3 終わりの旅
もしも、明日がわたしの人生最後の日だと、仮定する。次の日がやってきて、朝日を浴びる自分の身体は死体。本当にそうなると、まず、わたしは想像してみる。
死因はなんだって構わない。火事でも。大地震が起きて、家が倒壊して、体が下敷きになるでも。
幼い頃、病院にて聞いたことがある。
『人は未来、死ぬとわかっていると、まず後悔をするんだ』
確か、母の通っていた病院。その中の結核を患っていた方だと記憶している。もう長く持たない、と宣告されていた50代くらいの男性。
『ぼくは、とても後悔してるよ。もし、一ヶ月後にぼくが死ぬとしたら。そう考えてると、謝らなければならない人が沢山いる。山ほどいる。だから、これから退院して、旅に出るんだ。終わりの旅をね』
『ヤダァ。そんなことを言わないでよ、永山さん。あなたはまだまだ生きれますよ』
母の宥める声が鮮明に残っている。
永山さん。そうだ、永山。あの人は、今、この世にいるだろうか。
『希依ちゃん。だからさ、君は後悔しないように生きな。ぼくは後悔だらけ。ぼく自身、死んでも悔いはないけど、ぼくが傷つけてしまった人たちに何もしてあげないで、死ぬことは、ぼくには癪なんだ』
『コウカイ?』
当時のわたしは、まだ保育園に通っていた年頃だった。『後悔』なんぞ眼中になかった。ただ、TVで放送されている可愛らしいダンスを無邪気に踊る。それだけのことしか目がなかった。
『オネエチャン。キノウ、アッタデショ。ケンカ』
二歳年下の弟は、わたしより産まれるのが遅かったくせに口が達者だ。
『アレ、コウカイ?オネエチャン』。彼はどうやら、頭脳に恵まれているらしい。
『アア。アッタネ。コワシチャッタヨ』
『オネエチャン。ソレハ、ヤッパリヒドイ』
母の笑う声が聞こえる。ウフフ。そんな感じの。
永山さん。あなた、何を後悔したのですか。
世界から離脱するとき。死を真っ当したあなたは、一体、どこへ向かうのですか。
もしも、私が明日死ぬと仮定する。明日、首を吊ろう。そうして、苦しんで苦しんで、朽ちてゆく。
ちゅうぶらりんの足が揺れるとき、私、一つだけ後悔することがある。
それは、またその病院の前日。浮かび上がってくるのは、保育園と自宅。それと、弟。
キイちゃんは怒っていた。
閑散な道に雪に歩を進めながら、プンプンに頬を膨らませていた。
どうして、作ってくれないの!
昨夜はお母さん、パンケーキ作ってくれる、て言ってたのに、今朝出てきたのはエッグトースト!
卵嫌い、て駄々をこねても、お母さん、笑うだけ。
それがもっと嫌になって、今日はとても怒ってる。
どうして大人の人はあんなに平気でいられるのかしら。だって、パンケーキを作らないんだよ?それって、とても悪いこと。
腹立たしく、足を踏んだり蹴ったりしながら、わたしはお母さんと一緒に歩いていた。
詳細には、わたしが前を早く進んで、お母さんが少し遅め。わたしとお母さんには少し間が開きながら、保育園へと怒りをぶつけに向かっている。
たまに後ろを振り返る。それでも、まだお母さんは笑ってる。もう!
とうとう保育園に着いてしまって、わたしの怒りの頂点はピークに達した。なにを理由があるわけではないが、わたしは怒鳴り散らかした。
思うと、イヤイヤ期なんじゃないか、と疑問だけれど、当時でも普段はそこまで躍起にならない性分だと自負していた。しかし、そのときのわたしは我慢ならなかった。
「いつもお世話になっています。今日もよろしくお願いします」お母さんが出てきた保育士に言う。
なにその丁寧な挨拶!
