6 単語帳と苦味
若さって別にそんなにいいものじゃない。
大手進学塾の一室、特進クラスの高校三年生である三崎は五分の休憩時間も惜しんで英単語張に励んでいた。1900単語ほど収録されたそれはボロボロに捲り上がってしまっていて、少し萎える。けれどその代わりといって英単語のほとんどを暗記した。今は念の為、英字と日本語訳を吟味して確かめて、真横にある例文をできる限り頭に叩き込んでいた。別にそれほど苦じゃない。
さっきに受講していた特別講座の塾講師、西村が机にファイルを取って、足早にクラスから去って行った。年齢のせいだろうか。その足取りはお世辞にもスムーズとはいえない。腰痛に体が悲鳴を上げるように、足を引きずらせて廊下を進んでいる。
(これから、そろそろ夏のシーズンを迎えるな。お前らは特進クラスなんだから、まだまだ可能性がある。なんといったって君たちは若いんだし)
西村が授業終盤に言った言葉を思い返す。君たちは若いんだし。カラカラの水分が無いその声は、あからさまに真剣さを感じ取れない発声だった。三崎たちを何とも思っていない、軽視しているその態度。
目の前の単語帳を見下ろす。無機質な英語と日本語の羅列。三崎は英単語を覚えるその淡白な作業が好きだった。英単語に限らない話だけど、正解があることに何となく安心する。だから、勉強全般に言うほど毛嫌いしていないし、むしろ誰に言われずともやるくらいは勉強に積極的だと三崎は思う。
特進クラスに新年度から繰り上がって、同級生から持て囃してくれるのも全然悪い気はしなかった。その逆、嬉しいほど照れてしまう。
正解がそこにある。英単語帳の中身を見るたびに正解の存在感を実感する。英字の隣には無言に配置されている日本語訳。正解が無いことに無駄な心配も割く必要もなく、パラパラと紙を捲る、ただそれだけの行為でステータスが上がっていく手応えがある。
正解が載せられている。これほど嬉しいことは他にないとつくづく思う。
しかし、学校はそうはいかない。詳細には学校というよりも学校内の人間関係という方が的を射ている。
人間関係には、これといった決まりがない。それが思春期の落ち着かない時期だと尚更それは際立つ。よく言えば、天真爛漫。現実的に言えば、居場所の無い迷子。そんな学校の空間は、まさに完全な軸はなってなく、それぞれが一つ一つの悩みを複雑に絡み合っている。
三崎はだから思う。ここには正解があると。そして単語帳はその正解の具現化だと信じてる。わかりやすい上に迷いも生まれない。そんな爽快な気分を英単語から味わってしまうと、平日の学校が少し気に滅入ってしまい困る。単語帳と学校とはそのくらい一見、地続きに捉えてしまうが、その本質はまったく異なるものだと思う。
三崎は相談をまま受けることがある。その中でも、瑞穂からの願い出は他の者たちと比べても相当数だと思う。
『みさきちゃぁん、たすけてよぉ』
人懐っこい彼女がそう言うとき、大抵は彼氏と上手くいってないだの、助けてだの、あの人かっこいいだの、言いたい放題だ。三崎はそんな単純思考回路の瑞穂のことを羨ましがる反面、かわいそうだなとも思う。
瑞穂のような迷える子羊にとって、高校という名の溜まり場はとてもふさわしい。三崎たちの高校はとにかく人数が多い。そのため、そこには当たり前のように不特定多数が存在してしまう。
その不特定多数から生み出された歪んだ常識と正解。三崎はそれを遠巻きに見ている気分になる。英単語こそ正解なのだけど、瑞穂たちなどが信仰する真理とは容姿、ギャクセン、服の着方、女子に限ればメイクセンス、あるいは、かわいらしい仕草。
一歩引いた目線で見る彼ら彼女らは、本当に哀れだと思うし、ドンマイって感じ。
