アメリカ侵略史(前)
《植民地としての北アメリカ大陸》
十五世紀半ばから十七世紀半ばまでの時代を欧州では「大発見時代」と呼びます。欧州諸国から勇敢な冒険家たちが帆船で大海原へ出帆し、新大陸を次々に発見したとされています。新航路が発見されると、新大陸との交易とともに植民が行われました。欧州白人国家群が世界覇権を握る端緒はこの時代にありました。
しかしながら、「大発見時代」という呼称は完全に欧州史観です。発見された側のアフリカ、アジア、南北アメリカ大陸などの先住民にとっては、暗黒時代の始まりだったからです。欧州人は先住民から土地を奪い、殺害し、騙し、奴隷化し、使役して搾取することで富を絞り上げました。重商主義であり、植民地支配であり、先住民の隷属化です。
その蛮行の動機は富です。航海には莫大な資金が必要でしたから、王侯貴族や資本家が多額の投資をしました。その投資を回収するために荒っぽい手段が使われました。白人たちは、あからさまな人種差別意識をむき出しにし、まるで雑草を刈るように有色先住民を殺害し、野獣を狩るように人間狩りを楽しみ、奴隷貿易で大金を儲けました。
キリスト教が世界的に広まったのも「大発見時代」です。驚くべきことですが、キリスト教宣教師は同時にスパイでもあり、奴隷商人でもありました。新大陸の情勢を調べ、本国に報告し、あわよくば侵略しました。布教と称して先住民をだまし、傀儡化し、奴隷として売買し、富を得ました。
その魔手が日本に及んできたのは日本の戦国時代です。日本にとって幸いだったことは、当時の戦国大名たちが強大な軍事力を有していたことです。この時代の覇権国家だったスペインやポルトガルでさえ遥か遠い欧州から派遣する帆船艦隊の兵力では日本の戦国大名に太刀打ちできませんでした。
とはいえ日本の被害が皆無だったわけではありません。宣教師たちはキリスト教の布教を通じて戦国大名の一部を懐柔籠絡し、社寺を破壊させました。また、日本人をだまして帆船に乗せ、奴隷として連れ去り、諸外国で売りました。この事実を知って激怒したのは豊臣秀吉です。キリシタン宣教師を磔刑に処し、キリスト教を禁制としました。徳川幕府もキリシタンを禁じ、島原の乱を鎮圧しました。そして、交易の窓口を長崎の出島に限定しました。それもこれも奴隷貿易から日本人を守るためでした。
欧州諸国による侵略の手が北アメリカ大陸に及んだのは十六世紀の中葉です。スペイン、ポルトガル、イギリス、フランス、オランダなどが北アメリカ大陸への植民を始めました。植民地経営は必ずしもうまくいかず、失敗した事例も少なくありません。
一九六二年、イギリスの清教徒たちがメイフラワー号で現在のマサチューセッツに到着しました。アメリカ史では、メイフラワー号のことが特別に神話化して記述されますが、実際のところ欧州からのアメリカ移民は種々雑多な宗教と民族と国籍によって構成されていました。そして、この時期から凄惨なインディアン戦争が始まりました。
《独立戦争》
欧州諸国は北アメリカ大陸を舞台にして植民地の争奪に明け暮れました。欧州で戦争が起こると、北アメリカ大陸でも植民地間の代理戦争になりました。なかでも英仏間の戦争が長く続き、イギリス植民地軍が勝利して領土を拡張しました。
各国の植民地のなかで最も力をつけたのは、北アメリカ東岸に成立した十三のイギリス植民地です。植民地の経済成長をみたイギリス本国政府は、数々の税を植民地に課すとともに、植民地の拡大を抑制します。これを不服とした十三植民地は連合し、本国政府との調整を図ります。しかし、両者は折り合わず、ついに一七七五年に独立戦争がはじまります。
戦争は長引きました。植民地軍には正規兵がおらず、主力は民兵でした。黒人奴隷も動員されました。また、インディアン部族も戦争に巻き込まれました。イギリス本国軍は、大西洋を横断するという長大な兵站に苦しみ、広大な北アメリカ大陸を制圧するのに十分な戦力を動員することができませんでした。
独立戦争中の一七七六年、植民地軍は独立を宣言してアメリカ合衆国を名乗ります。その二年後、フランスがアメリカと同盟し、さらにスペインまでがアメリカ側について参戦し、戦争が国際化しました。フランスとスペインの参戦によって、それまで海軍を持たなかったアメリカ軍が海軍力を得て、イギリス軍の海上兵站線を脅かすことになりました。イギリス本国政府は戦局の不利を認め、ついにイギリス議会が停戦を決議します。
《アメリカの膨張》
一七八三年、パリ条約においてアメリカの独立が認められ、イギリス本国軍は北アメリカ大陸から撤退します。アメリカ合衆国憲法が一七八七年に制定され、一七八九年に発効しました。新国家の誕生です。この新国家の成立に貢献した政治的リーダーの多くが大農園の領主であり、奴隷を売買し、管理していた人々であったことは、アメリカという国家の本質を考えるうえで不可欠な事実です。
建国時のアメリカ合衆国の領土は、北アメリカ大陸の東部を占めるにとどまっていました。それ以外の北アメリカ大陸は、スペインの植民地、イギリスの植民地、フランスの植民地などでした。そして、そこには多くの先住インディアン部族が暮らしていました。この後およそ百年にわたって、アメリカは時に武力によって、時に買収によって領土を拡張していきます。そして、アメリカは絶え間なくインディアンと戦い続けます。
一七八五年に始まった北西インディアン戦争は長い戦いとなりました。それまで部族単位で戦っていたインディアン部族は、形勢逆転のために部族連合を形成してアメリカに戦いを挑みました。そして、アメリカの独立を快く思わなかったイギリスとスペインがインディアン部族連合を支援しました。このため当初はインディアン部族連合が優勢でした。
しかしながら、一七八三年、パリ条約によってアメリカが独立を果たすと、イギリスとスペインはインディアン部族連合への支援を打ち切ります。インディアン部族連合の優位は失われ、一七九五年にアメリカが北西インディアン戦争に勝利します。結果、インディアン部族連合はアメリカに土地を割譲することとなりました。
一八一二年、アメリカは、カナダ侵略の意図からイギリスに対して宣戦を布告しました。米英戦争です。この時期、イギリスは欧州大陸においてフランスのナポレオンと戦っていました。アメリカは、その間隙を衝いて短期決戦による勝利を得ようと図りました。しかし、この戦争は長引きます。米英ともに不利を悟り、一八一四年、ベルギーで講和条約が成立しました。しかし、講和成立の知らせがアメリカに届くのが遅れ、戦闘が終わったのは一八一五年でした。
米英戦争にはインディアン部族も巻き込まれ、米側と英側の双方にインディアン部族が参戦しました。戦乱の中でアメリカ軍はインディアン部族を虐殺し、多くの土地を奪いました。
一八二九年、米英戦争で軍功を立てたアンドリュー・ジャクソンがアメリカ大統領に就任します。ジャクソンはもともと奴隷主であり、軍人としての功績の大部分はインディアン虐殺によるものでした。ジャクソンは、典型的な人種差別主義者であり、大統領として次のような演説をしています。
「インディアン部族がわれわれの定住地に囲まれ、我々の市民と接触し共存するなど不可能だ。やつらには知性も勤勉さも道義的習慣さえない。やつらには我々が望む方向へ変わろうという向上心すらないのだ。我々優秀な市民に囲まれていながら、なぜ自分たちが劣っているのか知ろうともせず、わきまえようともしないやつらは環境の力の前にやがて消滅しなければならないのは自然の理だ。これまでのインディアンの運命がそうだったように、インディアンたちが消滅しなければならない事態が避けられない場合、彼らは我々白人の領土の外へ出ていくことが必要だ」
この演説は、アメリカの本質を明け透けに語っています。ジャクソン大統領は、一八三〇年にインディアン強制移住法を成立させます。インディアン部族は土地を根こそぎ奪われて、保護区へと追い立てられました。なかでもチェロキー族の悲劇は「涙の旅路」として知られています。チェロキー族は、千キロを超える距離を、極寒のなか、期限付きで移動させられました。十分な補償がないばかりか、食糧さえ与えられず、病人は置き去りにせざるを得ませんでした。このためチェロキー族は衰亡しました。このほかのインディアン部族も同じような運命に遭い、インディアン部族は急速に衰退していきました。衰退しきったインディアン部族には、もはや戦う力は残されていませんでした。それでもアメリカはインディアン迫害を続けます。スー族三十八名の絞首刑(一八六二)、サンドクリークの虐殺(一八六四)、ウーンデットニーの虐殺(一八九〇)などです。
長くスペインの植民地だったメキシコで独立戦争が起こり、一八二一年に第一次メキシコ帝国が成立し、さらに一八三五年にはメキシコ共和国が成立します。その結果、メキシコは、北アメリカ大陸西南部の広大なスペイン植民地を継承することになりました。そのメキシコ領植民地にアメリカが食指を伸ばしたのは当然の趨勢でした。
アメリカは、まず、メキシコ領テキサスに狙いを定めます。一八二七年と一八二九年の二度、アメリカ政府はメキシコ政府に対してテキサス買収を提案します。しかし、メキシコ政府は拒絶しました。アメリカは方針を転換し、テキサスへの移民を増加させます。そして、アメリカ移民団に財力と武力を蓄えさせ、口実を設けては権利を主張させ、機を待ちました。
一八三五年、メキシコの内政が混乱すると、その機に乗じてテキサスのアメリカ移民団が蜂起します。戦いは翌年まで続き、アラモ砦のアメリカ移民団守備隊がメキシコ軍に全滅させられるという事件が起こります。しかし、アメリカ移民団はテキサス全域を掌握し、テキサス共和国を名乗ります。アメリカの歴史では、この出来事をテキサス独立戦争と呼びます。しかし、これは明らかにアメリカによる移民侵略です。メキシコは内政が混乱し、ようやくメキシコ共和国が成立したばかりでした。そのためテキサスを防衛する余裕がありませんでした。
アメリカとメキシコの間に対立が生じたのは当然です。メキシコはテキサスの奪回を考え、アメリカはさらなる領土拡張を目指します。このとき、アメリカはアラモ砦守備隊の全滅を賛美するプロパガンダを盛んに広めました。
「リメンバー・アラモ」
これは対メキシコ戦争を正当化し、煽り、アメリカ国民の賛同を得るための対国民プロパガンダです。
一八四五年、成立から十年目のテキサス共和国はアメリカ合衆国に加盟しました。メキシコ政府は激怒します。翌年、メキシコの主張する国境線を越えてアメリカ軍の騎兵隊が南下したことから米墨間に紛争が発生し、米墨戦争になります。戦闘ではアメリカ軍が優勢でした。アメリカ軍は北進してカリフォルニアに進撃したほか、南下してメキシコシティまで占領しました。この戦争に勝利したアメリカは、カリフォルニア、ネバダ、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコ、ワイオミング、コロラドを獲得します。テキサス独立戦争から米墨戦争へと至る一連の経緯は、アメリカの侵略計画あるいは戦争政策の元型ともいうべきものです。
アメリカは海外にも進出します。アメリカ海軍東インド艦隊司令長官ビドル准将は、一八四六年、帆船軍艦二隻を率いて浦賀に入港し、日本に対して親書の奉呈と通商を求めました。しかし、徳川幕府に拒否されたため帰国しました。その七年後、四隻の蒸気船軍艦からなるペリー艦隊が浦賀に入港し、砲艦外交で幕府を脅し、無理無体に通商を開かせたことはよく知られています。以後、日本は幕末の騒乱に向かいます。
《南北戦争》
