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4 誇り高きポエマー


「お前、なんで佐々木に話しかけたんだよ」

「あ?」

「プールの時の話。普段、佐々木はお前と仲良くない、て言ってたぞ」

 戸部は引き攣って笑う。それは足立あだち幸田こうたが大嫌いな表情だ。

「それと、今日のお前は情緒不安定。話しかけるだけならまだしも、挙動がおかしい」

「そうか?」

「ああ」

 電車の踏み切り前、警告音が鳴り、遮断桿が降りる。

 足立と戸部は、電車が通り過ぎるのを沈黙の中待つ。

 電車が過ぎて、道が開く。最初に切り出したのは幸田。

「なんかあったのか」

「なんもねぇーよ。ただ佐々木に気にかけただけ」

「そうか」

 足立幸田は、隠れて戸部を見張った方がよかった、と後悔する。

 二人はうら寂しい商店街を通る。日差しは相変わらず強い。夏が本格的に準備をし始めている。空気はどこかじめじめしていて、やるせない気持ちに襲われる。

 商店街を過ぎる。

「なんで、あの言葉、言ったんだよ」

 戸部は何も言わない。何を口から出そうという意思が欠如していた。唇を強く歯噛みしている。

「別に、お前のことを何か疑ってるわけじゃない。だけど、さすがに気になるだろ。なんか、あったんじゃないのか」

「足立さぁ」戸部がやっとの思いで吐き出す。

 ほのかに塩素の匂いが鼻腔を刺激する。足立はこの匂いが少し苦手だ。野球一筋に日々を過ごしてきた足立にとって、水泳は全く未知の世界だからだ。

 戸部がまた、噛み締め、息を飲み込む。

「なんだよ」

「いや。少し自信がいるんだよ」

「自信?なんだ?自信なんていらないだろ。もしかして、お前、佐々木正喜が嫌いか?だからちょっかいかけてるのか?」

「分からない」

「なんなんだよ。やかましいな」

 戸部は完全に黙った。足元をじっと見つめている。それは、プールのときを連想させる。

「俺は元々、情緒不安定なんだよ」

「なに、中間テストの点数が気に入らなかったのか」

足立は茶々入れる。

「うっせぇ。てめぇは結果知ってるだろ」

 もちあげをかきながら、不快感を戸部は示した。

「最近は、少しメンタルが参ってるんだよ。なんか、現実感がない」

 小学生が鮮やかな色のランドセル背負いながら、通り過ぎる。変声期を越していない声が、耳に障る。横を走って行った小学生たちの顔は見覚えがあった。

 足立幸田は思う。田舎は閉塞感がいつも充満していて、とても味気ないと。娯楽も少ないもので、この自然に囲まれた町にある楽しみは人々の世間話によって大方が形成されている。親戚のママ友同士が自身の子供について、ああだ、こうだ、と言い合って楽しむ。それは、あまり気に食わなかった。

「少し、時間をくれないか?」戸部が言う。

「時間?なんでだよ」

「いいから。少し家に帰ってろよ。ちょっと準備する」

 いいから行けよ。

 幸田は気に食わない顔を浮かべながら、素直に帰った。


 次に連絡が来たのは、二時間後。

単語帳をぼんやりと眺めていると、スマートフォンが鳴った。

『いいぞ。来い。いつもの場所で待ってる』戸部の声が耳元から。

「あい」

電話を切って、足立は家を出る。

 いつもの場所。というのは、つまりは、学校近辺にあるファストフード店だろう。よく戸部と幸田はそこで腹を満たしていた。


 画一的な食べ物、飲み物などのジャンクフードを販売している店の前で、足立は一つ息を落とした。

 あいつは一体なにをするのか。それが全く予測できない。

 足立幸田はファストフード店へと、足を運ぶ。



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 舐めるようにマップの世界へ徘徊していると、スマートフォンが鳴った。

 僕は不思議に思いながら、スマートフォンを立ち上げる。

 そこには、戸部くんからのメールが一つ、映っている。僕はそれを不思議に眺める。


とべ PM7:14

『水泳の授業のときはごめん。変な感じにからかってしまった。でも、あれはお前と仲良くしたい意志でもあるからさ。お前呼びもダメかな?癖なんだ。

とりあえず、明日からも話しかけてもいいか?幸田の野郎がうるさいんだよ。単純に佐々木と仲良くなりたい。子供じみた言葉かもしれないけれど、結構本気だぞ。よろしく』


 メールでは「とべ」というニックネームにしている。これは戸部くんだ。

 それにしても、冗長なメールだ。僕は少し不思議に思う。水泳の授業のこと、僕はすっかり忘れてしまっていた。なのに戸部くんは気にかけてくれたんだ、と僕はいささか罪悪感を感じた。



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 体育館。オレンジ色のナトリウム灯の光が浅ましい。

 ボールを突く音、それとチーム連携のための掛け声がアリーナから響く。普段であれば見慣れた光景が、もう何年も前の懐かしさを連れてきている。

 黄色。赤色。それら二色のビブスがチカチカと点滅するようで、目を背けたくなる。

 そばの遮光カーテンがひらりと舞って、空が見えた。すでに西日が失せていて、そこに見えるのは沈黙の夜空のみ。

 大きな雄叫びが背後に現れる。梶原純人かじはらすみとは振り返り、キャットウォークの手すりに手をかけ、虚無感を自身に纏う。

 選手の野太い雄叫びの直後、続いて甲高い声が隙間を埋める。黄色い歓声。それは純人が呆れるほど耳にした周波数。けれど、現在は実感が追いついてない。コート外の周辺を囲む応援の女生徒が、ただ、ひっきりなしに高い声をあげている、という事実のみが認識することができた。