学校には正解はない。けれど、その学校特有に作り出された虚構なら残念ながら在る。三崎の通う高校はその共通認識が容姿や面白さ、かわいらしさ、だと感じる。これらは互いに顔を見合わせて確認し合ったことじゃない。沈黙の教室内にグツグツと煮えられて作り出された不文律。暗黙の了解。高校生は、わざわざその学校内の常識を口には出さない。ひっそりと空気内に広がって汚染されていく不正解な正解たち。
学校内でのコミュニティでまず必要最低限なものは、見た目だと感じる。これはその暗黙の了解からの起因の一つ。女子ならかわいらしく、男子ならかっこよくするのは当然。それら容姿が丁寧に備わっていないのであれば、初対面におけるセレクションで呆気なく退けられるのがオチだ。キラキラしている子達、すなわちトップ層には、まず見た目が整ってないとお話にならない。その点、三崎はかわいくてよかったと、我ながら安心する。
(君たちは自由に飛ぶ鳥です。広い青空にどこまでもいけます。さらに君たちは若い。どこまでもいける)
ハゲ散らかした校長のその言葉には、説得力が正直無い。というか、納得いかない。そもそも、自由ということについて実体が知れないのだけれど。
ねぇ、校長先生。多分、その自由ってやつに、ここの人たちは苦しめられているよ。
校長の言うように、多分青空のように広い自由を三崎たちは手にしている。けれど、それに漬け込んでしまったものたちはどうせいつしか落ちぶれる。三崎はそういう類の人間を山ほど見てきた。
瑞穂だって確かに若いし、かわいいし、愛想だっていいし、しかも人気者だし。でもさ、だからこそ、多分瑞穂だって、それまでなんだと思う。その自由というやつを手に秘めた若者は、結局高校というところに進級して、そこで自由をふんだんに使い倒す。で、おしまい。そこから社会へ出てからは沢山の屈辱を味わって、さっきの老いぼれた西村やハゲた校長のような戯言を言うんだろうなぁ。若いものはいい、みたいな無責任な言葉を勝手に託して、自分は知らんぷりな顔。
結論として、若いからって何もいいことでもないと三崎は思う。先生たちの言う若さってどうせ幻想の賜物でしょう?自分が使えきれなかった自由を憎んで、羨ましがって。それで若者たちに下心丸見えな言葉を吐き捨てる。
加えて、先生たちは何か命令や願い出を生徒たちに差し出すとき、こぞってその言葉を理由づけとしてまるで免罪符のように繰り出す。
『君たちは若いんだから』
どれだけ、若いという事に盲信してるんだか。それは瑞穂にも言える事かもしれない。
三崎は、ずっと物事を斜めに構えてしまう。上辺では愛想笑いを繰り返して、上手い具合に校内でも人間関係を築けている。けれどずっと疑問に思う。なんで瑞穂たちは英単語帳という究極な正解がそこにあるのに、それでも無駄な自由を謳歌しようと試みるのだろう?それが、本当に不思議でたまらない。
若さって別にそんないいもんじゃない。
三崎はそう思う。
三崎は特進クラスを見渡した。隣の席に座る背の小さい男子も、単語帳に興じていた。ゴールドの丸眼鏡にマッシュヘアの男子。チラリと、横目に見てみると、まだ英単語帳はセクション9にも満たない進行度だった。三崎の使う単語帳とは異なるものだったが、少しばかり優越感を感じた。なんだろう、もう全ての正解を知ってしまっていること。それが悪いことな感じがして、むず痒い気持ちに襲われる。きっと自分だけだ。自分だけが単語帳の正解の全貌を知っている。
そんなことを思いながら頭上に電子メロディのチャイムが鳴っているのに気がつくと、三崎は真っ先に立ち上がり、クラスを後にする。
「三崎くん、ちょっといいかな」
大きなエントランスにある受付から出口に出ようとすると、塾講師に阻まれた。