アメリカ合衆国の膨張が一時的にやむのは内戦によってです。南北戦争です。戦争の原因は、アメリカ国内に生じた南北問題でした。北部では工業が発展しつつありましたが、その工業力は欧州諸国に比べると脆弱でした。そのため保護貿易政策を必要としていました。これに対して綿花栽培などの農業を主要産業とする南部は、綿花を欧州諸国に輸出することで利益を得ていました。よって自由貿易を必要としていました。こうした南北間の通商政策上の対立は、双方の産業基盤から生じていただけに調整が困難でした。
また、奴隷制度について南北間で意見が対立していました。南部諸州の綿花栽培は、奴隷たちの無賃労働に全面的に依存していました。奴隷制度を廃止したら南部の産業基盤が根底から崩れてしまいます。南部の白人たちは、日々、黒人奴隷を酷使したり虐待したりしていましたが、実のところ白人たちは奴隷に依存していました。それだけに北部で盛んになっていた奴隷制度廃止論に神経を尖らせました。
一方、北部の工業地帯では、安価な工場労働者こそ必要とされましたが、必ずしも奴隷である必要はありませんでした。北部の諸州で盛んになった奴隷制度廃止論は、きわめて観念的かつ煽動的なプロパガンダでした。ですから、北部諸州は奴隷廃止論を訴えつつも、黒人に白人並みの人権を与えるわけではなく、あいかわらず人種差別が横行していました。とはいえ、奴隷制度廃止論という煽動的プロパガンダは、人口や経済力で北部に劣っていた南部諸州の危機感をいやがうえにも高めました。
アメリカ合衆国大統領リンカーンは奴隷制度の拡大には反対していましたが、必ずしも奴隷制度廃止論者ではありませんでした。リンカーンは南北間の妥協を図り、アメリカの統一を維持すべきだと訴えました。
しかしながら、危機感をつのらせた南部諸州はついにアメリカ合衆国からの離脱を決断し、アメリカ連合国を建国します。初代大統領には、米墨戦争で英雄的な活躍をしたジェファーソン・デイビスが選出されました。ここにおいてリンカーン大統領は決断を迫られます。南部諸州の離脱を許すか、許さぬか。この際、合衆国と連合国は分離して、それぞれ独自の産業政策を推進し、緩やかに協調して共存共栄を目指すことも可能だったはずです。もともと似た者同士であり、同胞であり、もとをただせば欧州諸国からの雑多な移民集団です。
大陸に複数国家が成立することは珍しくありません。欧州大陸には多くの国々がひしめいているし、支那大陸の王朝史には三国時代や南北朝時代や五胡十六国時代などがあります。北アメリカ大陸にふたつの国家が並立しても不思議ではありませんでした。
しかし、リンカーン大統領は離脱を許さぬという決断をします。ここにアメリカ合衆国の本質が現れたのか、あるいはリンカーンがアメリカ合衆国の方向性を定めたのか、それはよくわかりません。いずれにせよ、リンカーンの覇権主義的あるいは全体主義的決断によって南北戦争がはじまりました。国力を比較すると合衆国のほうが連合国を凌駕していました。しかし、戦争初期には連合国の南軍が優勢でした。連合国の綿花を必要とする英仏両国が連合国を支援したからです。
開戦から一年後、戦局打開のためにリンカーン大統領は奴隷解放を宣言します。奴隷解放を宣言することによって戦争目的を明確化し、将兵たちに大義名分を与えることで士気をあげ、すでに奴隷制度を廃止していた英仏の理解を得ようとしたのです。ただ、合衆国内にも奴隷制度に賛成する州があり、その造反が懸念されました。
奴隷解放宣言のなかでリンカーンは、南部諸州の奴隷を無条件で解放するとしました。結果、北軍の士気が上がり、英仏から支援を得られるようになりました。ただ、懸念していたとおり、奴隷制度に賛成する州が造反し、連合国側に寝返りました。しかし、それでも戦勢は北軍有利に転換しました。
南北戦争は四年つづきました。戦死者は南北両軍あわせて六十万人を越えました。熾烈な戦争でした。北軍は進軍するに際して焦土作戦をとり、南部の諸都市を壊滅させながら南進しました。アメリカの非人道的で残虐な戦法は、すでに対インディアン戦争で採用されていたものですが、南北戦争でも使われ、こののち太平洋戦争やベトナム戦争でも繰り返されることになります。アメリカには騎士道が存在しなかったといえます。
一八六五年、南北戦争はアメリカ合衆国の勝利で終わります。敗戦国となったアメリカ連合国は完膚なきまでに解体され、その指導者たちは捕らえられ、戦犯として収監され、裁判にかけられました。これ以後、アメリカは戦争に勝利するたびに戦犯裁判を実施するようになります。こうしたアメリカ的な戦後処理方法は、アメリカの世界観をよく表現しています。つまり、敵は悪であるという観念です。裏返して言えば、アメリカは常に正義だと考えています。よってアメリカ史観では、アメリカは常に何をやっても正しく、敵は必ず悪だとされます。まるで漫画のように未熟な史観です。
アメリカ連合国初代大統領ジェファーソン・デイビスは二年のあいだ監獄につながれ、裁判にかけられましたが、起訴はとり下げられ、生きながらえることができました。ジェファーソン・デイビスは次の言葉を残しています。
「時が、熱狂と、偏見を和らげた暁には、また理性が、虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁にはその時こそ、正義の女神はその天秤を平衡に保ちながら過去の賞罰の多くに、その所を変える事を要求するであろう」
アメリカ合衆国は熱狂と偏見と虚偽の国であるとデイビスは喝破しています。これはアメリカ合衆国の本質を突いた証言です。デイビスの言葉を裏返して書き換えるとこうなります。
「熱狂と偏見が旺盛なうちに、虚偽が理性を凌駕しているうちに、事の賞罰を決めてしまえ」
これがアメリカ合衆国の政治です。つまり、プロパガンダという虚偽で大衆を幻惑し、熱狂と偏見を煽って戦争を正当化し、敵を打倒してアメリカを正当化します。
南北戦争の後、アメリカ合衆国憲法が修正され、奴隷制度がなくなります。黒人たちは白人の私有財産たることから免れました。しかし、根強い人種差別の慣習と感情は濃厚に残り、黒人たちは差別され続けることになります。
南北戦争が終わってから二年後、アメリカはロシアからアラスカを買収します。こうしてアメリカ本土の拡張が終わります。次にやってくるのはアメリカの本格的な西部開拓です。アメリカ横断鉄道に象徴されるような開発が各地で推進されていきました。それに伴いインディアンは居場所を失い、戦いに破れ、滅亡していきます。
《海外侵略》
北アメリカ大陸のほぼ全域を領土としたアメリカ合衆国は、なお膨張し続けます。その矛先は太平洋でした。
アメリカがハワイ王国を侵略した方法は、メキシコからテキサスを略取したのと同じです。大量に移民を送り込み、経済的実権を握らせ、やがて行政権を支配して、ついに革命を起こします。
アメリカが最初に大量の移民をハワイに送り出したのは一八二〇年です。アメリカ移民はハワイでキリスト教を広めるとともに、プランテーションのために広大な土地を確保しました。以後、アメリカ移民は徐々に経済力を蓄え、秘密結社を組織し、時期を待ちます。
アメリカ移民の影響力が強まることに危機を感じたハワイ国王は、日本皇室との婚姻を模索しますが、うまくいきませんでした。
一八九三年、アメリカ移民はクーデターを起こし、王制を打倒して暫定政権を樹立します。このとき日本政府は巡洋艦「浪速」をハワイに派遣して邦人保護に当たらせました。ハワイには多くの日本人移民がいたからです。
アメリカ移民のクーデターによって成立した暫定政権は、一八九四年七月に独立宣言を行い、ハワイ共和国を名乗ります。そして、一八九八年、ハワイはアメリカに併合され、ハワイ準州となります。長い時間をかけた移民侵略でした。
かつて世界の海を支配したスペイン帝国は凋落の一途をたどっていました。その衰退に乗じることで、アメリカ合衆国は北アメリカ大陸のスペイン植民地を獲得して領土を拡張してきました。キューバとフィリピンもスペイン帝国の植民地でしたが、両植民地では対スペイン独立戦争が起こっていました。もはやスペイン帝国には反乱を抑え込む力がなく、両植民地の政情は不安定でした。アメリカがキューバとフィリピンに触手を伸ばしたのは当然の成り行きだったといえます。
アメリカのイエロー・ジャーナリズムが反スペイン・キャンペーンを実施して世論を刺激しました。スペイン官憲がキューバ人を虐待しているという捏造記事が大仰に掲載され、人道主義の立場を装いつつ、アメリカ国民の反スペイン感情を煽りました。これに一部の政治家と評論家が同調します。すでにインディアン戦争を終えつつあったアメリカ陸軍は新戦場を求めていました。また、アメリカ海軍はフィリピン侵攻作戦を立案済みでした。
一八九八年二月、キューバのハバナ湾においてアメリカ海軍の装甲巡洋艦メイン号が爆沈するという事件が発生します。死者は二百六十六名にのぼる大事故でした。事故調査が開始されますが、進捗しませんでした。スペインは事故調査に積極的だったのですが、アメリカは消極的であり、むしろ調査を妨害しました。このため事故原因は不明なままでした。ところが、アメリカのジャーナリズムは一方的にスペインの破壊工作であると決めつけ、「リメンバー・メイン、くたばれスペイン」と書き立て、世論を戦争へと誘導します。ときのアメリカ大統領マッキンリーは、必ずしも好戦的な政治家ではありませんでした。しかし、世論に抗しきれず、同年四月、ついに開戦を決意し、米西戦争が開始されます。アメリカのこうした戦争開始プロセスは残酷です。戦争を始めるためにメイン号の乗組員つまりアメリカ国民を犠牲にするのです。この手法は、対日戦争や対テロ戦争でも繰り返されることとなります。
米西戦争では、アメリカ軍とスペイン軍がキューバとフィリピンを舞台にして数度の海戦と陸戦を戦います。戦勢は圧倒的にアメリカ軍が優勢でした。開戦後、わずか四か月にして戦局は決し、同年十二月、パリ条約が結ばれます。スペインはアメリカにグアム、フィリピン、プエルトリコを割譲しました。また、キューバはアメリカの保護国となり、独立します。メイン号爆沈から条約締結までほぼ一年という早業でした。
しかしながら、フィリピンでは戦争が続きます。その原因はアメリカにありました。アメリカ軍は、スペイン軍と戦うにあたり、フィリピン独立の指導者アギナルドを招き、協定を結びます。ともにスペイン軍と戦い、戦勝後はフィリピンを独立させるという約束でした。アギナルドはフィリピン独立を宣言し、来援したアメリカ軍と協同してスペイン軍と戦い、勝利しました。ところが、アメリカはパリ条約においてアギナルドとの約束を反故にし、フィリピンをスペインに割譲させてアメリカ領にしてしまいます。絵に描いたような裏切りです。協定して利用し、裏切り、そして叩く。このような謀略はアメリカの常套手段です。
アギナルドはあくまでもフィリピンの独立を目指してアメリカと戦います。こうして米比戦争が一八九九年に始まりました。戦争は長引き、一九一三年まで延々と続きます。フィリピン軍はゲリラ戦法で頑強に抵抗しましたが、近代兵器を備えたアメリカ軍には敵いませんでした。アメリカ軍は、インディアン戦争で虐殺に手を染めた将軍たちをフィリピンに派遣して指揮をとらせるとともに、十二万もの大軍を動員し、徹底した殲滅戦を実施しました。このためフィリピン側の被害は、民間人を含めて百万人に達したとみられます。このようにアメリカの戦争は、敵軍だけでなく、敵国の民間人や街や集落まで徹底して破壊し、殲滅します。その最初の標的がインディアンであり、ついでアメリカ連合国であり、つづいてフィリピンとなったわけです。