 吊り上げ式バスケットゴールのリングにボールがかかる。それは相手チームが放ったセットシュート。ゴールに引っかかったボールは、リングを何周か回り、この場に居合わせる参加者を緊張の渦に巻き込む。棘のような空気が過ぎたあとに、雄叫びが発生する。相手チームのエース。背がやたらとでかい奴。次に、歓声がこの体育館を支配する。

 電光得点板には芳しくない点数が表示されている。北東ほくとう高等学校は、もう先がなかった。点差が南丹なんたん高校と随分開いてしまっている。

 純人は肩身が狭かった。北東チームの士気はダダ下がり。眉間に皺を寄せている者が何人もいて、雰囲気が相手チームと雲泥の差で、南丹チームのふざけ合うような掛け声が妙に現状の屈辱さを引き立てて、白々しい。

「今日も来たんだな」

 純人の所属しているバスケ部の顧問—宮見みやみが階段から上がってきた。純人は近づいてくる宮見に最敬礼する。

「やっぱりお前がいないとチームが厳しいことが、今、痛感している。見てみろあれ」

 宮見が指を指す。

「とても見ていられる代物じゃないだろう」

 吐き捨てるように彼が言った。

 ブザーが鳴り響く。その音を境に、コートには隔たりが形成され、二つの区域に分かれる。『歓喜』と『落胆』。宮見は階段を降りる。北東高校バスケ部は、敗退した。


「バスケはチーム競技だ。一人で作れるものではないだろう。原則五人が集まって一つのチームが出来上がるんだ。そうだろう?」

 体育館のエントランスにて、ミーティングが開始される。純人は後ろの椅子で、宮見の話を聞いているチームメイトの背中を眺めている。

「主力の梶原が怪我をして、お前たちの底力が下がってしまったのは事実だ。けれど、それはお前らが梶原に頼り切っていた裏返しでもあるだろう。正直に言うが、浮かれ過ぎなんだよ。決してお前たちがチームを引っ張っているとは言い難い。勘違いも甚だしい」

 話を聞いている一人が微力ながら足踏みをしているのが分かる。宮見の顔を見ているチームメイトもいれば、床を睨みつけている奴もいる。

 純人の背中にすっと冷たいものがミーティング中、棲みついていた。投げ出している足が小刻みに揺れている。

 汗の匂いで充満している玄関の奥、ガラスドアの先に見える南丹生のおちゃらけた去り方。はしゃぎ声も、静まり返ったミーティングでは、しっかりと響いた。その声に純人は拳を固めた。


 ミーティング終了後、会場を担った北東バスケ部が後片付けを行う。

 純人はその片付けをパイプ椅子に座り、見守っている。

 重い空気に包まれている中の、この忙しさは気後れしてしまう。部活仲間の全員が黙りこくって、目の前の作業を事務的にこなしていた。

 純人は首を下に傾けて、自分の足首を凝視する。

 なぁ、治ってくれないか。無謀な願いが実現するほ

ど現実は甘くないこと。それはバスケに少し似通っている。唇を噛み締める。


 二週間前もそうだ。

 一回戦を超えて、続けての二回戦。第三シードとの対決。その高校は北東高校と同等レベル。勝つか負けるか、それは両者ともに五分五分で、譲れない接戦だった。

 ハーフタイムまでは、北東高校が優勢。点差もそれなりに開けていた。そのままの調子で攻めていこう、とチーム内で盛り上げていた。

 しかし、徐々に点差は縮まってきて、第四クォーターを迎えることには、一点差までに迫られていた。やがて同点へと向かい、予想通り、北東と相手高は接戦へ最終局面を迎える。

 あの日はとても観客が多かった。頭上からは、慰めの声や、喝を入れる掠れた声、正確に汲み取れない言葉の羅列がアリーナに降りかかる。

 あと一点。それさえ取れれば、流れは変わる。

 両者ともに、点を取っては取り返されることが続いていた。その流れを断ち切りさせすれば、勝利が堅い。

 残り、10秒。心臓が大きく脈打つ。

『梶原!前へ進め』

 後方でボールを持っているチームメイトが叫ぶ声が聞こえる。純人は光に汗に照り返す床を一つ一つ踏み締めた。すべてがスローモーションに見えた。一歩一歩進む足も、その輪郭を把握できない。

 誰も彼も、視線は梶原へと泳ぐ。

 すぐに、バスケボールが宙に浮いた。投げ出されたそれは、走りゆく純人の頭上を大きく弧を描いてすぎる。

 前方を向いて、純人は必死に走る。そこにある。あそこにあるゴールへ、ボールを落とすことができれば、勝利を手にすることができる。

 落下地点の場所へ、脚を動かした。汗も、揺れるユニフォームも、髪も、すべてが意識できないくらいに、ゴールを見上げた。ただ、ゴールを目掛けてはしる。

 落ちてきたボールに飛びついて、すぐさま純人はその場で構える。

 ここなら、ゴールに入いれられる。そう確信して、純人はデコにボールを持ってきた。

 そうして、ボールを放つ瞬間だ。



————アンスポーツマンライクファウル


 

 相手高が純人の足首にスライディングで引っかかってきた。

 純人の姿勢は崩れ、そこでゴール以外の一切の音が蘇る。次に激痛が走り、純人は叫んだ。終了のブザーが鳴り響く。

『‥梶原!』

 一つの声だけが蘇る。それは、聞き覚えのある声だ。あぁ、お前も来てたのかよ。そう心の中で嘆息を吐きながら、記憶はそこで途切れる。


 後日聞いた結果では、北東高校が延長戦にて勝利した、という報告だ。純人は全く嬉しくなかった。足首が傷を負ってしまっている。3ヶ月は激しい運動をしない方がいい、と医師に言われたばかりだった。バスケができない自分に、他に何もないことを知らしめられた瞬間、純人は枕に顔を埋めて泣いた。

 あいつさえ、いなければ。あいつが俺の生活を奪った。そんなどうしようもない後悔を寝床で嘆いた。

 あのファウルさえなければ、今日も試合に参加できた。二週間が経過した今も、その場面が脳内にちらつく。



 ガンッ!