些細なことでも、わたしの怒りメーターは蓄積されていくのだ。
そして、事件は昼食後に起きた。
「はいはぁーい。よくきいてねぇー。これからぁー、はっぴょうかいをするよー。おうちで、しっかりつくってきたかなぁ?おともだちと、みせあいっこしてみようねー」
わたしの所属している『うさぎ組』での展示会。事前に、各々家で工作をして、この場で互いに鑑賞し合う、というイベント。特にこれといったテーマは存在していなく、自由工作だと言う。皆が一所懸命にこの日のために作ってきたのだ。
わたしは面倒くさかったため、すべてお母さんに委ねた。
「ぶーんぶーんぶーん」
画用紙で制作された飛行機をゆらゆらと振って遊んでいる男の子。しっかりした工作だった。基盤もしっかりしている。
「おれにもやらせてー」「ぼくもぼくも」「さわりたい」
注目の的となった飛行機を掲げながら、その子は誇らしい顔をする。全部、おれがつくった。と、その子は胸を張る。
その子たちを他所にわたしは、大きな袋から、母作の作品を取り出す。大きな作品だった。
「キイちゃん。それ、すごいねえ」
『うさぎ組』を担当している保育士さんが、わたしにスポットライトを当てる。
「じょうず!まぁ、きれい」
少し大袈裟ではないか、とわたしは思う。ちっとも嬉しくなかった。なぜなら、これは母が作ったのだから。
保育士の声かけの影響は、この狭い空間では絶大だ。『うさぎ組』のみんなが、わたしへ、母の作品 へ、首を傾ける。
「えええーすごぉい」「さわりたいさわりたい」
「なにあれ」「オマエがつくった?」
わたしの顔は、紅潮していたと思う。それは、怒りによるもの、または、辱められたこと、そのどちらの要素も混在した不安定極まりない気持ちのブレ。
「キイチャンすごーい」
一人の女の子が近づく。
「ちぇえ、あんなのゴミだよゴミ」
遠くから、そんな声が耳に入る。先程、飛行機を披露していた男の子だ。見ると、わたしを訝しむように彼は言い捨てていた。
「くっだらねえ」
彼は手元にある自作飛行機をクシャクシャにした。こんなの、いらない。そう言い捨てて、地面に叩きつけて、クシャクシャに、ゴミのような扱いをする。
「もったあいない」「なにしてるのぉ」「せっかくつっつたのに」
そんな声たちを振り払いながら、彼は「ぜんぶ、あいつのせいなんだよ!!」と、希依を指しながら怒号をあげる。それから彼は慟哭する。飛行機を振り回していた時と、別人のように泣け叫んだ。
そして、彼は一言、わたしを睨みつけながら言う。
—————アイツなんかしんじゃえ
鋭い視線だった。それは嘲笑も含んでいるように思う。その目は、今でも脳裏に焼き付いている。
帰宅すると、わたしは我慢ならなかった。
家を蹂躙して、さまざまな家具や物を壊して回った。カーテンを引き裂いて、壁に椅子を叩きつけて穴を開けた。枕を破いて、食器をリビングに投げつける。
足は血だらけだ。酷く腕が筋張っている。荒い呼吸を整えもせず、癇癪を起こした。腕を振り回して、体を思うままに任せる。行き当たりばったりに、体をぶつけては、苛立ち、また暴れた回る。
わたしはこのとき、初めて人間ではない感覚に襲われた。感情に生きるとはまさにこのことだ、と確信する。
階段から降りてくる音が聞こえる。
「お姉ちゃん!」
あぁ、お前か。
弟が、わたしに駆け寄る。腕を掴んで、足に手をかけては、弟は転げ回った。
「お姉ちゃん!ダメだよ!もうやめてよ!」
希依を制止させようとする、その弟の行動が腹立たしかった。わたしは、腕を振り回す。
「あぶないよ‥お姉ちゃん!」
ついにわたしはダメになったのだな、とその時は強く自覚したのを覚えている。二歳下の年少の弟の方が、よっぽどできてるじゃないか。そういえば、弟は今日、休みだったのか。場違いなことを思い出す。
弟が腰に纏わり付いた。手を大きく広げて、取っ掛かる。
「なんなんだよ!お前!」
わたしは弟の頭を強く押した。弟は尻餅ついた。
「どうしたの‥お姉ちゃん」
「うるさいよ‥うるさいよ‥うるさいようるさいよ!」
母は病院で家には希依と弟しかいない。目の前の惨憺たる有様は、まさにボロ屋敷のごとく荒れ果てていた。
弟は、しっかりと私を見つめていた。そこに泣く気配は微塵も感じ取れない。
わたしはリビングの机に、頭を打ちつける。ドン。ドン。もう、どうにでもなってしまえ。その思いを、テーブルにぶつける。
「ダメ‥いたいよ‥ダメだよ‥」
またか。弟が縋り付く。わたしはさらに強く弟を投げる。
「なんなんだ!なんなんだよ!お前は!」
「お姉ちゃん、傷ついてる。ダメだよ。痛いよ‥」
その後、わたしは作品を壊した。それが何なのか認識できないくらい。わたしは潰したり、壊したりした。これがいけなかったんだ。これさえなければよかったのだ。
わたしは弟に向き直った。
そして、告げる。
「あんたなんかに、二度と口聞かない」
弟の瞳が揺れた。彼の、滅多に見せない動揺の色。
その後の記憶はあまり定かでない。次にやってくる記憶は後日の病院での永山さんだ。そのときでは、わたしと弟は仲直りしていた、と脳内では認めている。
ただ、動揺した弟の顔はずっと記憶に新しい。
わたしが死ぬとするならば、後悔することは二つ。
一つ、お母さんの作品を壊したこと。
二つ、弟を悲しませたこと。
目を覚ますと、そこは自室の暗闇だった。どうやら、夢にうなされていたらしい。
ベット脇のスマートフォンに手を伸ばし、入力をする。
家を飛び出して、深夜の暗黒を足が進む。
大通りを抜けたところに、メガモールがあり、そこを迂回すると、森への小道が現れる。
木に囲われた影を進んでゆくと、あるところから、開ける場所がある。そこには、大きな湖があり、豊かな緑に囲まれた、自然の境地。月の光が眩しかった。
ゆっくりと、そこに漂う空気を吸い込む。ほのかに暖かい。
水辺へ近づき、わたしはそこに膝を抱えてしゃがむ。
弟はもう、いない。母も、いない。わたしは、後悔を、謝るべき人たちを失ってしまった。
昆虫の囀りが聞こえる。土のほろ苦い匂い。夜空に浮かぶ星の数々。
ふと、わたしはあることを思い出す。
弟——あきとはあの日、鳥になったのだ。
潅木が風に揺れる。