦争」の呼称使用が禁止されました。さらに十二月三十一日には学校における修身、日本歴史、地理の課程が中止とされ、教科書が没収されます。
昭和二十一年二月十七日、NHKラジオにおいて「真相箱」の放送が開始されました。この番組は「真相はこうだ」の内容を補強するものでした。つまり、捏造をいっそう誇張させたものです。たとえば、昭和十七年四月十八日の東京初空襲について「真相箱」は「被害はわずか」としています。しかし、実際にはアメリカ軍の爆撃機六機が爆弾十三発、焼夷弾およそ六百発を投下し、死傷者三百四十六名、全半焼百十八戸、焼失被害千二百二十七世帯という大きな被害が生じていました。
いわゆる南京大虐殺が初めて報じられたのは、このラジオ放送「真相箱」によってです。GHQは、ありもしなかった大虐殺をデッチあげました。そのシナリオは、次のようになっていました。
「日本が南京でおこなった暴行についてその真相をお話しください」
「我が軍が南京城壁に攻撃を集中したのは昭和十二年十二月七日でありました。これより早く、上海の中国軍から手痛い抵抗を被った日本軍は、その一週間後、恨みを一時に破裂させ、怒涛の如く南京市内に殺到したのであります。この南京の大虐殺こそ、近代史上まれにみる凄惨なもので、実に婦女子二万人が惨殺されたのであります・・・」
まったくの捏造をあたかも本当であるかのように語るために準備されたシナリオは、まるで子供だましです。しかし、この子供だましを極東軍事裁判において検察側が主張することになります。つまり、裁判が始まる前から極東軍事裁判の訴因は確定していたわけです。むろん判決も確定していたのです。WGIPによる検閲、捏造歴史の流布、焚書、戦犯裁判はすべてが連動していました。実に用意周到なプロパガンダ政策です。アメリカは熟練したプロパガンダ国家です。
昭和二十一年四月、新聞連載されていた「太平洋戦史」が単行本として刊行されました。当時としては破格の十万部が売れました。戦争中、日本政府も大本営も情報を統制し、真相を必ずしも国民に伝えませんでした。それは戦時中のことであり、しかも敗勢のときであり、やむを得なかったことです。とはいえ、日本国民は敗戦の理由がよくわからないままに据え置かれ、情報に飢えていました。そこへGHQが巧妙なプロパガンダを仕掛けました。舌を巻くほどの悪賢さです。事情を知る政府要人はともかく、普通の日本国民は騙されました。そして、昭和二十一年四月二十九日から極東国際軍事裁判が始まります。
《焚書》
昭和二十一年三月十七日、GHQは日本政府に対して指令を発し、「宣伝用刊行物の没収」を命じました。これが焚書です。全国各地に存在する七千七百種類の刊行物を速やかに没収せよとの命令です。この業務は文部省の管轄となり、東京大学の教員が没収すべき図書の選定に当たり、実際の没収作業を実施したのは警察でした。その後、没収作業は都道府県知事の責任とされ、没収作業には教員が当たりました。個人所有あるいは図書館蔵書の刊行物は例外とされましたが、書店、古書店、出版社、印刷所、流通途上にあるすべてが没収の対象となり、被没収者が命令に違反した場合には罰が課されました。
GHQは、アメリカ史観によって日本国民を洗脳するに際し、邪魔になる既存の刊行物を没収したわけです。そのタイトルを眺めると、日本の歴史伝統、支那事変から大東亜戦争へと至る経緯、欧米列強によるアジア侵略の実態、欧米事情などが焚書の対象にされたことがわかります。
たとえば、欧米列強によるアジア侵略に関する刊行物としては、「アジア侵略秘史」、「亜細亜侵略史」、「アギナルド将軍」、「阿片戦争」、「英吉利の印度支配」、「インドの叫び」、「印度侵略悲史」、「英国の支那侵入」、「英国の極東作戦新嘉坡根拠地」、「欧米の動きと支那事変」、「北支那における列国の権益」、「濠洲侵略史」、「支那事変と列強の動向」、「支那とフリーメーソン」、「太平洋侵略史」、「米英東亜侵略史」などがあります。これらは明らかにGHQにとって都合の悪い刊行物でした。
日本のアジア政策やアジア地誌なども焚書の対象になりました。「明けゆく満洲」、「暗雲ただよふ満蒙」、「インドネシヤ点描」、「興亜の大業」、「興亜の大義」、「栄えゆく満洲国」、「支那事変から大東亜戦争へ」、「支那の再認識」、「泰国、仏印と日本人」、「ビルマの歴史と現状」、「比律賓」、「満洲通史」、「満洲の鉄道をめぐる日米露支」、「蒙彊」、「蘭印読本」などです。
日本の歴史や思想に関する書籍も焚書されました。歴史書では、「仰ぐ楠公」、「天照大神論」、「一兵の見たる旅順要塞戦」、「維新志士勤皇詩歌」、「偉人乃木将軍」、「伊藤博文」、「開国とペルリ」、「教育勅語謹解」、「軍聖東郷平八郎」、「古事記伝」、「此一戦」、「順徳天皇」、「正氣歌と回天詩」、「尊王史概説」、「大アジア主義」、「大東亜宣言」、「大東亜共栄圏の基本理念」、「日米開戦の真相」、「日本神話の本義」、「日本二千六百年史」、「武士道」、「吉田松陰」、「水戸学」などがあります。また、国体や皇国の観念を解説した書籍も没収されました。「皇国日本」、「皇道」、「皇道の理念と法制」、「皇国通史」、「皇国史概説」、「皇室と日本精神」、「国体の本義」、「神国日本」、「神道と日本精神」、「宣戦の大詔謹解」、「日本と全体主義」、「八紘一宇」、「我が国体と日本精神」、「愛国詩謡集」、「愛国勤労小説集」、「共栄の大道」、「勤皇読本」、「軍神の母」、「皇国婦道」、「詔勅と御製」、「臣民読本」、「戦陣訓と日本精神」、「魂の国日本」などです。
