第92話 ただひとつの紋章
パパとカメリアさんがじゃれ合っている間、危険を避けるために、あたしはダリアさんと一緒にエルハナス家の家族専用の居間に通されて、待つことになった。
このお城は本当に3メートルとか4メートルの壁があるんだ…
城壁は荒削りの石灰岩の石積みで、中には岩とモルタルの混合物が埋めてあり、内部は滑らかな漆喰が塗られている。
なんだか長靴を履いた猫に出て来るお城みたいだなあ。
どうせならおとぎの国みたいな不思議があると良かったのに、今のところ昔の外国みたいだ。
意識を広げて、壁の中を届くかを試してみた。
どこまで見えるのか試してみたが、視界はすぐにぼんやりとして消えてしまい、この辺りが限界ギリギリかなと尚も意識を伸ばして探りを入れると、僅かな音が拾えた。
そうか、障壁が分厚いと情報は拾いにくいけど、音のほうが拾いやすいのか。
音だけに意識を集中させてみよう。
そんなことを考えていたら、突如、子供の悲鳴が耳に飛び込んで来た。
うああああああぁぁぁ………
………たすけ…て…はは…う…えぇぇ…
?壁の奥?それも下から聞こえた??母上って聞こえたよ。
『セリオンさん悲鳴が聞こえたよ、子供の声よ』
『どこだ?』
セリオンさんはパパの様子を見に行っているためだいぶ離れている。
あ、また聞えて来た。
ぼっちゃーん、フェルディナンド様―!
!フェルディナンドって?お兄様のこと?この城のなかにいるの?
集中、集中してもっと耳を澄ませて音を拾え!がんばるのだ、あたし!
チョロチョロと流れるような水音が小さくなり、ひとりの少年の声だけが聞こえた。
フェルディナンド様―!…………うううぅ…
すすり泣きと水の中を歩き回るようなざぶざぶという音だけが響く。
だんだん音が遠のいていく、聞いているうちに、あたしは嫌な予感で肝が冷えて来た。
お兄様に何かあったんだ!この城のどこか、いや!この城の下の何処かでお兄様が大変なことになっているのは間違いなさそうだ。
* * * *
一方、ルトガーは、カメリアと夫婦水入らずの時間を戦々恐々と過ごしていたが、二人共すっかり疲れ果てている。
カメリアは、自分が鞭を振り回して散らかした部屋を、肩で息をしながら眺めて言った。
「まったく…ハアハア、本当に上手に除けるわね…」
「…お前はドレスで動きにくい筈なのに…さすが大したもんだ…」
ある程度騒ぐとカメリアが落ち着いたようなので、やっとルトガーの申し開きが出来るようになった。
彼はジャケットのポケットから、彼女に小さな包みを差し出した。
「見てくれ、これを、これはセルヴィーナの母が、彼女の父親から渡された紋章だ。何かあったら証にするようにと」
それは2センチほどの大きさで、盾の形をしており表にはエッチングで模様が刻まれ、裏には何かに嵌め込むための突起が出ていた。
「カメリアならオルテンシア家の盾紋章も知っているだろう?俺の兄が死ぬまでは俺も分家の盾紋章を使っていたのだから」
カメリアの剣の柄頭にも同じように自分専用の盾紋章が入っている。
「これって貴顕の剣の紋章?あなたのと似ているけど…え?これは!」
貴顕の剣は身分の高いものが所持する高価な剣で、そういう剣の柄頭には個人が特定される盾紋章が描かれた嵌め板が入っている。
その盾の形の金属の嵌め板には縁取りがあり、描かれている図は、単純化した左向きの山犬の姿、ハイランジア家から受け継がれた意匠だ。
その山犬の上には逆斜めの細棒、この左さがりの細い棒が記されている場合の盾紋は、紋章の保持者の多くが庶子であることが多い。
「この紋章の申請は俺の祖父がしたものだ、受理したのはグリマルト公爵だ。
オルテンシアの分家の紋章は記録にある、分家と庶子の証と座る山犬。
この盾紋章を持つものは、国で一人だけ、それは公爵が保証した」
叔父セリオンの遺体と共に戻って来た剣には、イチジク型の柄頭に埋め込まれていた盾紋が消えていた。
宝石が入っているわけでもないので、盗まれたとは考えにくい。
当時、皆はその盾紋の行方を不思議に思っていた。
その盾紋が今ここにある、これはルトガーの叔父セリオンの、彼以外は使用することが許されないオルテンシア家の分家当主を表す盾紋章だった。
「そ、それではこれを持っていた彼女というのは…」
「セルヴィーナは叔父セリオンの隠し子、俺の従妹ということだ」
「まあ!それで彼女を屋敷に引き取ることになったのね」
「そうだ、まったくお前の焼きもちにも苦労するぞ。グリマルト公爵からの手紙で書いてあっただろう?」
はっとしたカメリアは急いでもう一度手紙を読み直した。
長々とした文章の最後のページには、取ってつけたように追伸と称し、このように書いてあった。
追伸
わしの調査によると、ルトガーの叔父セリオンには、マンゾーニ家の娘ベラスカという恋人がいた。
オルテンシア家とマンゾーニ家は犬猿の仲だったため、どちらの親からも許しを得られなかった。
彼女は親の強いた結婚を拒否して、修道院に入れられた。
しかし、持参金付きの彼女は、修道生活は免除されていたため尼僧にはならなかった。
与えられた修道院の離れの部屋で、叔父セリオンとの密会は金で黙認せていたそうだ。
セリオンは遠い外地から会いに来るうちに無理がたたり体を壊し病死した。
妊娠したベラスカは修道院で出産後、セルヴィーナが12歳のとき死亡した。
二人はセルヴィーナが産まれた後は、彼の赴任先の地で駆け落ちする気だったらしい。セリオンが買った家も見つかった。
セルヴィーナの出自は修道院の小作人たちの証言で証明できる、彼女はルトガーの従妹で間違いない。
証言させなかったら、領主共々仕置きが待っているぞと脅したら、あの修道院長、いつでも証言すると言いおった。
ルトガーのオルテンシア家は彼女に継承権がある、わしが尽力する。
セリオン・オルテンシアは正式な分家を興す前に死去したが、時を経てオルテンシア家を救い存続させてくれたのだ。
ルトガー、お前に話した件が全て終わったら、手続きをするが、その前に伝えておこう。
紋章院はセルヴィーナをオルテンシア家の本家当主として認める。
お前が王から委託されている小さな村をわしが買い上げ、彼女を領地の郷士として登録してやる。
それがお前の祖父と父への恩義に対するわしのささやかな感謝の証だ。
全ての手続きが終わったら彼女をバッソに送るので、オルテンシア家の跡継ぎとして彼女を迎えてやって欲しい。
「な、なんで追伸がこんなに長いの?それにこんな大事な話は先頭に持ってくるべきでしょうが?
