5.
「こちらにご捺印をお願いいたします」
書類を差し出しながら、ここと、ここと、と指さすと、高関さんは紙の下にやわらかい板をしいて、ぽんぽん、と朱肉に印鑑をのせると、ぎゅっと押していく。
「あとはこちらを税務署に提出してください。受領印をもらいましたらコピーをいただきたいのでもう一度お持ちいただけますか」
電子申告ではなく、紙提出してもらうことになった。
「わかりました。これを税務署に提出、判をもらったら八幡さんに渡す、ということですね」
「はい。コピーをもらいましたら原本はお返ししますので、大切に保管してください」
前に座る高関さんは、丁寧に書類をクリアフォルダに入れ、革のかばんにしまう。
そこで沖さんが次の話題を切り出した。
「開業は八月一日ということですが、その前であっても、事業のために購入したものは費用にできますので――」
色々と説明が始まる。私はうんうんと沖さんと高関さんのやり取りを聞いて、メモをとる。
なんとなく、取材に来た記者さんの気分。メモをとっていなければ、三者面談だったかも。
生徒が使うそろばんは、生徒さんが自分で用意してもらうか高関さんが購入して貸し出すらしい。
こども園の地代家賃はなし。園長先生が頼んできてもらっている、という体になっている。実際、高関さんのそろばん塾のおかげでこども園の評判も広がっているとか。
無料で教われるんだもん、そりゃいいよねぇ。これからは有料になるけど。
ずいぶん良心的な授業料の価格設定だとか。連盟のほうで規定はないのかなぁとか、思うところはあるけど、そこは私が首をつっこむところではない。切り込んでいいところと、そうでないところ、一線はわきまえねば。
「へぇ、ずいぶんお安……良心的なんですね! 私もこどもにと考えてるんですけど、けっこうお値段がね」
「趣味半分ですからねぇ」
え、そこ聞く?!
と驚いたが、自分の子供を引き合いにすれば、ふむふむ、自然な流れだ。
しかもお返事から察するに、他がどうとか気にしてません、と暗に言ってるな。うまいなぁ。
もしかしたらそのへん、園長先生たちの手がまわってるのかも。
「自宅のほうでもやることに決めまして」
「そうですか! たくさんの生徒さんが集まるでしょうね」
自宅には和室が二部屋あり、襖を取り払えばそこそこ広い空間となるそうだ。
「お仏壇はありますがね」
広いお家なんだな。
そっちは少しずつ方針を決めてから始めるということでゆっくりとやっていくとのこと。
なんとなく、高関さんがわくわくしているように見える。夢を叶える、叶うその直前の、高揚感みたいなかんじ。
年齢なんて関係ないんだな。
誰だって、夢を持っていいんだ。
それを叶えて、維持するお手伝いができるなんて。
私も胸がどきどきする。
私の夢は、叶える直前で止まっている。
こうして高関さんみたいに、自ら一歩を踏み出さないと。
それができた高関さんがきらきら見えて、私のほうがまだ若いのにさびれて感じて、羨ましいとどうしても思ってしまうと同時に、動かないのは自分なのにそんな思いを抱いてしまうのが嫌になる。
「ではまた、よろしくお願いします」
話が済んで、今日のところは解散。
帰るときに、沖さんが私の気になっていたもう一つのことを口にした。
「高関さん、たしかご自宅は遠いと思いましたが」
なぜうちの事務所を選んでくれたのか、が後に続く疑問。ご近所にも他にあるはずだから。
高関さんは正確に受け取った。
「こども園でちらと耳にしたんですよ。こちらの名前と、えり姉って」
えり姉?
ってことはあの二匹か?
どこでどんな話をしてるんだろう。へんなこと吹聴したりしてないよね?
「あの園長さんたちに信頼されているなら、と安心できると思いまして」
そして私をちらと見た。
「あの方々は、わたしたちと少し変わっていますからな」
にや、と笑った高関さん。
あ。
もしかして、この人。
「そうですねー、特徴的というか、印象に残るかんじですもんねー」
沖さんの軽い返事に、高関さんの意味深な笑みが普通に戻る。
「ありがとうございました」
結局、聞こうと思っていたことは、聞けずに終わった。