 パイプ椅子の脚から衝撃が伝う。純人はその場に転げ落ちた。次に、体育館の電気が消え、純人は暗闇に取り残させる。

 ぼんやりと眺めていた目が、今、目の前へ引き戻される。あぁ、蹴られたのか。

 閉められる扉から僅かに光が入り込んでいる。すぐに扉は豪快に閉じられ、真の闇が純人を包んだ。

 そこには、もう、誰の気配も感じない。梶原純人、ただ一人が体育館の床に這いつくばっているだけ。

 純人は足首の痛みに噛み締めながら、壁沿いで立ち上がった。暗くて、手の感触でしか現在の居場所がわからない。

 壁を頼りに、出口の扉に差し掛かり、純人は外へ出る。

 

 とっくのとうに片付けが終了していたみたいだ。体育館のエントラスを抜けると、誰一人として居残っていなかった。

 足を引き摺りながら、学校を抜けて、とぼとぼ歩いた。


 梶原純人が怪我を負ってから、部内の雰囲気は急変した。

 北東高校は三年からの代替わりをしてからというもの、純人を中心にした大会出場メンバーは

、他の高校の二年生たちにも劣らず、這い上がっていった。先輩方の引退は早く、3月いっぱいで二年の梶原たちにバトンは渡された。それからというもの、北東高校は好成績を収めてきた。初発の大会では優勝を獲得している。

 調子が崩れたのは、やはりあの試合のファウルだった。足首をかけられ、大きく捻られた痛みはまだ引っかかっている。三ヶ月の休止はこの競争のさなかでは、かなりの痛手だ。復帰後、梶原純人がスタメンに選ばれる確率はかなり低い。


 水田の畦道を一人通る。ぽちぽちと間隔を開いて配置されている電灯がやけに眩しく感じられた。あの足首をかけられ、頭から衝撃が走ったとき、まず感じたのは眩しさだった。体育館の、あのチカチカする光。それだけが頭に残っていた。それが脳内で跳ね返し反響して、浅ましい。

 純人は暗い夜空を仰いだ。あぁ、シーちゃん。君に会いたい。もう、どうすればいいんだ。君は今、何をしているだ?

 ふと、照明柱に貼られた紙がひらひらと靡いているのが目に止まる。怪しいポスターにも見えるし、一見ボランティア活動の促進にも見えた。なんだか気味が悪く、すく純人は視線をずらした。

 

 住宅街が密集するエリアを迎え、大通りのコンビニエンスストアに入る。じめじめとしていた空気が打って変わって、ひんやりと涼しい空気が純人の肌をなぞる。

 おにぎり。サンドウィッチ。爽健美茶。それらをレジに通し、また湿っぽい空気に戻る。

 喉越し爽快、というキャッチフレーズがあるフィルムを眺めて、それを飲む。ガードパイプに座り、買ったものを頬張る。味がしない。最近、食欲というものが完全に失せているように感じる。できる範囲で散歩や運動を行ってはいるが、それでも空腹と呼べるほどに、食を楽しみに待つことが酷く減少している。かといって、食べないことは体によろしくない。無理をしてでも米を放り込んだ。少し咳き込んで、おかしく感じて、そして笑った。


 時計はすでに午後8時を表示している。薄暗い街道にげんなりしていると、あるものが目に入り、純人は驚いた。予想外といば予想外。されど、見知ったその顔は格段違和感が纏っていない。

 住宅街の一つの家の前、そこに奴がいた。暗い顔をしながら、そこに呆然と直立している。

 純人はここで、少し思いついたように意地悪い心得を奴に享受させることを試みた。

「よぉ。シーちゃん」

 『シーちゃん』は振り返る。それから純人を認めたあと、頬が少し上がる。なんだよ、と言わんばかりに。

「お前か」

「なにしてんだよ、ここで」

「星を見てる」

「は?」

 彼が満更でもないように、肩をすくめ、両手をひょいと上げる。

「そのままの意味。夜空に浮かぶ星を見てる」

「シーちゃん。そんな趣味あんのか」

「ここじゃなきゃ星が見えない」

 純人は圧倒された。なぜだ。そんな疑問が渦を巻く。

 彼の手元をみると、紙袋を掛けていた。『BIGGEST』というノゴが入っていて、とても大きい。

「それ。なんだよ」純人が紙袋を指を指す。

 ああ、と彼が言う。

「この家の人からお裾分けを貰ったんだよ。最近、ここに遊びに行ってる。俺、結構ここの家の人を気に入ってる」

目の前の一軒家を指し示しながら、シーちゃんは言う。

「どういう繋がりなんさ。このあたりに北東のやついるっけ?」

「北東生じゃないよ。まぁ、でも、仲がいいんだよ。大切な繋がりさ」

「そうか」

「あぁ」

 純人と彼は、薄暗い街灯に照らされるアスファルトに足を進めた。

「純人、今日も見学か?」

「チーム状態を見ておかないと。それは怪我でも関係ない」

「リハビリに励んだ方が利己だと俺は感じるけど」

 シーちゃんはニヤつく。ま、お前の意思だけど、と彼は付け加える。

「随分投げやりだな」純人が言う。

「そりゃ投げやりさ。だって俺は無関係」

「それでも、あの日、お前は見に来てくれたんだな?」

 あの日。その言葉一つで、彼なら伝わるだろう。第三シード高との試合の日。純人が怪我を負った日だ。あの日、数多の騒音の中から唯一聞こえた声が、目の前にいるこいつの声だった。

