5 暴く集団ジャック
ボストンバックのチャックを開け、スマホを取り出し、画面を立ち上げる。待ち受けの壁紙は、地図記号の羅列に設定している。桑畑の記号の上に、時刻が表されていた。『7:20』
僕はまた安心する。
今朝、目覚めたとき、まるで沼の底へ引き摺り込まれたように、息ができなかった。暗い青色。藍色の世界から、松ヤニがこびりついたような重い瞼が、ようやく開かれたとき、光を感じた。
ベッドから転げ落ちて、僕は過呼吸を安定させることだけに、全神経を集中した。
部屋のすべてが、青く、冷たい物に感じた。手がかじかむ。
すくんだ足をかろうじて持ち上げて、窓の外へ上半身を投げ出したとき、ついに僕は報われた。
世界が色づいた。見えるすべてのものが、煌びやかに、僕の眼球を刺激した。眩しくて、すぐに視線を逸らした。
箪笥の上の、昨日放っておいた地図を持ち上げる。それをざっと眺めて、僕は胸を撫で下ろした。
咄嗟に、今日の学校のことが頭を駆ける。確か、全校集会で、早く到着しなければならないのだった。
ベッドのすぐそばにある置き時計へ、視線を向ける。僕の手に、川の流域のこどく血管が浮かぶ。
『7:04』と認めたとき、僕は安堵する。ほっと息を吐き出し、尻餅した。
もし仮に、全校集会で遅刻してしまった場合、最悪な未来が僕の頭の中には、すでに構築されていた。それは、注目されるということ。出来る限り平安な学校生活を送っていきたい僕にとって、浦川校生全員が密集するところへ、遅刻をしたことを知られてしまえば、僕は堪らない。
全ての目が、僕の体を見る。そのことを考えるだけで、胸が痛んだ。
今朝、良い朝とは到底言い難い時間を過ごした。
昨日より、外の空気は澄んでいた。
もう一度、スマートフォンを取り出して確認する。
『7:22』
先程、朝食を取らずに、真っ先に建物を出た。制服もネクタイも様になっていないけれど、遅刻をしてしまう恐怖心よりは、幾分かマシだ。
脇の道を抜けて、大通りの二車線道路の隣の歩道を歩く。
同じ方向へ歩く浦川生たちの制服が見えた。僕と同様、ボストンバックを肩に掛けている人もいれば、リュックを背負っている人もいる。そのどちらも学校指定ものだ。
私立中高一貫校であるため、そこらへんを悪く言っても仕方がない。僕は高校編入であるために、入学当初の公立との差に戸惑ったけれど、一年も経過した現在は、そこにわざわざ疑問を抱くことを放棄している。
向かい側から歩いてくるスーツを着た男性も、僕たちも一様に寝ぼけ眼で、とぼとぼと歩いていた。普段より若干早い登校で、僕も気を抜いたら瞼を閉ざしてしまう危機感があった。
しかし、統一感というものは不思議な力を持っている。たとえ徹夜で過ごした後でも、皆で登校する団結感には、揺るぎない決意のような意志が宿り、僕は背筋を伸ばすことができる。人間が群れで暮らすのも、おそらくこの統一感の影響が大きいからだろう、と我ながら考察する。それから、佐々木正喜は苦笑した。
道の突き当たりを曲がり、校舎が見えた。
ここで、電車通学の生徒たちと合流する。
浦川前駅前の広場が見える。そこに、浦川校生の何人かが待っているのを横目に見て、僕は青に切り替わった信号を渡る。
2-7の教室へ入り、自席にバッグを置く。時刻は7:30。
椅子を引き、座ろうとすると、僕は話しかけられた。
「昨日はごめん、佐々木。驚いた?」
戸部くんだ。彼の後ろに幸田くんも付き添っている。
次に幸田くんは戸部くんの頭を叩いた。なかなか、力の入っている一撃。彼は戸部くんの顔色を伺ったら、離れていった。
「いってぇー。足立の奴。ふざけやがって」
戸部くんは彼の背中を睨みつけて、顔を振り、僕を見る。僕の机に手を置き、彼が身を乗り出した。
密かな声量で戸部くんが言う。
「実はさ、最近彼女と関係が悪いんだ。一昨日、はちゃめちゃに喧嘩した。それで、ヤケクソになった。オマケに情緒も不安定に。そんな具合に昨日、佐々木にちょっかいかけたんだ。なんだか、おかしいよな、俺。頭冷やそうかな」
そのまま振られちまえぇ!
教室の隅から幸田くんの声が聞こえる。戸部くんは、明らかに眉根を寄せて、舌打ちした。
「この学校の近くのファーストフード店あるだろう?あそこで、足立にそのことを打ち明けたんだ。かなり迷った。でも今の様子見てると、間違った選択だった」
本当に間違いだった。
戸部くんは、苦笑いする。僕もそれに乗っかって下手な笑顔を浮かべた。
「そうだったんだ。それは大変だね」
他人事のような物言いだが、実際他人事だった。僕は幸田くんに目を配って、また視線を戸部くんへ。
「戸部くん、幸田くんとはかなり仲良いと思うけれど。良かったんじゃないかな?幸田くんは別に言いふらしたりしないと思うよ」
「なぁ佐々木。アイツの特技を知ってるか?」
「特技?」
戸部くんは意地の悪いように、ニヤついた。
「暴露だよ。暴露」
暴露。ふいに、昨日の幸田くんの記憶を辿る。
『な、今日の放課後さ、戸部を追わねーか?』
『明日は面白いことになるぞ。これはまじで。戸部の秘密をすべて曝け出す』
その二つの言葉を思い出して、僕も微笑する。
「確かに、そうだね」
「だろ?だけど、アイツに言っちゃった。なんでだろうな。その時は、気が変わった。ジャンキーな物を食べたせいかな?謎の仲間意識を足立に芽生えたんだ。けれど、やっぱり人は変わらねーな。今日にも、足立はバラすつもりだ」
「誰に?」
学級委員長のクラスメイトを急かす声掛けが教室内を渡る。早く早く、整列。クラスの人たちは、気だるそうに廊下へ続く。
「アイツは、多分、全校集会をジャックする」
「え?」
全校集会をジャックする。
その言葉の響きに、佐々木は実感が湧かなかった。
「どうゆうこと、戸部くん」
「そのままの意味。アイツは、とにかく頭がおかしいんだよ。サイコパス」
戸部くんの顔は真剣。何一つふざけている雰囲気がなかった。
「全校生徒に俺の恥部が明らかになる。なぁ、佐々木。俺は女子からの評判が良いんだよ。喧嘩が発端で彼女に振らそう、だなんて晒されたら、きっと俺は晒し者になる」
戸部くんは、僕の目の前で背負っているリュックを床に下ろして、中身を探った。
彼はスマホを取り出して、画面を僕へ見せつける。
「ひどいだろ?」戸部くんはそう言う。
そのスマホの画面には、メールの文章、それと添付された画像がある。昨夜に受信をしたらしい。
あだチ。PM9:28
『とべちゃぁんん!!!あしたぁぁ、たのしみでちゅねぇぇ!!』
あだチ。これは幸田くんで間違いない。
添付された画像には、幸田くんと、あと一人映っていた。僕は驚いた。スマホの画像を凝視する。
戸部くんはその人を指す。
「コイツが俺の恋人。いや、もう違うな。元恋人か。足立の野郎も、どうかしてる。ふざけたネームしやがって。あだチの、チ。ってあのアニメだろ?最近流行ってるあれ。昨日、アイツはこの名前にしやがった。多分、俺に対する挑発のつもりだろうな」
僕もボストンバックからスマホを取り出す。同じ手順で確認すると、確かに幸田くんの名前は「あだチ。」へとニックネームが更新されていた。
それより、僕が衝撃を受けたのは、幸田くんのニックネームでは無かった。
「戸部くんは、この子と付き合ってたの?」
戸部くんは、写真を全画面に変えて、指を指す。