パナマ地峡に運河を建設して大西洋と太平洋を結ぶという構想は、すでに十六世紀には存在していました。しかし、その実現は困難を極めました。フランス人のレセップスがパナマ運河会社を設立し、コロンビア政府から運河建設権を購入して建設を開始したのは一八八〇年です。しかし、疫病、資金調達難、技術的困難などのために計画は頓挫します。
パナマ運河の建設をアメリカが引き継ぎます。アメリカはパナマ運河の管轄権を求めてコロンビア政府と協議し、条約を結ぼうとします。しかし、この条約をコロンビア議会が批准しませんでした。アメリカは方針を変えます。パナマ市内の反政府活動家を利用して蜂起させ、パナマ共和国の独立を宣言させました。間髪を入れずにアメリカがパナマ共和国を国家承認します。アメリカは、パナマ共和国とのあいだでパナマ運河条約を結び、パナマ運河の建設権と永久租借権を獲得しました。完全な謀略です。
アメリカ企業によるパナマ運河建設工事が始まったのは一九〇五年です。工事は難航したものの継続され、一九一四年、パナマ運河が完成します。パナマ共和国はパナマ運河から収益を得、アメリカは運河の管理権と施政権を得ました。これによってアメリカ海軍は艦隊を迅速に両洋へ展開させることが可能となり、太平洋への進出が容易になりました。
アメリカは極東に進出します。一九○○年、清国で義和団の乱が起こります。義和団事件は、欧米列強の侵略に対する支那民衆の反乱であり、「扶清滅洋」が叫ばれました。これに清国政府が加担したため反乱が大規模になりました。列強諸国は連合して反乱の鎮圧にあたります。そのなかにアメリカ軍の姿もありました。
一九〇四年、日露戦争が勃発します。アメリカは中立を守りました。一九〇五年、大統領セオドア・ルーズベルトは日露の仲介に乗り出し、停戦交渉の場としてポーツマスを提供しました。交渉は妥結に至り、ポーツマス講和条約が成立します。こうしてアメリカは極東への発言力を強めました。
アメリカの極東進出に伴い、日米両国は相互の権益を承認しあう必要を認め、二度にわたって協定を結びます。桂タフト協定(一九〇五)と高平ルート協定(一九〇八)です。アメリカのフィリピンおよびハワイ権益を日本が認め、日本の満洲および朝鮮権益をアメリカが承認しました。
《第一次世界大戦》
一九一四年七月、第一次世界大戦が勃発します。オーストリア・ハンガリー帝国、ドイツ帝国、ロシア帝国、オスマントルコ帝国、フランス共和国、大英帝国、大日本帝国といった世界の大国が次々と参戦する事態となり、その陸上戦域は欧州大陸のほか、中東、アフリカ、支那にまで広がりました。また海上戦域は、北海、大西洋、地中海、インド洋、太平洋にわたる広大さでした。
参戦国はさらに増えていきましたが、アメリカは中立を保ちました。アメリカには欧州の戦争に参加する直接的な理由がありませんでした。そして、アメリカは火事場泥棒的にハイチとドミニカ共和国を占領しました。
イギリスの大型客船ルシタニア号がドイツ海軍の潜水艦に撃沈され、多くのアメリカ人乗客が犠牲になった際、当然ながらアメリカはドイツを非難する声明を発しました。ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世はアメリカが敵側について参戦することを恐れ、ドイツ海軍に無制限潜水艦戦を中止させました。ドイツ海軍は不満でしたが、皇帝の命令には従うほかありません。
戦争二年目の一九一六年、英仏露を中心とする連合国軍と、独墺土を中心とする同盟国軍は海陸で死闘を繰り広げます。ベルダン会戦、ユトランド沖海戦、ソンム会戦などです。その人的損害は両軍合わせて二百万近くに達しました。しかし、戦線は膠着し、決着がつきませんでした。
アメリカでは、同年十一月の大統領選挙でウィルソン大統領が再選されていました。選挙期間中に中立を訴えていたウィルソン大統領は、講和調停を試みます。まず、連合国側に対して秘密裏に和平案を提示しました。しかし、連合国はこれを拒絶します。この段階では英仏ともに戦争の勝利に自信を持っていたからです。また、当時のアメリカの国際的地位は、英仏を従わせるほどには高くありませんでした。
連合国がアメリカの和平提案を拒絶したという情報は、翌一九一七年一月に公表されました。この情報に接したドイツ帝国は、アメリカが連合国側について参戦することはないと判断し、同年二月、無制限潜水艦戦を再開します。すると、これに怒ったアメリカは直ちにドイツと断交しました。
アメリカの参戦を恐れたドイツ帝国は、アメリカを北米大陸に釘付けにしておくため、メキシコ政府をして対米参戦するよう促しました。しかし、メキシコ政府はドイツの無謀な提案を拒絶します。ドイツにとっての不幸は、ツィンメルマン独外相がメキシコ政府に送信した秘密電報がイギリス海軍諜報部によって暗号解読され、公表されてしまったことです。このためアメリカ世論は激高し、対ドイツ参戦論が盛んになりました。アメリカを参戦させようとするイギリスの世論工作です。
アメリカ国内には根強い参戦反対論がありました。欧州の戦争に介入したところで何も得るものはない、という意見です。この反戦論は決して微弱ではありませんでした。しかしながら、結局、アメリカは一九一七年四月にドイツ帝国に対して宣戦を布告します。
独墺を中心とする同盟国側は苦しくなりました。それでもなお希望がありました。三月にロシア革命が起こっており、連合国側のロシア軍が弱体化していたからです。これにより東部戦線の負担が軽くなりました。また、アメリカが参戦したとはいえ、アメリカ軍が即座に大軍を欧州に展開するのは不可能です。アメリカ軍が欧州に進出するよりも早く決着をつけてしまえばよい、と同盟国は考えました。
戦争が始まって五年目の一九一八年一月、アメリカのウィルソン大統領は連邦議会で演説し、十四箇条の平和原則を公表しました。ドイツ帝国とオーストリア・ハンガリー帝国に民族自決を強要するような内容でした。独墺は直ちにこれを拒絶しました。それは当然のことです。民族自決を認めることは帝国の解体を意味するからです。しかも、言い出しっぺのアメリカはインディアンやハワイ人やフィリピン人に民族自決を許していません。いかにもアメリカらしい手前勝手な二重基準です。
二月、独墺を中心とする同盟国側が攻勢に出ます。ドイツ軍は、ロシアの混乱に付け込んで侵攻し、ウクライナ、クリミア、ベラルーシを占領し、三月にロシアとのあいだでブレスト・リトフスク条約を結び、東部戦線の講和を達成します。ドイツ軍は東部戦線から西部戦線へ軍を返して攻勢に出ます。これに対して、英仏を中心とする連合国軍は抵抗をつづけ、アメリカ軍の到着を待ちました。
六月、アメリカ軍が欧州戦線に展開するとドイツ軍の攻勢が止まりました。七月、ドイツ軍は最後の攻勢に出ますが、米仏軍によって阻止されてしまいます。アメリカは、開戦決定からおよそ一年を経て、百万を超える大軍を欧州に展開させました。長い戦争で疲弊しきっていた欧州の戦場に新鋭の大軍が現れたことで勝敗が決定づけられました。
この後、ドイツ軍が撤退し始め、連合国側の百日攻勢が始まります。そして、十一月、休戦協定が結ばれ、第一次世界大戦の戦闘が終わります。
《パリ講和会議》
第一次世界大戦の勝敗を決めたのはアメリカ軍です。欧州の参戦国は、長引く戦争の戦費を外債で賄っていましたが、その外債を購入していたのはアメリカです。アメリカは世界最大の債権国になっていました。この段階において、すでにアメリカは世界の覇権を握りかけていたと言えます。しかしながら、一九一九年一月に始まったパリ講和会議では、英仏両首脳が得意の会議外交でアメリカ代表団を翻弄してしまい、ウィルソン大統領は全く精彩を欠くこととなり、十四箇条の平和原則も骨抜きにされました。もし、アメリカが主導権を握っていたならば、戦犯裁判が実施されていたことでしょう。
戦犯裁判こそ行われませんでしたが、敗戦国ドイツには過酷すぎる講和条件が押し付けられました。ドイツの復讐を恐れた英仏両国は、ドイツを弱体な農業国家にしようと図り、ドイツから領土と主要産業と各種の権益を剝奪し、さらに天文学的な賠償金を課そうとしました。
イギリス全権団のなかにいた大蔵官僚のケインズは、ロイドジョージ首相に直訴して反対しました。経済に通じたケインズには、ドイツ経済を破綻させれば欧州経済全体が大不況に陥ることがわかっていたからです。しかし、ケインズの直言は容れられませんでした。ケインズは絶望し、全権団を離脱してしまいます。
結局、英仏両首脳の思惑どおり、ドイツ経済を根幹から破壊して農業国家化する講和条約が採択されます。すでに戦う術を失っていたドイツ共和国は、同案を受け入れるほかありませんでした。ベルサイユ条約が発効すると、ケインズが懸念したとおりに欧州経済が不況となりました。ドイツ経済はもちろんのこと、英仏の経済までもが弱体化して大不況となり、戦勝国の国民までが塗炭の苦しみに喘ぐこととなります。このため世界覇権はおのずとアメリカへ移っていきました。
パリ講和会議には日本も参加しました。極東での立てこもりを考えていた日本は、欧州の政情に口を出さなかったため、沈黙のパートナーと呼ばれました。ただ、国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を入れるべきだと提案しました。これがアメリカの逆鱗に触れてしまい、以後、アメリカから一方的に敵視されることになります。同時に、ドイツの植民地だった南洋諸島が日本の委任統治領となったこともアメリカの憤激の種となりました。
ベルサイユ条約によって国際連盟の設立が決められましたが、国際連盟の提案国であるアメリカは、連邦議会の反対によって条約を批准できず、国際連盟に加盟しませんでした。
《ワシントン会議》
アメリカは、太平洋地域の平和構築のためと称し、列国にワシントン会議を呼びかけました。すると九ヶ国が参集しました。アメリカはすでに経済、金融、軍事、貿易、産業などの各方面において優越的な国際的地位を占め、アメリカ単独で国際連盟以上の影響力を有していたことがわかります。こうして一九二一年十一月、ワシントン会議が開催されました。同会議はアメリカの世界覇権のはじまりを意味したイベントと言えます。そして、翌年二月、四ヶ国条約、海軍軍縮条約、九ヶ国条約などが結ばれました。
パリ講和会議では英仏両国に主導権を握られて顔色を失ったアメリカですが、ワシントン会議では面目を一新し、見事に世界を主導して英仏のお株を奪いました。また、この会議で成立した諸条約を見ると、明らかに日本を包囲し、日本を弱体化させようとする意図が見えます。
四ヶ国条約では日英同盟の廃棄が明記されました。これは日本の外交力の低下を意味しました。また、海軍軍縮条約により日本海軍は主力艦数を対米六割に抑え込まれただけでなく、海軍要塞の新規建設を禁止されました。既存のシンガポール要塞(英)とハワイ要塞(米)は例外とされました。さらに、中華民国の領土保全と主権回復を定めた九ヶ国条約は、明らかにアメリカから中華民国への秋波でした。日本全権団内には反対意見もありましたが、世界の趨勢には抗しがたく、日本全権団は条約締結に踏み切りました。
第一次世界大戦の悲惨な記憶がまだ生々しかった時期にベルサイユ条約とワシントン条約が成立しました。これで世界は平和になると人々は期待しました。しかし、両条約は時間の経過とともに各国によって破約されていきます。
《共産主義とアメリカ》