「純人がどれほどの実力なのか批評してやろうと、大事な休日の時間を割いてやったんだよ」

「図々しい物言いだな」

「そりゃそうさ。俺の時間は、今にとっては価値が随分値上がってるから。その中でもお前の試合に行ってやってんだ。これは感謝すること」

 白マスクを着用しているシーちゃんは少し話しづらそうだ。咳き込む様子もないし、顔色も、見る限り悪くはない。

「風邪はいつ治るんだ」

「知らね。いつか」

「早く治せよ。見る感じ回復してる感じはあるけど、まだ悪いんだろ?」

「あぁ。そうだな。その言葉すべて返すよ。自分の足を一度見てから心配してくれない?」

 純人は苦笑いをした。先程のシーちゃんの、リハビリに励め、という言葉を心で反芻する。純人は少しばかり、部活の鬱憤を思い出し、拳に力を込めた。


 純人とシーちゃんは、駅前にたどり着く。

 そこで純人が切り出した。

「なぁ。おっちゃんのとこ、まだやってるかな?」

「どうだろ。今八時ぐらいだろ?駄菓子屋ってそこまで営業するもんか?」

 営業、という言葉に若干認識のズレを感じながら「あそこは色々と寛容。きっと時間にもルーズ」

「確かにあそこは時間指定の看板が見当たらないな。でも、なぜ」

シーちゃんが首を傾ける。彼は意外にもそういうところで純粋さが滲む。態度で漏れてしまうところ、それはシーちゃんの癖でもある。

「甘いものが欲しい」

 シーちゃんが舌打ちする。ちぇっ。

 純人とシーちゃんは線路沿いを暗い道を歩き、やがて目当ての駄菓子屋に着いた。明かりが付いている。それを見て、純人はほっと息を吐いた。

 依然と食欲は湧かないが、甘い感覚だけが欲しかった。味というより、糖分が必要としている。

 廃れ気味の引き戸を開ける。軋んでいて、腕が力む。

「おっちゃんいるか」

 奥に響くように声を張り上げる。レジの前に、いつもいる店主がいない。

 天井に目を向けると、それは黒ずんでいて、築年数が相当なことを察せられる。

 店内の辺りを見渡して、純人は懐かしみを覚えた。

子供のころからの行きつけ。昔は、よく友人と小腹を満たすために買いに行ったものだ。駄菓子屋から上がらせてもらい、おっちゃんの扇風機で涼んだのも鮮明に記憶に残っている。夏の思い出だ。

「あいよぉ」

 しわがれた声がかろうじて聞こえる。すり足で、おっちゃんが顔を出す。少し老け込んで見えるが、白髪のもじゃもじゃ具合は未だ壮健のようだ。

 筋入っている手を上げて、おっちゃんは微笑む。

「すみとじゃんかぁ。なんだいな。お菓子か?ならいっぺぇ食べ。それにしても久しいなぁ。おまえさん、しっかりやってるか」

「まあまあだよ」

 決まり文句を言い放ち、駄菓子売り場をざっと見渡した。後ろからシーちゃんも入り、こんばんは、とおっちゃんに目礼する。おぉ、とおっちゃんは返す。その会話がおかしく感じて、純人は笑いを堪えるために舌を噛んだ。

「ほい」

 純人はレジにラムネを放り投げた。嫌々勉強をするとき、こいつがなければ呼吸ができなくなる。そのくらいにラムネを信用している。ブドウ糖が含まれるそれは、着実に脳に糖分が染み渡る。

「そのぐらいでいいんかぁ」

「いいよ」

「あいょ」

 場違いに、この店の雰囲気に浮いているカスタマーディスプレイに『49円』と表示される。やはり安いのだ。この駄菓子屋を改めて見直す。

「まいどぉ。すみと。またこいよ」

「暇なら来るよ」

「それ来ねーじゃん」シーちゃんが突っ込む。

 おっちゃんが笑い、純人はシーちゃんに振り返る。

「こんなボロッボロの体だ。状態一つで暇人に昇格するんだよ」

「確かに、それにこき使う上回る暇人は存在しない。ごもっともだ」

 言い方があるだろ、と内心思うが純人が切り出したために言い出せなかった。溜め息を漏らした。

「あんたはどうだい?決まったか?」

 手をホイホイと動かし、おっちゃんがシーちゃんに促す。シーちゃんは、じゃあこれ、と言ってラムネを取る。

「同じやつじゃないか」

「そうだ。悪いか」

「いや」

 おっちゃんの笑い声がこの部屋を包んだ。暖かい雰囲気が途端に広がる。おまえらは面白い仲だな、とレジに向かって言葉を柔らかく言う。その姿を見ると、なんだか堪らなかった。