それはK大学特化型の数学を担っている講師だ。スラリとした綺麗な女性で、その姿から君付けされることは少し妙だけどもう慣れた。
「はい」
三崎は振り返り、彼女にむざむざ会釈する。
講師は困った顔を浮かべて、三崎に用紙を一つ寄越した。進路調査票だ。
「志望校、ここでいいのかな?一応、まだ夏休み前だから不確定要素がかなり多いのだけど、多分ね、多分だけど、三崎くんならもっといけると思うのだけれど。K大学も視野に入れてみてはどうかな?」
用紙の中の一つの枠に指差しながら講師が言う。
三崎は、あぁ、と生返事をした後、
「いえ、K大は大丈夫です。私にしたらK大学は魅力的すぎるというか‥。今の所は、そこを志望しています」
三崎は用紙の一つの枠に書いてある大学を指しながら言う。
「そう。ならいいんだ。けれど遠慮はしなくてもいいと思うよ?自分の意志や気持ちを優先してみてもありかと」
だから自分の意志がK大じゃないって言ってんの。そんなことを心でぼやつきながら、
「ご心配ありがとうございます。けれど、すみません。私にはおそらくそこが一番身に入ると思ったんです」
と会話を断ち切って、そそくさエントランスから出た。
自動ドアが開くとげんなりするような梅雨の空気が鼻に流れる。
これから雨が沢山降り続けるのだと思うと、テンションは下がる。
暗い夜道を歩くたび、今日の授業の内容がフラッシュバックされる。目の前に広がる黒い視界を背景に、まるで映写機が記憶を映し出すように黒板が現れて、英語、現代文、古文、数三、と脳内が張り巡らさせる。記憶の中で、インプットしたことを反復する。一瞬でも気を許してしまえば、多分、忘れる。
大学受験。それに国立志望である三崎は、その大学受験のデリケートさを身に染みて分かりきっている。 大学を受験すること。それは悲惨な結果になりえるし、喜劇の大逆転にもなる。そのくらい試験はメンタリに影響するし、繊細で儚い。三崎は来年の二月の二次試験のためにも、現在のその刹那的な気の迷いすらも封じ込めて、脳内で今回の授業の復習に徹する。それは、煮詰まってきたときだとしても、例外はもちろん無い。別に、それほど苦しくもない。
「明日も学校かぁ‥」
ふと呟いてみると、ますます嫌気が差してきた。三崎は学校よりも塾に籠る方が好きだった。友達は多いと自負しているし、周りからも明るい性格だと評されている。けれど三崎は、みんなみんな馬鹿らしいと思う。そして形式的にグループに入っているが、そんな瑞穂たちを心で罵倒し続けている自分にも少し呆れてきている。
みんなくだらないし、面白く無い。一時期そう思ってしまったが最後、連鎖的に見えるものすべてが白けて映ってしまう。
艶っぽい男女関係に陰で必死に討論するあの女子たちも、多分イスラエル問題なんて何も気にしてないんだろう。くだらない。多分、そういう人たちって、できちゃった婚とかでワアワア騒ぐんだろうなぁ。そういうのって、ますます陰険だし、それに何より、つまらない。
三崎は宙を仰ぎながら、ため息を落とした。
真っ黒いペンキの中に、一つの黄色い筆が降りたように、自動販売機がアスファルトを照らしていた。それを見て、三崎は近寄り、ブラックコーヒー缶を自動販売機に落とした。
それを拾い上げ、プルタブに手を引っ掛けるようにしてコーヒー缶を開ける。
生温いようなコーヒーを流し込んで、また息を一つ暗闇に落とした。
あぁ、人生なんて早く終わっちゃえ。そんなことを思ってる時、ふいに背後に気配を感じた。何かを運んでいるような、転がしているような。
三崎は振り向いた。するとすぐに正体が判明した。
「健二くん?」
彼、井原健二は自転車を引きずりながら、三崎の真後ろに暗闇に隠れるようにして身を潜めていた。
暗い中でも彼がいたずらっぽく微笑んでいるのがわかる。
「あちゃぁ、バレちゃった?」
