2.
さ、帰るか。
就業のチャイムが鳴り、作業のきりもいいし、これといって残ってまでやっていくようなことが特になかったから、ささっと片付けをして事務所を出た。
終業時刻は午後五時半。現在五時五十分ちょっと前。
帰るのは、事務所のなかでは私が一番早いほう。ほとんどの人、特に男性は、六時半ごろとかもしかしてもっと遅くまでやってるんじゃないかな。多分、サービス。
私は自分のミスや遅れでやらねばならないときや、期限がせまっているのに間に合う見込みがないとき以外は、ぱきっと切り上げてこのくらいには帰ると決めている。その他のサービス残業は、やるとしても六時まで。なにか頼まれて、六時を超えそうと見積もったときは、必ず残業届を出す。
基本的に定時で上がるのが私のモットー。それはバスと徒歩で通勤するから、という理由が一つ、他にも少し。
けれど今日は、別の理由が大きくあった。
別の場所に移動していても思い切り聞こえていたであろう白石さんの注意を受けた後、まわりの目がやけに気になって。
“調子に乗っている”のを肯定されているように見えて。
ああ。なんだろう。
これは辛いのか。胸がもやもやして、どこか、痛い。
楽しいかも、と思ったのは、本当に“かも”であって、希望であって夢であって、現実ではなかったと、つきつけられた。
やっていた“つもり”であって、やれていなかった。
“ふわふわ”は仕事ができていないというのを遠回しに指摘された。いつから私はこんなことを言わせてしまうような、軽率な言動をしていたのだろう。
バス停までは歩いて約十分。早く帰ろうと出てきたはずなのに、足が重く感じる。
はたと気付くと、バス停に着く直前に、バスが目の前を通り過ぎて行った。もっと早く、というかいつもどおりに歩いていれば、乗れたんだろうなぁ。
まぁいっか、この時間帯、バスは多いし長くても二十分待てば次が来るし。
バス停には誰もいない。
なにもしていないと、頭のなかでエンドレスで繰り返される、声と映像。
やっぱり仕事してきたほうがよかったかなぁ。
「もしもし、すみません」
「……はい?」
気配もなく突然の声かけだった。いや、気配あったのかな、気付かなかっただけで。
ここは驚くべきところなのかもしれない。けどぼうっとしていたからか、ワンテンポ遅れはしても、普通に返事ができた。
声をかけてきたのは一人の男性。隣にもう一人。
二人とも、平日なのにラフな格好をしている。声をかけてきたほうはしゃきっと、もう一人はふわっと。
あ、こういうところ、ほんと擬音語だし“ふわふわ”してるな。はは。
私はこういったところでちょくちょく声をかけられる。お相手の大半は御老人、一部に怪しいおっさんを含む。
一方この人たちは、二十代後半から三十代前半といったところ。珍しいな。一体どちらさまだろう。
「あけぼの税理士事務所の、八幡えりさんですか?」
「?!」
「あ、そんなに警戒しないでくださいっ」
あわあわするふわっとしたほうの男性。
そんなこと言われても、知らない人に突然勤め先と名前を言い当てられたら、誰でも警戒するってもんでしょう!
「僕たち、こういう者です」
「あ」
名刺を出されたわけではない。でも、このお二人が誰なのか、一発でわかった。
それはなぜか。
ぴょこん、と耳と尻尾が出てきたのだ。
しゃきっとしたほうは、丸い耳とぽってりとした尻尾。
ふわっとしたほうは、とんがりお耳にふっさり尻尾。
「「いつも妻と息子がお世話になっております」」
お二人――狐坂銀さんと、狸塚朔太郎さんは、そう言って深々と頭を下げた。
お会いするのは初めて。馴れ馴れしい印象を与えないよう、極力注意しなきゃ。
営業用の顔を作れ。その表情を崩すな。
言葉を発するのを控えろ。体での表現はだめだ。
調子に乗るな。
「お初にお目にかかります、そば処ぽんさく様と、プラチナディッシュ様の担当をさせていただいております、八幡えりと申します」
首に下げているバスカード入れには名刺も入れてある。取り出して、お二人に渡した。
「お役にたてるよう尽力いたします。今後、ご迷惑をおかけすることがあると思いますが、どうぞよろしくお願いいたします」
きゅっと頭を下げる。棒読みに近くなってしまったけど、緊張していると受け取ってもらえるだろう。
……あれ、無反応だ。
やらかした? なにがだめだった? 気付け、思い返せ。
ちらと首を捻って二人を見る。
「よし、一緒にお夕飯、どうかな?」
どういう思考回路があれば、こういう流れになるんだろう。想像もしていなかった反応が返ってきた。