第一次世界大戦中の一九一七年にロシア帝国でロシア革命が起こり、以後、ロシアの内政は混乱します。ボリシェビキとメンシェビキの対立抗争です。一九一八年になるとレーニン率いるボリシェビキが実権を握ります。興味深いことに、この時期からアメリカ世論は反日に豹変していきます。レーニンによるアメリカ世論操作が早くも効果を発揮していたといえます。
一九一九年、レーニンはコミンテルンを結成し、各国へ工作員を潜入させて共産主義を浸透させます。コミンテルンの動きは迅速でした。同年中に中華民国では五四運動が起こり、アメリカではアメリカ共産党とアメリカ共産主義労働党が成立します。アメリカ共産党の党員数は万単位にのぼりましたが、その大部分はアメリカ国籍を持たないユダヤ人移民でした。
当時のアメリカ政府は反共主義でした。同年末、アメリカ司法省による大規模な赤狩りが実施され、数千名の共産主義者が逮捕されました。このうち数百名は国外追放となっています。大打撃を受けた共産主義者は地下化して活動をつづけ、一九二一年にアメリカ統一共産党を結成します。
一九二二年、ソビエト連邦が成立しました。単なるユートピア思想と考えられていた共産主義が共産主義国家として実現したことは世界を驚かせ、世界的に共産主義が流行します。アメリカにも共産主義が浸透しました。アメリカ統一共産党は失業者を組織化し、黒人に民族自決を促しましたが、党勢はあまり拡大しませんでした。
《条約破棄の流れ》
第一次世界大戦後に成立したふたつの条約、ベルサイユ条約とワシントン条約によって平和が保たれると期待されたのも束の間、これら二条約は時間の経過とともに破棄されていきます。
ワシントン会議で成立した九ヶ国条約は、中華民国の主権を列強が段階的に回復させるという内容でした。その具体的な手続きは、一九二五年に開設される関税特別会議と治外法権委員会で話し合われ、決定される予定でした。ところが議論は全く進展しませんでした。
この頃、支那大陸は軍閥割拠状態であり、事実上、統一政府が存在していませんでした。中華民国の代表者が頻繁に交代したうえ、出席しないことさえあり、議論が進展しませんでした。そのうえ軍閥は勝手に自領の関税を決めて接収しました。さらに、支那大陸に浸透した共産主義者が数々の暴動を起こして社会の混乱を助長しました。蒋介石の北伐が始まると、支那大陸は完全な内戦状態となり、会議どころではなくなってしまいます。九ヶ国条約によって最も恩恵を受けるはずの当の中華民国が九ヶ国条約の履行にもっとも不熱心だったというのは皮肉というほかありません。
これに対して列国政府は、当然、条約を守ろうとしました。なかでもアメリカ駐華公使ジョン・マクマリーは、国務省官僚として九ヶ国条約の成立に尽力した人物だったこともあり、懸命に中華民国代表を説得し、条約を順守するよう迫りました。しかし、その甲斐はありませんでした。やむなくマクマリー公使はアメリカ本国に打電します。
「中国の国際的無責任主義には同意出来ないと非公式に示唆するべきである」
そして、米英日の艦隊による上海封鎖などの示威が必要だと請訓しました。これに対してアメリカ政府は、マクマリー公使の提案を却下しただけでなく、マクマリー公使の訓電をマスコミに流出させました。すでにコミンテルンの影響下にあったアメリカのマスメディアは狂ったような親中世論にあふれていましたので、マクマリー公使を「砲艦公使」と呼んで非難する結果となりました。アメリカ政府の親中的態度に驚いたマクマリー公使は苦悩します。
一九二八年、北伐を達成した蒋介石は、国民政府による中国の統一を宣言します。そして、日本に対して日清条約廃棄を通告し、世界に向けて不平等条約の排除を宣言します。これらの行為は九ヶ国条約を全く無視するものでした。
同年、アメリカ政府は米中関税条約を成立させ、世界を驚かせます。これは九ヶ国条約を破棄する行為でした。ワシントン会議を主導したアメリカがワシントン条約を破ったのです。現場のマクマリー公使は、本国政府の意図を理解できず、大いに混乱します。さらに、英仏もアメリカに追随して中国と関税条約を結んでしまいます。
日本政府は大いに驚きました。ワシントン会議を主導したアメリカが九ヶ国条約に違反する条約を抜け駆け的に成立させたからです。日本は、まじめに条約を順守していました。にもかかわらず、日清条約廃棄通告など中華民国政府から不当な要求をされ、軍閥や共産分子による在留邦人への略奪行為に直面していました。そのうえ、アメリカによる対中関税条約の成立に驚かされて大いに戸惑います。
同年、不戦条約調印のために渡欧した内田康哉特使は、調印後、アメリカの真意を確かめるために渡米します。内田康哉特使は、かつてワシントン条約の成立に尽力した外交家です。内田特使はケロッグ国務長官と会談し、伝えます。
「中国に隣接する日本は、安全保障面でも経済面でも重大な関心を支那大陸に寄せざるを得ない。だから国際協調主義に共鳴し、国益を抑制してまでワシントン条約を批准した。そして、日本政府は九ヶ国条約などに定められた条項を忠実に遵守してきた。しかるに、当の中国がワシントン条約を無視する無法な行動をくり返しているばかりでなく、英米をはじめとする列強諸国までが違背的行動をとるに至っている。国際協調主義の理念に立つならば、各国が団結し、中国に条約を遵守させるべきである。この際、アメリカ政府が主導して国際会議を開催し、中国政府に条約を遵守させるべきではないのか。もし、アメリカ政府がそうするなら日本政府は全面的に協力する。ワシントン会議を主導したアメリカ政府こそが中国問題に関する国際協力の保証人であると日本政府は認識している。中国を国際協調の枠内に引き戻す意志をアメリカ政府が有しているのか否か、それを日本政府は知りたいのである」
これに対してケロッグ長官はあいまいな応答しかせず、内田特使を大いに失望させました。
一九二九年、一向に進展しない関税特別会議と治外法権委員会、さらには本国政府による条約違反行為に苦悩したマクマリー公使はついに職を辞して帰国してしまいます。
日本政府は、ひきつづき、出淵勝次駐米大使をしてアメリカ政府の意思を確かめさせます。
「中国政府は、過去の約束の履行を反故にして、自国の要求事項を獲得することだけに熱中している。列強諸国はこの事実を無視せず、中国が外国との責務や公約を反故にしないよう働きかけるべきである。中国に大きな関心を持ち、隣国中国の健全な発展を望む日本政府は、アメリカ政府がこれに同意されると確信する」
アメリカ政府からの返答はなかなか得られませんでしたが、待ちに待ったあげくに次のような回答を得て、日本政府は驚きました。
「各国は独自に行動する権利を有する」
これでは条約の意味がありません。このアメリカ政府からの回答は、日本を激怒させるに十分でした。これまで十年ちかく生真面目に条約を順守してきただけに、裏切られたという思いが強く、その怒りの暴発こそが一九三一年の満洲事変だったと言えます。
一方、欧州でもベルサイユ条約の履行は有耶無耶にされていきます。ケインズが懸念したとおり、ドイツ経済が解体されたため欧州全体が深刻な不況となりました。英仏両政府は経済対策で手一杯となり、ベルサイユ条約は等閑視されてしまいます。イギリスは、一九三一年に金本位制を停止し、翌年のオタワ会議においてブロック経済圏の構築を決定します。ドイツでは、ナチス党が勢力を得て、一九三三年に政権を奪取します。そして、欧州発の経済不況はアメリカやアジアにまで波及して世界恐慌をもたらします。
一九三三年六月、ロンドン世界通貨経済会議において日本代表の石井菊次郎はブロック経済圏に強い反対を表明しました。日本は石油や鉄などを海外からの輸入に頼っていたのでブロック経済圏には反対せざるを得ませんでした。しかし、世界の趨勢を日本一国の力で動かすことはできませんでした。
翌年、日本政府は日英会商と日蘭会商を通じて事態の打開を図ります。日英会商では日英の再同盟が議題となり、日蘭会商では蘭印からの石油輸入を日本は目指しました。しかし、これらの会商はともにアメリカの圧力によってつぶされてしまいます。日本は、好き好んで孤立していったわけではなく、むしろアメリカによって孤立させられていきました。
《条約という詐欺》
一九三一年九月、行動を起こした兵力二万の関東軍は、兵力二十万の張学良軍を駆逐して満洲を平定していきます。関東軍作戦参謀石原莞爾少佐の軍略は冴えていました。じつに長いあいだ支那軍閥や匪賊や共産分子の略奪暴行に隠忍自重を強いられてきた満洲居留邦人は熱烈に関東軍を支援しました。日本軍は、清朝皇帝だった溥儀を担ぎ出し、満洲国を建国させます。この日本の動きを非難したのはアメリカです。
「日本は九ヶ国条約を守るべきだ」
このアメリカの声明は、日本の怒りの炎に油を注ぎます。先にアメリカは九ヶ国条約に違反して米中関税条約を結び、さらに「各国は独自に行動する権利を有する」と日本政府に回答しておきながら、いまになって九ヶ国条約を守れと日本政府を非難してきたからです。謀略外交というしかありません。
翌一九三二年、満洲問題が国際連盟の議題となります。リットン調査団が満洲に派遣され、報告書が提出されます。国際連盟では松岡洋右全権代表が懸命の演説で世界の理解を得ようと努力しました。しかし、極東情勢に疎い欧州諸国の代表はリットン報告を盲信するばかりです。リットン報告の提案は、満洲を列国で分割し共同管理するというものであり、満州国を建国したばかりの日本にはとうてい受け容れ難いものでした。
同年五月、斎藤実内閣が成立します。その外務大臣に就任した内田康哉は、たとえ日本を焦土にしても満洲国を守ると宣言し、国際連盟からの脱退を指揮します。一九三三年二月、国際連盟総会はリットン報告を採択し、満州国を承認しませんでした。三月、日本は国際連盟を脱退します。
ワシントン条約成立から日本の国際連盟脱退までの一連の出来事について、かつて駐華公使だったジョン・マクマリーは次のように書いています。
「ワシントン会議の閉会後、五年も経過しないうちに極東における国際協調の理想はもろくも崩れてしまった。それは主としてアメリカ政府が最近まで国際的な支持を得ていた伝統的政策の遂行を意図的に放棄してしまったためである。日本は、親しい友人たちに裏切られたようなものである。中国人に軽蔑されてはねつけられ、イギリス人とアメリカ人に無視された。結局、東アジアでの正当な地位を守るには自らの武力に頼るしかないと考えるに至った日本は、ワシントン体制を非難と軽蔑の対象とした」
ワシントン条約は、アメリカの壮大な謀略外交でした。アメリカは、ワシントン条約で日英同盟を廃棄させて日本の外交力を弱めるとともに、軍縮条約で日本の海軍力を対米六割に抑え込み、さらに九ヶ国条約を成立させて罠を仕掛けました。九ヶ国条約を中国に破らせ、そして自らも破って見せ、さらに「各国は独自に行動する権利を有する」と挑発して日本を激怒させ、満洲事変を惹起させると、今度は一転して九ヶ国条約違反を理由に日本を非難し、国際連盟から日本を排除させました。石原莞爾の軍略や松岡洋右の名演説を遥かにしのぐアメリカの大謀略です。
一九三五年、欧州ではドイツが再軍備を宣言するとともに、ベルサイユ条約の各条項を破棄していきました。また、一九三六年には海軍軍縮条約が失効し、主要海軍国は無制限建艦競争時代に突入します。こうしてベルサイユ体制とワシントン体制は脆くも崩れ去りました。
《ニュー・ディール》