「あからさまだよー」
井原の長身の姿が暗闇の中でもくっきりと浮かび上がっている。
彼が暗い道にタイヤの大きい自転車を引きずり、やがて三崎と並行になる。井原は一瞬、三崎の顔を覗き込んだ。
「今日はどうなんだ。特別講座」
「いつも通り。まぁ、あの講座受けたところで健二くんには到底敵わないけどね」
「そんな謙遜よせって」
人とのコミュニケーションにおける処世術の大前提として、まず声音と言い方の二つにあると思う。そのどちらも備わっていないと駄目だし、どちらか一方が偏っているだけでは不自然がられる可能性大。常に対話をするときはぎこちなくならないように、まず自然な声音に心がけるのが常識。いきなりふんぞり返るような語尾の転調は、相手によっては不快に思われることがある。だから相手と反響するような丁度いい心地良さを手探りに当てはめていく。
相手との反応を過剰に見誤ったのが、いわゆるぶりっ子ってやつ。良い印象を残したいがために大袈裟すぎるリアクションアプローチを幾度となく繰り返して、かえって粗悪な印象を残してしまうアレ。
「それより三崎。模試の結果どうだった?」
「あぁ、なんか英語大コケしちゃった。一つの大門に気を取られてたらすぐに時間迫ってきちゃってね。少し油断かな」
「へぇ」
井原健二は満更でもないように、宙を見ていた。その表情は何を考えているのか分からなかった。まるで今のこの場を見えていないような、そんな感じの目。
「でもそんなこと言ったってやっぱり成績はいいんだよなー。君はさ」
彼がそんなことを言う。三崎は目をぱちくりさせながら、少し目のやり場に戸惑った。やがて、三崎の目線はそのまま足先に俯かせ、ぼんやりと焦点を失いかける。依然と横には自転車の轍がアスファルトに残されていく。
人生には、そもそも一貫した秩序に整えられていない。そのことを思い耽る場合、いつも張り付くように隣に井原健二がいる。三崎のコミュニーケーションにおける論理。それを跡形もなく一蹴してしまう存在、それがまさに彼だ。
彼の言葉選びが秀逸だとか、表情筋の使い方が完美とかそういうのではない。世の中はまず説明のつかないことの連続だ。言葉を強引に選ばず、表情管理を徹さなくても、この三崎の隣に自転車を引き摺る彼は、言葉を欲さない連続の世界の間をいつでも駆け抜けている。 言ってしまうと、彼の存在感は唯一無二だと思う。三崎が日々の観察によって捻り出した理論や考え、美学。そのすべてを空気感のみで断ち切ってしまうのが、彼、井原健二という男だ。
「まだ、K大学に望みあるんだろう?三崎もK大学に来いって」
井原は暗闇の中、流れるように口を利く。
いや、と三崎は断って
「私は、なんというか、直感なんだけど肌感覚的にね、K大じゃないと思うんだ。確かに手に届く範囲ではあるし、まだまだ高望みできるかもしれない。でもね、私、」
あんなところ大嫌いなんだ。そう言葉には出せなかった。
三年の初め、K大学のオープンキャンパスに行ったときに、三崎ははたと違和感を感じた。まさに、肌感覚というものだ。目に映る行き交う人々の、その雰囲気。あぁ、違うや。三崎はそれらを見て、そう思った。ここは、多分、勉強尽くしだ、と。春の穏やかな日差しに背筋を伸ばした新三年たちを目の当たりにして、まずここは違うと自覚する。
「まだ不安なんだー」
ぎこちない笑顔だろうか。自転車を引く彼は、遠くを見据えていて、よく表情が読み取れない。三崎だけが一方的な感じの雰囲気で、若干居心地の悪さを覚えた。
やっぱり彼を目前にすると、どこか調子が崩れてしまう。自分が積み上げてきた積み木たちが、気まぐれな風一つですぐ倒される。そんな屈辱感。
「まあ、そんなもんだよな。結局さ人の勘が、一番新鮮なもの差しじゃね?偏差値だとか、順位とか、そういう数値じゃなくて」
