プロローグ
湖のさざ波に耳を澄ました。淡い月光を反射する水面は眩しい。私はそっと息を落とす。弟はあの日、鳥になったのだ。
今から随分前、私が11歳のときだったと記憶している。
「お肉美味しそう」
「うん」
弟は返事をする。
バーベキューを私たちは楽しんでいた。当時の私は今と比べて我儘で、目下で焼かれているお肉の全てを1人で食い尽くそうと密かに試みていた。お肉の良い匂いが、唾液の分泌を促進させた。
天気の良い日でなかった。強風が砂埃を起こし、お気に入りの服が汚れてしまい、私と私のお母さんはそれを残念がった。朝のニュースでは晴れ晴れとした天気になるでしょう、と予想していたのに。私は勝手ながら裏切られた気分になる。
弟はさして気にする素振りもなく、淡々な顔をしていた。
弟は他の者の雰囲気を一蹴する気配を伴っている。私は深刻にそのことについて気にしていない。
「もうすぐかな。まだかな。まだかな。お姉ちゃん、まだかな。もう焼けてるかな」
お肉の焼かれている匂いが蒸気と一緒に舞い上がってくる。弟はクンクンと鼻を動かしていた。
「まだ、たぶんもうそろそろ」
そうなの、早く食べたいよ、と弟が言う。私の方が何倍も食べたいに決まっている、と心の中で胸を張る。じっとお肉を見る。
「お姉ちゃん。そんなにお肉を睨まないでよ」
「え」
「違う顔の方がきっと美味しく感じる」
轟音が遠くの山の裾から響いた。私は弟のその指摘と雷の音にどぎまぎする。私の秘めている食欲が暴かれた気がして落ち着かない。
弟がステンレス製の箸で出来上がった肉をお皿に盛り付ける。小さい体で身を乗り出してお肉を取る姿は微笑ましい。すると弟が私に向き直って、そして笑った。
「はい、これ」
皿を私の方へ寄せる。
「ありがとう」
すると、その時だ。
弟はなんとも言えない顔に戻って、空を見上げる。不安げな顔を浮かべ、次に眉間に皺を寄せた。その顔は九歳児とは到底思えない。
お父さんお母さんは川沿いに行くと私たちに言い残していた。釣りをしに行くと。
弟は私に向き直った。大人びた顔だ。もしかしたら、そこら辺の中高生より落ち着いているのかもしれない。
「お姉ちゃん」
「ん?」
掠れた声が私の耳に届く。毅然とした目線で私を見続けていた。私は少しおじける。
「少し見てくるよ」
弟が言ったその瞬間。
遠方の薄暗い雲から一縷の光が地上へ突き出した。次に大きい音が響く。
弟が立ち上がる。すると私の手に水が滴った。また一つ、もう一つ。雨だ。
『今日は晴れ晴れとした天気になるでしょう』ニュースキャスターの言葉を思い出す。今日の薄黒い雲を見て、さっきの私はうんざりしたのだ。
途端、閃光が目の大半を占めた。地響きのような重い音が瞬時に広がる。眩しさ、その直後の衝撃に私は呆然とした。
雨脚が力を増して、視界がみるみる靄がかかっていく。目の前にあるバーベキューコンロの火が一瞬にして消え去る。
薄れた視界に弟の背中が見える。まだ、幼い、小さな背中だ。
「どこに!」
振り返ることもなく、弟は豪雨の中を走り去って行く。慌てて、私は荷物を漁って折り畳み傘を取り出した。傘を差して弟の方へと急ぐ。
激しい。これでは、川にいる母も父もとても危ない。
上り坂を登り切り、ひらけた場所にたどり着くと、前方に、弟の背中が見えた。私は大きく息を吸い、走り出そうと決心する。
「待ちなさい!そっちは川だから!」
後方から声が聞こえた。
誰の声なのか一瞬、戸惑ったが、振り返ると分かった。母だ。母の声だ。母と父は避難したのだろう。二人はびしょ濡れで私の方面へと登ってきている。視界がぼやけてよく見えない。
「お母さん!」
「‥なに!」
「あきとが‥」
母の声は掠れていた。
私は震える手で弟のいる方へ指をさした。私は振り返ると、弟のその姿に目を見張った。
高さのある岸から彼が飛び立った。
その姿は純白の鳥のごとく軽やかだ。生えもしない彼の背中から羽が見えた。別の生き物を見ているようだった。飛び立った刹那、私は完全に見惚れていた。
しかし、弟は順従に重力に負けていった。
水飛沫が高く上がる。荒れた川の強い自然の音と豪雨の音だけが聞こえる。
確か私は泣き崩れたと思う。不確かだがそうだった気がする。
その後の記憶は曖昧で思い出せない。
しかし一つだけ確かなことがある。
弟はあの日、鳥になったのだ。
白い羽が膝の前に落ちる。輝いていた。そして、それは、ぼやけていて、目が霞んだ。
『幼い男児 川に転落 家族間に問題か
8月7日未明、9歳の男児が川に転落した。家族は同日夜に行方不明届を提出。警察は現在も川沿いを中心に捜索を続けているが、男児の行方は依然として不明のままだ。
警察による事情聴取の結果、男児が転落した際、家族が一時的に目を離していたことが明らかとなっている。このことから、警察は家族間の信頼関係に何らかの問題があった可能性も視野に入れ、調査を進めている。
8月8日 F新聞朝刊』