一九三三年三月、フランクリン・ルーズベルトがアメリカ大統領に就任します。この後、ルーズベルト大統領は十二年という長期にわたってアメリカを統治しますが、同大統領の政策はニュー・ディールと呼ばれました。ニュー・ディールの意味は、ベルサイユ条約とワシントン条約が無効化した新情勢に対応するという意味だったようです。そして、世界恐慌に対処するという意味でもあり、さらに、ニュー・ディールには容共主義という意味が含まれていたはずです。実際、ルーズベルト大統領の政策は、外交的にはソビエト連邦を全面的に支援し、内政的には共産主義的政策を推進するものでした。
一九三三年十一月、ルーズベルト大統領はソビエト連邦を国家承認します。一九二二年にソ連が成立して以来、アメリカはずっと反共政策をとり、ソ連の国家承認を避けてきました。この従来方針をルーズベルト大統領は逆転させ、共和党の強い反対を押し切ってソビエト連邦を国家承認しました。そして、内政面においては、統制色の強い国家機関を続々と設立させ、公共事業を拡大し、労働組合を充実させ、共産主義者をニュー・ディーラーと称して大々的に政府内に採用しました。
内政外交両面で容共主義を大々的に推進したルーズベルト大統領の狙いは、太平洋の覇権だったようです。「マニフェスト・デスティニー」という狂信的な信念がアメリカを動かしていました。太平洋覇権を得るためには日本を打倒せねばなりません。日本打倒のため、すでに中華民国を手なずけてあり、次いでソビエト連邦へと接近したわけです。日本を包囲するためです。
ソビエト連邦の立場からすると、アメリカとの連合には利益がありました。ソ連にとって日本は南方の脅威でしたから、アメリカとの連合によって日本を挟撃する体制を構築できれば文句ありません。また、ソビエト連邦にはドイツというもうひとつの脅威がありました。よって、米英仏ソの連合によってドイツを包囲できれば有利です。イギリスとフランスはドイツの復讐を恐れていましたから、ソ連と連合してドイツを包囲し、さらにアメリカの支援を受けることができれば地政学的に有利でした。
こうした地政学上の各国の思惑から米英仏ソは連合を構築していきます。アメリカにはユーラシア大陸に介入しないという選択肢もありました。しかし、アメリカはあえて介入します。アメリカにとっては無害であるドイツと日本を必要以上に敵視しました。そして、ソ連にとっての脅威であるドイツと日本をあたかもアメリカの脅威であるかのようにプロパガンダし、包囲し、挑発し、圧迫して第二次世界大戦をつくりあげていきます。
それにしても「自由と民主主義」を国是に掲げるアメリカが、よくぞ容共主義へと政策を大転換できたものだと疑問を感じざるを得ません。疑うべきは、「自由と民主主義」というアメリカのテーゼです。ほんとうにアメリカは「自由と民主主義」の国でしょうか。アメリカの歴史を振り返ってみると、奴隷貿易、移民侵略、インディアン虐殺、武力侵略、陰謀、黒人差別、戦争に次ぐ戦争など、もはや悪逆非道というしかありません。その悪逆非道を隠蔽するためのプロパガンダこそが「自由と民主主義」です。「自由と民主主義」はアメリカ政府によるプロパガンダに過ぎません。アメリカ政治の実態を「自由と民主主義」というプロパガンダで隠蔽しているわけです。
アメリカのメディアは、アメリカ政府のプロパガンダを拡散する機構にすぎず、アメリカ大衆は新聞やラジオや映画によるプロパガンダによって、いとも簡単に洗脳される衆愚です。そう考えるとすべての辻褄が合います。アメリカによる「自由と民主主義」プロパガンダは、世界で最も成功したプロパガンダと言えるでしょう。なぜなら、このプロパガンダは二十一世紀の今日もなお有効に機能しているからです。
ルーズベルト政権は、容共主義政策をとるとともに、「共産主義は民主主義の発展した形態」とか「共産主義は二十世紀のアメリカ主義」などというプロパガンダを開始します。子供にでも見破れそうなプロパガンダですが、これが通用してしまうのがアメリカ社会です。
アメリカの容共主義が如実に現れたのは、たとえば、アメリカ世論の蒋介石に対する評価においてです。蒋介石は一時的に反共テロを実施して共産主義を否定しました。するとアメリカ世論は蒋介石を「残忍な独裁者」と非難しました。しかし、西安事件を経て第二次国共合作が実現すると、アメリカ世論は蒋介石を「やさしいおじさん」、「敬虔なクリスチャン」などと持ち上げました。この程度の露骨なプロパガンダに騙されてしまうのがアメリカの大衆です。実に残念な現実ですが、これがアメリカの実態です。この後、アメリカは日本とドイツを「全体主義国家」と決めつけ、全体主義と民主主義の対決を煽ることで参戦世論を形成していきます。当時の日本は立憲君主国であり、憲法があり、議会があり、司法も独立していたのに全体主義と決めつけられたわけです。典型的なプロパガンダです。ひるがえって共産党一党独裁国家のソビエト連邦をアメリカ世論は民主主義陣営としました。これもまたプロパガンダです。こうした子供だましのようなヌケヌケとした大嘘のプロパガンダこそがアメリカ政治の本質です。
《支那事変をつくる謀略》
一九三七年七月、北京郊外において盧溝橋事件が発生します。コミンテルンが日支両軍に発砲して双方を挑発した事件です。現地では日支両軍が協定を結び、事態の鎮静化を図りました。しかし、そのたびにコミンテルンが発砲事件を繰り返し、事件がおさまりませんでした。さらに、二百名以上の在留邦人が国民党軍によって虐殺される通州事件が発生しました。国民党軍とコミンテルンによる協同作戦です。日本政府は邦人保護のため大規模な派兵を決定するに至ります。陸軍は三個師団からなる北支派遣軍を展開させ、北支を平定します。
これに対して蒋介石は、八月、上海租界を大軍で包囲しました。第二次上海事変です。上海租界には多くの在留邦人が住み、多数の日系企業が進出していました。これらが標的にされました。上海には日本海軍第三艦隊が駐留していましたが、その兵力は微弱でした。このため日本政府は邦人保護のために増派を決定せざるを得ませんでした。陸軍は二個師団からなる中支派遣軍の増派を決定し、海軍も艦隊を出撃させました。国民党軍は上海に堅固なドイツ式要塞を建造していたため、日本軍は大きな損害を出します。戦闘が本格化し、日露戦争に数倍する大戦争の様相を呈していきました。十月、ルーズベルト大統領はシカゴにおいていわゆる隔離演説を行い、言外に日独伊を侵略国と決めつけ、非難し、経済制裁の開始を宣言しました。
これら一連の出来事は、米ソ支の見事な連係プレイによる謀略です。共同謀議です。これによって日本軍は支那大陸における泥沼の戦闘に陥ることとなりました。広大な支那大陸を占領して邦人を保護できても、治安の維持には莫大な兵力が必要となります。コミンテルンの侵入を完全に防ぐことは困難であり、日本軍は絶え間ない掃討戦に縛り付けられました。おまけにアメリカの経済制裁により、国家経済が圧迫される事態となりました。
日本政府に落ち度があったとすれば、それは野放図な移民政策にあったと言えるでしょう。当時の日本は移民の輸出国でした。多くの日本人が人生を支那大陸に賭けて移民していました。日本企業も巨大な支那市場と安価な労働力を求めて支那大陸に進出していました。これが日本の弱みとなりました。
支那大陸への派兵に強硬に反対したのは、参謀本部作戦部長の石原莞爾少将です。この満洲事変の英雄は、派兵に反対し、在留邦人と日本企業の引き揚げを提案しました。
「引き揚げにともなう損害は政府が補償しろ、そのほうが戦争するよりも安くつく」
しかしながら、この大胆すぎる提案は容れられず、結局、支那事変という大消耗戦が始まってしまいます。とはいえ、戦闘では日本軍が連戦連勝しました。十一月、杭州湾に上陸した日本軍の三個師団は上海を目指して北上し、十二月には中華民国の首都である南京を占領しました。蒋介石は早々に重慶へと逃走していました。
敵国の首都を占領した日本は、当然、講和を考えました。十一月に日独伊防共協定が成立していたこともあり、駐支ドイツ大使トラウトマンを仲介として日支間の停戦交渉が行われました。しかし、コミンテルンの監視下にあった蒋介石は停戦交渉を蹴らざるを得ず、強硬な条件を日本政府に突きつけます。日本軍の損害はすでに数十万に達していましたから、ときの外相広田弘毅は「犠牲を多く出した今日、このような軽易な条件では和平を認めることは困難」と発言し、停戦の妥結に反対しました。このとき是が非でも講和すべきだと落涙しながら主張したのは陸軍参謀本部次長の多田駿中将です。
「この期を逃せば長期戦争になる恐れがあります」
しかし、広田外相はうなずきませんでした。
「私の長い外交官生活の経験から見て、蒋介石の態度には和平解決の誠意がない。参謀次長は外務大臣を信用することができませんか」
さらに、米内光政海軍大臣が広田外相に賛同し、「内閣総辞職になるぞ」と一喝したため、多田中将は沈黙するほかありませんでした。こうして講和の機会は去りました。死児の齢を数えるに等しいことながら、残念なのは、蒋介石の強硬姿勢の裏側に何があるのかを洞察し得なかった当時の指導者たちの不明です。米ソの接近、第二次国共合作、隔離演説、親支反日的なアメリカ世論などを総合的に思料すれば、あるいは米ソ支の共同謀議に思い至ることができたのではないかと残念に思わざるを得ません。しかし、そうした思索を妨げたのは、コミンテルンの尾崎秀実による南進論や支那一撃論でした。後世からする岡目八目的な意見ではありますが、まことに悔やんでも悔やみきれないことです。
トラウトマン工作が失敗したため支那事変の戦線は徐州、広東、漢口、武昌へと拡大しました。日本の国力には分不相応な大戦争です。早くも物資が不足しはじめたため、一九三八年四月、日本政府は国家総動員法を成立させるに至ります。
アメリカは、重慶に立て籠る蒋介石政権を支援するため巨額の資金援助を行い、また援助物資を輸送するため、いわゆる援蒋ルートを開削します。そして、この援蒋ルートを封じようとする日本との対立を生じさせます。
アメリカが対日経済制裁を開始したのは一九三八年です。こののちアメリカは禁輸対象品目を徐々に拡大し、ジワジワと日本を経済的に苦しめていきます。同年、アメリカは日本を軍事的に威圧するため、英米海軍協力計画を決定します。この計画に基づいてアメリカ海軍はハワイへ、イギリス海軍はシンガポールへと主力艦隊を進出させました。そして、対日戦争計画オレンジ・プランを刷新し、数次にわたる海軍拡張計画を推進します。また、ハル国務長官は日英間の外交交渉を妨害するよう指令を発しました。
一九三九年、天津英仏租界事件が発生します。コミンテルンは天津にある英仏租界内を拠点として反日テロを繰り返していました。このため、日本は英国にテロ実行犯の引き渡しを要求しました。これを英国が拒否したため、天津の日本陸軍部隊はやむなく英仏租界を封鎖し、反日テロを抑止しようとしました。これに英国が抗議したため、日英間の外交問題となります。七月、東京で有田外相とクレーギー駐日英国大使が会談し、協定を成立させました。その内容は、中華民国内における日本軍の行動を英国が妨害しないというものです。すでに支那事変が二年目に突入していたこともあり、日本としては英国による蒋介石支援を抑止したい狙いがありました。日英間の問題はこれでおさまりました。
ところが意外なことに、この日英間の協定成立に激怒してみせたのは部外者のアメリカです。アメリカのハル国務長官は「日本の中国侵略に抗議する」として、日米通商航海条約の廃棄を一方的に日本に対して通告しました。これは実に極端な措置です。条約の一方的な廃棄は、国際法上、それを口実に戦争を開始しても正当化されるほどの暴挙です。おそらくアメリカ政府は、日本が宣戦布告することを覚悟していたのでしょう。あるいは期待していたというべきでしょうか。そうでなければ、このような極端な通告はできないはずです。裏では共同謀議によって支那事変を惹起させておきながら、表面的には正義を気どるのがアメリカのスタイルです。満洲事変のときと同じです。