日本軍の健闘を伝えたものも焚書されました。「アリューシャン戦記」、「嗚呼軍神九柱」、「赤褌隊記」、「天降る神兵」、「馬と兵隊」、「海鷲の父山本五十六元帥」、「絵巻アッツ島血戦」、「衛生部隊前進」、「ガダルカナル島血戦記ルンガ河」、「騎兵挺身隊」、「轟沈」、「将軍山下奉文」、「戦車戦記」、「大東亜戦史」などです。
国民の国防意識を喚起するものも焚書されました。たとえば「一億人の防空」、「映画戦」、「食糧戦争」、「海洋国防地理」、「基本戦術学教程」、「近代戦とプロパガンダ」、「空襲と都市防空」、「決戦下の日本糧食」、「玄米飯と生活戦争」、「現代戦争読本」、「これからの防諜」、「航空戦の技術」、「国防国家の常識」、「国際連盟軍縮会議と日本」、「国防と海運」、「国防と朝鮮人」、「国際謀略の話」、「国防と都市計画」、「思想戦と宣伝」、「資源戦争」、「スパイと防諜」、「世界の敵とされた日本」、「政党を脱退して国民に訴ふ」、「石油争奪戦」、「赤化、抗日、防共」、「宣伝戦」、「毒瓦斯と焼夷弾」などです。
欧米事情を伝える刊行物も焚書の対象となっています。アメリカに関するものには、「アメリカの戦争力」、「アメリカの戦略とその全貌」、「アメリカの対日謀略史」、「米英挑戦の真相」、「今日のアメリカ」、「敵国アメリカの戦争宣伝」、「日米はどうなるか」、「米英罪悪史」、「米国の世界侵略」、「米国の対日謀略史」などがあります。
欧州事情に関するものには、「イタリアの文化政策」、「イギリスの魔手ノルウェーに及ぶ」、「英国亡ぶか」、「英米露に於けるユダヤ人の策動」、「欧洲大戦」、「驚異のドイツ」、「決戦迫る欧洲戦局」、「最近のソウェート連邦」、「新聞とユダヤ人」、「戦車に見る独ソ戦線」、「戦時下のナチス独逸」、「ソビエト連邦の世界政策」、「大英帝国の経済」、「ドイツの政治と経済」、「ヒットラー伝」、「ロシアの東進」などがありました。
GHQによる焚書は、明らかに歴史の隠蔽です。このために戦後日本では、世代間に知的分断が発生してしまいました。なんとも罪深いことをしてくれたものです。
《極東国際軍事裁判》
戦犯裁判はアメリカ特有の慣習です。この慣習ができ上ったのは長いインディアン戦争の時代であったと思われます。たとえば、一八六二年に行われたスー族三十八名の絞首刑のようなことが積み重なって慣習化したようです。インディアンは悪と決めつけられ、インディアンを虐殺したアメリカ人が英雄とされました。極東国際軍事裁判も同じ形式です。日本の戦争指導者に軍国主義者のレッテルをはり、日本人の大虐殺を指揮したアメリカ政府要人と軍人が英雄になりました。
極東国際軍事裁判の法廷では、連合国が決めた戦争犯罪類型のうちA項に該当する被告人二十八名が裁かれることとなりました。いちおう裁判の体裁だけは立派に整えられており、被告側弁護人となったアメリカ人が感動的な弁論を開陳することもありました。しかしながら、すべては茶番でした。ラジオ、新聞、書籍であらかじめ広められた「太平洋戦史」と同じストーリーで訴追がなされました。つまり、軍国主義者が世界制覇を画策し、共同謀議を行い、次いで戦争を発動して日本国民と世界の諸国民の利益を棄損したという架空の罪状です。この裁判では杜撰で偏向した証拠収集がなされ、結論ありきの判決が出されました。被告人のうち七名が絞首刑とされましたが、まさに日本国民の認罪を促すための、そしてアメリカ国民を免罪するための裁判ショーでした。
とはいえ、東條英機の宣誓供述が記録として残されたことには意義がありました。あたかもジェファーソン・デイビスの言葉が残されたように。東條は次のように供述しました。
「昭和十六年十二月八日に発生した戦争なるものは、米国を欧州戦争に導入するための連合国側の挑発に原因し、わが国の関する限りにおいては自衛戦として回避することを得ざりし戦争なることを確信するものである」
「乙案の半分だけでも米国側が譲歩したならば、あるいは真珠湾攻撃は起こらなかったでしょう。米国が互譲の精神で臨んでいたならば、条件はいくらでも緩和できたと私は考えております」
「敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任である。この意味における責任は、私はこれを受諾するのみならず、衷心より進んでこれを負荷せんことを希望する」
東条英機の宣誓供述書は、昭和二十三年一月に出版されましたが、GHQによって直ちに発禁処分とされました。GHQにとっては都合の悪い供述だったからです。
判決は、昭和二十三年十一月十二日に出されました。被告人二十八名のうち、東条英機をはじめとする七名に絞首刑が言い渡されました。判決文は公表されましたが、全被告人を無罪としたパール判事の意見書だけは門外不出とされ、日本が独立を回復する昭和二十七年まで日本国民はその存在を知りませんでした。ただ、この裁判に直接的に関与した弁護人たちはパール判事の意見書の存在を知っていました。東條英機の弁護人を務めた清瀬一郎は、このパール意見書を東條に見せました。パール意見書は東条英機による開戦の決断を次のように評しています。
