第97話 泣く子は眠る
ダリアさんに抱っこされたあたしを見て、リアム君はこっそりお兄様に耳打ちするように話した。
あたしにはひそひそ話も聞こえているけどね。
「お嬢様は産まれて一年にならないのでしょう?おかしくないですか?
もう話すし、壁をよじ登るのですよ?成長が早すぎるでしょう!」
お兄様は首をかしげて、そうかなあと呟き、この間アンジェの成長を聞いたとき乳母に教えてもらったが、と前置きして言った。
「僕も父上も半年で立ってすぐ歩いたし、父上は2歳でバク転ができた。僕は遅くて3歳だったけど」
「遅くないでしょ!おかしい!絶対おかしい!ハイランジアの血筋おかしいですよ!」
「おかしくないですよ、お嬢様は壁面をハイハイしているだけですもの」
「………」
ダリアさんの常軌を逸した言動に少年はしばし、絶句している。
オリンピックの体操金メダリストが、三歳でバク転ができたエピソードを聞いた覚えがある。
すごいな…ハイランジアの血統…
『アンジェ!』
『セリオンさん?』
急にセリオンさんの声が頭に響いた。近くに迎えが来ている!
ひくひくと鼻をきかせていたヤモリンが空気の変化を嗅ぎ取った。
『嬢ちゃん、出口が近いでゲスよ』
おお、助かった、すぐにお兄様達に伝えると皆ホッとして喜びの声が上がった。
「アンジェ―!フェルデー!」
「父上!アンジェも一緒におります!」
パパとカメリア様がすぐに姿を現して、ダリアさんに抱っこされたあたしの顔を撫で、お兄様に駆け寄り肩に手を置くと無事を喜んだ。
あたしはダリアさんに降ろしてもらい、迷子にならないよう床にいるヤモリンを手の平に乗っけてあげた。
弱く発光しているあたしに、驚きながらもカメリア様が声を掛けてくれた。
「アンジェったら心配したのよ。なんて無茶をしたの」
カメリア様があたしの傍に来て手を伸ばそうとしたとき、勢いよく頭に上ってきたヤモリンを見て悲鳴をあげた。
後ずさりをして仰け反った拍子に、石壁にドレスの袖を引っ掛けて罠のある通路側につまずいてよろよろと倒れこんでしまった。
「カメリア?」
フェルディナンドお兄様に説教しようとしていたパパが振り返る間もなく、嫌な音がまた廊下に響いた、石の擦れるような重々しい音だ。
ヤモリンが警戒する声で叫んだ。
『吊り天井でゲスーー―――!!』
しまった!脇の通路を警戒することを怠っていた!
床に倒れたカメリア様の頭上から、鉄板が身体に響くほどの轟音を立てて落ちて来る。
「カメリアアアアアー――!」
パパが脱兎のごとく彼女を救うために飛び出したが、間に合わない!
「きゃああああぁぁぁぁー!」
あたしは両手を前にトテトテと走り出した!
こっちに弾き寄せる!!念力全開だ!力を全部絞り出す!
グワ!と念力で思いっきり弾き出した彼女をパパの腕が絡めとった。
ガラガラガラー――――!!
だが、引き込むための勢いで倒れ込んだあたしに、大きな鉄板が凄まじい轟音で落ちて来た。
もう力は残っていない、逃げられない。
* * * *
脇の通路に在った吊り罠は、厚さ9センチ、縦150センチ横130センチ。
その鉄板が2000の円錐型の鉄の釘を付けて勢いよくアンジェの上に落ちた。
凍り付いた空気の通路に皆の悲鳴が響き渡った。
直ぐに、ルトガーが這いつくばって覗き込んだが鉄板の下は良く見えない。
アンジェの光は既に失われている。
ルトガーは必死にアンジェに呼び掛けた。
「アンジェ!アンジェ!カメリア、こいつの巻き上げ装置は?」
「ここには無いわ…カーテンウォールの捜査室まで行かないと…ああ、アンジェ可哀そうに…う、うう…」
カメリアは、床に膝をついて呆然としているルトガーに縋って泣き出した。
フェルディナンドとリアムは真っ青な顔で言葉を無くして佇んでいるなか、セリオンとダリアだけは冷静だった。
やがて耳を澄ませていたセリオンが、がばっと体を起こして指を口にもとに寄せて言った。
「ちょっと、ちょっと静かにしてください。アンジェの声が聞こえるんです。ダリア、こいつを起こす、手を貸してくれ」
そこにアンジェの思念の声が周りの人々の頭に響いた。
『セリオンさん、それより周りの人を退けて、あたし自力で這い出せそうだから、ちょっとどいていて』
周りにいたカメリア達にもその声がはっきり聞こえて、ざわつき動揺したがダリアとセリオンが後ろに下がるよう頼むと戸惑いがちに応じた。
「いいぞ、アンジェ、出てこい」
その声で巨大な鉄板の隙間、その下からアンジェが這い出してきた。
床から体を起こすとき、棘が引っ掛かり彼女の服が破けた。その隙間は僅かだった。
* * * *
床から立ち上がって、てんてんと手のゴミを払うと周囲の視線が突き刺さった。
信じられない物を見るような目に晒されているが、そこはまあ覚悟していましたからね。
先ずは心配掛けた謝罪をして、あとの揉め事は保護者に丸投げしてお願いしましょう。
「パパごめんにゃちゃい」
すかさずルトガーパパがあたしを攫うように抱き上げた。
「良かった、本当に良かった…う、うう」
*ぎゅぅぅーー-!*
パパの抱きしめがまるでベアハグ!背骨折る気なんかい!!
