第88話 グリマルト公爵の告白
ルトガーはグリマルト公爵から、ディオの考えたことが認められ、アルゼと共に商会の利益をあげていると聞き喜んだ。
そのうえ、煙突掃除の子供の労働が禁止になると聞けば、ディオの過去の苦労も少しは報われるかもしれない。
「そうでしたか、有難うございます。ディオが喜ぶでしょう。
でも、アルゼは何故いま頃カラブリアに帰郷したのです?家族はいまフォルトナにいるのに」
「ああ、それも最近わかったのだが、アルゼが頼んだ家庭教師はディオの母親、デルフィーナの友人だそうだ。
彼女からデルフィーナは元気かと聞かれて分かったそうだ。
それで、バッソに行く前にカラブリアの墓参りに行っている」
「本当ですか、母親のことを良く知る人が家庭教師になってくれたら、ディオも嬉しいと思います」
孤独だったディオには、亡き母親の愛情を伝えてやる人が必要だ。
良い人が家庭教師になってくれたものだ。
そして、ディオの作ったものが本当に売れるようになる、帰って教えてやったらきっと喜ぶだろう。
タウンハウスに戻ったルトガーはアンジェがやって来てからバッソが段々幸運に恵まれて行くようで、心が躍った。
やはり、天に遣わされた子供だったのだ、ルトガーはそう確信した。
「いと高きところに栄光神にあれ」
就寝前の祈りの最後に新しく家訓とした言葉を唱えて、彼は床に入った。
ふたりのお土産に何を買ってやろう?ディオならやっぱり本だろう。
アンジェは…ああ!いいことを思いついた。あれを土産にしよう!
翌日、ルトガーは自分の思い付きに喜び、菓子屋にバッソに帰る日のための注文をしに行った。
女性で賑わう店内で、いい年をしたルトガーは恥かしさを覚えたが、特注の土産を用意して帰りたいのでこらえた。
たまに男性を見かけるが、みなどこかの従者か、あるいは恋人に贈るために立ち寄った若々しい男性だけだった。
可愛らしい色の菓子と甘い匂いに包まれ、込み合った場違いな店内で、やっとルトガーは注文を聞いてもらえた。
「ウイスキーボンボンを特注で頼みたいのだが、なるたけ小さく作って欲しい」
「小さくですか?じゃあ中身の酒も減りますが、いいですか?」
「ああ、その方が良いのだ。彼女は酔いやすいし、おちょぼ口だから」
注文を聴いていた菓子屋のおやじはニヤニヤしだした。
「旦那さん、ええでげすね。どうせなら可愛らしい瓶にいれましょうか?
綺麗なリボンをつければ、若い女性は喜びますよ。うひひひひ」
恋愛ごとには鈍いルトガーには、菓子屋のおやじの勘繰りがよく分からなかったので、素直にアドバイスと受け取った。
「そうか、女の子が喜びそうなものにしてくれると有難い」
ルトガーは喜んで発注を終えるとエルハナス家のタウンハウスに戻った。
慣れない社交を幾つかこなし、いよいよ帰郷が近づいた日、またもやルトガーは、是非にとグリマルト公爵の屋敷の晩餐会にひとり呼ばれた。
晩餐会といっても自分達ふたりだけだから、気兼ねなく来て欲しいという内容に首をひねりながらも出席した。
公爵家の晩餐だけあって、久々に豪華な食事を堪能した。
晩餐後に客用の居間で、なかなか手に入らない高価な酒を勧められてほろ酔い気分で寛いでいる。
「よく王都に来てくれた。小さな赤子を置いて来てもらって申し訳なかったな。バッソに戻るまで気を付けて帰れよ」
「グリマルト公爵、何から何までお世話になりました。深く感謝いたします」
「ふふ、この間のお前は面白かったな。カメリアの話をすると、おたおたと、冷や汗を浮かべて、楽しかったぞ。ちょいと意地悪が過ぎたと反省しておる」
「え?」
「ああ、そんな話より楽師を呼んでいる。演奏を聴いてもらうかな」
悪い顔をして微笑んだ公爵は適当に話を切り上げて、若く美しい女の楽師をひとり部屋に呼んだ。
彼女をみたとき、ルトガーは微かな既視感を覚えた、どこかで会った気がしたのである。
丁寧に挨拶をした楽師は椅子に座ると、小さなハープを膝に乗せて弾き始めた。
緩やかに巻き上げた薄桃色が入った金の髪を櫛で留め、琴に視線を落としてつま弾く横顔は、寂しそうにみえる。
彼女が別れの曲を歌い始めると、その低い唄い出しでルトガーの毛穴がさわりと逆立った。
切々とした歌声に胸がしぼられ、ルトガーの心の琴線に触れてゆく。