「東條総理の決心の基礎をなしたところの結論、すなわち当時の日米間の紛議をもって調整不可能であるとなした結論が、はたして間違いのないものであったかどうかを調べてみる必要はない。なぜなら、一九四一年七月(開戦五ヶ月前)という時点において合衆国政府が日米問題の調整は不可能であるとの決定に到達していたことを証拠が明確に示しているからである。このような非常時に際しては、東條のような地位にあった人ならば、だれもが決断に到達すべきであり、かつ勇気をもって自己の信念に確信を持つのが当然である。その後につづいて起こったことは、ことの成り行きとして当然に起こったことである。それらの出来事が、なんらかの意図によって為されたものであるとは考えられない。東條は事態の進展に伴い、求められれば全責任をその双肩に担う覚悟は充分に有していたかも知れないが、権力を掌中に収めようなどとは決して意図しなかった。当時の日本は、ある人もしくは一群の人々にとって、権力が重要な価値を有するような時ではなかった。それはまさに日本の死活の時であった。それは国家としての日本の存在自体が深刻な危険にさらされていた時なのである。要職にあった政治家はあげて国家の名誉を傷付けずに滅亡から免れる方法を見出すのに頭を悩ましていた。このような重大時期においては、政治家は権力の把握に身をやつしてなどはいられない」
東條は、パール意見書をくりかえし読み、その感慨を歌に託しました。
百年の 後の世かとぞ 思いしに 今この文を 眼のあたりに見る
パール判事が意見書に引用した次の言葉は、アメリカの歴史家アルバート・ジェイ・ノックのものです。
「今次戦争についていえば、真珠湾攻撃の直前に米国国務省が日本政府に送ったものと同じような通牒を受取った場合、モナコ王国やルクセンブルク大公国でさえも合衆国に対して戈をとって起ちあがったであろう」
また、GHQ参謀第二部長チャールズ・ウィロビー少将は、裁判終了後、次のように語りました。
「この裁判は歴史上最悪の偽善だった。こんな裁判が行われたので、自分の息子には軍人になることを禁じるつもりだ。なぜ東京裁判に不信感を持ったかと言えば、日本が置かれていた状況と同じ状況に置かれたならば、アメリカも日本と同様に戦争に訴えていたに違いないと思うからである」
このようにアメリカにも良識はあります。米西戦争に反対したマーク・トウェイン、第二次世界大戦への参戦に反対したハーバート・フーバーやリンドバーグなどです。しかし、アメリカ政治は良識では動きません。かつてジェファーソン・デイビスが喝破したとおり、アメリカの政治は熱狂と偏見と虚偽によって動きます。このアメリカの習性は二十一世紀の今日も変わってはいません。
戦争犯罪類型のB項およびC項に該当する被告人は大東亜各地四十九ヵ所の軍事法廷で裁かれました。およそ五千七百名の被告人が裁かれ、約千名が死刑判決を受けました。これらの裁判も、裁判とは名ばかりの杜撰な法廷でした。マレー作戦で勇名を馳せた山下奉文大将やフィリピン作戦を成功させた本間正晴中将も、名誉を奪われ、まるで雑兵のように木の枝に吊るされて死刑に処されました。いわゆる「バターン死の行進」という虚構を理由として本間中将は処刑されました。検察側は「死の行進」と大げさに騒ぎましたが、わずか八十キロの移動距離でした。チェロキー族に「涙の旅路」という千九百キロの移動を強いた嗜虐的なアメリカ人は、被害者ぶる時には過剰なまでに被害者ぶるものです。
《公職追放》
「戦時の忠勇かえって仇となる」という言葉のとおり、大日本帝国のために奮闘し、アメリカの侵略から日本を守ろうとした多くの日本人は公職追放の憂き目に遭わされました。公職追放者の多くは、いずれも各界の要人であり、戦争に至る経緯に通じていましたが、公職を追われたため影響力を失いました。結果、GHQのプロパガンダは、事情に疎い日本国民に浸透していく結果となりました。
公職追放は段階的に実施されました。昭和二十年十月四日、警察首脳と特高警察官吏の追放が指令され、さらに同月中に教職員が追放対象とされました。昭和二十一年一月、GHQは公職に適せざる者の基準を示し、公職追放対象者を拡大しました。その基準は、戦争犯罪人、陸海軍軍人、国家主義団体の有力者、大政翼賛会の有力者などです。
その後、公職追放の範囲は広げられ、政界、官界はもちろんのこと、財界、マスコミ、教育界からさらに拡大して市井の町内会や隣組にまで及びました。GHQは、追放対象者の選定に際し、共産主義者の意見を聴取して参考にしました。結果、昭和二十三年五月までに二十万人以上が追放されることとなりました。空前絶後の規模です。
公職追放者は、突如として罷免され、退職金や諸手当も与えられず、本人と家族は困窮することとなりました。公職追放者の親族や関係者は、累が自身に及ぶことを恐れて関係を絶たざるを得ませんでした。生計の道を絶たれる恐怖に怯えた日本国民は口を閉ざすほかありません。日本人を沈黙させるという意味において公職追放は検閲以上の効果を発揮したようです。これをGHQは恥も外聞もなく「民主化」と称していたわけです。
