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2 beautiful戸部



 佐々木正喜(まさき)は苦笑する。

「そう思わない?めちゃbeautiful」

 六月下旬。もうそろそろ蝉が現れてくるころだろう。春に代わる蒸し暑い温度、そしてほのかに匂う夏の雰囲気が、ここにいるスクール水着姿の高校生たちを刺激する。

 そして、隣にいる戸部(とべ)くんは少し変なことを言っている。

「なぁ佐々木。ここは特等席だ。見ろよ、絶景だぜ」

「戸部くん。僕はあまり共感できないよ」

 男子が先に冷水シャワーを浴びて、続いて女子。という順番になっていた。先に男子は火傷をしそうな熱い地面の上で、準備体操を行う。体操最中に、前にいる戸田くんが声をかけてきた。後ろをチラチラ見ながら、beautiful、と発音良く言っている。

 少なからず異性を意識している子は他にも多分、このプールには存在する。でも、戸部くんのようにあからさまなに言うのは、まるで小学生に見えてしまう。

 中学校でもきっとプールの授業は経験してるだろうに、戸部くんは、今、目の前ではしゃいでいる。

「なぁ、お前も気になってるんだろうぉ?」

「そこ。うるさい!」体育教師が制する。

 戸部くんは僕より少し背が小さい。そのため、整列では僕の前に戸部くんがいる配置だ。さっきまで彼は後ろを向いては僕に茶々を入れてくる。

 もし注意されなかったら、戸部くんは授業中、ずっとニヤニヤしているのだろうな、と僕は想像する。そして、佐々木正喜は苦笑する。

 渋々体操に戻るその顔は、まだ頬が引き攣っている。

「beautiful超えて、ファンタスティックなのにな」と戸部くんはおちゃらける。ファンタスティックと。beautifulより発音がカタコトなのが、少しおかしくて、吹き出しそうになった。

 

 高校2年の水泳の授業では、まずグループ分けが施される。Aグループから続いて、B、Cと、初回の授業にて一人ずつ25メートルを泳ぎ、教師が相応の能力の階級へ振り分ける。

 Aは25メートル完走は当たり前。大多数はスイミングスクールに通っている、または運動神経のいい子たちが集まっている。

 僕はBグループ。かろうじて25メートルを泳ぎ切れるぐらいで、クロール以外習得していないし、息継ぎも大分危うい。


 ホイッスルが響く。隣のAグループの縦列が前進し、先頭の戸部くんが飛び込み台から水に下降する。水飛沫が乱暴にならず、静寂に泳ぐ。滑らかに水面をなぞり、向かい側からターンを造作なく切り返す。体感30秒もかからずに戸部くんは、澄ました顔をしながら地上に上がり込む。

 やがて、また彼は僕をみてニヤニヤする。先程までの生真面目な行動とは相反する、彼の僕に対する怠慢な接し方はなんだろうか。まるで水泳のことなんかどうでもいい、みたいな振る舞いを、今日の戸部くんはやたらと行う。