「うん。なんかわかる」
「決定的なものじゃなくって、複雑な気持ちの方が、本質を突いてる、とか日頃ニュースとか流し見て適当に思ってる」
バックに入っている単語帳は、他の教材に押し潰れていないだろうか。場違いな心配が体を沈める。決定的な単語帳。
「なんとなくだけど、三崎の思うそのK大学に対する第一印象っていうのかな?そういうの、まず優先すべきだよ」
「ありがと」
ん、と彼は言って、会話は途切れる。さっきまでのカフェインの味が苦いものへ、徐々に変わっていっている。もう明日から帰りでコーヒー買うのやめようかな。そう思っていたら、一歩先に進む井原が足を止めた。
彼は眉間に皺を寄せつつ、三崎をじろりと見やる。
「なぁ、ちょっとだけ、聞こえてこない?」
「なにが?」
彼は自転車のカゴに放っていた鞄を三崎に突然託した。持ってて、と言い、手に収めていた自転車を歩道傍へ突き放した。ガタン、と自転車が音を立てた瞬間、すでに井原の姿は、目の前から消えた。
は?声に出てしまいそうな困惑を抑え込んで、暗闇の先を見据えると、彼の姿が確認できた。大体、20メートルほど先の歩道で彼がへたり込んでいた。少しばかり息を整えているように胸を上下に動かしている。
次の瞬間。ぶうぅうん!駿足に道路を過ぎる軽自動車が目の前で音を駆り立てる。三崎は肩透かしを食らった。どきまぎしながら、暗い道に尻餅つけた井原へ早足に駆け抜ける。なにがどうしちゃったの?そう思いながら慌ただしい状況を何とか呑み込んだ。
「大丈夫そ?」
地べたによろける井原に跪き、彼の肩を支えようと身を乗り出した。けれど、井原は目尻を吊り上げ、差し伸ばした三崎の手を振り払った。なにか憔悴しきった彼の顔が、くっきりと浮かび上がる。
「そこ、危ない。ほら」
と、井原は三崎の太ももあたりを指差す。三崎は指し示された方向をゆっくりとなぞると、そこにはそれがあった。
「え!鳥?!」
アハハ、とガードレールに寄りかかり体を立て直す彼は、白い歯を見せて笑った。微妙な街頭の薄明かりをそれは目一杯返して、やけに白が光る。
足元をもう一度、凝視する。目を一度、擦り再び確認してみる。けれど、正真正銘そこにいるのは、鳥だった。
「あまり近づかない方がいい。興奮しちゃうし、そうつが危ない」
彼が言うが早いか、三崎は真っ先に近くの電信柱にしがみつく。正直、かなり動転しちゃっている。
日の入りの時間から随分経過した暗い地面に、人間ではない足が二つ伸ばしていた。小鳥なのか、成鳥なのか。その鳥の年頃はあまり定かでないように見える。とりわけ動物に精通していない三崎には分別がつかない。多分、人間でいうならば、思春期あたりかなぁ、と思うと同時に嘆息する。鳥の前に居座る井原へ顔を向ける。
「もしかして、この鳥を助けたわけ?」
再びそれを見ると、足には怪我を負っていることがわかった。引き摺らせるように、三崎の真横を通り過ぎようとしていた。その姿はどこか塾講師、西村に覚えがある。
「まあ、そういうところ。俺もこんなに上手くいくとは思わなくって、驚いんだんだけど。ちょうどさっき、聞こえなかった?バカでかいエンジンの音」
井原が淡々と言う。もう彼の呼吸は一定のリズムを取り返していた。井原の手がガードレールをつき、完全に立ち上がる。三崎の目上に彼が位置する。
まず、先程の言葉を思い返した。今、三崎が握っている鞄を手渡す前の言葉。なぁ、ちょっとだけ、聞こえてこないか?
「視力良くてさ。いや、視力っていうより目がいいって行った方がいい。暗い中でも、すぐ目が慣れてきて、遠くを見ることができる。で、こいつが道路の真ん中で、足引きずってるわけ。見てみろ。翼もボロッボロ」
ぶうぅうん!