実に理不尽なことでした。そもそも日米戦争は、アメリカが日本を挑発して起こしたものであり、本来ならフランクリン・ルーズベルト大統領をはじめとするアメリカ政府要人こそが追放されるべきでした。とはいえ、勝てば官軍です。占領期日本においてGHQは全能の独裁機関でした。
問題は追放後にも及びます。日本社会の各分野の主要人物が公職追放されてしまったため、その後釜に共産主義者が侵入することとなり、日本社会が一気に共産化しました。また、各分野の重鎮が追放され、中堅層が突然に中枢に座らざるを得なくなると、若返りはしたものの、GHQに対して意見らしい意見を言う知恵も勇気もなく、ただただ従うだけの状態となりました。このことは戦後日本の禍根となり、いまもなお日本社会に悪影響を及ぼしています。
《教育と文化の破壊》
昭和二十年十二月、GHQは神道指令を発出して神道を排除しようとし、また、教育現場に対して修身、日本歴史、国史、地理の課程を中止するよう命令しました。
昭和二十一年一月、GHQは教科書黒塗りを指示します。学校では教師が生徒に教科書をページごと破かせたり、黒塗りさせたりしました。日の丸、君が代、大東亜の地図、日本の偉人伝などが黒塗りにされました。黒塗りの指示に逆らうような教師は公職追放されました。戦前の学校では教科書が大切にされていました。落書きすらも許されないものでした。その教科書に黒塗りをさせられ、破らされたのですから子供たちは大いに戸惑いました。
こうして日本の子供たちは、神話や勅語を学ばなくなりました。戦前の子供たちは「天照大神」を「あまてらすおおみかみ」とあたりまえに読みました。しかし、今日、何人の子供が読めるでしょうか。戦後教育を受けた人ならば誰でも、歴史と地理の無味乾燥さに辟易させられたのではないでしょうか。歴史と地理を暗記科目にしたのもGHQです。歴史は権力の興亡ですが、その意味や理由を全く考えさせなくなりました。同時に権力者に求められる徳性も検討することがなくなりました。地理も同様です。日本国という立場があってはじめて諸外国の情勢を知る意味が出てきます。日本の地政学的条件がまずあってこそ、周辺諸国がどんな国々なのかを知る意味が出てきます。日本の資源の有無を知ることから出発してはじめて、世界における資源の分布が意味をなし、その資源保有国との国交の重要性がわかります。しかし、そうした国家としての意味を完全に捨ててしまい、単なる暗記科目にしてしまいました。これでは国家観が育つはずがありません。
そうしておいて、新しい教科書では平和主義、民主主義、主権在民などを教えたわけですが、それらすべては虚構に満ちたGHQのプロパガンダです。当初はアメリカに対して敵愾心を持っていた日本の子供たちは、じわじわと民主主義を信じさせられていきました。令和の今日、政治の話題になると必ずと言ってよいほどに民主主義という単語が出ます。それもGHQのプロパガンダ政策の結果です。民主主義は、もはや念仏です。共産主義者でさえ民主主義を唱えるのですから、意味を消失しています。
今日となっては驚嘆すべきことですが、GHQは英語を日本の公用語にすることや、日本語をローマ字化することを本気で考えました。GHQ官僚は、漢字を使ったこともないくせに、漢字が軍国主義的であると決めつけました。愚劣としか言いようがありません。しかし、そんな愚劣なGHQに同調する日本人が現れたのは残念の一語です。結局、日本人の識字率の高さが調査によって証明されたため、英語化もローマ字化も中止されましたが、当用漢字の指定によって漢字の使用を制限されるという結果となりました。こうして長らく漢文に親しんできた日本人は漢文を忘れさせられていきます。
GHQ官僚は、日本文化についてまったく無知で無理解でした。このためバカバカしいことが大真面目に論じられました。武道、歌舞伎、日本神話を好戦的で軍国主義的であるとGHQ官僚は主張しました。愚の骨頂です。そもそもインディアンを虐殺し、黒人奴隷を酷使し、侵略を繰り返して領土を拡大してきたアメリカの歴史をGHQ官僚たちは理解していないようでした。アメリカこそが好戦的で侵略的なのに、その自覚がありません。しかし、どんな大馬鹿野郎であってもGHQは権力でした。GHQから因縁をつけられるたびに日本人は弁明に追われました。将棋を軍国主義的だとしたGHQ官僚と将棋の升田幸三名人とのやりとりは象徴的です。
「将棋はチェスとは違い、敵から奪った駒を自軍の兵として使う。これは捕虜虐待という国際法違反である野蛮なゲームであるために禁止にすべきである」
阿呆なことを真顔で主張するGHQ官僚に升田名人は言います。
「チェスは捕虜を殺害している。これこそが捕虜虐待である。将棋は適材適所の働き場所を与えている。常に駒が生きていて、それぞれの能力を尊重しようとする民主主義の正しい思想である。GHQは男女同権といっているが、チェスではキングが危機に陥ったときにはクイーンを盾にしてまで逃げようとする」
愚劣なGHQ官僚を説得するために、くだらない屁理屈を並べざるを得なかった升田名人の心中をこそ察するべきです。ともあれ将棋が禁止されることはありませんでした。
敵国の暦を奪うことは典型的な侵略ですが、GHQは日本の暦を奪いました。祝祭日が国民の祝日とされました。紀元節は建国記念の日となり、新嘗祭は勤労感謝の日となり、天長節は文化の日となりました。