「そういえば」とおっちゃんが改まった口調になる。シーちゃんも純人も黙り、おっちゃんを見た。

「今日な。午後だっけなぁ。そのあたりに万引きしたやつがおって。小学生くらいの小僧なんだが、あんたたちは心当たりあるか?」

 全くもって怒りが感じ取れない声色でおっちゃんは淡々と語る。まるで聴取するかのごとく、おっちゃんの感情はそこに滲んでいない。

「いやなぁ、わしはその小僧に五円を払わせたんだよ」

「五円?」

 純人があっけからんと言う。それにおっちゃんは続ける。

「たまたま昼寝から起き上がるとなぁ、小僧が菓子を持ち出そうとしてたんだよ。わしはいらっしゃいと出迎えたんだが、そこで小僧が急に泣き出した」

 おっちゃんが指を指す。先程、シーちゃんがラムネを取ったあたりだ。

「ごめんなさいごめんなさいって、困ったもんや。それでわしは、五円を払わせた」

「おっちゃん。因果関係がわからない」

 おっちゃんは少し訝しむ。

「言葉遊びを最近の子はしないのか。ごめん、ていっぺぇ小僧が言うから、五円を払わせたということだ。それを払ったら許してやる、とわしが申し出たんだ」

「その子は払ったの?」純人が尋ねる。

 おっちゃんは曖昧に首を曲げる。

「その小僧、五円すら持ってないだろ」

シーちゃんが苦笑混じりに突くように言う。

「あぁ。そにゃ万引きを心を得ていたからなぁ。手持ち無沙汰で立ち尽くしていたぞ」

「どうしたんだ。その後」

シーちゃんが首を傾ける。

「わしが五円を貸して、それを払わせた」

 シーちゃんの肩が揺れる。彼の笑っている顔を容易に想像できた。

「いいな、おっさん。俺、おっさんのこと好きかもしれない」

 少し上から目線すぎではないか、と心配に思ったが、杞憂だった。おっちゃんの顔は綻びる。

 ありがとさんよ。おっちゃんは少し手を合わせて叩く。面白いようだ。

「でも、それじゃあ何になるの。おっちゃん叱らないの?」純人が尋ねる。

 すると、シーちゃんが純人を睨みつけるように振り返る。

「お前はなんもわかってやしないなぁ。その行為に意味があるんだよ。五円をおっさんに払う、そのことに意味があるんだよ」

 損得勘定を持つなよ。

 シーちゃんの目は真剣だ。純人は少しおじける。

「すまんよ。何をそんなに威張る必要がないじゃないか」

「人の怒りってのは凄いんだぜ。すぐにお前を弱らせることができる便利な道具だ。その使い勝手の良すぎる物をおっさんは威張る道具として使わなかった。俺、そういうところが好きかもしれない」

「俺は現在進行形で弱ってるんだ。足元を見てくれよ」

 おっちゃんのしわがれている笑い声が響く。シーちゃんも純人へ向けて笑いかける。その目はさっきとは異なる柔和な瞳だ。

 ディスプレイに数字が表記された。純人と同様の数字だ。シーちゃんはレジに向き直り、おっさんにお金を渡す。

「もしかして、おっさん、この駄菓子屋に来客する全員にその小僧というやらについて尋ねているのか?」

「あぁ、そうだ。なんせ服がとてもじゃないが一般的だとは言い難かったからな。質素だ。それで、少しわしは心配だ。すみと。あんたに弟はおるか」

純人は首を横へ左右に振る。

 おっちゃんはシーちゃんを見る。シーちゃんも首を振った。残念そうにおっちゃんは、そうか、と嘆息を吐いた。

 その時に、シーちゃんが、持っている財布を逆さまにした。一つのチャックが開いている。そこから、流れるように小銭が溢れる。ジャラジャラジャラ。

多少なり床に散らばるものも存在した。

「おぉ」とおっちゃんが目を輝かせる。

 シーちゃんはおっちゃんに向き直り

「おっさん、これで許してくれよ」と言った。

 レジの傍の青いカルトンに、大量の五円が山積みになっていった。純人はそれを見て驚く。

「お前、なんでそんなあるんだよ。さすがに払い過ぎだろうが」

純人はレジに近づき、シーちゃんにケチをつける。なにをしてくれてんだ。おっちゃんが困るだろうが。

 シーちゃんは飄々とおっちゃんに視線を向けていた。その横顔が、とても鋭くて、純人は彼の内に秘める何かに怖くなった。

「おっさん。これは未来からの贈り物だ。どうか、大切に」

「まいどぉ」おっちゃんが軽快に言う。相変わらず笑っていた。その五円を大切に大切に抱き抱えるように、おっちゃんは拾い上げる。

 それを見ていた純人は、どこか琴線に触れた。これが優しさなんだ、と確認したのだ。

 純人とシーちゃんは玄関口に立つ。

「おまえさんたち、元気でなぁ」

「おっさんも」

 シーちゃんが微笑む。純人も手を振り、おっちゃんと別れを告げる。

 引き戸をガラガラと横へずらし、外へ出る。やはり外の湿っぽい空気は依然と漂っていた。引き戸を完全に閉め、シーちゃんが溜め息を吐いた。それは満足感による幸福な溜め息のようだ。