スピード違反を疑うほどの軽自動車が横を過ぎる音。ふむふむ。なるほど、全てが合致した。彼は危機一髪に鳥をレスキューしたわけだ。自動車から。
「さすが、生徒会長サンですね」
三崎はここで彼の肩を小突いた。こういう仕草のバリエーションも話を広げやすい。
「それを言うなら、さすが全国大会出場者、て言って欲しいところだなー」
「元、陸上部全国出場者の井原健二くん。カッコ中学生のコロ」
イタズラっぽく笑えているだろうか。もう三崎の頭には鳥のことなんかどうでもよかった。
「生徒会長は怒ると怖いぞ?」
ふと歩道の先を一瞥すると、鳥の姿は残されていなかった。あの、安全に飛ぶこともままならないような翼を広げながら飛んでいるのだろうか。しかし、考えてみてもやっぱりどうでもよかった。
「まぁ、それでも少し足衰えてきたかも。気分転換がてら、そろそろジムのゴールド会員登録しとこ」
でもこんな田舎だし綺麗に器具揃ってるところも珍しいよな。
それから、彼が独り言のように夜空に言いこぼし、三崎に託した鞄からスマートフォンを何気なく取り出す。ブルーライトの光がやけに良い印象をここに残した。日が落ちたせいだろうか。
「頭のネジ一本か二本、それ以上ぐらい外れてるって」
「それはちょっとかわいそうかも」
「いや、事実。真実。三崎に手を出した時点でおかしいっつうの」
「まあまあまあ」
風に揺さぶられた二人は暗い道に運ばれていた。
目の前に広がる大きな背中。そこからちょこんと飛び出している短髪の髪。それらは生徒会長の名にふさわしいぐらいの誇らしさと、自信に満ち溢れていた。
鳥の一件より、もっと不可解なことが起きた。そっちの方がより不気味だし、なにより人によって起こされた出来事だった。それに出会したときの全身の総毛立った感触が今も手に余っている。
事の発端は、ニケツで自転車に揺さぶられているとき。井原が駅まで送ってくれると三崎を自転車に乗せてくれた。彼の背中に寄り縋りながら、ほんの少し体温の暖かさを彼から感じていた時だった。
そして、交差点で信号を待っているほんの少しの間にそれは来た。
「三崎さんですか?」
ガソリンスタンドやその他諸々の商業施設が密集している賑やかな場所で、彼が現れた。知らない人だった。三崎と井原が乗るニケツの自転車の前に彼は直立していた。
強引に不気味なほど引き攣らせていた顔は眉がピクピクと痙攣していて悲鳴をあげているように見える。彼は続けて言う。三崎さんのファンなんです、と。
その不自然極まりない顔に覚えがあった。取り繕うために散々繰り返した表情の映り具合の練習。もう何年か前の鏡に映る三崎の顔と、その突然現れた彼の顔が上手い具合に混じり合った。
井原の肩越しに、不審者だよ逃げようよ、と彼に耳打ちするのがすでに遅かった。
急に、二人乗り自転車の間をその不審者は割って入ってきた。ギャ、という情けない声を漏らして、その不審者に肩を掴まれた。細身の体格では予測しえない腕力の強さにより一層困惑を感じながら、それでも流れに身を任せるしか方法がなかった。
「三崎!」という張り上げる声も、交差点に過ぎるバイク音で掻き消される。
その不審人物を肩に抱かれながらも一度、見上げてみると、頬が未だに強張っていた。紐が両端から引かれて張ったような頬に、汚い笑顔が浮かぶ。
ガタンッ。自転車を地面に投げ放す音と、パシャ、という音が綺麗に同じ時を刻み込む。悲惨な光だと、三崎は突然思った。
スマホの内カメへ向けて、ハイチーズ!とベロを出している不審者に写真を収められた。
肩を寄せられ、「ほら、三崎さんもハイチーズしましょう」と指示されるがまま、かじかんだ手を持ち上げてピースを作り出す。いざこうして緊急事態に陥ると、もう何もかも思考が停止した。三崎の掛け下げていたバックに入り込んだボロボロの単語帳も、まるで退けられるようにスマホのシャッターが今、降りる。
パシャ。と残酷な一時を包まれたその瞬間に、不審者は倒れ込んだ。さっきの鳥レスキューと同様に状況を呑み込めなかったが、井原が不審者を押し倒したことだけは理解した。
生徒会長然とした井原の毅然とした横顔を、突っ立ったまま呆然と見ていると、急に熱いものが込み上げてきた。泣きたかった。全身が総毛立って、ただ目の前の井原の襲撃を見ていた。周りの店内から漏れる明るさが、気持ち悪かった。
脳内回路がショートしかけたとき、すでに自転車に跨った井原が三崎へ乗るように促していた。縋るように彼の肩へ抱きついて、三崎たちはまた駅を目指した。
「頭のネジ一本か二本、それ以上ぐらい外れてるって」
「それはちょっとかわいそうかも」
「いや、事実。真実。三崎に手を出した時点でおかしいっつうの」
「まあまあまあ」