GHQは、アメリカに対する日本人の敵愾心を懐柔することに熱心でした。アメリカ兵が日本の子供たちにガムやチョコレートを盛んに配ったことはよく知られています。占領期の日本は食糧不足でしたから、子供たちは常に腹を空かせていました。そこへ甘いお菓子を配ったのですから、子供たちはたわいもなくアメリカに懐柔されました。まさに子供だましの手法によって「食糧を無償で配る寛大なアメリカ」を演出したのです。アメリカ兵が配った菓子の代金はすべて日本政府が負担させられていました。
このほか、アメリカ映画を盛んに上映したり、野球を普及させたりしたのもGHQの懐柔策です。こうして、占領期に子供時代を過ごした日本人の多くは、成人後、アメリカに対する敵愾心も警戒感も持たず、むしろ日本に対する不信を持つ自虐史観の持ち主となっていきます。
《経済弱体化》
GHQは日本経済の弱体化を図ります。日本を無力な農業国家にしてしまうという政策が推進されました。マッカーサーの次の発言を忘れるべきではありません。
「日本はこの大戦の結果によって、四等国に転落した。再び世界の強国に復活することは不可能である」
昭和二十年十一月、GHQは財閥の資産を没収し、財閥解体の指令を発しました。そして、日本の重化学工業と航空産業を解体するため各地の工場と研究所を破壊し、工業機械を没収してスクラップとしました。旧陸海軍の工廠も同様でした。また、破壊を免れた設備は賠償施設に指定され、賠償としてアジア諸国へ強制移転させられました。
工場と工作機械がことごとく破壊されてしまったため、工場労働者の多くが職を失いました。また、残った工場には生産制限が課されたので、余力があっても生産が許されませんでした。このため労働者の賃金が上がりません。そうしておいて、GHQは労働組合の組織を拡大させ、労働争議を起こさせます。当時、GHQの情報統制が効いていたため、労働者たちは生産制限の首謀者がGHQだとは知りませんでした。知らぬままに経営者との労働争議に向かわされていました。
アメリカ軍の空襲によって壊滅させられた都市基盤の整備も遅々として進みませんでした。なにしろ連合国軍の駐留経費はすべて日本政府の出費でしたから、予算が不足しました。このため住宅、道路、鉄道、港湾などの復旧が遅れました。これでは経済が復興するはずがありません。
空襲によって都市が焼野原にされたことは凄惨な事態ではありましたが、都市復興のための都市計画の好機ではありました。日本側は壮大な都市計画を立案しましたが、GHQはこれらを却下しました。
占領期の日本では輸出入がすべてGHQによって禁止されていました。このためあらゆる物資が不足しました。各種の資源ばかりでなく、食糧さえ輸入できない状況でした。日本政府は食糧不足の現状を訴え、GHQに食糧の輸入を要請しましたが、GHQはにべもなく拒絶しました。
極度に食糧が不足するなか、昭和二十一年五月十九日、食糧メーデーが起こります。共産党と社会党の主導により、およそ二十五万人もの群衆が皇居前で大集会を開催し、食糧の確保を訴えました。これ以後、GHQは態度を徐々に変えていきます。GHQはデモ参加者を暴徒と呼び、アメリカ本国に食糧の輸入を要請するとともに、極左政治勢力への警戒を強めました。
《共産主義の蔓延》
民主主義を標榜するアメリカのGHQが共産主義者の思想犯を釈放し、さらに日本共産党を復活させるのを見て、多くの日本国民は勘違いをしたようです。民主主義は共産主義であると。日本共産党は勢力を拡大させていきました。昭和二十一年二月、共産党員は七千名弱に達し、アカハタの部数は二十五万部に伸びていました。共産党は連合国軍を「解放の軍隊」と礼賛し、大日本帝国を悪者とするアメリカ史観に同調しました。完全にアメリカの傀儡です。そして、日本共産党は昭和二十一年四月の衆院議員選挙において五議席を獲得します。戦前にはあり得なかった事態です。
前述したとおり、愛国者が公職追放されていった後釜に多くの共産党員が侵入し、日本社会の各分野が共産化してしまいました。政界はもちろん官界、教育界、言論界、労働界、法曹界、学術会、はては芸術界までが共産化してしまいます。これは戦前の日本にはあり得なかった光景です。そして、社会各分野の各層に浸透した共産主義者は、令和の今日もなお戦後日本の病根として存在し続けています。
共産主義が勢力を得たために、日本各地で過激な学生運動と労働運動が勃発します。昭和二十一年五月十九日の食糧メーデーには二十五万人の群衆が集結しました。
日本共産党は、在日本朝鮮人連盟の設立にかかわりました。共産党は在日朝鮮人と強く連携し、共産党が集会や争議を起こす際には朝鮮人の集団が先兵となって過激な活動を展開しました。共産主義勢力のあまりの過熱ぶりを見たマッカーサー元帥は態度を変え、昭和二十二年二月一日に予定されていたゼネストを中止させました。
占領期に共産主義者が起こした事件には、板橋造兵廠物資不正分配事件、人民広場事件、伊藤律会見捏造事件、練馬事件、白鳥事件、田口事件、血のメーデー事件、吹田事件、枚方事件、大須事件、曙事件、横川元代議士襲撃事件などがあります。