「コイツ?あぁ。そうだよ。かなりうざい顔してるだろ?ぶん殴りてぇ」
今、その子が目の前に現れたら、本当に殴りかかるのではないか、と思ってしまうほど信念が定まっている声色だ。戸部くんは慌てている様子はない。
写真では、幸田くんは陽気に舌を出して、変顔をしている。隣の『戸部くんが付き合っていた子』は、困惑気味の顔を浮かべている。二人ともピースをしている。なんだか僕は、見ていられない気分になる。
「残念ながら俺は、足立と共に時間を過ごし過ぎた。だから、次に起こす行動を予測できるんだ。足立は、今から始まる全校集会で、俺のことを全員に晒す」
まるで未来からタイムスリップをして、これから起きる事象の報告を、淡々とこなしている様子が、今の彼には一番似合っていた。
戸部くんを晒し者にする。
僕はそんな幸田くんの姿が想像できなかった。もう一度、画像を見る。舌をだらしなくぶら下げている幸田くん。本当に幸田くんが、おちゃらけた変顔を自ら進んで行うとも思えなかった。
廊下で駆ける足音が聞こえる。徐々に遠くへ、過ぎ去ってゆく音だ。教室の外に、幸田くんが走っているのが見えた。キャァ、という声も次いで聞こえた。
「クソ!」
戸部くんが僕の机を叩く。重い響きが椅子を経由して僕に伝わる。ドンッ。
「クソ!」
また叩いた。戸部くんの怒りが僕を侵食していくようだ。
戸部くんは、さっきまで怒っているようには思えなかった。これから起こりうるであろう事実を事務的に、さらに的確に述べている、という傍観者の立ち振る舞いをしていた。あくまで第三者、と言わんばかりに。
ドンッ。また響く。しかし、この机を叩く振動に、僕の心の何かが抉られた。
「おい」
その声が僕に向けられていると気づくのは、すぐだった。戸部くんは机をじっと睨んでいる。彼の透明感のある垂れた髪が、美しいものに変貌を遂げた。僕は、少しばかり見惚れる。
「とめろ、佐々木」
反対に、重く濁りに濁った沼から這い出た怪物が、僕を襲うように、彼から恐ろしい棘が剥き出しになった。
困惑した僕は後退り、背後のロッカーにぶつかる。そして背中をぶつけて、体の重心が崩れ床に這いつくばる。
早く、その二人。ドアの前にいる委員長から発せられたその声が、現実味を帯びていない。ちらちらと、僕ら二人を観察するクラスメートも、ドア傍にいる。視線がそこにある、と意識してみる。僕は悪寒を覚えた。
彼が切り出す。
「ステージ脇の器具庫に、二階へ通ずる階段が併設されている。その階段の先が、放送室だ。足立は、多分そこにいる。全校集会開始と同時に、アイツは暴くだろう」
机を睨みつけている。地獄へ落ちてしまった罪人が、自身の絶望を露わにして、されど落ち着き払った冷静な眼差しをしている。
残酷な目差し。僕はそう思った。
「そいつは、頭がおかしいんだよ。本当に本当に、どうかしているんだ。なぁ、そうだろ?お前」
彼が僕を見る。そして、微笑んだ。もう、何もかも全てのことを信頼していない気持ちが、滲み出ている。
「俺はもう、これから早退をする。保健室へ行く。だからお前、足立を止めてくれ」
そして彼は言う。
お前は止めてくれ。
戸部くんは、踵を返し、俊敏に廊下をかけていった。さっきからなんなの!と廊下から聞こえてきた。僕は床にポツンと取り残された。
なぜ、今そんなことを戸部くんが言うのか、わからなかった。疑問が、さらに疑問を呼び起こして、頭の中で苦闘した。
「早く、閉めるよ!」
声が聞こえて、ようやく僕は立ち上がる。お尻についた埃を振り払って、時計に目を配る。
時刻は、7:39。全校集会開始まで、残り六分。
身長順に整列するクラスの人たちを追い越した。早々に進まなければ、開始まで間に合わない。
参勤交代に渋々従う武士達のような人たちを横目に、僕は走った。日差しが肌を照らす。
一体、僕は何をやろうとしているんだ?幸田くんは、なぜ戸部くんに水を刺すようなことをするんだ?
怒りなのか。焦りなのか。よくわからない感情が行動の原動力の助けになった。先を急いだ。廊下を駆け、階段を下る。
「あ!ササキくぅーん」
2-6の整列に差し当たったばかりに、その声が聞こえた。甘えるような声。その声の持ち主は、月野ちゃんだ。
彼女のポニーテールの髪が微笑むように揺れる。さすがチア部の部長といわんばかりに、何気ない仕草の一つ一つがなんだか様になっていた。艶っぽい印象を受けた。
しかし、構っている時間が僕には許されていなかった。当たり障りのないジェスチャーを月野ちゃんに示して、僕は脚に力を込める。
二号棟を抜け、繋ぎ合わせの短い渡り廊下を通る。澄んだ青空が見えて、咄嗟に僕は目を背けた。
一号棟へ滑り込み、長い廊下を進んだ。ずらっと顔も知らない人々が列を作り上げている。
それらの人々を見て思う。まさに、これが『統一感』なるものなのだろう。その列から外れている僕が、世の中の変わり種のように感じて、自分の心を卑下してしまいそうになる。
息を殺して忍者のように走るが、この場を持て余していた生徒たちは、依然と僕へ視線を向ける。それら目線が痛々しくて、地面をなぞるように僕は走った。
とうとう一号棟を抜け終えると、体育館へ伸びる渡り廊下がある。風が頬をなぞる。それが僕を煽り立てているようだ。ムズムズする気持ちを蓋にして、走る。息が徐々に上がり、並行して心拍数もあがる。
体育館屋外の設備時計を見る。7:43。残り、二分。
「ほらー喋るな。前を向けよー。あらかじめ、上履きも脱ぐんだぞ。あれ?おい、君何してるんだ?」
前方からそんな声が聞こえた。体育館前に、見慣れない先生が突っ立ていた。整列する生徒たちを誘導しているのが伺える。
その先生は、まさに若さが取り柄の、血相の良い優男。そんな印象だ。おそらく、一学年を司っている教師だろう。
僕は早急に体育館へ入り込んだ。
「おい、一言くらい何か言ってくれよ」
エントランスを抜け、大勢の整列する姿が見えた。一様に何かを喋っていたり、笑い合っていた。
屋内の空気は重く感じる。押しつぶされてしまいそうな感覚。それが、これから僕が起こすことによるプレッシャー、あるいは辺りの騒然とした生徒たちの圧力なのかどちらか釈然としない。
傍に歩を進める。限りなく壁になりきり、空気と共に流れた。無論、この意識は徒労に終わることは存じている。
整列の端を真横を通り過ぎると、僕のような人間が何か用があるのか、と物珍しい視線を浴びせてくるのは、全くおかしいことではない。むしろ、僕が現在行動していることの方がもっとおかしいし、くだらないと思う。
「昨日の放送時間遅すぎだろうが」「なぁ」「ねえねえ、今日の現代文のテストって授業変更で変わるかな」「中田先生休みだし、さすがにねぇ」「北東の奴らはちゃめちゃに堕落してて草」「これからは、俺らが最前線を進むぜ」「カラオケでてめぇの下手くそな発音矯正してやるよ」「ひどいよぉ」
SNSがああだ、こうだ、とワイドショーのコメンテーターは堂々と使用制限の是非を主張しているけれど、実際今この場に耳を傾けてもSNSのタイムラインと何らかわり映えしない気がする。
確かに一人一人についてしっかりと面と向き合えば、その人の良さや魅力に地道に近づくことが出来る。しかし、集団となれば話が違ってくる。「統一感」を余儀なく強いられ、この場に流れるタイムラインの個性も、結局台無しだ。