風に揺さぶられた二人は暗い道に運ばれていた。
目の前に広がる大きな背中。そこからちょこんと飛び出している短髪の髪。それらは生徒会長の名にふさわしいぐらいの誇らしさと、自信に満ち溢れていた。
まだ泣きたい気持ちはあった。だけど、もう一度井原の温かさに触れて、気持ちは大分落ち着いてきた。
すぐさきに駅の明るさが見えてきた。そこで、井原はどんな気分なのか自転車の速度を緩めた。ニケツでバランスも危うくなりかねないだろうに、しかしさすが元陸上部全国大会出場者の足だ。まったく走行速度を緩めても、ちゃっかりと安定している。
「三崎、気をつけろよ。ああいう輩が来たらな、必死に抵抗すべき。安全第一。自分の身を真っ先に守るようにしないと」
井原が舌打ちする。少し疲れ切った顔が、背中越しから垣間見えた。
てかさ。彼がうんざりしたように続ける。
「あれ、浦川生だよな。俺たちと制服同じだったやん。しっかし、ひっどい皮肉だよ。ここに浦川の生徒会長がいますがー?」
彼が自転車を走らせながら、片手を挙手するようなジェスチャを取る。
「どうせそいつも俺の顔知ってるくせに、行動早まるなよな。てか、三崎は大丈夫?」
「あー、うん。大丈夫だよ」
ならいいんだけどー。井原が苛立ちを抑えきれないように言い放つ。
乗り始めたときから、自転車のカゴに放られた井原の鞄に何か細長い巻き物ようなものが突き出ていて、チラチラ目につく。
「明日、全校集会あるじゃん?その時、そいつのことステージ上から探し出そうかな。あ!でも、そうだそうだ。やらなきゃいけねぇーことあんだわ」
ハァーー。と盛大なため息を漏らして、彼は俯きがちに運転をする。
「三崎、ホントに大丈夫?怪我とかしてない?」
「健二くんこそ大丈夫なの。あの人のこと地面に倒してたじゃん」
「特に目立った傷はないね。少し膝擦ったくらい。にしても、やっぱりウザイよな。ああいう奴、何を企んでるのかハッキリしてないところも厳しい。あと三崎のファン勝手に自称すんなよって話」
あはは、と、笑ってはみるが笑ってるのか曖昧なところ。
ついに、のらりくらりと進んでいた自転車は進行をピタっと止めて駅前に到着した。タクシーやらバスやらが留まるところだ。
三崎は降りて、彼に頭を下げる。
「今日もありがとう。あとあの事もね。健二くんがいなかったらどうなってたことやら…、とにかくありがとう。じゃあ、またね」
手を振り上げて、駅へ歩き出した。雑踏の中へ踏み込もうとしたさなか、聞こえてきた。
「三崎!」
井原の大きな声が背後から聞こえて、また三崎は振り返る。びっくり仰天に振り返る。
右往左往に行き交う人々の間隙に、横へ向けた自転車を跨った彼が、ポツンといる。
「どうしたー?」と少し声を張り上げる。
井原の顔は歪んでいた。すごく。そして、そっと口が開かれたとき、それは、鮮明に聞こえた。
「俺たち付き合ってるだよな」
小さな小さな声量だ。けれど、彼の滑舌の良さから、はっきり聞こえてしまうのが悔しかった。
付き合ってるんだよな。
次に聞こえてくるのは、寂しいばかりの行き交う足跡、何かしらのエンジンを作動する音、頭上からの野外広告のトーンの高い声。それらが今張り詰めている沈黙を代替するように、三崎と井原の間をかけ上げていく。ザァーと過ぎ去ったあとは、ただ静けさばかりが、聞こえない音すらも捉えられる。
一向に口出しをしない三崎に戸惑ったのだろうか。
彼がもみあげを引っ掻きながら、
「そんな気にしなくっていいんだけど。少し俺も今、困惑してるっていうか、そんな感じ。だけどさ、三崎。ああいう場面のときは、もっと頼ってくれよ。助けて、て叫び回っていいんだって。もっと構ってもらっていい。ただ、それだけを伝えたかった」
その場しのぎのような言葉の繋ぎ合わせを言う。それからすぐ、ぎこちなく彼は背中を向けて、じゃ、と別れの言葉を告げて暗闇に溶け込んでいった。
ガン。と音を立てた缶コーヒーの味は、やっぱり苦かった。
駅のホームで自販機に飲み物を落とすとき、少し気まずい。駅前は田舎にしてはそれなりに騒がしいくせして、ホームでは打って変わって静けさだけが残されている。そんな静けさの中で三崎はベンチに一人座っていた。
右手に単語帳、もう片方に缶コーヒー。一口、コーヒーを流し込んでは、赤シートを少しずつずらしていく。苦い舌触りが余計に腹立たしくて、髪のあたりがザワザワする。
片手で赤シートを動かしていく作業は、最初はぎこちなかったけれど、続けていく内にスムーズに慣れていった。
一口飲んで、またずらしていく。一口飲んで、隠された正解が正体を明かしていく。下へ、下へ、進んでいくごとに、見えてくる日本語訳たち。
『俺たち付き合ってるんだよな』
なぁ、そろそろいっそのこと付き合わない?
