1 物好き、首筋フェチ
誰だって苦悩や悩みが心に渦巻いているのは重々承知しているけれど、そのことが私が他人を同情する動機づけになるわけではない。私は、自分以外の人の悩みには実感が湧かない。
例えば以前、ショッピングモールを一人で回っていたとき、どんな気まぐれか、家電製品を売っている店へと入った。そのときに、店内の奥に売られている大型テレビがアフリカの子どもたちを映した。
『あなたの力が世界を変える』
大々的に促してくる慈善活動の広告は、そんな文句を掲げていた。妙にハキハキとした声で、のうのうと生きている私たち日本人に向け、あくまでポジティブにナレーターが問いかけている。
アフリカの子どもたちは手のひらをカメラの前で広げて、笑って見せていた。十人程の子どもたち。全員が笑って、声を上げている。甲高い声だ。耳が少しキンキンする。
私は想像してしまう。この子たちは引き攣った笑顔を浮かべているのではないか、と。テレビ越しのその笑顔は、どこか“与える側にとって都合のいい姿”に見えて、私は引っかかってしまった。
まるで“望まれた反応”を正しく返すことが、助けを得るための条件になっているかのようだ。
不謹慎で不純な気持ちかもしれない。もし、このことを高らかに公言してしまった暁には、きっと私は性格の良い誰かさんに拘束されること間違いない。締め上げられて、「今の言葉を撤回しろ」と迫られることになる。
さすがに、そんなことになれば、即座に私は土下座してみせて、謝罪するだろう。靴だって舐める。だけど、心はずっと変わらない。私はアフリカの子どもたちに同情できない。同情しないのではなく、単にできないのだ。頭では哀れで仕方なく、助けるべき重大な人たちであることは理解できる。しかし、私は心の底から助けたいと思える優しい人でない。
当事者にならなければ事の重大さ、深刻さが把握できない。それも頭では理解してる。けれど、私の根底は変化することはない。私はそんな人間。
今日も私はショッピングモールの喫茶店で食事を取っていた。目の前にはコーヒー、サラダとハムと卵が挟まっているサンドウィッチ、おまけ程度の目玉焼き。
私はコーヒーを一口飲んで、目の前に座る流歌を見据える。彼女は何も注文しなかったようだ。
「なにも食べないの?」
私は少し声を低めて言う。それまで、ファッションや芸能人、好きなドラマなどの話をしていたために、どこか今のこの場での話をすることが気が引けた。
濃いマスカラ塗った流歌の睫毛が揺れる。私を見て、そっと微笑む。
どこの高校か分からないカーディガンの裾を口に当ていささか驚いているようにも。自分自身にスポットライトが当てられることに虚を突かれた、そんな具合に見て取れる。
「ううん、大丈夫だよ。あたし、さっき昼食食べてきたから」
今のショッピングモールは特別セール中なのか、祝日なのも相まって、かなり忙しい雰囲気に満ちている。
このレストランは、ジャズの音楽を流しているための錯覚かもしれないが、ちょうどよく落ち着いていた。
「あとさ希依、そんな心配いいよ。もっと、さぁ。そー、あの話を聞かせてよ」
落ち着き払った声色で流歌が言う。その声一つ一つに深刻さを感じないようにしているのか、と私はまた一つ彼女を尊敬する。
それから私たちはまた、ドラマの俳優の話に戻り、話し合った。また、私は思う。流歌はとても聞き上手だ。愚痴など、漏らせるほど近い関係ではないけれど、趣味の話であったら、まずテンポが合う。あえて例えるなら、クラス合唱でようやく積み上げてきた奇跡の一体感を感じるのと、少し似る。
大抵、好きな事について話し合っていると、依然そこでも対立するのが当然の摂理だ。好きであるからこそ、譲れない大切な想いがあるはずだ。でも私は流歌と不気味な程に波長が合う。大概、お互い共感し合って一日が終わる。そこに争いは一切介在しない。そんな日が連日ほど続く週も、珍しいものではなかった。