容共主義者だったフランクリン・ルーズベルト大統領が第二次大戦末期に死去し、大戦後に米ソが冷戦状態になると、アメリカ本国では反共姿勢が強まり、レッドパージが行われます。アメリカ政府にとってイデオロギーはプロパガンダの道具にすぎないことがよくわかります。
当然、GHQも方針を転換します。昭和二十五年六月、マッカーサーは共産党の国会議員などを公職追放とし、政治活動を禁止しました。レッドパージです。GHQは、保守勢力を統合させて自由民主党を結党させました。結果、戦後日本の政界は右派も左派もアメリカの傀儡となり、アメリカにとっては実に都合の良い状況となりました。
《朝鮮人の大量密入国と不法行為》
一九四三年十一月、ルーズベルト大統領、チャーチル首相、蒋介石総統がカイロにおいて会談し、カイロ宣言を発出しました。このなかに朝鮮について次のような記述があります。
「朝鮮の人民が奴隷状態にあることに留意し、適当な時期に朝鮮を自由な独立国家とすることを決定した」
当時、朝鮮半島は大日本帝国の領土であり、朝鮮人は日本国民でした。日本政府は、朝鮮半島の近代化を推進し、朝鮮人を国民として遇していました。にもかかわらず、カイロ宣言は「朝鮮の人民が奴隷状態にある」としています。これは、例によってアメリカのプロパガンダです。また、このカイロ宣言の一文を精神分析的に解析するなら、アメリカが日本に自己投影をした結果であると言えます。かつてアメリカ人がインディアンを虐殺し、黒人を奴隷としたように、日本人も同じことを朝鮮人に対してやっているに違いないとアメリカ人は思い込んだようです。日本にとっては実に迷惑な投影です。カイロ宣言は「朝鮮を自由な独立国家とする」と声明しましたが、実際に連合国がやったことは三十八度線による朝鮮半島の分割であり、朝鮮戦争でした。言行不一致こそアメリカの常です。
日本国民だった朝鮮人は、日本軍の志願兵募集に熱烈に応募し、敗戦時には涙を流して悔しがりました。確かに日本国民でした。しかし、日本の敗戦後、朝鮮が日本領ではなくなり、朝鮮人が日本国民ではなくなると、朝鮮人は態度を豹変させます。在日朝鮮人は戦勝国民を自称し、日本人に誹謗中傷を吐き、犯罪行為に走り、共産主義者と結託して暴動するようになりました。こうした朝鮮人の変貌ぶりは民族性の発露かもしれず、記憶にとどめておくべき事実です。
終戦時、日本には二百万人近い朝鮮人がいましたが、帰還事業によって六十万人程度にまで減少しました。しかし、朝鮮半島も混乱していたため朝鮮人の日本への密入国が絶えませんでした。これを監視すべきGHQには国境監視の熱意なく、朝鮮人の密入国は野放し状態でした。
昭和二十年十月十五日、在日本朝鮮人連盟が設立され、昭和二十一年十月三日には在日本朝鮮居留民団が設立されます。在日朝鮮人は、あたかも治外法権があるかのように権利を主張し、不当な実力行使によって日本国内に自分たちの権益を築きました。敗戦の混乱に乗じて徒党を組み、売春、強盗、窃盗、土地建物の不法占拠など不法行為をほしいままにし、闇市をとりしきり、密造酒を製造販売したり、闇米を密売したりしました。
昭和二十一年八月十七日、衆議院本会議において椎熊三郎議員が在日朝鮮人問題をとりあげています。
「現下の警察力はあまりにも無力である。この無力なる状態はいったい何ということか。警察の民主化とは警察の無力化ではない。ことに終戦当時まで日本に在住し、日本人として生活しておった台湾人、朝鮮人、これらが終戦と同時に、あたかも戦勝国民のごとき態度をなし、その特殊なる地位、立場を悪用して、わが日本の秩序と法規を無視し、傍若無人の振舞をあえてなしきたったことは、じつにわれらの默視する能わざる所であります。(中略)最近に至りましてはひとたび帰国したる彼等、特に朝鮮人の如きは、さらに集団的にある種の組織力を以て、再び日本に密航潛入せんとする者が、日をおってその数を増加し、九州、山陰方面におきましては、その数、じつに数万に及ぶと聞き及んでおるのであります、しかも彼等は日本警察力の微弱に乗じて、凶器を携へ、徒党を組み、驚くべき凶悪性を発揮して、当該住民の生活を脅かすことじつに言語に絶するものがあると聞いております。しかもなお恐るべきことは、彼等の中にはコレラ、チフス、赤痢等の保菌者が多数あって、これが内地に伝搬されて、今や内地におきましては各所におびただしい罹病者を出しておる事実があります。政府はこの状況を何と見られるのか。しかしてこの状況に対していかなる処置を執られておるのでございましょうか。
今なお内地にあって外国人たる特殊の地位を悪用し、警察力の無力化に乗じて、あらゆる不法をあえてする多数の者のあることは、既に諸君も御承知でございましょう。我々は遺憾ながら敗戦国民ではありまするが、終戦の瞬間まで同胞として、共にこの国の秩序の下に生活しておった者が、直ちに変わってあたかも戦勝国民のごとく、しかも勝手に鉄道などに専用車などという貼紙を附したり、あるいは他の日本人の乗客を軽蔑圧迫したり、見るに堪へざる兇暴なる振舞をもって、あらゆる悪逆行動に出でておるといふ事実は、全く驚くべきものがございます。諸君、この朝鮮人、台湾人等の最近までの見るに堪へざる行動は、敗戦の苦しみに喘ぎきたった我等にとりましては、正に全身の血液が逆流するの感情を持つのであります。