アメリカの過激な一方的通告に日本政府は驚嘆しました。通商航海条約の廃棄は、日米間で貿易ができなくなることを意味します。日本は多くの物資をアメリカからの輸入に依存していましたから、日本経済の死命が制せられたといえます。歴史をさかのぼれば、幕末の日本を砲艦外交で開国させたのはアメリカでした。そのアメリカが、今度は通商を封鎖すると宣告してきたのです。日本の世論が反米に傾いたのは当然のことでした。
日本政府は、事態打開のためにアメリカと暫定協定を結ぼうと試みます。しかし、野村吉三郎外相とグルー駐日大使との交渉は進展せず、結局、一九四〇年一月に日米通商航海条約は失効しました。日本政府は、アメリカとの戦争を真剣に考えざるを得なくなりました。とはいえ、日本にとってアメリカとの戦争は一利もないことでしたから、隠忍自重せざるを得ません。支那事変を抱えながら世界最強のアメリカと事を構えるなど正気の沙汰ではありません。まして、アメリカの国力は日本の二十倍です。勝ち目はないと誰の目にも明らかでした。だから日本は対米戦争を回避しようとしました。しかし、この後、アメリカからする日本への執拗な挑発行為が繰り返されます。日本の忍耐が限界に達するのは一九四一年十一月です。
《第二次世界大戦をつくる謀略》
欧州の情勢も緊迫化していました。すでにズデーテン地方を手中にしていたドイツは、一九三九年三月、チェコスロバキアに侵攻するとともに、ポーランドに対して領土の割譲を要求します。ポーランドはドイツの要求を拒絶しました。ポーランドは、アメリカから支援の約束をとりつけおり、またフランスおよびイギリスとの相互援助条約があったので強気の態度に出ました。
その後、ドイツと英仏の外交戦となります。どちらがソビエト連邦を味方につけるかという競争でした。結果はドイツの勝利となり、一九三九年八月、独ソ不可侵条約が成立します。その翌月、独ソ両国は密約に基づいてポーランドへ侵攻し、ポーランドを分割してしまいます。これによってポーランドの独立を条約で保障していた英仏が自動的にドイツに対して宣戦布告することとなり、第二次世界大戦の開始となりました。
ルーズベルト大統領の強い支援姿勢が欧州内の対立を助長したために第二次世界大戦が始まったと言えます。アメリカはポーランドに対して「ドイツに妥協するな、支援する」との暗号電報を盛んに送っていました。ルーズベルト大統領は、チャーチル英海相との間で秘密暗号交信を盛んに交換し、ドイツに対して融和政策をとっていたチェンバレン英首相をこきおろし、その追い落としを画策していました。こうした陰謀の結果、事態はルーズベルト大統領の思惑どおり戦争へと進展しました。
ドイツとソ連によるポーランド分割についてアメリカは不可解な二重基準の態度をとります。アメリカはドイツだけを非難し、ソ連のポーランド侵攻には目をつぶりました。さらに奇妙なことに、第二次大戦勃発後、バルト三国とフィンランドへ侵攻したソ連軍についてアメリカはいっさい非難せず、沈黙しました。この異様なまでの親ソ的態度こそがルーズベルト大統領の際立った特徴です。
フーバー前政権までのアメリカの外交方針は反共政策でした。ドイツが東方へ侵略する場合には、これを黙認し、独ソ間の対立を静観するというものでした。ナチスドイツとソビエト連邦という独裁国家同士の闘争を静観し、推移を見守り、共倒れを待つという戦略でした。この既定の政策を転換して容共政策を採用し、親ソ反独政策を採用したのはルーズベルト大統領です。そのルーズベルト政権は、同年十月に中立法を改正し、交戦国への武器輸出を合法としました。むろん英仏を支援するためです。
英仏がドイツに対して宣戦布告したのは一九三九年九月でしたが、本格的な戦闘がはじまったのは一九四〇年四月です。両軍ともに戦争の準備ができていなかったからです。先手を打ったのはドイツ軍です。ドイツ軍はデンマークへ侵攻し、さらにベルギー、オランダ、ルクセンブルクを占領しました。ドイツ軍の電撃作戦は成功し、六月にはパリを陥れ、フランスを降伏させました。
英仏両国はアメリカに参戦を促します。しかし、アメリカは軍需物資の支援こそ約束したものの、参戦は拒否しました。そもそもアメリカには参戦する理由がありません。アメリカの世論は欧州や支那の戦争には無関心であり、むしろ参戦に反対する意見が多数を占めていました。また、容共主義のルーズベルト大統領にしてみれば、ドイツ軍が英仏軍と戦っている限りは静観していられたようです。
一九四〇年八月、ドイツ軍はイギリス軍との航空戦を開始します。ロンドン上空が戦場となりましたが、イギリス軍は頑強に抵抗してドイツ軍の上陸を阻止しました。
ルーズベルト大統領は、英支への支援を強化するため、貿易に関する大統領権限を強化する法律を成立させるとともに、対日経済制裁を強化しました。また、同時期、マッカラム少佐が戦争挑発行動八項目という意見具申を行いました。これは日本を対米戦争に向かわせるための挑発計画です。結果的にルーズベルト政権は、この挑発計画を実施して日本を執拗に挑発し、追い詰めていきます。
日本では第二次近衛内閣が成立していました。松岡洋右外相は対米交渉開始の前提条件として日独伊ソ四国協商体制を構築すべく動き、また小林一三商工相は蘭印政府との石油交渉に向かいました。
一九四〇年はアメリカ大統領選挙の年でした。アメリカには、大統領任期は二期八年という不文律がありました。すでに二期八年の任期を終えようとしていたルーズベルトは、この不文律を破り、三選に出馬しました。とはいえ、ルーズベルト大統領への支持は必ずしも高くありませんでした。それというのもニュー・ディール政策の効果があまり現れず、アメリカ経済が相変わらず低迷していたうえ、前大統領フーバーがルーズベルトの親ソ容共主義を批判していたからです。
ルーズベルト陣営は、選挙期間の前半、「ヒトラーがやってくる」というキャンペーンを展開して盛んに戦争の恐怖を煽りました。そして、この危険な時期に大統領を代えるべきではないと国民に訴えました。また、「アメリカが参戦しなければ、この世から民主主義が消える」と主張し、ありもしない全体主義の恐怖を煽りました。
ところが、選挙期間の後半になると、ルーズベルト陣営はガラリと演説内容を変えます。アメリカ世論が不干渉主義を支持していることが明らかになったからです。
「わたくしは、みなさまのご子息たちを絶対に、絶対に、絶対に、戦争に征かせはしません」
ルーズベルトは恥も外聞もなく前言を翻して訴えました。ルーズベルトを支援したのはアメリカ共産党、アメリカ連盟、ハリウッド、マスコミなどです。結果、ルーズベルト陣営のプロパガンダが成功し、ルーズベルトは三選を果たします。
《参戦のための謀略》
ルーズベルト大統領は戦争に向けて既定の政策を継続します。英支への支援を強化するために武器貸与法を成立させるとともに、対日経済封鎖を強化しました。太平洋方面における米英海軍の連携を強化させ、米英参謀会議を設置し、米英戦略協定を結びます。さらに、蒋介石を支援するため空軍部隊を義勇軍に偽装させて支那へ派兵しました。このため支那上空では日本軍とアメリカ軍の戦闘が発生し、支那事変は事実上の日米戦争となりました。
アメリカは、外交的にも謀略で日本政府を揺さぶります。一九四一年四月、日米了解案という文書がハル国務長官から駐米大使野村吉三郎に手交されました。同案を基礎として日米の和解を図ろうという提案でした。野村大使は同案を直ちに日本政府に打電しました。
日米了解案の作成にはウォルシュ司祭、ドラウト神父、井川忠雄、岩畔豪雄が関わっていました。このうち岩畔は陸軍参謀本部から派遣されていた現役の大佐でした。このため、駐米大使野村吉三郎だけでなく第二次近衛内閣の閣僚たちは日米了解案を信用してしまいます。ただひとり、松岡洋右外相だけが日米了解案の怪しさに気づき、これを蹴るべきだと主張しました。しかしながら、閣内では日米了解案に沿って対米交渉を進めるべきだとの意見が大勢を占めました。このため松岡外相は、ほかの全閣僚と対立する立場になってしまい、次第に発言力を失い、ついには閣外へ放逐されてしまいます。以後、日本政府はアメリカ政府に翻弄され続けることとなります。
日米了解案作成にかかわったウォルシュ司祭はアメリカのスパイでした。戦後のことになりますが、ウォルシュは中国で昭和三十三年に逮捕され、昭和四十五年にようやく釈放されています。新華社はウォルシュをアメリカ諜報員と報じました。つまり、日米了解案は全くのフェイク文書だったわけです。
一九四一年六月、ドイツ軍がソ連領内へと侵攻し、独ソ戦争が始まりました。ドイツ軍は破竹の勢いでソ連領内へ進撃しました。独ソ不可侵条約を信用し、安心していたスターリンは完全に後手となりました。
米英両国は直ちにソビエト支援を声明します。ルーズベルト大統領は、ソビエト連邦に側近を派遣し、必要な援助物資のリストをソビエト側に作成させ、大々的な軍需物資の援助を開始します。その規模は、ひと月あたり、航空機四百機、戦車五百両、自動車五千台、トラック一万台というものでした。そのほか大量の戦車砲、対空砲、ディーゼル発電機、野外電話機、無線機、オートバイ、小麦、砂糖、二十万足の靴、外套用生地、五十万双の手術用手袋、一万五千挺の手術用鋸などが送られました。アメリカは、ソビエト軍のための軍需工場と化したといえます。これらの物資はアメリカの各港湾で輸送船に船積みされ、大規模な輸送船団に編成され、アメリカ海軍の艦艇に護衛され、ソビエト連邦沿海州の港湾に陸揚げされ、シベリア鉄道によって続々と欧露へ届けられました。
しかしながら、アメリカが参戦できるような国内事情ではありませんでした。アメリカに直接的な危機はなかったし、アメリカ世論は不干渉主義を支持していたからです。ルーズベルト大統領はドイツに対する挑発を実施させますが、ドイツ軍は挑発に乗りませんでした。そこで、日本に対する圧迫と挑発を強めます。いうまでもなく日本に初弾を撃たせるためです。
アメリカは、七月十八日に日本船のパナマ運河通行を禁止し、七月二十六日に在米日本資産凍結令を公布し、八月一日にはついに対日石油輸出禁止に踏み切りました。日本は完全に窮鼠となりました。支那事変をかかえながら、国力二十倍のアメリカと太平洋方面で戦うなど正気の沙汰ではありません。しかし、アメリカによる経済封鎖は日本の死命を制するところまできていました。石油が途絶すれば日本海軍の艦艇も輸送船も動けなくなります。そうなってからでは戦うことさえできません。したがって、非常の決断をせざるを得なくなりました。
当然ながら陸海軍は万一に備えて戦争準備を進めていました。そして、準備から実施へと事態が進みました。それでも日本政府は対米和平に望みをつなぎ、対米交渉を継続しました。その日本の希望を打ち砕いたのはハル・ノートという最後通牒です。ハル・ノートを日本政府が受領したのは十一月二十七日です。ルーズベルト政権は日本に対して最後通牒を発出した事実をアメリカ連邦議会にもアメリカ国民にも隠しました。これは憲法違反行為です。
ハル・ノート発出の二日前、ハル国務長官、ノックス海軍長官、スチムソン陸軍長官は定例会談に臨んでいました。そこで話し合われたことは、日本軍に最初の一弾を撃たせることでした。それは危険な決断ではあります。自軍に損害が出るからです。しかし、アメリカ国民の完全な支持を得るためには、日本軍に最初に攻撃させて、どちらが侵略者であるかについて誰にも疑う余地のないように演出し、印象づけることが望ましいという結論となりました。