「わかる。特に大介くんは、たまに見える首筋が最高だよ。あたし、5話のプール行く場面あるじゃん?あそこにすごく感動しちゃって。首筋全開。鎖骨丸見え。あれやばいでしょ。あたしはやっぱり首筋フェチ」
私はコーヒーを一気に飲み切る。流歌は肘をつき、窓の外の光景を見やりながら、自身の趣向について熱弁している。
「そうなんだけど、流歌ちゃん。気味悪い視点を持つことは断じて悪いと私は思わないと言って、君を援助してあげるよ」
「えぇ、気味悪いってもう悪いって言っちゃってるじゃん」
流歌が私へ向き直る。
彼女は私の声を即答した。何を迷いにも抱えないその姿勢は、声色や返答速度にも漏れてしまうのだ。流歌は典型的な、そういうタイプ。
「あと語呂がわるい。首筋フェチ」
微かに蝉の鳴き声がする。九月上旬。そろそろ秋の到来が垣間見えてくる頃だ。同時に蝉も弱っていくことが、季節とともに並行してくるかもしれない。
夏の名残惜しさを空気に残して、到来しうる秋から体育祭が始まる。私の学校は女子校なので、あまり盛り上がりには欠けるが、それでも来る日を楽しみに待つことが出来る。
流歌のような性質ではない自分、けれど体育祭については存外楽しみに待ってしまっている自分、両者の対立する面白くない矛盾は、私の在り方を壊すように床が歪んでゆくように、居場所に迷う子犬のようだ。
「やっぱ、そうだよね。佐山くんより大介くんだ。あとさー」
流歌の推しへの愛の共感を求める声をよそに、私は、そう言えば最近、あのドラマを見ていないように感じていた。7月から始まっているドラマで、夏休みの間、私は夕飯の時間を後にするほど俳優の大介に釘付けになっていた。ただ、いつからかわからないが、最近プツっとドラマの拝見をやめてしまった。放送開始時間帯の7時頃になっても私はテレビをつけることをしなくなっている。
そもそも、そのドラマに夢中になっていた理由として俳優の大介にある。物語の構成や、ストーリーテリングを求めていたわけじゃない。私は彼を目的に見ていた。あの、精悍な顔立ち。毅然としたキリッとした姿勢。恥ずかしながら、私も、流歌のように彼のことに目がなかったのは事実だ。スマートフォンの待ち受けも、笑顔でピースをしている大介にしていたぐらいなのだ。
しかし最近は、彼に対して何とも思わなくなってしまった。好きでも嫌いでもない、何を感情を出すこともない存在。
スマホの待ち受けはありきたりな風景写真に変えている。
他愛のない話をしていた私たちは、レストランを抜ける。このレストランのある場所はショッピングモールの二階で、吹き抜けになっているため、一階の様子も見渡せる。やはり祝日。
相変わらずの人混みの中、エスカレーターを下りる。私の前に流歌、後ろに男性客という配置で。
「気になる服ない?」
前にいる流歌が振り向く。微笑を浮かべている。
「服、かぁ」
フク、と心の中で呟いてみる。どういうわけだか現実感がない。響きが悪い。
今の私の顔はどうなっているのだろうか。流歌は真剣な顔になる。居心地の悪さを感じる。
「希依に似合いそうな服を見つけたんだ。少し付き合ってよ」
一階へ下り、東出口方向へと進む。私たちは、突き当たりにあるアパレル店へと足を運ぶ。
私は安堵の息を吐き出す。
さほど装飾が施されていない無機質な店内であったが、品揃えは充分に確保されているようだ。店内の隅へ、人のいない場所に行き、女性服売り場を私たちはざっと眺める。一体、彼女は何を勧めてくれるのだろうか。疑問に思いながら服を見る。
先程のレストランと同様、洒落たピアノが流れていて、人もあまり混み合っていない。
横の流歌を見る。エスカレーターでのお誘いから、やけに真剣じみた顔を纏わり付かせている彼女。口が半開き、縋り付くように目の前の服を拝見している。
舐めるように、そのエリアを一通り見回した後、彼女は私を一瞥し、やがて俯く。
「ごめん。なかったよ」
やれ、こちらの方が値段がいいだの。やれ、このスカーフは冬に似合うだの。やだぁ、それは全く似合いませんわよ。隣にいるマダムたちの必死の言い合いを他所に、私たちは押し黙っていた。