僕はもう走っていなかった。時刻を見ると、7:45。全校集会開始時刻だ。
『これから、全校集会を始めます。まず最初に生徒会長より、開会の言葉をお願いします』
司会者の進行と同時に、まるで先程のざわめきが嘘のように消え去った。
集団ジャック。足立幸田。戸部の彼女。晒す。全校集会。
冷静に考えてみれば、意味が不明瞭だった。
足立は晒すことが好き、だからアイツは集会で俺を晒す。戸部くんはそう言った。けれど、何故それを予知できるのか僕にはわからなかった。百歩譲って本当に幸田くんが、辱めるために戸部くんを晒すとしても、何故戸部くんは止める役目を僕に託したのか。
ステージ上に生徒会長がやってきた。演台前で丁寧に礼をして、ポケットから何かを出した。それを広げて、生徒会長は息を吸い込んだ。
———世の中は残酷で、時に美しい。けれど、それは人の生命が残されているからこそ実現できる人間に与えられた特権だ。
生徒会長は胸を張っていた。演台の前で、生徒会長は、そのように言った。この体育館の観衆たちは異様な事態に困惑しているように見える。もちろん、先生も。
すでに、この時の僕の頭もパンク寸前だった。しかし僕の足は、器具庫へ向かう。僕には、戸部くんから渡された明確な目的があるのだ。
———死がそこにある。未来、この場にいる皆の衆は決して息を引き取ることから免れるのは不可能。やがてくる死因は千差万別だが、人間の行き着く最終到達点は、みんな同じだ。
その時だ。キーーーー。
誰もが嫌うであろう妙に高い音が、頭上のスピーカーから不快に響いた。そして、ついに体育館は混乱の渦に巻かれる。
僕はここで、幸田くんは決心があるのだと初めて思い知らされた。本当に彼は実行するのだ。
急いで走り、器具庫のドアを開けようとした。
「おい、何してるんだ」
開けようとすると、誰かに手を掴まれた。途端に振り返り、それが先ほどの先生だった。
———生きること。そのことを日々意識している人は、どの程度いるだろうか。私はつくづく思う。決していないだろう、と。朝、目が覚めて、生きる喜びに涙を流した者は、果たしてここに存在するのだろうか。
「やめてください」
僕は先生の手を振り払おうとした。だが、この若い教師の握力の強さに、僕は敵わないと思った。
「何がしたいんだ。さっきから様子を見ていたが、君、おかしいよ」
「やめてください」
頭上のスピーカーから雑音が響く。ブツブツと。続けて、金属の擦れるような鳥肌の立つ甲高い音が、響く。キーーーン。
「やめてください!」
僕は何がしたいのだろうか。何を恐れているのか。けれど、何か日常とは言えない恐ろしいものが胸の底にあった。
———連日報道される人々の死に、阿鼻叫喚して、満身創痍に体を傷つけながら泣き喚く者がどこにいるのだ。
「そっちは関係者以外立ち入り禁止だ。君のことはよく知らないが放送顧問だからわかる。君が放送委員でないことくらいしっ」
「離してください‥!」
僕は、息を吸い込んだ。そして、辺りを見渡す。整列をする生徒たちは、力説する生徒会長に釘付けだ。
もう一度息を落とした。心に胸を撫で下ろし、肝を座らせた。
僕よ、力を込めろ。地面を踏ん張れ。今だ。今だ。いけ。いけ。いけ。いけ。
「何するんだ!おい!君!」
僕は器具庫へ入り、すぐさま鍵を掛けた。
汗に頬がびっしょりだ。袖を捲って、埃を被った階段を一段一段冷静に登る。
やってしまった。僕は、先生の足に突っ込んだ。もう、取り返しのつかないことになってしまった。
僕は過呼吸になり、おぼろげな意識を何とか堪えて、階段を登る。階段先の放送室まで、永遠に続くような錯覚さえ見えた。頭に血流が巡って、意識が朦朧とする。汗にベタつく手のひらに、手すりを乗っけて身を起こした。
———利己主義の君たちは、自身の日頃の生活に困っていなければそれで大満足なのだろう。それはそうだろう。人間は身勝手な生き物だ。他人の死なんかに、わざわざ興味を示すほうがおかしい。
生徒会長の声は、壁越しに聞こえた。透き通った、張り切った声は僕の気力を上げた。踏ん張り、足を力ませる。それと、長く密閉されていた空気の匂いが鼻につく。
足を持ち上げ、ようやく、放送室前の扉に辿り着いた。
『体育館放送室』という表札を認めて、僕はその引き戸をそっと開けた。
すぐに光が差し込んだ。それに眩しくて僕は思わず目を瞑った。
そして、恐る恐る目を開けると———奴はいた。
足立幸田。確かに、幸田くんがいたのだ。彼は放送器具の前に座り、マイクに手を握っている。
次に彼は、ニヒルに笑って、マイクに身を乗り出した。そして声を出す。
「二年七組のぉぉ、戸部ちゃぁんはぁ、こぉいになやぁんでまぁすぅうう!」
僕が見てきた幸田くんの原型はどこにも残っていなかった。僕は知ってる、彼は、こんなんじゃなかった。
その彼の嘲笑するような声色は、確実に悪意が備わっていた。目を背けたくなるような、恐ろしいような風貌に変わってしまっている。
「幸田くん‥」
———けれど、皆は今これから死ぬと宣告されたら、大騒ぎになるだろう。残酷に、狂気に、この体育館は、血に濡れるだろう。本当は息も絶えるはずもないのに、死ぬことを案じられると余裕がなくなり、やがて自滅する醜い命の競争へと発展する。
放送室には、幸田くんと僕しかいなかった。幸田くんは、けれど僕をみなかった。彼は続ける。
「今日ぅ、二年七組のクラスにきてくれたひとにわぁ、スペシャルなシャシンを用意してまぁぁすうう!」
「なにしてるんだよ幸田くん‥!」
彼は豪快に、悪魔のように笑っていた。ついに僕は面目を失った。その掠れたその笑い声は、僕に対してにも嘲っているように思えてきた。手のひらを、強く丸めた。
———どんなに偉大に思われている歴史の革命であっても、所詮醜い命のやり取りだ。後に、それをどれだけ素晴らしいことか、関係の無い民衆が美化を繰り返して、穢れた戦争は塗り替えられ、遂に素晴らしき歴史となった。
僕は見ていられなかった。なぜだか、彼を止めなければいけない使命が僕に宿ったのだと思った。神から託されたのだ、と。だけど、それは僕には相応しくないと勘付く。それらの矛盾が、僕に過呼吸を起こさせた。
「どべちぁぁんはぁ、いつもかっこよぉく気取ってるけどぉ、ポンコツだよねぇえ」
「幸田!」
僕は幸田くんに飛び掛かった。
———人は汚い不純物。それは間違いない。思考に制限など無いのだ。そのためか、命を賭けてでも欲を手に入れる想像力を持ち合わせている。汚い思考も、歯止めが効かない。
「とべちぁぁんのカノジョはすごぉぉいぶさぁいく」
その時、僕の何かがプツンと切れたような気がした。小さな糸が、それまで耐えてきたものが、瞬刻に切れた。プツンッ。
彼はしつこくマイクにしがみつき、口に当てている。冷笑主義者のような、信頼の一つも置けない笑顔。
僕は彼を殴った。一発。もう一発。さらに。もう一回。もっとだ。
僕の心の中に、彼の言葉が反芻された。戸部の彼女はすごいブサイク。戸部の彼女はすごいブサイク。すごいブサイク。すごいブサイク。ブサイク。ブサイク。
———革命を通して生まれた新勢力は、またいつしか崩れ、もう一度新勢力が生まれる。その連続だ。まさに人の身勝手な行動は、繰り返される。無辜の民も大勢が滅び、必要のない死が国中に広がる。これらを穢れだと思わないなら、一体どんな世の中の皮肉なんだ?