「今日、はじめてしっかり来たけれど、いいなおっさん。俺、好きだわ」

「愛の告白やめてくれ」

「最大限の愛を込めて、五円を見送って貰った。俺は嬉しかったよ」

「というか、どんだけ五円を持ってんだよ。シーちゃんさぁ、変なところをこだわるよな。五円もその拗らせた趣向なのか?」

 もう慣れたな、と純人は勘づく。

「そうともいえるし、運命の誓いとも言える」

「拗らせた言い方」

「お前の足首は捻られたけどな」


 トラックが通り過ぎる。車の走る音が騒がしく、次いで到来する静けさが著しく寂しさを身についている。

 暗い線路沿いを歩いて引き返す。その間、この場から見える水田が月光を照り返して、純人とシーちゃんを映す。

「田舎って残酷だよな」

シーちゃんが寂しい空気を切り裂いた。彼が続ける。

「とても閉塞的。かといって所属するコミュニティも古めかしい習慣や習性ばっかりへばりついている。俺はそういうところが大嫌いなんだよ」

「俺はシーちゃんの愚痴を聞く担当なのか」

「暇人に昇格した純人くんにはお似合い」

「あぁそうともお似合いですよ」

 街灯が二人を照らす時、暗いぼんやりとしているものが実体を帯びる。自分たちの行方が不安になり得る道を光が導く。それはなんだか、幻想的に思える。

「まぁ、何も変わらないもんな。田舎なんて」

純人は頷いた。

「俺たちにはさ、何か出来事が必要。例えば、ある有名人がやってくるとか。身近な事柄でいえば、明日ケーキを買えるとか。そんなときめきするような出来事が田舎には欠落している」

シーちゃんは流暢に話しているが、決して愉快ではないように思われる。

「なぁ純人。お前、ここから出たいか?」

「あ?」

「この町から抜け出す気はあるか?」

「なんだよいきなり」

シーちゃんが笑う。静かに笑った。それが頭上から街灯に照らされたとき、彼の目頭が赤くなっているのがわかる。彼は俯く。

 そしてシーちゃんは言う。

「俺はお前を信頼してるんだ」

 嘘偽りのないニュアンスが深刻にこびりついているシーちゃんのその言葉は、胸に実体のない疼きを純人に孕んだ。

「そうか」

 純人はそんな言葉しか吐けなかった。なぜか思考が停止したのだ。

「俺はさぁ、薄汚いポラリスを基準に穢れた道を歩こうとしている。だからさ、純人。お前は太陽を見て歩くんだ」

「北極星を馬鹿にしてるのか」

「いいや。逆さ、褒めてるんだよ」

 シーちゃんが続ける。

「ぼんやりと見えるポラリス。それさ、夜空に現れるから素晴らしいんだよ。暗い中に浮かぶ、一つだけの希望を俺を照らす。夜は怖くなんかない、そう思わせてくれる最高の道標。それがあいつなんだ」

 真北をシーちゃんは指を向ける。

「何がいいたんだ?希をてらった表現だ。わかりづらい」

 シーちゃんは純人を横目に見て、笑う。豪快に笑う。まるで誰かに無理強いられているかのように。

「ごめんな。俺は生粋のポエマーなのかもしれない」

「披露したら恥をかくポエマー。狭き田舎にしか輝きをみせないポラリスポエマー」

「北極星は広い夜空の中でも、輝いているんだな。感心する」

シーちゃんがずっと星を見ていた。


——ここじゃなきゃ星が見えない


 純人は先ほどのシーちゃんの言葉を思い出す。

「田舎であるからこそ、俺たちはその星に照らされていることを自覚できているかもしれないな」

「あぁ」シーちゃんが頷く。

 尤もだ。彼が言う。

「純人も狭い田舎に輝ける誇り高き詩人だ」

「不名誉な肩書を頂戴します」

「寄越さない。これは俺の自慢」

「どっちなのかはっきりしろよ」

 明るい光が二人を照らす時。それは頭上から降りかかる光ではなく、背中に流れ過ぎる眩さ。近場にある建物も巻き込んで放つ。

 純人は後ろを振り返り、唖然とする。

「おい。あれ上り電車じゃないか?」

「あぁ」

「急ごう」

 純人が走ろうとする。しかし、瞬間的に激痛が彼を苦しめた。走行する音が徐々に大きくなってくる。

純人は跪き、呻いた。クソ、なんでこんな時に。

「ほら。足をよこせよ」

  目の前にシーちゃんが背中を純人へ向け、屈んでいる。

「早く、純人。背中に乗れ」

「いいのか」

「全く構わない」

シーちゃん、大丈夫なのか。転んだりしないだろうか。純人はそんな不安を振り退けて、彼に背負われる。

 電車へ向けて、夜空に浮かぶポラリスに照らされながら、走る。



 まず、爽快感を感じた。シーちゃんの背中から見下ろす景色もそうだが、頬に風が吹いて行く感覚、顔の輪郭が縁取られていく錯覚がして、快感だった。時刻は等速に刻まれているはずなのに、純人とシーちゃん二人だけが、時間を回しているようだ。辺りは全然薄暗くないように幻想も見えた。