店内に入って、服を一緒に探し回って、おおよそ十分が経過した頃に流歌は呟いた。
彼女には珍しい、弱々しい声だ。私は少し驚く。
清水流歌が思い通りにならないとき。それは私にとって恐ろしくもあり、また、嬉しくもある。
頭の中で一つの情景、噴き上がる水飛沫を思い出す。
一年前、私が高校一年。課外活動のときだ。
冬休みも終わりを迎えるころ、私は高校へと赴いた。
実績に伴わないこの学校の過剰な勉強への意識の高さは、少しうんざりしたことを覚えている。今でもその感覚は学校に向けるし、憎しみすら感じる。大概の全校月間スローガンは勉強へと間接的に繋がる。スマホも禁止。メイクなんぞもってのほか。
意識だけ一丁前。教科書も、ワークも、どれも数十年は改訂されていない古めかしいもので、掲載されている問題からでも、時代のズレは実感できる。
その冬休みの課外活動も、強制的に全員を授業へと送り出すものだ。
課外活動と表向きでは題しながら、結局は通常の授業と何ら変化も付随していない受動的な監禁場所であることに、気が滅入っている。早く家に帰って、ごろごろテレビでも見たいものだ。だって、まだ高校一年。受験なんて意識もしない時期だ。
おじいちゃん先生の、いささかトーンが外れた甲高い英語のイントネーションを耳に入れながら、私は窓の外に広がる光景を見ていた。
この街を囲んだ山の冠雪は、太陽光を白く軽やかに笑って、照り返しているように見える。水を連想させるような白い山地を背景に、これまた純白の鳥が通り過ぎる。大きく羽を羽ばたいて、また閉じる。その繰り返し。光が目にさしかかったり、薄まったり。目がチカチカする。
そして、二つの光が重なる時、私は思う。
山も、鳥も。あの山の中にあるであろう、動物たちの安らぎの川。無限の広がりを秘める、澄んだ青空も。
では、私は今、何をしているのか。何をしたいのか。
この自然という自然が私たちの街にはこんなにありふれているのに、なぜ私はここにいるんだろう。一体全体、私は自然と関わりがないのだろうか。森も林も、そこに佇むイモリ、カブトムシ。
人間は何をして、どうしたいのか。
そんなことを、心の中で独りごちていた時だった。
学校構内を囲むフェンスの向かい側。そこに一人の女子生徒が歩いていた。私たちと同じ、この学校の制服だ。軽足で、跳ねるように蹴って歩いている。その顔はとても愉快で、こっちまでも元気になるような、そんな顔だった。
遠くからでも分かるほどの、楽しげな顔。私はそれに見入ってしまい、先生の流れるような英語を理解できなくなる。
「では、ここまでで。はいはい号令かけてー」
即座に、起立!と大きな声が教室に響き渡る。咄嗟に私は立ち上がる。礼をして、授業を終わらせた。
疑問をぶつけられたのは、その後の10分間の休憩のときだ。
「そんな呑気な顔してたの?」
「呑気っていうか。陽気っていうか」
授業中なに見てたの?
クラスメートの何気ない質問に、私は先程の事情を伝える。外の景色を見ていたら、校外に一人の生徒がいたこと、とても愉快な顔だったこと。
「へぇ、不思議だね。もしかしたら別の高校の子じゃない?テスト期間で、早く家に帰れるとか」
「うーん。あ、でも、同じ制服だった気がする」
クラスメートは笑う。
「それは、また不思議」
それはそうだ。心の中で共感する。
この学校は規則が尋常ではないほど厳しい。生徒に対しても古い接し方をするほどに。
それなのに、ここに在学している生徒が気楽に脇を通ることは奇妙だ。そんな学校への挑発めいた行動をすることは、私なら到底出来ない。
「もしかしたら」
クラスメートが妙に改まった声で言う。形相が妙に変わるのを感じ、私はそのクラスメートへ振り返る。
「本当にもしかしたら、なんだけど」
「うん」
少し困った。そんな具合にクラスメートは顔をしかめる。眼鏡のブリッジを指で軽く押し上げ、彼女は息を吸い込んだ。近づき、私に耳打ちをする。
「ルカちゃんかなぁ‥。なんてね」
「ルカちゃん?」
クラスメートは落ち着いて後退る。