二日後、日本に対する最後通牒を交付したハル国務長官は、スチムソン陸軍長官に語ります。
「ぼくはもうこの問題から手を引いたよ。これからは君とノックス君、つまり陸軍と海軍の問題だ」
日本政府が最終的に対米英蘭開戦を決断したのは一九四一年十二月一日です。戦闘は、十二月八日未明に開始される予定です。最初の攻撃目標は、ハワイ真珠湾、米領フィリピンのクラーク空軍基地、そして英領マレーです。
日本軍の各部隊はそれぞれの作戦海面に向けて移動していました。南雲機動部隊はハワイに進路をとっていました。アメリカ軍中枢はその航跡を把握していました。しかも日本の暗号を解読しており、日本軍の攻撃が近いことを知っていました。しかし、アメリカ軍中枢は、その情報を前線部隊の司令部に伝達しませんでした。日本軍による開戦劈頭の奇襲作戦は大成功をおさめますが、その勝因の半ばはアメリカ側によってつくられたと言えます。情報から隔離されていたため、ハワイ真珠湾とクラーク空軍基地は無警戒なところを襲われて大損害を被ってしまいます。しかし、その犠牲をこそルーズベルト政権は待ち望んでいました。言うまでもなく参戦の口実を得るためにです。
《プロパガンダ演説》
日本海軍の機動部隊による真珠湾奇襲攻撃は大成功をおさめます。これによりアメリカ太平洋艦隊は壊滅状態に陥り、ほぼ半年のあいだ活動停止状態となります。その間に日本軍は南方作戦を推進し、いわゆる南方資源地帯を制圧します。日本軍は緒戦において戦術的な大成功を手中にしました。
アメリカの在ハワイ陸海軍部隊は、日本軍に攻撃され、壊滅させられました。戦術的にはアメリカ軍の大敗北です。しかし、この犠牲によって、参戦する大義名分を得たルーズベルト大統領は政略的な成功を手に入れました。アメリカの巨大な工業力が大車輪のように旋回して軍需物資を大量に生産することとなります。その物量は圧倒的であり、日独の攻勢を防ぎとめ、やがて反転攻勢に移ります。
とはいえ、アメリカ政府中枢にも計算違いがありました。アメリカ軍首脳は日本軍の実力を下算していたため、初弾を撃たせても大きな損害は出ないと想像していました。だからこそ「初弾を撃たせる」という謀略を実施し得たのです。ところが、実際に被ったハワイ真珠湾の損害は、戦艦四隻沈没、戦艦一隻大破、軽巡洋艦三隻小破、航空機三百五十機喪失、戦死二千三百名という大きなものでした。
大敗の翌日、ルーズベルト大統領は連邦議会の演壇に立ちました。宣戦布告の権限を有する連邦議会から参戦の同意をとりつけるためです。この日の演説は「恥辱の日」演説として知られています。しかしながら、ルーズベルト大統領の演説は隠蔽と虚偽と煽動に満ち満ちていました。あきらかなプロパガンダです。演説の名手であるルーズベルト大統領は、まるでハリウッドの名優であるかのように演じます。
「昨日、一九四一年十二月七日、恥辱の日として記憶されるであろうこの日、アメリカ合衆国は突然にして計画的な日本海空軍の攻撃を受けました。合衆国と日本とは平和を維持していました。両国政府は太平洋の平和を維持するための交渉を続けていたのです」
大きな嘘ほど通用すると言いますが、よくぞこれほどの大嘘を連邦議会とアメリカ国民に対してほざくことができたものです。ルーズベルト大統領は、ハル・ノートという最後通牒を日本に突きつけた事実を隠しました。日本に対して経済制裁を課していたことや、日米通商航海条約を一方的に破棄したことや在米日本資産を凍結したことや対日石油輸出禁止措置の実施を隠しました。これらの事実を隠しておいて「平和を維持していた」とほざきます。そして、日本艦隊がハワイに接近中であることを知っていたにもかかわらず、まるで知らなかったかのように「突然」に攻撃されたとぬかします。
「この種の裏切り行為に二度と襲われないよう対処しなければならない」
ルーズベルト大統領は、あたかも日本に裏切られたかのように振舞いますが、事実は逆です。ルーズベルトこそが対日石油輸出禁止で日本を追い詰め、日米了解案で日本をだまし、ハル・ノートで日本を絶望させ、また、在ハワイ陸海軍部隊を情報から隔絶させて犠牲を強い、連邦議会とアメリカ国民を演説で騙したのです。これほど壮大な世界史的詭弁には類がありません。
「アメリカは日本を挑発しなかったにもかかわらず、日本軍は一九四一年十二月七日に卑劣な攻撃を加えた」
よくぞ言えたものです。ルーズベルト大統領は、マッカラム少佐の提案した対日挑発行動を遂行し、対日経済封鎖を数年にわたって継続し、日米通商航海条約を一方的に破棄し、援蒋支援を続けて支那事変を長引かせ、在米日本資産を凍結し、対日石油輸出を禁止し、ハル・ノートという最後通牒を突きつけました。これだけ多くの挑発行為を実行しておきながら、「アメリカは日本を挑発しなかった」と大嘘を吐いたのです。意図的な嘘でなければ吐けないセリフです。ルーズベルトの演技は、ハリウッドの名優をはるかに凌ぐものでした。この優れた演技にだまされたアメリカ連邦議会は、満場一致で宣戦布告を決議します。そして、アメリカ国民もまんまと詭弁に籠絡され、ルーズベルトのプロパガンダによって熱狂と虚偽と偏見を脳内に植え付けられ、戦争へと煽動されました。
残念なことに、この時点で、アメリカ連邦議会に冷静な判断力はありませんでした。アメリカ大衆に理性はありませんでした。情報を隠蔽されていたからです。ハワイのアメリカ太平洋艦隊が壊滅したという事実だけを突如として知らされたからです。かつてジェファーソン・デイビスが指摘したとおり、アメリカの政治は、熱狂と偏見と虚偽によって遂行されるのです。そして、この熱狂と偏見と虚偽は、アメリカ政府のプロパガンダによって生み出されました。戦争国家アメリカはプロパガンダと衆愚の国だと言ってよいでしょう。
ルーズベルト大統領の「恥辱の日」演説は嘘と詭弁にまみれているにもかかわらず、それを指摘する識者が戦後の日米双方の言論界に存在しないことには驚かざるを得ません。
一方、日本政府が開戦を決意せざるを得なかった理由は明快です。開戦の詔書には決断に至った理由が正直に書かれています。現代日本語に訳してみます。
「米英両国は、蒋介石政府を支援して東アジアの混乱を助長し、平和のためという美名に隠れ、実はひそかにアジアの覇権を握ろうという道理に反した構想を抱いている。それだけでなく、米英両国は同盟国を誘引して日本の周辺において軍備を増強させ、我が国に挑戦的姿勢を示し、さらに日本の平和的な通商に対してあらゆる妨害を加え、ついに経済断交を行い、日本の存立に重大なる脅威を加えた。私(昭和天皇)は、日本政府をしてこの事態を平和のうちに解決させようとし、ながらく隠忍自重してきたが、米英両国には相互の友好関係を維持しようという精神が微塵もみられず、この状態の解決を先延ばしにし、かえって我が国の経済的および軍事的な脅威をますます増大させ、我が国に圧力をかけて隷従させようとした。このまま事態が推移すると、東アジアの安定に関する大日本帝国の積年の努力が水泡に帰すだけでなく、日本の存立もまた危機に瀕してしまう。事態がここまで悪化している以上、日本は今や自存自衛のため、決意を持って一切の障害を粉砕するほかはない」
詔書の原文には漢語が多く、難解ではありますが、その文意は明快であり、かつ正直です。日米の国柄の差異が如実に現れているといえるでしょう。
こうしてアメリカが参戦することとなり、第二次世界大戦の趨勢を決定づけました。ただ、真珠湾の損害があまりにも甚大だったため、アメリカ世論が騒ぎ出し、真相を究明せよとの声が高まりました。ルーズベルト大統領はこれを放置することができず、やむなく事故調査委員会を設立して嘘の報告をさせ、現場指揮官だったキンメル大将とショート中将の証言を阻んで事の真相を巧妙に隠蔽してしまいます。
《連合国の形成》
参戦の謀略を完遂したルーズベルト大統領は、はやくも戦後体制の構築に精力を傾けます。それが連合国です。戦後日本では国際連合と呼称されている国際機関です。
連合国の原案は、開戦前の一九四一年八月、大西洋上で行われた大西洋会談においてルーズベルト大統領とチャーチル英首相とのあいだで話し合われました。そして、開戦後の十二月二十二日からワシントン会談が行われ、米英両首脳が連合国協定にサインします。翌一九四二年一月には連合国共同宣言を二十六ヶ国が批准しました。こののち批准国は増え、一九四五年には五十ヶ国に達します。こうして日独伊の三国は世界の敵にされていきました。
一九四三年一月、ルーズベルト大統領とチャーチル首相はカサブランカで会談し、日独伊に対して無条件降伏を要求する方針を明らかにしました。これは常軌を逸した声明です。停戦講和の可能性を否定しているからです。無条件降伏を要求された日独伊は最後まで決死の抵抗を続けるしかなくなります。そうなれば連合国軍の損害も増大します。この宣言によって利益を得るのはソビエト連邦しかありません。日独が完膚なきまでに破壊されれば、それはソ連にとって南進の好機となります。逆に早期の停戦講和が実現すれば、日独は国力を温存することが可能となり、ソ連にとって脅威となり続けます。カサブランカ宣言は明らかにルーズベルト大統領からするソビエト連邦への最大限のリップ・サービスでした。
ルーズベルト大統領は、同年二月、ホワイトハウスにおける記者会見において再び無条件降伏の要求を声明しました。さらに、一九四三年十一月のカイロ宣言においても無条件降伏の要求を行いました。さらに同年同月、テヘラン会談が行われ、ルーズベルト大統領、チャーチル首相、スターリン元帥の三名が初めて顔を合わせました。テヘランでは国際連盟に代わる新しい国際機関つまり連合国の設立などが合意されました。
こうして戦争の最中に戦後体制が構築されていきました。その戦後体制とは米英中ソを中心とする連合国であり、世界の半分をスターリンにゆだねて共産化させるものでした。ルーズベルト大統領の周辺にはスターリンの危険性を指摘する閣僚や部下が幾人もいました。にもかかわらず、ルーズベルトは「スターリンとはうまくやっていける」と言い続けました。なぜ、ルーズベルトがかくまでにスターリンを敬愛し、信用したのか実に不可解です。
一九四四年に入ると戦局は連合国軍が圧倒的に優勢となりました。ドイツ軍の攻勢に苦しんでいたソビエト軍は、アメリカからの膨大な援助物資によって息を吹き返し、ドイツ軍の攻勢を防ぎ、反撃に転じました。そして、六月には米英軍を主力とする連合国軍がフランスのノルマンディーに上陸して第二戦線を構築し、ドイツ軍を東西から挟撃する形勢となりました。
太平洋ではマリアナ沖とレイテ沖で日米両軍の海戦が行われましたが、アメリカ海軍の空母機動艦隊が圧倒的な物量で日本軍を蹴散らしました。しかしながら、ドイツも日本も戦いつづけるしかありません。なにしろルーズベルト大統領が無条件降伏を要求していたからです。そのルーズベルト大統領は、この年に行われた大統領選挙で当選し、四選を果たします。戦局の好転に加え、戦争特需によってアメリカ経済が好況になったことが当選の要因でした。
一九四五年二月、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの三首脳はヤルタで会談し、連合国の構想をまとめました。同時に、ソ連の対日参戦を協議し、ドイツ降伏の三か月後にソ連軍が対日参戦するという密約が交わされました。