しかして彼等はその特殊な立場によって、警察力の及ばざる点あるを利用して闇取引をなし、日本の闇取引の根源は正に今日のこの不逞なる朝鮮人などが中心になっておるということは、今日の日本の商業取引、社会生活の上に及ぼす影響は驚くべきものがあるのであります、あるいは禁制品を大道において密売し、あるいは露店を占拠して、警察力を侮辱しつつ白昼公然と取引をなしつつあるが如きは、断じて私共は無視することはできません。しかも彼等は外国人たるの立場によって、営業はことごとく無税でございます、諸君、内務大臣は、ことに朝鮮人等の営業許可に対しては、日本人よりも便宜を与えておるがごとき感を呈せられる今までの状況を何と見るか。しかもこの無税をなぜ取り締らぬのか。そして、取り締る意思があるのか。取り締るとしても、ポツダム宣言受諾の日本が、これに裁判権を加える力ありや否や、この問題につては政府の責任ある御答弁を御願いしたい。もしこの問題をこのままにして放置するならば、正に南方方面におけるところの華僑の勢力のごとく、日本の中小商業権といふものは恐らく彼等の手に掌握せらるるのではないかという憂いさえある。今や五百億を超える日本の新円の三分の一は、恐らく彼等の手に握られておるのではないかといふ噂さえあるのでございます。もしそれこの噂にして真実ならば、日本の微弱なる商業者は、無税にして外国人たる立場を以てなす所のこの朝鮮人、台湾人の行動には、商取引として敵はない。現に神戸、大阪のごときは、既に露店商人、飲食店はことごとく台湾人、朝鮮人によって掌握されておるという事実を内務当局は何と見られますか。諸君、今にして政府は厳然たる態度を示すにあらずんば、まことに由々しき問題が惹起するであろうことを私はおそれます。政府はこれに対していかなる処置をなさんとするのでありますか、明確なる御答弁を要求いたします」
占領期の日本の治安の劣悪さに愕然とせざるを得ません。連合国軍将兵による不法行為、共産主義者の暴動、さらに在日朝鮮人による不法行為が重なっていました。これに対処すべき日本の警察は、拳銃の所持をGHQによって禁じられていたため無力でした。占領期に起きた在日朝鮮人による事件を以下に列挙します。
大阿仁村事件、生田警察署襲撃事件、直江津リンチ殺人事件、冨坂警察署襲撃事件、七条警察署襲撃事件、日光中宮祠事件、長崎警察署襲撃事件、七条警察署巡査殺害事件、東条村強盗事件、富山駅前派出所襲撃事件、中京私設警察事件、一勝地村農家六人殺害事件、中津市朝鮮人一家殺害事件、坂町事件、新潟日報社襲撃事件、首相官邸デモ事件、百田駐在所巡査殉職事件、神奈川税務署員殉職事件、津別事件、池袋診療所強盗殺人事件、浜松事件、阪神教育事件、五所川原事件、宇部事件、会津破蔵事件、ワ号事件、益田事件、枝川事件、高田ドブロク事件、本郷事件、平事件、下関事件、武生事件、関東朝鮮人強盗団事件、台東会館事件、連島町事件、第一次朝鮮スパイ事件、長田区役所襲撃事件、大津地方検察庁襲撃事件、神戸洋服商殺人事件、四日市事件、王子朝鮮人学校事件、浅草米兵暴行事件、神奈川事件、日野事件、下里村役場集団恐喝事件、東成警察署襲撃事件、親子爆弾事件、木造地区警察署襲撃事件、多奈川町事件、広島地裁被疑者奪回事件、桜井町事件、高田事件、大梶南町事件、奈良警察官宅襲撃事件、万来町事件、島津三条工場事件、醒井事件、塩釜事件、民団幹部宅焼打事件、大村収容所事件、五所川原税務署襲撃事件、川辺村強盗殺人事件、別府市警察署事件。
単純な強盗殺人事件もありましたが、それだけではなく、政治的な示威活動もありました。例えば、生活保護を請求するために徒党を組んで区役所を包囲して襲撃した事件や、警察に逮捕拘留された朝鮮人被疑者を警察署から奪還するために大挙して警察署を襲撃して被疑者を逃亡させた事件がありました。
昭和二十四年八月、吉田茂総理大臣はマッカーサー元帥に書簡を送り、在日朝鮮人の全員送還をやらせて欲しいと懇願しています。
「総数約百万人、そのほぼ半数は不法入国者であるところの在日朝鮮人の問題について、われわれはいま早期の解決を迫られております。わたしはこれらの朝鮮人がすべて、彼らの生国の半島に送り返されることを欲するものです」
その理由として吉田総理は、日本の食糧に余裕がないこと、朝鮮人の大多数が日本経済の再建に貢献していないこと、朝鮮人の犯罪率が高いことをあげています。この書簡に書かれた統計によれば、終戦から昭和二十三年五月までの間に、朝鮮人は七万一千件の刑事事件を起こし、その被疑者は九万一千名にのぼっており、投獄者数は常に七千名を数えている状況でした。
マッカーサーは返答の書簡を出していません。GHQは日本の弱体化を目的としていたからです。しかしながら、あまりに目に余る在日朝鮮人の横暴にさすがのGHQも業を煮やし、同年、朝鮮人が戦勝国民を名乗ることをやめさせ、在日朝鮮人のことを第三国人と呼称するようになりました。また、GHQは在日本朝鮮人連盟と在日本朝鮮民主青年同盟を暴力主義的団体に指定し、その解散を指令しました。とはいえ、その規制監視は徹底を欠きました。このため、占領期における在日朝鮮人の不法行為がつづき、いわゆる在日特権となって戦後日本に残りつづけ、いまなお日本社会の病根となっています。
《逆コースと講和条約》