「隣のクラスの子。結構欠席が多いんだよね。顔見たことないから、私もよく知らないけど、もしかしたら、ルカちゃんかも知れない」
知らない子にちゃん付けをする精神が私には理解できなかったが、得体の知れない存在が名前付けされ、現実感を帯びたことに私は束の間安堵していた。
「ルカちゃん、かぁ」
「え、知ってるの?」クラスメートが聞く。
「知らないよ。ただ、なんだか聞き覚えがあるなぁ、て思ってさ。なんだっけ。かなり前の記憶なんだけど」
頬杖をつき、思い出そうと試みる。ルカ。その言葉の発音には朧げながら、気心の知れた存在だ。
「まぁ、さ。一度会ってみれば?もし昔の同級生とかだったら、素敵な再会じゃん。多分、ルカちゃん、遅刻の報告しに職員室に行ってると思うよ」
「うーん。いいよ、別に。そこまで覚えていない子だと思うし。もし、そうだったとしても、相手が忘れてるから」
そっか。じゃあまたね。
そう言い残し、彼女は去っていった。
『遅刻を報告しに』
なぜ彼女がルカという生徒と関わっていないのに、それがわかるのだろうか。
そんな戸惑いを感じながら、身勝手な足は職員室へと赴いていた。
クラスメートに行かないと伝えたのは、単純に注目を避けたい気持ちからだった。
三階から二階へ下り、薄暗い廊下を無言で歩く。
突き当たりの職員室に着いた。そのとき、職員室の向かい側のドアから、二人が出てくる。
男の人と、女の子。
あぁ、と私は嘆息を漏らした。
先生と「ルカちゃん」だ。
出てきた先生は、私のクラスの隣の教室を請け負っている担任、樋崎先生だ。優男、クールで背筋がピシッとしていて、愛想の良い先生だ。女子からの人気が凄まじい。彼が廊下を通ると、かならず歓声が響いてしまう。そんな噂話が蔓延るほどに、樋崎先生という存在は完璧な人だ。
しかし、出てきた樋崎先生は若干、どのような顔をすればいいのか、とその場を持て余しているようで、ぎこちなかった。先生はルカちゃんにそんな困惑の視線を向けている。
数分が経ち、先生が去った。「ルカちゃん」だけが残った。
私は依然、その「ルカちゃん」へと向かう。
メイク禁止、勉強に関係のないスマホ禁止。これらを大きく掲げている意識の高さだけが取り柄なのが、この学校だ。目の前の「ルカちゃん」もしっかりと素顔を晒しているように思える。
「ルカちゃん、だよね?」
「え」
ルカの焦点が完全に私に定まる。私は浮き足立つ感覚に見舞われる。鋭い目つきだ。私はこの時、不安になった。「ルカちゃん」と呼ばれている、この女 の子は、多分私とは違う「そっち側」の人間であることに。
ルカは私を軽く睨んでいた。それでも、私は圧倒される。彼女の存在感のすべてが私とは異なっている。
「さっきさ、外で歩いてたよね。少し気になったの」
尋常ではないほど、喉が渇いている。全身が強張っているのが自覚できてしまう。
ついにルカは嫌悪感を示した。あからさまな軽蔑の色、その全てを私に向けた。
「あぁ」
そう言い、ルカは首を振る。ブンブン振り回す。後ろに結んでいた髪が解け、肩にその長髪が降り立つ。
やがて一呼吸入れて、彼女は希依に向く。
「なんでもないよー。えっと、初めましてだよね?名前教えてよ」
私は、自然と全身の力が抜ける感覚があったが、まだ内側は警戒の意思を秘めていた。
「キイって言います。希望の「希」と依然の「依」で希依です」
ルカは晴れやかな笑顔を浮かべ、親しみの声色で続ける。
「キイ?」
それから、彼女は納得したように腕を組み、コクコクと頷く。
「良い名前だね。希依。いいじゃん。私すごい好き」
屈託のない笑顔を浮かべ、ルカは爪の長い手を私に差し出す。
「わたし、るかって言うの」
「ゴメン。いきなりすぎだよね」
「別に。ほら、いこ」
希依はぎこちなく、彼女の手を取って、二人は歩き出す。
好奇心で話しかけたが、どうやら上手くいったらしい。私の心は冷静になる。
去り際に、私はそっと、先生とルカの出てきた教室名札を見る。「生徒指導室」と確認できた。