 いい具合に感慨深く浸っていたが、それはすぐさま不快感へと通じるのが、純人には不思議だった。

 シーちゃんは駅に滑り込み、改札を飛び越えた。純人を背負っているのにも関係なしに、彼は素っ頓狂に軽々と飛び越える。いわゆる無賃乗車をこいつは行おうとしている。

「何してんだよ。払わねーの」

純人がシーちゃんに彼の背後から耳打ちすると、シーちゃんは満更でもない表情で横目で見る。なんだ、気にしてるのか、と言わんばかりの挑発にも受け取れる顔。ニヤニヤだ。

 発車のメロディーが、券売機にて切符を買っている虚しい二人を煽り立てるようだ。もう、穏やかな暮らしへと進んでいる。先程の爽快感は一切を払拭させられた。

「純人。愉快に行きやがったよ、あの電車。俺たち二人が乗ってやろうとしてやってるのに、この寂れた駅は構わないらしい。頭のネジが少し飛んでるんじゃないか」

「小銭もやらないで電車に乗られても、乗務員は荷物が増えるだけ」

「お荷物ウェルカムなクルーじゃないのか。俺はもうすでに純人の電車としての役割を果たし切った。ついでに次は、俺が荷物になろうかと思ったんだけど」

 屁理屈にも程があるだろう、純人は思ったが、面倒ごとになり得るため口を塞いだ。

 改札を軽快に飛び越えた怪しさが溢れ出ている純人たち二人を、正式な方法で通り抜けた今でも駅員は、じろじろと観察している。

 純人とシーちゃんは階段を登り、ホームへ出る。後方にある錆のついたベンチに寄りかかった。純人は、五つある中の一番左に座り。そこから二つ飛ばしたところにシーちゃんも座る。

 うら寂しいこの駅は、向かい側にちらほらと背広の男がいるくらいで、人は少ない。どんよりとした空気が感じられて、純人は切り出す。

「常識をわきまえてくれ」

二人分空席を開けた先にいるシーちゃんが純人を一瞥する。そして笑う。

「正義感があるのは素晴らしい」

笑いながら言うシーちゃんの口調には嫌味が感じられない。本当に賞賛しているのか、純人は訝しむ。

 やっぱお前は偉いよ。

 シーちゃんはそう言って、電光掲示板を見た。そして指差す。

「こんな駅のくせに、機械導入するのはどうなんだ?正直無駄に取り繕っているとしか言いようがないなぁ」

「いいだろ。時代に則っているんだ。というか、無い方が俺は困る。確かに田舎だけど、あった方が得するのは、シーちゃんもじゃないか?」

「そうか。時代か」

彼は一言呟いて、黙る。

 ワンテンポ置いて、シーちゃんは口を開く。

「宮見は懲罰とか下すのか」

 不意の話題の転換に純人は戸惑った。

「宮見先生かぁ」

「随分、お前を気に入っているらしいけど」

「足を見ろ」

「見ても、だよ」

 宮見は梶原純人の所属する北東高校バスケ部の顧問だ。冷徹で、分析力に長ける彼に、部員は怯えている様子もある。そのため、叱咤する場合にも論理の首尾一貫が整っているため、部員は反論の余地などないのだ。

「俺はあいつが嫌いなんだよ」

「そうなのか」

 シーちゃんの予想外な告白に、また戸惑った。シーちゃんの感じと、宮見の感じ、似通っていると思っていたからだ。

「純人。お前、部活休んじゃえよ」

「無理だ」

「なぜ」

「お前こそ、なぜだ。部活なんて俺の勝手だろう?」

「勝手ながらに、自分は純人が休むことを期待してるから」

「哀れみとかいらないからな。同情もさして必要ないし。足首のことなんだろう?」

「まぁ、なんでもないよ。忘れてくれ。それでも、一つだけ、教えてくれないか?質問を」

 改まった声でシーちゃんは、言う。何か、恐ろしい事を告げられるような。嫌な汗が沸き起こりそうだ。

「なんだ」

「イラつかないか?あの試合のことを」

 試合?きっと、第三シード校とのことだろう。純人は頷く。そして、疼きが急に胸を襲う。

「あぁ、そうだよ。イラつくよ!イラついてしかない」

「お前のスポーツ選手生命は、あの野郎に奪われた。あのファウル野郎に、今の時間を削ぎ落とされた。その認識で間違いないか?」

 純人はベンチの肘掛けに拳を振り落とした。ガンッ!この音は、体育館でパイプ椅子を蹴られた音に覚えがある。もう一度、拳を落とす。ガンッ!

 純人は、自堕落な姿勢で俯いた。

 なんだか、今日は全てを投げ出してやりたい気分になる。シーちゃんの言いたいことも、理解できなかった。

「そうか」

一言。彼が言う。

 突然の怒りに対しても、こいつは冷静だった。

「純人、顔上げろ。電車が来る。随分早いじゃないか。寂れた駅も捨てたもんじゃないな。もちろん、お前もな」

 開かれたところから、光が照らした。

 ホームを囲む暗闇と、やってきた上り電車から差し掛かる照明の光による対比は、夢心地のようだ。

 倒れ込むように、電車へ体を投げ出した。幼少期、罰則として閉じ込められたクロゼットから、とうとう解放された瞬間を連想させた。闇の恐怖から安堵の光。連想が連想を呼び、純人の足の輪郭は歪んでくる。


 目を覚ますと、隣にシーちゃんが飄々と座っているのを横目に確認できた。

 視線を感じたのだろう。シーちゃんが純人をちらりと首を傾けて、何とも言えない表情を浮かべた。

「なんだ、もう起きるのか。意外と眠りが浅いんだな」

「俺は寝てたのか」

 あぁ。

 シーちゃんは大袈裟に頷いた。過剰な動きだな、と純人は内心でぼやつく。

 それと、純人はあるものに目を向けた。シーちゃんの傍にあるバッグについているキーホルダーだ。可愛らしい悪魔のようなもの。

「もうすぐ着く。たった一駅を通り過ぎるだけだそ、お前が寝てた時間は。逆に珍しい、感心する」

「感心することでもないと思うけど」

 頭が重かった。電車の揺さぶってくる振動が余計に事態を悪化させている。疲労感がどこかから沸々と湧き起こるように身体を蝕んだ。

「五分くらい、いびきをかいていた」

 シーちゃんが言う。

 純人は、その五分の眠りの間に、長い夢を見ていた気がした。

 デジャブの感覚が脳に駆けてきて、純人は頭を振り回した。嫌な禍いを振り払うように。ヴィジュアル系バンドが、ステージ上で色彩豊かな長髪を靡かせるように、頭を上下に動かした。