「なぁなぁ、そう思わないかぁ」

 僕は努めて安寧な言葉を頭から選り抜く。

「戸部くんは積極的だなー」

「積極的?どゆことさ」

「そのままの意味だよ。戸部くん、そこまで気になるのは、すごくいいことだよ。なんせこの場で堂々と好きを出せることは戸部くんの性質だと思うよ」

皮肉ったらしくなってしまった。けれど微笑みながら僕は言う。

「セイシツ?なんかさ、佐々木。お前どうしたんだよ」

「どうしたって?」

「いや、いいや」

 戸部くんはプール方面へ素っ気なく首を振り戻す。

戸部くんは遠くを見据えているようにも伺える。その目は今を見ていないようにも。

「佐々木」戸部くんが前を見ながら言う。

「なに」

「お前は楽しいのか」

 冷静な声色を僕に押し付ける。

 戸部くんは少し男らしくない。可愛い系、まではいかないが、儚い透明感が彼には纏っていて、僕はその上品さは唯一無二だと思っている。

「楽しい?」

 少しの間が開く。沈黙が僕たち二人を結ぶ。

 ちょっとして戸部くんは向き直り、さっきと同じ変な態度で指を差した。それを追い、僕は嵌められた、と思う。

「beautiful」

 無駄に発音の良い、戸部くん特性の英語を炸裂させた。また、ニヤニヤな顔をする。

「そんな。戸部くん」

 あ、UFOいた。

 今戸部くんがやって見せたのは、それと同義だろう。他のことに注目させて、不意にうってかかる卑怯なやり口を簡単に戸部くんは成し遂げた。

「なぁなぁ。実際はどうなんだよお」

 戸部くんが指し示した女子たちは、この会話をしている僕たちを見ていた。僕も見つめ返す。ざっと眺めて、戸部くんを見る。

「君の意図してることがよくわからないよ」

「単純明確。お前のボロを出すこと」

 僕はさっと前を向く。甲高いホイッスルの音が警告音のように僕の心臓を突き刺す。鼓動が確認できるまで、ドクンッドクンッ。体内に巡る。

「ボロなんてないさ」

「恥ずかしがるなよ俺を見習え」

 またもや甲高い音が響く。前の人が飛び込む。次は僕の番。

 ゆっくりと息を吐き、僕の顔は紅潮する。

 飛び込みは苦手だった。前の人がゆっくりと着実に前進して、向かい側にたどり着く。ぜえぜえしながら、両手をつけてよじ登る姿。

 飛び込み台に足をつける。


 恥ずかしがるなよ俺を見習え


 直前に戸部くんが言ったことを反芻する。

「恥ずかしいよ‥僕は」

 ホイッスルが鳴り響く。僕は力一杯に振り絞る。そうしなければ、僕は今にも転げ落ちてしまう。

 飛び落ちるように、水に浸る。水の動く音が僕を掠める。

『———————』

 必死に僕は振り動かして、足をバタバタとさせる。初回の授業で体育教師が、もっと力を抜け、とアドバイスしてくれた。だけど、そんなの今の佐々木には困難だ。今、力を抜いてしまったら、多分、溺れる。

 必死になって泳いでいる僕の姿を見た、戸部くんや女子、その他大勢はこう言うかもしれない。


『めちゃくちゃdirty』


 水の中でも血の感覚が意識できた。僕はあまり飛び込みたくなかった。毎回、変な感じになる。

 ここでギブアップしたらしたで、注目を浴びてしまう。なので、辛抱どころなのだ。バタバタ、バタバタ。戸部くんの静かな泳ぎ方では決してない。


———お前は楽しいのか


 楽しくなんかない。辛いだけだよ。何も面白くなんかない。

 疲れ切った足を持ち上げて、火傷を負うかもしれない灼烈の地面へ、体を投げ出す。

 息が上がり、顔が上気していることがわかる。

ゆっくりと深呼吸を三回ほど繰り返して、ようやく正常に焦点が定まった。

 プール方面に振り返る。すでに、次の人がスイスイ流れて中間まで迫ってきている。Aグループの人は僕が到着したときには、ターンもして泳ぎ終えているのだろう。

 僕はABCに並ぶ列へ戻る。足の裏が焼かれているようで、跳ねるようにつま先立ちでプール脇を進む。


 Bグループの列へ戻ると、僕は息を呑む。

 みんな、僕の顔を見ていた。睨むようにも、哀むようにも解釈できて、その30余りの全ての顔が佐々木に集中されていた。咄嗟の予期せぬ目線の様々に怖気ついた。心臓がまた高鳴る。

 スタート合図が鳴る。僕のときのホイッスルより、弱い音。小さく響いた音で、みんなの視線が一斉に止んだ。

 水に入り込む音も同時にする。水飛沫をたてていた。それは戸部くんだった。慌てているのか、焦りを募らせているのか、速やかな戸部くんのフォームは今回ばかりはぎこちない。それでも、僕の『dirty』より断然『beautiful』であるのは、火を見るより明らかだった。