もう一発。そして次に蹴ろう。彼がロッカーに体をぶつけて、崩れ落ちる。彼の唇は切れ、頬にはあざが浮かび上がっている。
僕は彼の胸ぐらを掴み、もう一度殴ろうとして、腕を振り上げ構えた。
しかし、僕は気づいてしまった。
彼の着ているシャツに、小さな粒が落ちて、湿っていることに。視界の下に、もう一つ落ちた。ポツポツ。目の前から等速的にその粒たちが落ちてゆく。
僕は殴りながら泣いていたのだ。
一つの情景が浮かんだ。薄暗い、青色の世界。そこに小さな僕が横たわっているのが、確かに見えた。
僕は号泣した。そして、目の前の彼を抱きしめた。満身創痍の彼は、気を失っている。もっと僕は泣いた。
「ごめん‥ごめん‥ごめん‥」
彼の胸に顔を埋めて、悲鳴にもならない叫びを叫んだ。
———窮地に追いやられたとき、やっと現状を理解する。そしてなによ‥
プツという音と、怒鳴る声が聞こえた。野太い声。先生の声だろうか。
「佐々木‥」
はっと僕は顔を上げた。
「ごめん幸田くん」
彼の顔は、傷だらけだ。ほのかに鉄のような匂いが鼻腔を刺激する。
涙で目の前がぼやけていた。崩れ落ちた僕の声が、寂しい放送室に渡る。
目の前の彼が、言った。
「俺は悪いことをしたのか‥?」
そう言った。確かに聞き取れた。そして、僕はまた泣く。僕は、自分自身に残っている何かに恐ろしくなった。ダメだ。僕は、もうお終いだ。
それら思考を断ち切るように、階段下から金属音が響いた。地面に打ち付けられる音だということはすぐに分かった。次にドンドンドン、と上がる音が聞こえる。
一瞬で放送室の入り口が開いた。そこに立っていたのは、先程の若い先生だった。僕を止めようとした先生だ。驚愕の顔で、この放送室の現状を見ていた。
僕は、ただただ、唖然としていた。そしてまた頬に冷たいものが流れる。放送室のカビの臭いが脳内でこだまする。
「佐々木正喜っと。オーケー。分かった」
若い先生は、用紙に僕の名前を綴る。
「本当にすみません」
僕が滅多に来ない浦川高校の四号棟。生徒指導室。
目の前には、今朝僕を止めようとした若い先生と長いテーブルを挟んで、向かい合っている。どんな偶然か、その先生は、生徒指導を担当している人だった。
全校集会を終えて、授業に戻り、やがて昼食を済ませたあと、先生との約束通り僕は生徒指導室へと、向かった。怒られるなら、どんとこい、と身構えていたけれどそれは杞憂だった。
優しい笑顔を先生は浮かべて、ファイルを持ち、立ち上がる。
「まあこれからは気をつけるように。君たちの年頃はさ、ほら、色々不安定だからね」
先生はドアノブに手をかけながら続ける。
「足立幸田くん?だっけ?その子は保健室で休んでるから。別に無理に仲直りしろ、てわけじゃないけど、授業のグループワークに支障をきたさない程度には和解しとくべきだよ」
「幸田くん、目を覚ましたのですか」
先生は手を少し振る。うちわを仰ぐように。
「養護教諭の方がさっき教えてくれたんだ。実際に見たわけじゃないけれど」
「そうですか‥」
まあ、さあ。先生は言う。
「君たちの関係とか、殴った理由とか、詳細な事は知らないけれど、何事にもとにかく謝ればいいと思うよ」
先生はドアを開いた。眩しさ、輝かしさ。それらが何だか僕の戒めのような気がしてならない。正義と悪。今、この状態は、どちらかというと悪だ。『生徒指導室』という悪のレッテル。
「あと、そこまで君たちは問題になってないよ。あの体育館のとき、もっとすごい問題が起きたからね」
僕は、先生のその言葉に耳を疑った。
「問題、ですか?僕たちよりも?」
若い先生は、クシャクシャの髪の毛に手を入れ、揉んだ。パーマ風味のその髪型は、彼のルックスとよく混じり合っていた。
「聞こえなかったかな。生徒会長の開会の言葉。あれは結構ひどいよ」
先生は笑う。そこで僕も勘づいた。生徒会長。あぁ、生徒会長の言葉。
「普通、開会の言葉って一瞬で終わるはず。これから全校集会を始めます、て、その一言で終わるはずなんだけど、今朝の会長の様子は変だったなぁ」
「何か取り出して、読んでましたよね」
朝の記憶を雑に再生したみた。
まず、司会進行の声が体育館に響いて、それに従うように生徒会長が現れる。演台に着いたころに、生徒会長は何かを取り出した。そして、例の演説じみた言葉を体育館に居合わせる全校生徒へ吹っかける。
「そうそう。巻物?みたいな大層なものをポケットから持ち出して、それを読んでた。さっき、その中身を見たけど、すごい長文でね歴史とか人類について問うてた」
しかも達筆。先生はそう言い残り、生徒指導室から去る。扉の閉まる音、そして空気が遮断される感じがこの部屋を着実に覆う。
僕は、ポツンと取り残された。なんだか、この感じ、すでに朝で感じたような。
長テーブルに突っ伏して、頭の中を落ち着かせた。まだ、思考が追いついていなかった。順々に物事がうねりに唸った。
戸部くん?彼の彼女?メール?幸田くん?暴露?全校集会?生徒会長?