パパ!頬擦りし過ぎ!痛い、痛い、髭も痛いよー!
「あなた何しているの!アンジェがつぶれるわ!」
「ルトガーさんアンジェが苦しがっていますよ」
「なんであんな無茶したんだ?!」
潤んだ目のパパにため息交じりに問いただされた。
「吊り天井系の罠は床から浮く高さになってるでちゅ。
お友達ににゃったヤモリンにょおかげで罠が分かってたきゃら、思い切っていけたでちゅ」
あたしの髪の中から、皆の前に姿を現したヤモリンが、挨拶代わりにペロリと舌を出して自分の目玉を舐めた。
カメリア様はぴくりと反応したが今度は踏みとどまった。
この手の罠は死体が突き刺さったままだと、再度セットするのに時間が掛るので大概抜けやすくなっている。
床にぶつけない高さにするのは、床が荒れては罠があると気づかれるし、何より罠が痛むからだ。
賭けだった、それもかなり危険な賭け。大人のための罠だから、あたしに刺さるまでは高さが開きが有ると思ったからできたことだ。
それに、歌の効果のお陰で罠は決して当たらない筈だ。
ふっ!素晴らしい洞察!我ながらできる子供だ!
頭の上のヤモリンが逆さまの状態で顔を覗き込んで来た。
『それにしても、無茶したでゲスね。あの鎖がたぐれていなけりゃ、お陀仏でゲスよ』
は?鎖がどうしたって?無茶とはなあに?
『巻き上げ機が噛んでいたせいで、上の鎖が絡まってたんでゲス。あっし今確認してきたんでゲス。あれが無かったら嬢ちゃん今頃死んでたでゲス。
床から人の指一本分ばかりの高さに設定されてたみたいでゲスから』
え?当たらないので避けられたんじゃないの?
ガックン、鎖のもつれがとれた、音と共に鉄板が一段落ちて大きく横に揺れた。
そこに、ヤモリンとの会話を、何とか拾い聞きしたセリオンさんが、言葉を口にして念話に入ってきた。
「おまえ、罠には当たらないらしいが、この場合の罠は、「潰されない」じゃないと効果がでなかったのでは?」
そういうとパパに抱かれているあたしの体の厚みを指で図った。
「やっぱりな。指一本の程度の余裕しかないなら、お前の頭は確実にぐしゃぐしゃになっていたな。
指一本半以上はあるから」
セリオンさんの言葉を聞いて途端に背中から冷たい汗が滑空してきた。
肌の毛穴がぶつぶつと怖ぞ気だち、全身がブルブルと震え出した。
喉の奥からぎゅうっと重いものがせり上がって耐えきれずに爆発した。
「う、うう、わああああああああぁぁぁぁん!!!」
びっくりしたヤモリンがぴょんとセリオンさんの鼻先に飛び移った。
* * * *
「あわわ、どうしたアンジェ?いきなり泣き出して?」
ルトガーの胸を手で突き放すようにして、後ろにそっくり返って泣き出したアンジェに、ルトガーが困惑すると、カメリアが胸に抱いてみた。
「アンジェ、私を助けてくれたのよね。有難う」
カメリアが左の胸にアンジェを抱いて、背中を撫でおろしながら宥めた。
しかし、火がついたように泣いているアンジェの涙を止めることは彼女にもできなかった。
玉のような涙がアンジェの眼からポロンポロンと零れ出てきた。
よくもまあ、こんな見事な玉の涙を流すものだと、セリオンの頭の上でヤモリンは眺めていた。
『嬢ちゃん、よく頑張ったでゲスね。安心して泣いて良いでゲスよ』
いくらあやしてもむずかって声を高くして泣くアンジェ。
オロオロするルトガーとカメリアに、たまりかねてダリアが手を伸ばそうとした。
「いや、俺があやしてみます。イメージで安心させることができるかもしれないので。あんまり放っておくと暴走しかねないですし、まかせてください」
「セリオン?イメージとは何なの?」
カメリアの疑問と、不思議そうなフェルディナンドやリアム、ダリアがぷうと頬っぺたを膨らませる不満そうな顔も無視して、セリオンはお構いなくアンジェを抱きしめてから自分のイメージを想い起した。
ディオが笑う幸せそうな笑顔、忙しかった市場の日々、出会った人々、バッソの楽しい日々がアンジェの思念に蘇ってきた。
アンジェはひっくひっくと嗚咽を漏らしていたが、やがてそれも小さくなり、すやすやと眠りについた。
「ああ、良かったアンジェが落ち着いた」
フェルディナンドが頑張ってくれた小さな妹の背中を優しくさすった。
「凄いわ、セリオン。どうやったの?」
カメリアが心底感心してセリオンを褒めると、彼はルトガーを一度振り返る。
「その前に、旦那様からお話があります」
「本当ならカメリアとカラブリア卿にだけに秘密を明かすつもりだったが…」
ルトガーはそういうと、ちらりと息子のフェルディナンドと従者のリアムの顔を見た。
見てしまったのなら仕方がない、そう呟いた彼はカメリアに上の部屋に戻ったら話をしようと促した。
アンジェロ・クストーデが空の上からハイランジア城を見おろしていた。
彼は泣き疲れて眠るアンジェリーチェの顔を眺めると、ニコリと微笑んだ。
「おやすみ、小さな天使。よく頑張ったね」
そして、青く広がる天の果てを仰ぎ、アルバの不毛の地を見て溜息をついた。