 戸部くんは呼吸をするように切り返し、すぐに帰ってくる。

 水泳ゴーグルを外し、Aグループの列にやってきた戸部くんは、ちょっと筋張っていた。緊張なのか。焦りなのか。そのどちらにも属さない感情が彼に渦巻いているようにも思える。

 戸部くんは僕を一瞥して、今度はふざけなかった。自身の足元を睨みつけていて、彼の持つ透明色がより際立った。



 水泳授業が終了し、教室へ戻るさなか、僕は一人のクラスメートに話しかけられる。

「ううん。あまり心当たりがあることはしてないよ。でも、無意識に何か言っちゃったかも」

 お前、戸部になにしたん?

 そう問いかけてくるクラスメートは戸部くんといつも一緒に行動を共にしている。

「別に佐々木のことを何か言いたいわけじゃないんだよ。なんとなく今日のアイツ、様子がおかしいんだよ」

 僕は後ろを振り向く。三組ほどの集団のさき、戸部くんが廊下の床を見つめながら歩いていた。濡れた髪と、その虚ろな瞳が醸し出す雰囲気は、確かにいつもの戸部くんではない。さきほどのプールでふざけていた戸部くんは、もっと晴れやかだ。

「一応、僕、何かしちゃったかもしれないから、謝っとくよ。幸田(こうた)くんも何か心当たりある?」

「げっ。俺はありまくりだよ。あいつと色々やらかしたりしてるし」

「そうなんだ。でも、確かに不思議だなぁ」

 な。

 幸田くんは、後ろで一人ぼっちに歩く戸部くんを振り返らない。

「僕、戸部くんとあまり話したことなかった」

「そうなのか?」幸田くんはびっくりした様子。

「うん」

「お前ら、めちゃくちゃふざけてたじゃないか」

「まともに話したのは今日が初めてかも」

 目を見開いた幸田くんは、やっと後ろを振り向いた。プールが付属している一号棟から、二学年中心に集まる二号棟へ、外廊下を通じて渡る。校舎へ又入り込み、見えてくる階段を上がる。

「まじか」

 テレビの回線が悪いみたいで、僕はおかしく感じる。遅れた反応を幸田くんは言う。どちらかと言うと、僕は幸田くんとの方がよく喋っていた記憶だ。

「お前ら、めちゃくちゃ様になってる。少し遠目からでもわかるぞ。佐々木と戸部のふざけた漫才みたいなくだり」

「ふざけたつもりはないんだけど‥」

「ビューティフルって、釣られていたじゃないか」

「あぁ」

 戸部くんの見事な騙しに僕はまんまとハマった。

 幸田くんは結構人を見ているのだなぁ、と思う。あのとき、人からの視線は感じなかった。CグループはBとAほど近くない。その僕たちを見るほど、幸田くんの観察眼は侮れない。

「俺もお前んとこ行きてぇーな。なんせ、Cだぜ?つまんねぇーよあそこ。面白いやつ誰もいない」

「山川くんとかは?」

「は?あいつ?むりむりむりむり」

 手をブンブン振り回して、全力の拒否を彼が掲げた。

「お前はよくアイツと話せるよな。会話の軸がよくわかんねぇー萌え系のアイドルと元素記号じゃんか。おまけに呪文唱えてんのかってぐらいの口走りがお得意」

「山川くん、結構話してて楽しいよ」

 幸田くんはポケットに手を突っ込んで、首をグニャグニャに傾けたり、かと思ったたら、手を伸ばしたり、軟体生物のように体が奔放だ。今日もどうやら、バッティングに行くらしい。