この時期、すでにドイツ軍の敗北は決定的となっていましたが、アメリカはドイツに対する降伏勧告を行いませんでした。また、日本政府がすでに停戦の意思を持っていることをアメリカは知っていましたが、これを無視しました。
太平洋では、フィリピンと硫黄島が地上戦の舞台となっていました。フィリピンの日本軍は北部山岳地帯に籠城して持久戦を続け、硫黄島の日本軍は地下陣地を築いてアメリカ軍の火力をしのぎつつ、抵抗を続けました。
その硫黄島が陥落し、アメリカ軍が沖縄に上陸した一九四五年四月、ルーズベルト大統領が死亡しました。これに伴い副大統領のトルーマンがアメリカ大統領となります。五月、ドイツが無条件降伏しました。六月、沖縄の日本軍守備隊が玉砕しました。七月、硫黄島と沖縄の戦闘で大きな損害を被ったアメリカはポツダム宣言を発し、日本に対して降伏を勧告しました。これは無条件降伏を要求するというルーズベルト大統領の既定方針を変更したものです。八月、ソビエト軍が日ソ不可侵条約を破って、ヤルタ密約どおりに対日参戦しました。ここにおいて日本の命脈は絶たれたといえます。日本政府中枢の意見は、本土決戦か即時停戦かで別れ、大いに揉めました。その間にアメリカ軍は、ポツダム宣言内の警告どおりに広島と長崎に原子爆弾を投下します。昭和天皇は御聖断を下して意見をまとめ、日本政府をしてポツダム宣言を受諾させました。
《戦争犯罪》
ドイツと日本を無条件降伏させるというルーズベルト大統領の方針に基づいて、アメリカ軍は敵国本土に対する戦略爆撃を準備しました。そのひとつは大型爆撃機の開発と実用化です。アメリカは、その巨大な工業力を活用して超大型爆撃機の量産に成功します。「超空の要塞」と呼ばれた同機種は、大量の爆弾を搭載して長距離を飛行できるという意味において、当時、ずば抜けた性能を有していました。ドイツも日本も、これほどの大型爆撃機を量産する能力を持っていませんでした。
アメリカ軍は、当初、敵戦闘機に攻撃されない高高度からの精密爆撃によって主要軍事施設や軍需工場を破壊しようと試みました。しかし、実際に作戦を実行してみると精密爆撃がうまくいきません。そこで戦術を変更し、民間人居住区に対する無差別絨毯爆撃による広域的破壊が企てられました。超大型爆撃機の大編隊によって大量の爆弾を人口密集地帯に豪雨のように投下することにより、敵国の生産基盤となる都市や施設や市民もろともに徹底的に破壊し、焼殺し、敵国の継戦能力を根こそぎ奪うという戦術です。かつてインディアンの生活基盤を根こそぎ破壊して絶滅させた戦術を近代兵器によって進化させたのです。
ドイツ本土爆撃は、一九四〇年五月から始まりました。米英の空軍は、延べ四百回にわたって爆撃機の編隊を出撃させました。これによるドイツの損害は、民間人の死者四十万人、民間人の負傷者八十万人、破壊家屋百八十万戸、被災者五百万人というものでした。
日本本土爆撃は、一九四五年三月の東京大空襲から始められ、八月まで続きました。二百以上の都市が爆撃目標とされ、被災人口は九百七十万人、被災戸数は二百二十三万戸に達しました。民間人の死者数には諸説があり、二十四万人とも百万人ともいわれます。
日米戦争の末期になると、アメリカ軍の機動部隊は日本近海にまで接近し、アメリカ軍の戦闘機が日本本土の上空を飛び回り、動くものを見れば尽く機銃掃射を加えました。汽車、自動車、船舶はもちろんのこと、登下校中の小学生までが標的とされました。なかでも最も悲惨だった事件は、一九四五年七月二十五日に起きた大分県保戸島への空襲です。空母ベローウッドを発艦したアメリカ軍の戦闘機部隊は、保戸島にある海軍の電探施設を攻撃目標にしていました。ところが、この戦闘機部隊は、こともあろうに授業中の保戸島国民学校を攻撃しました。三発の爆弾を投下し、さらに執拗な機銃掃射を加えました。保戸島国民学校は授業中でしたが、一瞬にして地獄と化しました。この攻撃により、児童百二十四名、教師二名、幼児一名が即死渡、七十五名の児童が重軽傷を負いました。
ルーズベルト大統領は、一九三九年から原子爆弾の開発を進めさせていました。連合国の科学者を総動員し、多額の資金を投入し、アメリカは短期間のうちに原子爆弾の開発に成功します。原爆実験が成功したのは一九四五年七月です。すでにドイツは降伏しており、残る標的は日本しかありません。その日本がすでに降伏の意思を持っていることをアメリカは知っていました。したがって、アメリカ政府中枢には原爆投下は不要であるとする意見、威嚇のため無人地域に投下するべきだという意見、人道上の見地から原爆投下してはいけないとする意見などがありました。しかし、トルーマン大統領は原爆投下を命じました。
一九四五年八月六日、広島市に原子爆弾が投下されました。広島市街は一瞬にして焦土と化しました。民間人の死者は九万から十六万人と推定されています。また、五十万人が被爆して原爆後遺症に悩まされました。当時、日本政府中枢はポツダム宣言を無条件で受諾するべきか、条件付き受諾にこだわるべきかで議論百出していました。いずれにしても日本は降伏の途上でした。にもかかわらず、同年八月九日、長崎市に原爆が投下されました。長崎市街は壊滅し、民間人の死者数は七万四千人にのぼりました。
アメリカ軍が占領地において犯した捕虜虐待および民間人に対する殺人や強奪や強姦などは枚挙にいとまのないほどです。その正確な統計はありませんが、数々の証言や証拠写真がアメリカ軍将兵による戦争犯罪を裏付けています。リンドバーグの日記によれば、アメリカ軍は日本軍捕虜を輸送機に乗せて上空から突き落としたとのことです。
ドイツと日本では、停戦後の長い占領期において、連合国軍将兵による傍若無人の犯罪が横行しました。占領されると国家主権が失われます。国家が主権を失えば、国民の人権を守る機関が皆無になります。占領下の日独両国は主権を喪失したため、すべての官僚は連合国軍のために働かされ、自国民のためには働くことが許されませんでした。このため連合国軍将兵による日独国民に対するあらゆる犯罪が合法とされました。ドイツでは、アメリカ軍によって意図的に飢餓状態がつくりだされ、多くのドイツ人が餓死させられました。
日本では、連合国軍将兵による強姦がはびこり、混血児の嬰児が至る所に捨てられるという悲惨な状況が現出しました。海や川、路地裏、列車の網棚、米軍キャンプのフェンス下などに捨てられた混血児は、その多くが死にました。この惨状に心を痛めた沢田美喜という日本女性は、一念発起して資金を集め、エリザベス・サンダース・ホームという混血児のための孤児院を設立し、およそ五千名の混血孤児を養育しました。強姦による妊娠率を一割と仮定すると、この一軒の孤児院の背景には五万件の強姦事件が発生していたと推定できます。
占領期の日本では、占領軍の軍用車両が縦横無尽に暴走し、多くの日本人を跳ね飛ばし、轢き殺しましたが、占領軍将兵が罪に問われることはありませんでした。アメリカ軍の将兵は、何の理由もないのに日本人を射殺することがありました。それでも一切おとがめなしでした。
アメリカ国内では、第二次大戦中、およそ十二万人の日系アメリカ人が強制収容所に無理やりに移住させられるという人権侵害が発生していました。ルーズベルト大統領による人種隔離政策であり、あきらかな人種差別です。日系アメリカ人は、生活を根底から破壊されました。
ルーズベルト大統領は検閲局という組織を設立し、第二次世界大戦中にアメリカ国民に対する検閲を大々的に実施していました。これは合衆国憲法に違反する政策でしたが、これを問題視する世論はありませんでした。
アメリカをはじめとする連合国は、ドイツおよび日本の憲法と法律を改変しました。これは明らかな国際法違反行為です。しかし、「勝てば官軍」の言葉どおり、その罪が問われることはありません。アメリカの覇権が失われない限り、問題にはならないでしょう。こうして生まれたのが西ドイツ基本法であり、日本国憲法です。
《占領政策》
第二次世界大戦後、ドイツと日本で戦犯裁判が実施されたことは、アメリカの世界覇権が確立したことを象徴しています。ニュルンベルク軍事法廷と極東軍事法廷は、世界的なプロパガンダ・インベントとして大成功を収めます。これらの法廷では、連合国軍による戦争犯罪が問題にされることは皆無でした。たとえ動かぬ証拠があっても同法廷は連合国軍の戦争犯罪をいっさい無視しました。他方、敗戦国である独日の戦争犯罪については、ありもしない虚構や根拠のない噂話までが証拠として採用され、その責任者が重い罪に問われました。これらの戦犯裁判は、国際法違反の壮大なインチキ法廷劇に過ぎなかったのですが、それでも、この大々的なプロパガンダ・イベントによって戦勝国の国民は自国政府の正義を確信しました。また、敗戦国の国民は自国の失政を信じ込まされ、洗脳されてしまいます。ナチスドイツによるユダヤ人迫害が過大に宣伝されました。日本については南京大虐殺やバターン死の行進や七三一部隊の細菌兵器といった虚構が大々的に喧伝されました。これらの悪質なプロパガンダは、戦後八十年が経過した現在までも執拗に続けられています。
極東軍事裁判の虚構性については、インドのパール判事がその意見書のなかで余すところなく指摘しています。極東軍事法廷には、そもそも法的根拠がなく、証拠調べや証拠採用が検察側に偏しており、しかも法の不遡及という原則に反していました。パール判事は、すべての戦犯は無罪であると結論し、その意見書の文末をジェファーソン・デイビスのあの言葉で締めくくりました。重要なので再掲します。
「時が、熱狂と、偏見を和らげた暁には、また理性が、虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁にはその時こそ、正義の女神はその天秤を平衡に保ちながら過去の賞罰の多くに、その所を変える事を要求するであろう」
戦犯裁判が異様な熱狂と偏見と虚偽によって推進されたことは明らかです。その事実をパール判事は、アメリカ人であるジェファーソン・デイビスの言葉を引用して、戦勝国の判事たちに突きつけたのです。これはアメリカに対する痛烈な皮肉でした。パール判事が発した皮肉はそれなりに効果を発揮しました。巣鴨プリズンにはA級戦犯がまだ残っていましたが、連合国は極東軍事裁判を中断し、やがて中止します。アメリカ人にも恥の感覚があったようです。
アメリカに居住するアメリカ国民をさえ検閲していたアメリカ政府は、当然、占領したドイツと日本でも検閲を実施しました。連合国を批判する言動を見つけると、その人物を公職から追放し、さらに天文学的な罰金を科して生活を破綻させました。日本では十二万人の教職者が職を失いました。その穴埋めに共産主義者が採用されました。こうした処分は政界や官界はもちろん言論界や芸術界にまで及びました。
新聞やラジオなどのメディアに対して連合国はプレス・コードの順守を強要しました。プレス・コードは連合国に対する一切の批判を禁止するものです。プレス・コードに違反したメディアは営業停止処分をくらいました。営業停止がつづけば新聞社も雑誌社も倒産してしまいますから、メディアは連合国の指令に従わざるを得ませんでした。
連合国は、ドイツと日本から領土を奪い、資産を奪い、産業の発展を阻害する法令を強制し、共産主義者を社会各層へ浸透させ、周辺国からの不法移民流入を放置し、ドイツ国民と日本国民を虐待しました。そして、こうした一連の劣悪非道な占領政策を「民主化」と呼称しました。これほど堂々たる欺瞞はありません。アメリカの言う「民主化」とは、アメリカの植民地にするという意味です。ドイツと日本に対するアメリカの占領政策の実態は「民主化」などではなく、弱体化と共産化と植民地化でした。