「僕だけ外されているような‥」
言葉にしてみた。けれど、事情は何も変わらない。
僕の枠外で全てが動いていて、肝心の中身が暴かれない。見えない。それはより不安を増幅させた。
一番の不安は、最も嫌悪する世界をこの目で見てしまったことだ。朝、目覚めた時も見えてしまった、あの妙な気配。あれは予言だったのか。黒く青い世界。藍色の物体の様々。輪郭がぼやけて足がすくむような、僕が大嫌いなもの。あれが見えるとき、必ずと言っていいほど過呼吸も伴ってやってくる。
「あぁ!いたぁササキくぅーん」
生徒指導室を出ると、その声が聞こえた。陰鬱な心を洗い流す絹のように柔らかい声。その声の持ち主は、月野ちゃん。
「月野ちゃん、どうしたの」
「いや、ねえお昼一緒にどうかなぁ、て思って」
月野ちゃんの手には、お弁当が乗っかっていた。とっても小さい、腹も満たせなさそうお弁当箱。
「僕、もう食べちゃった」
聞いて彼女は少し頬を膨らませ、唇を尖らせた。それが少しプルプルしている。ピンク色が揺れる。 手を広げたまま、ポツンと立って意気地になっている
姿。それから、袖から流れるように出ている腕。
「ふうん。じゃあ付き合って」
僕はその言葉に少しドキッとした。けれど、それは別の意味合いだとわかるまで、そうは時間はかからなかった。
月野ちゃんは翻して、廊下に進む。彼女のその髪が、窓から吹き込む風に揉まれ梅雨の寂しい光を目一杯返した。暗んできた廊下に光を取り戻したようで、彼女は名前通り、闇を淡く映す月に見えた。
構内のベンチで、僕と月野ちゃんは座っていた。
浦川高校はとにかく広い。合併された影響もあるだろうけど僕はその広大さを誇りに思っている。自分の領地を自慢するような、そんな具合の支配欲というか優越感をこの田舎の町の一角で感じているのだ。
もちろん、学校から一歩でも外れれば、すぐに森の自然に行けてしまうほどに、ここは田舎だ。けれど、浦川高校構内にいるときは、都会の私立高校へ通っているようなウキウキする気持ちになる。構内の都会の高校の感じ、外の退廃した田舎の感じ、それらの痒くなるような対立が、僕の優越感をさらに促進させる。
うあー、と月野ちゃんは背を伸ばして、弁当をひょいと開けた。
僕が浮き足立っている要因は、学校の環境だけではなく、隣の存在も大いに貢献していた。
木造ベンチから投げ出された細い足をパタつかせながら、タコさんウィンナーを頬張るその存在。
「てかねーてかねー」
月野ちゃんがさらに足をパタつかせる。無作為に披露する仕草の一つ一つは、とても新鮮。僕はそう思う。
「さっき一年エリアに友達連れて行ったんだ。そしたらフシギだったのぉ」
うあー、と寝不足なのだろうか、目を擦って月野ちゃんは、また背を伸ばした。
「不思議?」
「そうそうフシギフシギ」
正直、僕は月野ちゃんを凄くかわいいと思っている。
「すっごーい騒いでたの。わあわあ、って」
僕だって不思議な感覚に見舞われてる。だって、僕はそんなことを思うはずがないのに。
「一つの教室のドアにめちゃめちゃに集まってたんだよー」
「そうなんだ」
正直、会話の内容はちっとも入らなかった。
そぉそぉ、という月野ちゃんの言葉もなんだか今この瞬間で言っているのかわからなかった。それは僕に対して言っているか、それもわからない。もしかしたら、僕は自意識過剰なのか。
僕は、隣に座る月野ちゃんを見た。そして目線を下げて、弁当箱へと。やがて短いスカートへと目が移る。本当に短いスカートで、そこから肌も見えてしまう。
「食べたい?」
僕は飛び上がった。必死の弁解を瞬時に脳内で構築する。
しかし、月野ちゃんは悠然とタコさんウィンナーに爪楊枝に刺して僕へ差し出していた。その姿に僕は安堵する。
「じゃあ」と言って、僕は受け取ろうとする。月野ちゃんが作ったのだろうか。ちょっぴりのワクワクと、少しの罪悪感がごちゃ混ぜになって何とも言い難かった。
結果から言うと、僕はウィンナーを食べられなかった。純粋なクリクリの目玉に、歯を入れることはなかった。
僕が爪楊枝を握ったときには、タコさんウィンナーは消え失せていた。シュン、と何かが通り過ぎたのを風に感じた。
「びっくり!」と隣から聞こえた。
右に同じく僕も慌てる。
上の空を見上げる。快晴に滲む鳥が飛んでいた。今さっきウィンナーを瞬息に狙いかかったとは思えないほどゆっくりと飛んでいた。鳥の嘴には、タコさんの足が見えた。すぐにその足は侵食され、鳥の胃に落ちてゆく。
「驚いた」
ベンチにもたれながら僕は言う。じめじめ手に水分が滲んでいる感触が、湿っぽく気持ちを陰湿にさせた。
ばかおせー!ざけんじゃねーぞ!
日に焼かれた二人が追いかけ合っていた。健康的な足たちが目の前をふらついた。その馬の蹄のごとく軽快に、熱く干からびた地面へハーモニーを弾ませる音符たちは、今感じている敗北感を余計に引き立てている。
たかが、ウィンナーと鳥。ただただ、ウィンナーを鳥に横取りされただけだ。そうだ。ただそれだけのこと。だが、その横取られた食べ物は、普段見かける円形ウィンナーではなかった。
タコさんウィンナー。
ちょきちょきと後部を切られて、足が生えたウィンナー。
たかが、ウィンナーと鳥。されど、月野ちゃん。
僕は、空に目を配る。遠くに、青空に包まれた小さな羽ばたくシルエットが、ちょこまかと動いていた。もしかしたら、この町から出ていくつもりかもしれない。すでに、稜線の景色をなぞるように織り込もうとしていた。羽ばたく鳥は、チカチカと南中高度に位置する太陽を、強く無駄に照り返しているようだ。
もう認識できない程離れていった鳥は、僕ら二人に余韻を残した。ゆっくりな速度だったのに、存外早いものだった。
す、と、風が吹いて、立ち上った季節の気まずさが、真横からほのかに香るフローラルと共に、僕を焦らしてくる。健康的な足たちは、すでに視界から失せていた。
授業開始前の予鈴が、ぎこちない僕らを断ち切ってくれた。僕らはベンチから立ち上がる。
陰に歩いていても、やっぱり暑い。ちょっかいを吹っかけるような日差しが、窓枠から降り注ぎ、廊下を沸騰させた。グツグツと煮えたつ細長い通路は、制汗剤の爽やかな香りと、無敵の鎧を纏った高校生徒たちの多種多様な臭いに、ないまぜに通っている。
震わせる奇声。乾いた笑い声。チョークの触れる音。引き戸の軋み。スリッパとタイル床の擦れる音。白いシャツの裾を捲り上げる姿。長髪から坊主まで、幅広い頭のチョイスたち。
「きいてるー?」
「え」
僕は斜め前に少し進んでいる月野ちゃんを見た。彼女は振り返った。同時にスカートもフワッと盛り上がる。
「だーかーら、ササキくんはどこなの」
「ごめん全然話聞いてなかった」
正直にあしらった。月野ちゃんは指をピン、と立てた。少し尖った唇にして言う。
「ボラメントの話。そういえば、ササキくんがどこなのか知らなかったなぁ、て。ツキノたち、すごく楽しいの。それでササキくんはどうなのかなぁ」
「ああね」