私たちは授業へ戻る。
午前中の課外活動の最終授業を終え、私は校内のエントランスへ。
今日出会ったルカと授業終了後、会うことを約束したのだ。
「こっちだよー。こっちー」
彼女は、すでにローファーを履き、外で準備していた。隣には一人の男子が立っていた。その男子はぼんやりとした顔つきをして、ルカを見ている。私は少し驚いた。
私はそそくさ外へ出て、ルカの方へ向かう。
「ごめんなさい。少し授業が長引いちゃって」
ルカは隣にいる男子に、もう大丈夫、と言う。何とも言わずに、その男子は去っていった。
「いいよ。いいよ、全然。全く問題なし。むしろ、グッチョブ。そんな急いでくれるなんて、嬉しい限りだよー」
「え」
私はこの時に、自分が思っていた以上、呼吸が乱れていることに気づいた。
「確か、希依三組だっけ?だったら国語はナカタだよね。アイツ、ほんと流暢に喋るくせに全く授業進まないのマジで気に障る。そう思わない?」
「確かに」
私は中田先生の事は嫌いではなかったが、ここでは同情の意を示しておく。
気になり、私はチラッと先ほどの男子の方向へ視線を向ける。その男子は紫色のブレザーを身につけていた。珍しい制服。それは私には思い出深いものだ。
「あの子、ここの生徒じゃないよね?」
「えぇ?」
ルカは私の指差す方面を見る。そして、まるで一等くじに当たったかのように、彼女の声は変化する。
「うん、あいつね。あいつは西中学校のやつだよ」
「友だち?」
ルカは希依を見ずに、彼を見ながら
「いやぁ、友達とは言い難いかなぁ。腐れ縁だよ。最近は全然遊ばないしさ。メール送り合うくらい。仲良くはないねー」
「そうなんだ」
やはり思った通りだった。希依の出身中学校、西中。あの紫色のブレザーは西中以外あり得ない。自分自身でもよくわからないが、恐ろしい気分に見舞われた。
「ほら、いこ?実は見せたいところがある」
私の学校———葉光高等学校は、共学ではない。一般的に言うところの自称進学校で、偏差値は50後半、60前半をうろうろしている。
厳しい教師からの管理や校則がなければ、それなりに人気も出るだろう。偏差値だって上昇するかもしれない。されど、葉光は意地が悪い。ずっと刑務所のような掟を年頃の女の子たちに縛り付けているのだ。
希依は少し疑問に思う。先ほどの西中学校の男子生徒は、なぜ校内へ入れたのだろう。ここは女子校だ。思春期の男子なんぞいるはずもないため、目立つだろう。なのに、彼は平然とした顔で玄関前で立っていた。
「希依さ、もしかして西中出身?」
高校からそれほど離れていない商店街を通り過ぎようとしていた。そのとき、ルカが尋ねる。
「そうだよ。なんで?」
「いや、なんでもないけど。てか勘だよ。私、意外とそういうの当たる」
ルカが当たり前だろ、と言わんばかりに胸を張る。
「私、さっきさ、あいつとよく遊んでたって言ったでしょ?あのエントランス前にいた、私の隣に立ってた奴。だからね、よく西中学校の周辺もよく分かるの。西中の生徒の雰囲気とかも、こう見えて熟知してるんだぁ」
高校では、そこならではの特色、生徒の特徴がはっきりと表面に露呈する。しかし、中学でそこまで推測できるのは、相当な観察眼だろう、と私は心の中で思う。ルカちゃんは溌剌な印象だったが、存外鋭い子なのかもしれない。
「ルカちゃん、て呼んでいい?」
「いいよ、別になんでもいい。お前でも、こいつでも、希依のおまかせだよ」
「こいつは少しおかしくない?」
私たちは笑い合う。
たどり着いたのは、小さな公園だ。
ポツンとある木。その木を中心に丸いベンチが設置されている。私たちはそこに座る。
「ふぅ、まあまあ歩いたね」ルカが言う。
「うん」
そよ風が地面を擦り、砂利が一方向へザラザラと流れる。同時に、葉擦れの音が頭上に響く。
青空に鳥が飛んでいた。真っ白。まるで結婚式のウエディングドレスのような華やかさが、広がる翼から感じ取れた。
山の向こう。そこには雨雲が広がっている。この私たちのいる場所、そして山の向こうの明るさの対比は希依の心響いた。天国と地獄の境界線のようだ。