「すごい動きだ」

隣の声が聞こえたが、相変わらずに頭部を回した。

「よし」

 それから何回か頭で円を描き、最後に手で頬を強く叩いた。

「これで完璧だ」

決まり文句を閑静な電車でポツリと漏らして、奇異な行動は終了を告げた。見知らぬ人が目撃したら、不審がられること間違いない。それは自覚している。

 シーちゃんは純人に拍手をする。

 お見事。とボディビルダーの大会にて、冷蔵庫!だとか、あるいは、よ!板チョコ!というような声色でシーちゃんは掛け声をする。純人の行動を鑑賞するような具合にだ。

「それ、いつもの恒例?それとも殿堂入りしちゃってるほどにお気に入り?」

「仕方なく。まぁ、ここの車両にお前しかいないから」

「俺はそれ好き。そうか。嫌なことがあったらぶん回せばいいのか」

シーちゃんがほとほと感心したように呟いた。純人からしたら何気ない一つの生活の行動だと認識しているが、シーちゃんからしたら新鮮味を帯びているのだろう。

「嫌なことも脳内でシェイクするんだよ。そういうものだろう。脳内シェイクだ脳内シェイク」

「純人は他人行儀だなぁ」

「もう嫌ではなくなったからな」

「嫌なことあるの」

「目が節穴?足見える?」

「あぁ」


 次に、甲高い音が耳に響いた。線路と外輪の摩擦だ。

 片方向へ体の重心が傾き、数秒後に落ち着きを取り戻す。ブレーキ緩解音が鳴り、電車の扉が開く。

 シーちゃんがすぐに立ち、ホームへ出る。外は変わらず闇に支配されていた。

 純人も立ち上がり、シーちゃんの後を追う。ホームに足をつけ、電車が発進する。

 名称の分からない昆虫の囀りが否応なしに響くこのホームは、北東高校前駅と同様に、殺風景で寂しい。

 ふと気づく。正面に立つシーちゃんの背中の周辺に発せられる不気味な暗さは、環境の影響なのか、または彼自身の意思によるものなのか見当がつかない。

 横目に見えていた去り行く電車の光も、失せる。

ホームの天井の蛍光灯は、この夜を照らすには、あまりにも無力だった。

「純人」

 ぼんやりとした輪郭から、確かにシーちゃんの声が聞こえる。しかし、それが彼の口から出されたものなのか、断定できるほどでもない。

「どれほど田舎であっても、何十年と住んでされいれば、そこは都だ」

 その声に、純人は姿勢を正した。厳密には、だらしない格好では、今のこの声色はあまりにも聞くに耐えないためだ。

 下校中と思われる女子高校生二人が、純人たちを訝しる視線を向けているのが、わかる。棘のようだ。

「田舎は大嫌い。それは間違いない。隣の芝生は青いとか言われているけれど、田舎の不快感は確実なものだと思う。けれど、俺はここに生まれ落ちた。田舎な町でも、ここは俺の都だ。これもまた、確信している」

 どこか、彼に口出しをしてしまえば、ホームから線路へ突き飛ばされてしまうと感じた。シーちゃんは真剣だ。

 パシャ。パシャ。

 女子高生たちのスマホレンズに、純人とシーちゃんを映す。パシャ。パシャ。

「もし俺の都に、残酷な災害が来たらどうするか。俺の町に、津波が迫ってきたら、どうするか。純人。お前ならわかるか?」

 シーちゃんが純人へ振り返る。そして、暗黒に苛まれるホームに、また刹那的に残酷な光が広がる。パシャ。パシャ。津波が襲う。

 純人は歯を噛み締める。何かを発してはいけない。声を出してはいけない。脳内回路は、そのような警告を出している。

「俺はな、思うんだよ。ならば、逃げて、逃げて、逃げ回ればいい。その津波から逃れればいいんだ。遠く、その災害が届かないところへ、必至と思われる状況から、変えちゃえばいいんだ。俺は思うんだよ。それが都落ちだ、と時代遅れな奴らに思われたとしても、俺はそれを認めない。必要なことなんだと思うんだ。逃げてしまえばいい。絶対に敗北していない。逃げることは恥かもしれないが、存外役に立つんだよ」

 津波は失せていた。すでに高校生たちは消えていた。ホームには、純人とシーちゃん二人が並ぶだけだ。

 シーちゃんは純人と向き合う。彼は、眉間に皺を寄せていた。不思議なことに、その顔は感情的ではなく、慢性的に作り上げられた必然性を伴ったものに思えてくる。純人は震えた。

「純人。お前に頼みがあるんだよ」

 暗闇にかき消されそうなほど、か細い発音だった。

 それから、シーちゃんは『BIGGEST』と書かれた紙袋から、財布を取り出した。チェックを開けて、何かを引っ張り出す。仄暗い、さしてここでは意味もないだろう蛍光灯の光を、それは微量に返した。丸くて、小さい、茶色の物体。

 五円玉を純人へ放つ。

 シーちゃんは不適の笑みを浮かべた。彼のバッグについている子悪魔のキーホルダーが揺れる。

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