この浦川高等学校は、今年の三月に急遽、合併された。田舎には珍しい私立学校だ。合併され、膨大な人数に溢れたマンモス校へと、それまでの田舎を感じさせる校風から一転して新しくなった。
今年度、超新星爆発を起こした浦川高校を志願する私立受験生の数も、同じようにビックバンを起こしたように急増し、受験倍率は例年より甚だ比べものにならないほど好調だった。それと並行して学力に求められる水準も急激の右肩上がりで、たった一年という短いスパンで、合併前の二校は浦川高校へと化けて、大成功を成した。
しかし、そんな有頂天気味の浦川中学・高等学校にも一つ懸念点がある。それは、生徒同士の交流だ。
僕は高校二年生へ進級する目前で、浦川への合併に巻き込まれた。それからというもの、以前通っていた高校の名称は、『浦川』へと改名された。
そして、問題点は以前、僕が通っていた合併前の学校のしつこさにあった。
『人を敬うことを大切に』『毎日、感謝を忘れない模範生』『どんなことよりも、まずは手と手を繋ごう』 そんなモットーを全校生徒で一斉に叫んでいた。詳細には、叫ばされていた、とも捉えられる。過剰な人間関係への意識が、強く学校全体至るところにこびりついていた。もちろん、その一つ一つの言い分は、確かに正しいことだが何事にも神経質にはなってはいけない。
前の二校は合併され、浦川中学・高等学校へと新しい道を進んでいるが、以前の雰囲気や名残は完全に消えていなかった。当然、その過剰な人間関係の意識も消えてはいなかった。それから、学校側の企みにより、言い方を崩してくどく生まれてきたのが、いま月野ちゃんが言った『ボラメント』だった。
正式名称『ボランタリー・インボルブメント』。翻訳して、『自発的な関係』略して『ボラメント』だ。
新年度に差し掛かったすぐに、まだ慣れぬ担任から『ボラメント』の説明を受けた。すなわち、それは、以前の切り離されていた二校の生徒たちを、繋げるための交流会だ。交流会とは健気に言っても、六月現在のその実態はお遊びサークルのユーフェミズムになっている。ただ、遊んで遊んで遊びまくる。交流会というより、ただ騒いでバカ遊ぶ。そこに建設的な、まるで児童書に描写されるような掛け合いは一切ない。ただ、ポラメントが始まった当初は、皆初々しさが全面に顕になっていたかもしれない。
ポラメントは、事前に先生たちが、合併以前、高校が違った生徒たちを良い塩梅に振り分けて、たくさんのグループを設立させた。人数こそ少ないグループだが、趣味も違えば、以前の学校に染みついた雰囲気もまるで違う。そのため、当初はそれなりに白けた場所だった。上手くやってのけるボラメントもあるが、それは少数派だった。大概のボラメントは、自己紹介をなあなあにすませて、残った時間は、疲れ切った頬を適当に引っ掻きながら、居心地の悪さを振り払うのみだ。
あのぉ、中学校はどこですか?えぇとぉわたし南中学校です。はぁそうですかぁ。頬をカリカリ。カリカリ。
何度も聞いた恒例の言い合いを思い出す。狭い部屋に密閉された少人数の制服たち。何かを話さなくては、と張り切るリーダーシップを持った子。もう、すべてを投げやりにして、ぼぉ、と外の風景を眺める子。自然と他愛のない話へ、流れを持っていける子。
僕も初回のボラメントは、ぼぉー、としていた。早く終わらないかなぁ。はやくはやくー。時間よ、もっとはやく刻め。頬をカリカリ。
ボラメントは一つのグループにつき、十人やそこらの人数であるため、学校全体のボラメントグループ数は、学校のクラス番号よりも断然多い。
これ忘れ物ない?いやいや心配症すぎ。
前から、二人の女子が横を通り過ぎた。移動教室なんだと思う。一人が教科書やら必要な教材をパラパラと一つずつずらして確認をしていて、もう一方がまるで幼い子供を適当にあしらうような態度でそっぽを向いていた。どちらも大人しいそうな女の子たちだ。前髪に目が隠れていて、太い眼鏡フレームにそれがカーテンのように覆い被さっていた。幸田くんが嫌悪するタイプだな、と僕は何とはなしに思う。
「僕も何気に楽しくやってるよ」
横目に月野ちゃんを見た。彼女は好奇心をいっぱいに含ませた瞳をしていた。その好奇心は、いわゆる知的好奇心だと勝手に推測する。
「そうなんだあ。名前は?」
ボラメントは、学校側が管理しきれないほどのグループ数があるが、一応初回のボラメントで各々自身のボラメントにニックネームをつけるよう義務付けられている。
正直、僕はあまり名前を言いたくなかったが、
「大島組」
と声を低めて言ってみせた。
案の定、月野ちゃんは笑う。萌え袖を口に当てて、上品にけれど健気に笑う。
「なにそれぇ。悪い人たちみたーい」
「だよね。僕も最初聞いたとき、そういう邸宅に来たかと思った」
「大島って、あの大島?」
「あー、そうだよ。野球部の」
「ツキノ、あいつきらぁい」
ふわふわと、わたあめのような語尾。その包まれるような声色は、昨日も聞いた優しい声。
昨日、僕と幸田くんが水泳授業からようやく教室へ到着しようとしていた時。僕らのクラスの隣の教室での引き戸に、月野ちゃんと大島が平行に寄りかかり、互いに僻み合うような遣り取りを繰り広げていた光景。
「大島はねー、とにかくズレちゃってる人間ってかんじぃ」
ならオマエ、月が満ち欠けする理由言ってみろよぉ。野太い首から伝い発話した、周波数の低い大きなしゃがれた声。ガラガラ声に水分が足りないのでは、とポラメント初回では心配に憂いたが、お節介だった。
「月野」という名前から連想されて、月の公転運動へ話題が突然トントン拍子で駆け上がる思考は、確かに「ズレた人間」というのが言い当て妙かもしれない。けれど、そんな大島の性質を僕は案外安心している部分がある。
「てことは、大島がボラメントにいるのー?それってかなりたいへんそー」
「まあ、賑やかだね」
僕は、急な日差しに手をかざす。朝のせいなのか、少し頭が重い。
うるさい、をオブラートに包み込めば、賑やか。事実、「大島組」は物凄く耳が疲れる。
「大島ねぇ。大島とササキくん。なんか面白いね」
「そうかな?」
「ふしぎーな組み合わせー」
魔法杖で唱えるように、指を陽気させ語尾を上げる。
以前、僕は大島に水筒の中身をぶっかけてしまった。歩きながら水筒を口に含んでいたせいか、運悪く足が引っかかってしまい、制御が効かなくなった水筒が、プツプツと生え直してきている頭を目掛け、落ちていく。麦茶が盛大に分散して、大島の制服はびしょ濡れになった。それを認識したとき、僕は不登校を決意した。
けれど、大島は「部活あがりですずしぃーわ!」と言って、他のメンバーへ麦茶臭い制服を擦り付けたりしながらふざけていた。僕はこのとき、物凄く安堵した。良かった。うん、良かったんだ。大島で。
僕は、良くも悪くも大島の潔さに感服している。
「どっかでかけてるのー?」
チョコレートのような声。だけど、すぐパキッと割れてしまいそうな、脆い声。