あぁ、これなんだ。これなんだよ。これが欲しかった。
「あ、井原くんだ。おーい!どこいくのー!」
ルカの目線の先を追う。公園の外側の交差点。そこに井原がいる。私も知っている人だ。
井原は私たちへ首を動す。ルカを捉えて、おぉ、ルカじゃん、と彼は面白いような具合に言う。陽気な挨拶だ。井原の視野には希依は入っているはずだが、彼は当然のようにそれを無視をする。ここでも私は世界線の擦れを感じる。私とルカの間には、どこか摩擦のような痛々しさが伴っている。
井原健二。彼は、この町唯一の全国大会出場者だ。南中学校出身。私とルカが通う、葉光高校のような男女別学でなく、共学らしい。
彼の噂話は、誠実で真っ当なものだ。そこに浮気や問題事の話題は一切台頭しない。表面に登場するのは、肯定する言葉。優しさ、完璧さ、成績の良さ、そして、何と言っても、足の速さだ。
『南中学校陸上部 井原健二 県内ベスト更新!』『全国大会出場!』
中学時代に、そんな大きな横断幕見たことを思い出す。名前ばかり聞いていたが、今初めて彼の顔を拝見している。あぁ、こういう顔なのか。まさに「デキテル」男という感じだ。
「これから塾。明日で冬季講習終了。まぁ、明後日模試あるんだけどさ。じゃ、また」
「バイバイー井原くんー。また勉強おしえてええ」
片手を応援旗を振り回すように大きく、ルカは大袈裟に動かす。ルカの表情から何より彼に会えて嬉しいのが、伝わってくる。とてつもない笑顔の輝かしさ。彼女が眩しい。
なぜ、彼女は私なんかとつるむのだろう。井原という素晴らしい一丁前な男がそこにいるのに。さっきルカが私を無視しなかったことが疑問だ。
「希依、井原くん知ってる?」
「なんとなく名前は」
「いいよねあの人。でも多分いるでしょ?」
「いる?」
「うん。いるんだよ、多分」
ルカの笑顔が取り繕っていることが分かってくる。この場の雰囲気が凍りつくのを感じて、私はすぐさま話題を転じる。
「これから何する?」
自身の足元を焦点の合わない目で見ていたルカが、ハッと、顔を上げる。今、やっと思いついたように、顔をくしゃっと笑ってみせて、私に言う。
「よし、やろうか。希依。一つだけ約束して欲しいことがあるんだけど、いい?」
彼女が真剣な顔になる。
「わかった」押され気味に頷く。
「これからすること、少し驚くかもしれないけど、どうか私を嫌いにならないでくれる?」
「えぇ?」
意味がよく分からなかった。嫌いにならないでくれる?もう一度心で言葉を反復する。
よーし、とりあえずやろう。ルカが呟き、立ち上がる。
「希依、そこに立ってくれない?」
「う、うん」
横のルカが、前方に指を指す。なんともない、砂利だ。
ルカは何をするのだろう、と私は疑問に思った。何と言っても、陳腐な公園である。辺りを見渡しても、滑り台、ブランコ、たったその二つしか遊具がない。しかも狭い。ルカがなぜここに私を連れてくるのか、甚だ疑問で、モヤモヤする。人の姿は、私とルカ、それ以外には確認できない。
素直に私は前方へ進む。
「はい、そこでいいよ。待ってて」
「何するの?」
「お遊びだよ。私ね、これからも希依といっぱい、いっぱい遊びたい!」
ルカは力一杯の笑みを浮かべ
「だから、今からやることもきっと楽しいよ。保証する。あ、鞄は一応、ベンチに置いておいて」
希依と今からやること、これからもたくさんしたい。
ルカがそう言い、小走りになる。
一つ、不思議なことがある。それは私の地面の下にバッテンの印があることだ。
私はそう深く気に留めず、ルカの行先を追う。
ルカの目的の場所は、ちょうど私の前方にあるL型の公園水飲み場だ。私はハッとする。
「よし!準備いい?希依」
「ちょっとまっ‥」
そう私が言う前に、ルカは水栓をぐるぐる回す。ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる。
私は咄嗟に鞄をベンチへ放り投げる。
来る‥!来る‥!