昭和二十五年六月二十五日、朝鮮戦争が始まりました。日本国内の連合国軍基地が兵站根拠地となりました。アメリカ軍は横浜に在日兵站司令部を置き、必要な物資を日本で調達するようになりました。朝鮮特需の始まりです。また、同年八月にはGHQの指令によって警察予備隊が設置され、さらに昭和二十七年四月には海上警備隊が設立されます。憲法第九条を日本に押し付けて戦争を放棄させたGHQですが、今度は再軍備を日本に強要してきたわけです。実に身勝手です。そして、実際に海上警備隊は朝鮮戦争に参戦し、掃海任務にあたりました。日本の民間人も朝鮮半島で輸送と荷役に従事しました。
日本を共産化したアメリカですが、今度は日本を「反共の砦」とすべく、日本との講和を急ぎます。まったく身勝手なものです。昭和二十六年九月八日、サンフランシスコにおいて連合国諸国と日本は講和条約に調印します。同時にアメリカと日本は日米安全保障条約に調印します。
サンフランシスコ講和条約は昭和二十七年四月二十八日に発効し、連合国軍による日本占領が終わり、戦争が終結し、日本は主権を回復して独立を果たしたとされています。しかしながら、同条約の条文を検討すると、必ずしも歓迎すべからざる内容が多く、日米間の地位については不平等な内容さえ散見されることから、けっして手放しで喜べるような内容ではありません。サンフランシスコ講和条約を礼賛する歴史解釈は明らかなアメリカ史観であり、プロパガンダです。
講和条約第二条によって日本は、朝鮮半島、台湾、千島列島などを放棄させられました。同条約第十一条は、連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾することを日本に義務付けました。虚偽と偏見に満ちた軍事裁判の判決によって、多くの戦犯が冤罪で処刑されましたが、日本政府はいっさい抗議することができなくなりました。杜撰な裁判を実施したことについて連合国はいっさいの反省をしていません。同条約第十四条は、日本の賠償責任を明記しています。しかし、戦争で疲弊しきった日本には賠償する能力がないことを認め、連合国の賠償請求権を放棄するとしています。賠償能力を失わせるまでに日本を粉砕した連合国軍の行為については何も述べていません。同条約第十九条は、日本からする連合国への損害の請求権をいっさい放棄するとしています。よって、戦争中あるいは占領期に連合国軍将兵によって殺傷されたり、強姦されたりした日本国民は泣き寝入りとなりました。条約などというものは冷酷なものです。
日米安全保障条約の前文には、この条約を希望したのは日本であると書かれています。武装解除された日本には自衛権を行使する手段がないので、日本がアメリカとの安全保障条約を希望する。そして、日本国は、その防衛のための暫定措置として、日本国に対する武力攻撃を阻止するため日本国内及びその附近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する、とあります。本当でしょうか。希望させられたというべきでしょう。それにしてもまことに長い暫定措置です。
次いで同条約は、アメリカ合衆国は、平和と安全のために、現在、若干の自国軍隊を日本国内及びその附近に維持する意思がある、としています。欺瞞でしかありません。さらに、アメリカ合衆国は、日本国が、直接及び間接の侵略に対する自国の防衛のため漸増的に自ら責任を負うことを期待する、とあります。これにより自衛隊が設立されることになりました。
日米地位協定では在日米軍について具体的な事項が定められています。第九条は、「合衆国軍隊の構成員は、旅券及び査証に関する日本国の法令の適用から除外される」としています。要するに治外法権です。このことが絶え間ない在日米軍将兵による犯罪の温床となっています。第二十四条は、「日本国に合衆国軍隊を維持することに伴うすべての経費は、日本国に負担をかけないで合衆国が負担する」としています。しかし、昭和五十三年以後は日本政府が負担するようになりました。いわゆる「思いやり予算」です。現在は「同盟強靭化予算」と呼ばれています。その対象は、在日米軍基地職員の労務費、基地内の光熱費・水道費、訓練移転費、施設建設費、基地周辺対策費、施設の借料、沖縄に関する特別行動委員会関係費、米軍再編関係費、土地賃料、基地交付金などです。その金額は年々膨れ上がり、年間数千億円の規模になっています。
いっそアメリカ軍など追い出して日本軍を復活させた方が日本の安全保障になるのですが、そうはさせないのがアメリカです。アメリカの対日政策は日本弱体化です。そのことは条約にも協定にも書かれていませんが、書かれていないことこそが重要です。サンフランシスコ講和条約によって日本は主権を回復したと教えられていますが、実態は違います。日本はアメリカの属国になったという認識が正確です。
安全保障の三要素は軍事、食糧、エネルギーです。大日本帝国は、エネルギーの自給ができないという弱点を抱えていました。この弱点を突いて日本を経済封鎖し、石油輸出を禁止して窮鼠とし、戦争へと駆り立てたのがアメリカです。そして、戦争で日本を屈服させることにより、軍事という要素を日本から奪いました。そして、戦後になるとアメリカは、通商交渉を通じてアメリカ産農産物を日本に押し付け、日本農業を衰退させ、日本から食糧の自給をさえ奪っていきます。