手紙の本文の始めはくだらない王都のファッションの最新作の話題だったのよ??
それに、最後の追伸の内容だってまるでルトガー宛だわ」
頭に手をあてたルトガーがウンザリしたように言った。
「あのタヌキ親父、俺をからかったと思ったら、今度はカメリアに誤解するように仕向けたな。
俺が息子からカメリアを奪ったのを、今も根に持っている」
グリマルト公爵は、お気に入りだったカメリアを息子と結婚させようと、彼の音頭で子供のうちに婚約させていた。
しかし、ルトガーと恋仲になり、カラブリア卿が彼女に爵位を継がせることにしたことで、公爵は非常に残念がった。
そう言えばと、いままでひと言も言わずに様子見を見ていた侍女のデゼリが口を開いた。
「あの従者おかしかったですよ、手紙を受取ろうとしたら、旦那様がやってくる直前に読んで頂くようにと、頑として渡さなかったのです。
旦那様が城門にいらっしゃったと聞くと、急いで手紙を渡して、お返事は結構だとお伝えしてくれとだけ言って、おもてなしも受けずに出て行きましたわ」
「使いの者は、ひと悶着起こすタイミングで手紙を渡したのか…」
「公爵様はカメリア様の気性を御存じで、旦那様に意地悪なさったのですよ」
アイリスが平然と言い放ち、旦那様が浮気する度胸が無いのは明らかでしょうとカメリアを叱った。
カメリアはしょんぼりし、ルトガーのほうは情けないほど居たたまれない顔をしている。
「それじゃあ、私をわざわざ誤解させるために本文を追伸に書いたのね」
やっと正気に戻った妻に、恐妻家をひそかに自覚するルトガーは安堵のあまり嘆息した。
「ご、ごめんなさいルトガー…」
「いや、良いんだ。俺も順を追って説明しなかったし」
恥かしそうに項垂れた美しい妻に彼は胸を撫でおろした。
あら、と声をあげたアイリスが床に落ちていたもう一枚の便箋を拾いあげた。
「奥様、最後までちゃんとお読みになって下さい。追伸のお話は終わっておりませんわ」
すっかり怒りが失せたカメリアは、手紙を受け取り最後のページを改めて読み終わると不安そうに夫に顔を向け、手紙を差し出した。
文面にはアンジェのことが語られていた。
ルトガーがグリマルト公爵の悪戯に付き合わされた頃、その早馬の使者はバッソにいた。
カラブリア卿が男爵屋敷で鳩小屋の鳩たちに餌をやっていたときだった。
護衛のパーシバルが手紙を届けに来た。
「旦那様、アザミの使者がただいまお手紙が届けて参りました」
「そうか、それじゃあ読んだら返事を書かねば」
「いえ、御返事は御無用と、そして読んだら直ぐに処分するようにと」
パーシバルが不安そうな顔で手紙とペーパーナイフが乗った銀盆を差し出すと、怪訝な表情を浮かべたカラブリア卿は直ぐに中身を読み始めた。
手紙を読み終えると卿は面を上げパーシバルに命じた。
「パーシバル、馬を用意しろ。すぐにハイランジア城に行く」
「かしこまりました」
カラブリア卿は手紙を握りこんだまま調理場にズカズカと入って行くと、クイージがクッキーを焼いていた。
「こりゃ、勝手に調理場に入るな!とと、カラブリア卿?」
調理場には主人や執事でさえ無暗に入らないのが暗黙のルールだ。思いもしなかった人物が入って来たことにクイージは狼狽えた。
「すまん、クイージ、燃やしたいものがある」
「ああ、それなら燃やしておきますよ」
「いや、わしの目の前で燃やさねばならん」
いつもと違う固い表情のカラブリア卿の顔つきに不思議に思ったが、手に持っている手紙を見るとクイージは鉄製のオーブンを指さした。
「そこなら火が熾っています」
カラブリア卿は屈みこんで無言で手紙を火に放り込み、それがすっかり灰になるのを確認するまでそこにいた。
読んで頂いて有難うございます。




