二日月
「あぁ、月が綺麗だな」と呟いた。
冬の月って、どうしてこんなにも綺麗に見えるのだろうか。澄んだ空。不純物のない、綺麗な空。
肌を突き刺す外気温に、私はぶるりと身体を震わせた。マフラーに顔を埋めて、温めるように息を優しく吐く。
普段着の上から身に纏う、厚手の茶色いダッフルコート。手袋を忘れてしまったから、ポケットに手を突っ込んで、さして暖かくもないけれど暖を取る。
空を見れば、やっぱりそこには濃紺の、けれど澄んだ星空が広がる。
田舎に住んでいる私は、都会の夜空見たのはたったの1度。
去年の、冬だけだった。
そこで見た空には、ここよりうんと少ない星が見えただけだった。けれど都会の街はきらびやかな人工照明に彩られていた。
私の暮らすここにあるのはただ、寂しく佇むばかりの数本の街頭だけ。細く伸びる一本道を通る車も、人もない。
だからきっと、都会の夜空と私の見るこの夜空は違っている。
生まれてからずっと見てきた夜空で、私の中の概念として存在している夜空だ。この夜空は、星の宝石箱だ。慣れ親しんだ星空。そして、月。
別段変わったところはないのに、なぜだか今日は月が綺麗に見えた。
マフラーから顔を出して、はぁっと息を吐き出す。それは白く虚空に模様を描き、私の視界を掠めていく。寒さが鼻につんと来て、私はくしゃみをした。
今日は良いことがあった。
お昼ご飯に母から渡されたお弁当が、私の好きなメニューだった。
塾で出された問題がいつもよりすらすら解けた。
…私よりも一足先に大学生になった友人は、ついに彼氏が出来たらしい。時折友人から送られてくる楽しそうな大学生活の写真を見る度に、自分の心臓が小さな悲鳴をあげて、どこかすきま風がふきぬけるのを感じていた。
けれど、今日ばかりはその知らせをなぜだかすんなりと受け入れ、喜べた。
ー私はまだ独りだけれど。
私はまた、息を吐き出す。白く霞んで、それからぱっと星空が目に映る。そして、そこに浮かんでいる月。私が来年の冬に見上げる夜空は、この夜空だろうか。それとも、受験の夜に見た、あの都会の寂しい夜空だろうか。
私は1人、そんなことを思って小さく笑みを零した。
今日は少しだけ、良いことがあった。月が綺麗に見える理由なんて、本当は最初からわかっていた。
ー模試の志望校判定が、ついにA判定。
ずっと、都会に焦がれていた。
この夜空よりも、あの受験の夜に見たきらびやかな街灯の方が美しく見えた。受験に落ちて、大学生活を謳歌する眩しい友人が恨めしかった。毎日毎日、この夜空を見てため息をこぼしていた。
それでも今日は。
今日だけは。
今までの私の努力が報われた気がした。まだ受験は終わっていない。それはその通りなのだが、それでも、今日だけは空に酔っていたいような気がした。
私は月に向かって手を伸ばす。それから笑みを浮かべて、よし、とどこへともなく小さく呟いた。
伸ばした手で隠れていた二日月が顔を出す。真っ暗だった夜空に、ほんの少しだけ顔を見せてくれた月。
それが、どんなに眩しかったか。
ーまだ、今はきっと、満月ではないけれど。
来年の冬、見上げる夜空はどんな夜空だろう。
眩しくて、眩しくて。きっと、二日月では霞んでしまう。満月くらいではないといけない。
そんな、夜空の下で笑っていられればいいと、そう、思った。