ピシャー、という音が聞こえる。瞬時に、一縷の輝きが舞い上がる。陽光に当てられ、煌々に照り返す水の粒子たち。その粒たちは、やがて放物線を描き、私へと全てを包み込む。
冬。これほどまでに、その季節を真っ当に実感したのは、その日が初めてだった。
冷たさ、それと一つ一つの水が流れてゆく。その流れは制服の下へ、長スカートの下へ、やがて靴下へ。
私は無我夢中で、その自然を浴びた。全て、そのすべてを体に染み込ませるように。染み渡るように。
空を仰ぐ。両手をその広大なる無限の領域へと掲げ、私は息を呑んだ。
あぁ。これだ。これなんだ。私に必要だったのは。
次にやってきたのは、暖かさだった。それは義務的に繋がり合う、ちっぽけなものじゃない。本当の暖かさだ。本当の、真実の肌の感触だった。
私が目を見開いたのは、それがルカの暖かさであったからだ。
私たちは、凍える冬のさなか、蛇口から噴出される水のすべてを浴びた。
ルカちゃん。
私、あなたに付いていたい。
あなたの眩しさに私のすべてを縋り付いていたい。
ねぇ。あなたは本当の「自由」を持っている。ルカちゃん。
「楽しい!楽しい!あははは。あはははは」
ルカは希依の隣で笑っていた。私は泣いていた。二人ともびしょ濡れだ。私たちの制服はもう、使い物にならない。この後どうしようか。
ルカが私を見る。
「ねぇ。これから、こういうことしようよ。絶対楽しんだから。うん、そうだ。私が保証する。本当、マジで楽しいから。ねぇ、だからね‥だからね希依‥」
ルカの親友になってよ
これが私とルカの出会いだった。
高校一年生の冬。課外活動終了後。私たちはびしょ濡れに空を仰いでいた。
ルカは陽光を照り返していた。眩しかった。そんなルカがただただ眩しかった。
「どうなさいましたか?」
モルタルの床が湿っていた。
そこで私は気がついた。自分はどうやら泣いていたらしい。
店員の気遣わしげな言葉に、私は手を振って誤解をほどく。
先ほどの流歌の迷ったような顔つきに、私は最初に出会った流歌の睨んでくる表現を思い出したのだ。そこから記憶に引きづり込まれて、今、私は貴族のようなマダムたちに訝しられる羽目になった。
アパレル店をすぐさま出る。恥ずかしい。泣いてしまった。思い出し笑いならまだしも、泣くことなんてありえるのか。私は自身に秘められた何かに少し怯える。
流歌は店を出たすぐそばに立っていた。まだ、暗い表情をしている。
「ごめん。待たせちゃった?なんか今日わたし疲れてるかも。帰ろう、流歌ちゃん」
突然横の立てられている看板が揺れた。音がして、びっくりした。流歌は気にもしないようだ。
「早くいこう、流歌ちゃん」
不安になって、すぐさま東出口へ向かう。
外はすっかり闇を張り巡らせていた。
私たちは肩を寄せ合い、山に包まれたこの町を歩く。あと、四ヶ月もしたら、あの山に雪が降るのか。そう思うとワクワクして、気分が良くなる。昔から雪の山道を歩くは好きだった。
徐々に流歌は気分取り戻して、陽気にまたいろいろな話をするようになった。
主に私たちが話し合ったのは、今季の目玉のアニメだ。覇権が予測されているそのアニメは4シーズンを現在放送中。8年記念をそろそろ迎えるようで、今作はかなり気合いが入っている。
内容は、魔法少女が世界を救う、という単純な話だ。一見、こう聞くと、子供じみたように聞こえるかもしれない。しかし、登場人物の巧妙な心理の駆け引きや、毎話毎話のストーリーに流れる哲学的な問いかけには、全くもってちんけな設定だとは到底思えない。
私が一番好きなのは、主人公の魔法少女だ。彼女はどんな過酷な道でも勇気を振り絞って前へ進む。私とは正反対な雰囲気。逆にそこにそそられるし、頑張ろう、と勇気をもらえる。
私と流歌は、そのアニメについて熱烈に語り合った。
やがて私は一人で歩く。
ぼんやりと、小さな道路の突き当たりに着くと、傍のコンクリート壁に赤い鶴の折り紙がテープで固定されていた。人通りの少ない場所だった。