「うーん、最近はどこにも行ってないよ。今の大島組は、開店休業なところかな」
なぁ、俺の名前使っちまおーぜ!ギャハハ。
大島の声が蘇る。彼がいたずらっぽく笑い、じゃ、俺が組長ってことで大島組でいいやろ?とまた爆笑する。手を大きく叩いて、いいやろ、いいやろ、と、机にほっとかれた用紙に粗末に主張の強い字体で「大島組」と書く。
「へぇー。まあ、大島はアキショウだしね。ツキノのところねー、休日よく遊ぶんだー。美味しそうな喫茶店とか!カフェ巡り!」
ラッピングが付いているスマホを取り出し、それをこちらに裏返して、月野ちゃんは僕へ一つの写真を見せた。その写真はどうやら喫茶店らしい。フワフワに全身を暖かく包んでくれそうなパンケーキ、背景には如何にも洒落ているレトロな店内。ムーディーな独特のリズムにジャズが流れてそう。
へへぇーん。うらやまでしょ?と月野ちゃんは腰に手を当て、ふん、と鼻を鳴らす。
僕は無粋に、おいしそうだなぁと思ってみては、いや胃もたれしちゃうかも、と体内へ意識を向ける。
「でも、そっちも外で遊んだりはしてたんだ?てかさ、大島以外にだれがいるの?」
改めて月野ちゃんは尋ねる。僕は少し唸り、
「山川くんとか。男子はその三人。僕と、大島、山川」
「ヤマカワ?だれそれ」
「僕のクラスメートだね。黒縁眼鏡を掛けてて、小柄な子」
ふぅー、と声にもならない返答を月野ちゃんはして、興味なさそうに前へ進路を歩む。
僕のボラメント「大島組」の男子陣はその三人だった。佐々木、大島、山川。三人ともに合併前は同校だ。残りの二人は女子で、そちら方は合併前、学校が異なっていた。そうでなければ、学校側にボラメントをする道理がない。
「大島組」に疲れる原因の一つに、人の合わなさがある。特に大島と山川は、月とすっぽんのように性質が異なっていた。
野球部エースの大島。帰宅部エースの山川。本当に雲泥の差だ。そのため、毎度毎度の「大島組」は困惑してしまう。人間ってこんなにも交じり合うことができないのか、と。
『貴金属にしろよ!』
『あ?オマエなにいってん?しらねーよ、大島組で決定な』
彼らは、ボラメントの名称付けに一日中、言い争う熱い人たちだ。無論、系統は違うけれど。
山川くんは、普段は大人しい子なのだけれど、肝心な場面では声を大にする。彼なりにこだわりがあるのだろう。
放課後、掃除当番で彼が黒板消しを担っていた。僕はたまたま粉受を見てみると、チョークが一直線に並べられているのに気づいた。綺麗に手配されたそのチョークたちは、壁をなぞるかのように一つ一つ永遠の続きを思わせるような幻想に満ちていた。山川くんは、そういうところをこだわる。なあなあと掃除を適当に済ませる教室で、彼だけは熱血に奮い立たせているのだ。
『佐々木。しっかりやれ』何度も彼の口から、そんなことを聞いた。もう耳に馴染んでいる。
ついでに彼は、酸素を拝んでいる。ついでというか、そっちが本業だ。机の上に『O2』と書かれた紙切れを置いて、「今日もよろしく」それにお辞儀する。至って生真面目な彼をクラスは白い目で蔑むが、彼の毅然とした元素への愛は、無限の広がりを予感させていた。
時には、『分子を感じよ』とやら大志を抱え込んで、校庭で風に吹かれている山川を二階から見たことがある。その顔は、本当に幸せそうだった。焼かれた校庭にポツンと浮かぶ彼のシルエット。手を大きく広げている。浦川の校庭なんて、彼にしてみれば、小さいものだろう。彼は『空気』を読んで、『自然』を浴びる。広大な地平線をすっぽりと囲う自然は、この学校の校庭なんぞに比べるに値しないほど未知数だ。
山川を一言で表すなら、粗く言うとクラス内では、「変人」という立ち位置が似合っている。言い方をわきまえれば「物知り」や「博識」かもしれない。彼が好んでいるものは科学全般、そしてなによりキュンキュンしているアイドルを全力で支援している。所謂、推し活というもの。
その彼が推すアイドルは、元素をモチーフにした可愛らしいきゅわきゅわした衣装を纏っている。そのアイドルのコンセプトは、まさに山川らしいチョイスで、科学や元素、分子などがピンポイントで該当する。彼がそのアイドルを好む訳は、きっと容姿と、それと元々の趣味にストライクだったからだと思う。
彼の黒い筆箱の中には、そのアイドルの写真が飾られている。彼は元素と併せてそのアイドルも偶像崇拝の対象だ。
「大島組」で、以前大島が彼の筆箱を見て、なにこの萌え萌えキューンしそうなやつ!と、顔をしかめてギャハハと下品に笑った。山川はふてくされたのか、「しっかり見ろって!」と大島に写真を突き出し顔を真っ赤にさせていた。そういうところ、馬鹿にされたら躍起になるのが彼の性分だ。
「てかさササキくん、話してよ」
彷徨う意識が、生徒たちの汗臭さに鼻に障る廊下に戻る。月野ちゃんは、不満気な顔をありありと浮かべていた。
「ん?なに」
「朝さ、ササキくん何か急いでたじゃん?ツキノが声かけたときだよ」
「あね」
今朝のことを回想する。階段を降りた矢先、月野ちゃんが僕を呼ぶ光景。ササキくぅーん、と。
「でさ、ササキくん、センセイと揉めてたじゃん?体育館の隅で。取っ組み合ってた」
脈打たれている流れが意識させられる。スラックスの内側の太腿に汗が滴るのを感じる。同時に、体育館の一連の流れを思い出した。
「いやぁ、なんか少し巻き込まれちゃったみたいなんだ」
と取り繕って、僕は必死の弁明をする。しかし月野ちゃんは僕の顔の前で、手のひらを制止させるように振り動かした。
「ササキくん、すごい血相してたよ。ちょっぴり怖い顔だった」
あと先生を蹴ったじゃん。
あ、と僕は思った。器具庫前で阻まれた僕は、あの若い先生へ足を突き出したのだった。
大丈夫。焦ることない。僕はゆっくり息を落として、少しばかりこの当惑の現状に終止符を打った。
「少ししょうがない事情があったんだ。ごめんね、心配するよね。でも、もう納得できる形で収まったよ」
嘘も方便だ。実際は、生徒指導室にて、まるで警察からの取り調べに頑固として黙秘権を行使する容疑者のごとく、僕は長机に俯いて一向に黙りこくっていた。いつしかあの若いパーマ風味の先生も観念したのか、そうそうと別れの言葉を告げずに現状報告だけを済ませて去っていったのだ。しかし、あの先生の態度は完璧と言わざるおえない。彼は頑なに黙る僕にも、愛想が良かった。それ故に彼のお陰で円満解決をした感覚になった。
「ほんと、しんぱーい。ササキくん、大丈夫かなぁ?て朝落ち着かなかったよ」
僕と月野ちゃんは、歩調を合わせながら、廊下を歩いていた。もうそろそろ自分のクラスに立ち寄る頃合いだ。階段を登って、踊り場に当たったその時。
「ちょちょちょちょ!あぶないあぶない!」
目上の階段先から人影が崩れるのが見えた。ぐらりとバランスが揺れ動いたその手から、バサァとプリントなのか書類なのか、が開放された。
踏み外した足を滑り止めるために、手にしていたものすべてを放出してから、片側の手すりに張り付いた。