 三階に上がった僕と幸田くんは、自分たちの教室を目指す。

 日差しの角度が狭くなってきている。徐々に光の当たる密度が増して、蒸し暑さがこの山に囲われた町を苛む。

 廊下を歩いていると、別クラスの開け放たれたドアから光が僕たちを照らした。暑いな‥。去年はここまでだったっけ。地球温暖化がどうのこうのと、テレビでは警告を示していたり、サステナブルな環境を意識がける声かけは、今まさにその重要性にハッとさせられる。

 僕たちのクラスの隣のクラス、2-6の入口に二人が寄りかかっていた。

「じゃぁあ、中間テストのテンスウをいってみろよ?」

「別にそんなわるくないもん」

「はやくいえよ」

「‥‥‥」

「ホラいえねえぇーじゃん。やっぱりやっぱりやっぱりぃーー?」

「わたし、そんなんじゃないもん!ほんとだもん」

「ならオマエ、月が満ち欠けする理由言ってみろよぉ」

 大島と月野ちゃん。野球部の男と、チア部の女。野太い声が廊下に響く。

「えっとぉ、えっとぉ‥‥」

「あ?オマエ。自分の苗字くらいリカイしろよぉ。まじ、アホやん。なんでこの高校に入れたんだよぉ」

 剃られた髪がプツプツと生え直してきている。屈強な体を持ち合わせている彼は、言わずと知れたこの学校の野球部で活躍する人。よく廊下でも姿を見かける。

 幸田くんはそそくさ教室へ入り、僕もそれに続く。入り際に幸田くんは、あんただって推薦だろうが、と愚痴を漏らした。僕はおかしくなって笑う。


 席に着いて、少ししてから、担任が入ってきた。

「えーっと。報告。みんな聞けよー。明日は7時45から全校集会あるから、早く来るように意識することー」

「先生、それは合同ですか?」一人の生徒が尋ねる。

「あぁー。そのことについてもだが、これからは完全に混ざるようになる予定らしい。えっとー?明日はなんだっけ、混ざらないのか?あぁー、後で確認しとくわ。では、それでよろしく」

 担任はすぐにファイルを持って去って行く。

 僕が在学している、この浦川中学・高等学校は、今年の3月に二つの学校が合併した私立の学校法人。予定されていなかった突然のことであったために、元々の二つの学校は未だに完全には交わり合っていない。部活動、その他の活動は段々と生徒同士でも交流をし始めているが、すでにコミュニティが形成されている、僕たちのような高二生や高三生はそれほどまでに活発な行動を起こしてはいない。

 マンモス校へと変貌した浦川高校は、周辺の田舎の風貌とは打って変わって県下では白羽が立っている。

「な、今日の放課後さ、戸部を追わねーか?」

 幸田くんが僕の席にやってきた。彼は面白おかしい事態をさらに楽しもう、という意志が滲んでいる。

「今日、お前予定あるか」

「うん。一応」

「そうか」幸田くんは残念そうに頷く。

「ごめん。どうしても譲れない予定なんだ」

「別にいいんだ。ただ、お前、待ってろよ。今日のアイツの異質さの原因を突き止めてやるから。明日は面白いことになるぞ。これはまじで。戸部の秘密をすべて曝け出す」

 戸部くんが後ろドアから入る。彼はすっかり気分を取り戻したようで、他の友達と笑い合っている。

 確かに、今日は少し異様だとは思った。だけど、それが戸部くんなんじゃないか、と冷めた視線を持つ自分がいる。

 授業開始のチャイムが鳴って、幸田くんは、やべ、と急いで自席へ向かう。

 僕も次の数IIの教科書を出そうと、机の中に手を伸ばす。すると、まず違和感を覚えた。

 

 あれ?なんだこの手触りは。

 長方形のような、ザラザラとした感触が僕の手を刺激する。

 僕はかがみ、机の中を覗く。

 数IIの問題集の上、そこに一つの封筒が置かれていた。そこへ、手を伸ばす。なんだろう。集金か?でも、まだその時期じゃない。

 取り出した封筒には、達筆の文字で縦書きに丁寧に一文、綴られていた。


『佐々木正喜様』


変に手汗が封筒に滲む。


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