一週間前、突然告げられたそんな内容のメッセージ。そのとき、むやむやに事を流してしまったために、今日皺寄せが来るべくしてきた。
確かに、井原のことは好きだとは思う。けれど、けれど、
一つずらして現れる、一つの正解。また、片手のコーヒーを飲んで、苦さが喉を締め上げる。
三崎が求めていた正解が、苦さにどんどんやられていく。じわじわ侵食されていくように。
正解と苦味。この対比がなんだか今と似ているように思う。
一つ、ずらしていく。赤い文字の日本語訳が輝いて見えた。次に苦さでぼやけていく。そんな連続。
人の心について、どこか遠くから見えてしまうのは、一体どんな神様からの仕打ちなんだろう。
毎日勉強をして安堵しては、学校という苦味に押しつぶされていく。絶対的なものを手に入れてたと思い込んでは、複雑に絡み合うものに結局攫われていってしまう。
『決定的なものじゃなくって、複雑な気持ちの方が、本質を突いてる』
井原がさっきこぼした言葉。
じゃあ、瑞穂たちの方が本質的なのか。単語帳に願掛けしている三崎は、ただ背伸びをしているだけなのか。
今日の鳥のことだって、あの気持ち悪い不審者だって、井原だって、瑞穂だって、西村だって、校長だって、
全部標識になっちゃえよ。
目の前の日本語訳をぼんやりと見ていた。もう、どうでもいいや。気を取り直して単語帳を持ち上げ、また英語と日本語訳、加えて隣の例文も頭に染み込ませていく。
きっと、自分はそんな風に生きていく。暗い夜を単語帳を見つめながら、なんとか乗りこなしていく。
そう、実感した日かもしれない。
単語帳を仕舞おうと鞄に押し込めていく。だけど、ふと、嫌な感覚が鞄に引っ込めた手先を過ぎていく。痺れがじわじわと広がっていく気分が悪くなるその感触。サァァ。
そうだった。三崎はふと思い出す。その封筒をゆっくりと取り出した。
昨日、学校の机の中にいつの間にか入れられていた封筒。不気味な感じがして、少し避けてきた。
けれど、大事な用事では取り返しがつかないため、思い切って三崎は缶コーヒーを傍に置いて、その封を切った。
中から取り出された紙切れには、こうタイプされていた。
『転部および兼部のお知らせ
先日発足した『人文化研究部』への転部または兼部を、学校側より要請いたします。
なお、本要請に対して辞退または拒否の意思表示は受け付けられません。
各自の事情に応じて、速やかに転部または兼部を行っていただく必要があります。
•始動時期:明後日の部活動終了後
•場 所:特別棟二階 倉庫室
•持ち物 :特に無し
•課 題:人の善悪の根源の由来を考察すること
加えて、本要請は生徒会長・井原健二の推薦を受けた上での決定となっております。
発行者:岩室竜也』
どうして。
『他の該当者:佐々木正喜』
なんで。