ひらひら、と舞い上がったそれは僕ら二人の上で踊っていた。徐々にゆっくりと風に揉まれながら降下してった紙たちは、一瞬僕の手に感触を残した。
「ごめん!怪我なかった?!」
階段から盛大に、豪快に、転んでふんぞり返った先生はようやく立ち上がり、僕たちに身体の怪我の有無を確認する。
「いえ、大丈夫です。それより先生の方が大丈夫です?」
サァ。その触った心地がこの踊り場に響き合っている。サァ。手にざらざらと、余韻を残す。
「いやいやぁ、大丈夫大丈夫よ。怪我がないなら良かったよ。ごめんなさいね」
散乱したプリントたちを一箇所に集めて、先生は急足で下っていった。
サァ。指先に触れたその新しい記憶。そして、昨日の「あの感触」
「センセイ慌てすぎぃー」
下をちらちらと覗きながら、月野ちゃんは言う。
僕は、昨日のアレを思い出してしまった。指先に触れたザラザラとしたもの。それは、机に屈んで伸ばした人差し指に、微かに、けれど確実に触れたアレ。達筆の文字に丁寧に綴られた差出人の名前「佐々木正喜様」の文字が瞬時に蘇った。
「ほんと勘弁勘弁ー。センセイだってさぁ、走るなっつーの」
「ねぇ、月野ちゃん」
なんだか、この胸のざわめきを吐かなければと思った。訳もなく口が開いた。
「ん?」
「人文化研究部って、なんだと思う」
「ん?」彼女は僕を見る。
昨日送られた、封筒の中身。一つの紙切れがあった。それは、
「ある招待状が僕のもとに来たんだ。昨日机の中に見知らずの内に放り込まれてた。僕、その中身を確認したんだ。そしたら、どうやらボラメントでも無さそうな類のものなんだ」
「ちょちょちょちょ!何言ってるの?」
僕は拳を固めた。そして、併せて決意も固める。
「その名前が『人文化研究部』らしいんだ」
「ヒトブンカ?」
月野ちゃんは鸚鵡返しにそう言って、忌々しげに空気を仰いで首を傾げた。
僕も彼女の現在抱えているその困惑には同調できる。実際昨日、僕自身も実体験したのだ。人文化研究部。その字面の持つ異様な実感は、困惑を引き起こしてもそうおかしくはない。封筒から取り出した一つの紙切れに記された身に覚えのない一つの言葉、人文化研究部。
「僕も何かの悪戯かと疑ったんだ。けれど、どうやらそれは無さそう。その招待状には、生徒会長の薦めがあった。単なる悪戯に送ってきた封筒じゃないってこと」
「つ、つまり?」
月野ちゃんは苦笑めいた表情を浮かべた。
「つまり強制的に何かのグループに僕は入れられた」
「はぁ」
彼女は嘆息ついた。何がなんだかわからない、と言わんばかりに肩を竦める。まだ僕の言う事情を完全に呑み込めていないようだ。
「人文化研究部、ねぇ」
「あ、でも一応月野ちゃんは関係ない話だから。そこは大丈夫。安心して」
あ、そうなの。それから月野ちゃんは僕を肩越しに見やる。
「それは部なのかな?それとも、ボラメント?でもボラメントでもないんでしょ?」
「うん、ボラメントはありえない。おそらく、ボラメントは先生側が年度の初めに分配する体だと思う。だからこの人文化研究部は、便宜上部活動じゃないかな」
僕と月野ちゃんは隣同士のクラスだ。そして、僕たちはクラスにたどり着いた。
「ササキくん。そのさぁ、人文化研究部?ってヤツいつから始動するの?」
「明日なんだ。僕も細かいことはよくわからない。ただ軽い気持ちで行ってみるよ。明日の部活動終了後らしい」
部活動の範疇に位置するだろう人文化研究部は、なぜだか部活動終了後に始まる予定だ。僕はなんとなくそこにつっかかる違和感がある。
「なんか、フシギだね」
月野ちゃんは、クラスに入る前にそう言って僕と別れた。じぁあね、と引き返した髪が揺れて、シャンプーの良い匂いが吹きかかる。
二年七組を迎え、自席に向かった。教室を見回してみたが、もちろん戸部くんと幸田くんの席は空いていた。
椅子を後ろに下げて、机の前で跪き身を乗り出して、教科書の上にある「あの封筒」を取り出す。
達筆に書かれた僕の名前。それを認めて、再び封を取り外し、僕は中から取り出した紙切れをまじまじと見る。サァ、と感触が過ぎる。僕は咄嗟の不穏なやりきれなさに顔を顰めた。
なんだか最近不気味だ。戸部くんといい、幸田くんといい、そして、この封筒といい。蓋をしていた混乱の源をまたまたこじ開けてしまったのだ。今日は何かおかしい。一つ一つ僕を追いかけるように襲ってくる何か。
そんなことを思いながら、次にその人文化研究部の発行者欄を見た。そこにはただ一人「岩室竜也」と明朝体でタイプされていた。その文字の羅列が現実感の無さ、それとどこかよそよそしさを寄越した。
ずっと渦巻いて倒錯してしまった歪んだ気持ち。それの由来はすべてこの封筒からの顕だった。今日の一日中に終始、頭の片隅にこの封筒のことがひくついていた。
にわかに吐き気が首元からズルズル込み上げてきて、僕は机にたじろいだ。かすかに冷めた視線が教室内にうろついていて、そうして僕は学校の嫌な部分の面影に、まさに禁忌に触れてしまった気分になる。もちろん、このクラス内で僕と今朝の先生との騒動を偶然見聞きした人もいるだろう。
そもそも僕の学校生活における第一に保持していきたい事、それは安然と平穏なるものだった。けれど、今日それが崩壊の兆しを垣間見せさせていて、歯痒い気持ちになる。これからというものの生活に問題を抱えることなく果たして戻れるだろうか。
行く場のない気持ちの揺れで、故に捌け口が欲しかった。けれど僕が相談するなんて、僕自身に辻褄が合わないことなのだ。前提として、僕は自分自身が苦しんでいる『辛さ』が、その世間一般の言うところの『辛さ』に当て嵌めるのかどうかさえ疑わしい。なので、僕が誰かしらに相談をしたところで、相手が共感を示すのか否か恐ろしくて、たどたどしい姿を披露してしまう可能性がある。それは僕が最も避けなければならぬ辱め以外何物でもない。
封筒の端を強く握りしめた。教室内では沈黙の笑い声が聞こえてくる。佐々木、アイツなんなん?そんな具合に尖った嘲り。実際は聞こえてこないはずなのに、確かに聞こえて、さらに直視できる。
僕は自分への注目が大嫌いだった。自分のことを見ている、ただそれだけのことが苦手だった。今日に至るまで、ずっと自分はどこか、隅にいるべき存在だと思っていた。この教室内に平然と顔をしたまま座るべき存在でないこと。そんなこと、当然のことだと思っている。けれど、
今日の出来事で、僕は著しく落ち着かない。今、さらにあらゆる目線を浴びて、僕は我慢ならず机に突っ伏した。皆、体育館の僕と先生のことを見ていたのだろうか。そんな不安が脳内を走る。
悲鳴にもならない喘ぎに似た叫びを心内に吐き散らかした。散々の嗚咽を繰り返し、ようやく目を開けてみる。こびりついた瞼の端と端を、感じ取るように、しずかに、そっと、開けてみる。大丈夫だ。大丈夫なはずなんだ。けれど、やっぱり現実は変わらない。ひどいものだ。すでに視界は変わっていた。見えるものが、確かに、
教室が藍色に。