伸びやかな高音や、体の芯まで響いて聴こえる低音も、ただの技巧の上手とは言えない心に迫るものがあった。
こみ上げる思いの発露から不覚にも目が潤むのではないかと案じたときに歌が終わった。
楽師が立ち上がって挨拶をすると、ルトガーは勢いよく拍手を送った。
「素晴らしい!君の歌は技巧的な上手さだけでは無く心に響いた」
「お褒め頂き光栄でございます」
華やかな芸事に生きる女楽師に似合わず、寡黙で表情も控えめな女性だ。
目を引くほどの美しい女性だ、だが歌い終わるや否や、その存在はたちまち朧げに見え、華奢で頼りなげで、思わず手を差し出して支えたくなる風情だ。
―こりゃ男達がほっとかないだろうなあ…
「紹介しよう、彼女の名前はセルヴィーナだ。年は今年21歳になる。母親はさる貴族の令嬢だったが、持参金を付けられ修道院に入れられたそうだ。
彼女はそこで産まれ育った後に、修道院から出たのだ。
わしは、ある家のスキャンダルを追っているうちに偶然彼女の存在を知った」
そこまで言うと、ご苦労だったと彼女に伝えて、公爵は呼び鈴の紐を引いた。
すぐに執事がやってきて、セルヴィーナの楽器を受け取り、彼女を部屋の外に案内した。
「お部屋にご案内致します。セルヴィーナ様」
執事の言葉にルトガーは耳を疑った、ただの楽師に様をつけて呼ぶだろうか。どうやら彼女は、母親が元貴族の令嬢というだけではないらしい。
もしかして、公爵の愛人だろうか?いやそれなら自分に紹介するのも変な話だ。
挨拶をして部屋を出る去り際に、セルヴィーナと視線が交差した。
すがりつくような眼でルトガーを見つめる彼女を、違和感を持って見送った。
公爵はルトガーにもっとそばに来いと隣の席を勧めると、部屋にいた使用人をさがらせた。
ふたりきりになるや、酒をグイっとあおったグリマルト公爵は、そっとルトガーに向かって、前かがみになり小声で話し始めた。
「そこでな、お前に頼みたいのだ。彼女をお前の男爵家に迎えてくれ」
「はあ???」
「先ほど言ったが、場合によってはその家は廃爵になる程のスキャンダルだ。彼女は重要な証言者のひとり、証言した彼女は報復されるかもしれない。そのため守ってやって欲しい。わしは、誰よりもお前に護ってもらえれば最適だと思うのだ」
突然の話に面食らったルトガーはカメリアの顔が思い浮かんで身震いした。
そんな彼に言い聞かすように公爵は話を続けた。
「子爵家のスキフォーソ、あの家が領地で処女税を復活させた」
それを聞いたルトガーは表情が怒りでこわ張った。
この世界の処女税とは、住民税や借金を払えなかった領民から、取り上げる財産が無かった場合、その家族の未婚の女性を取り上げることである。
該当する娘が無い場合、その家は領民としての自由の無い農奴となる。
アンジェのいた世界でもモーツァルトの「フィガロの結婚」で処女権のことが題材になっている。
この場合は、何も借金が無いのに、結婚する領民の嫁として相応しいか、領主が検めるという暴論だったが。
昔、税金の代わりに娘を差し出せという記録は割と広い地域である。
税金が払えずに辱められた記録も残っている。
男性優位の社会で、従順になるよう教育した女性を男の財産としてみなす、そのような考え方があったのである。
「昔、国が廃止した制度を復活させたのですか?あいつら!」
「さよう、国は各領地での完全な自治権を認めている。だがな、あいつらはやり過ぎた、完全な自治権を曲解してな」
「領地から一歩も出られない自由のない農奴にしてしまえば、国に訴える者もいないし、バレることもないと言うことか。それでいつからですか?」
「そうだな、5年程かな。わしの調べではそのくらいだ。証拠集めをしている最中だ。あの家を潰すまで、お前は彼女のことは使用人としておいてくれればよいから頼む」
なぜカラブリア、フォルトナに頼むのではなく、バッソに頼むのか?そんな大きな疑問を口にする前に、グリマルト公爵は何故か自分の家のことを暴露した。
「ルトガー、どの家にも探られたくない秘密があるのは、わしの家も同じだ。
お前の祖父は国境紛争にわしが参加したとき、わしの代わりにお前の父レオポルトを戦場の前線に送った」
「グリマルト卿?」
いきなりの告白に戸惑うルトガーを、卿は落ち着くよう手で制止してから、尚も話を続けた。
「建国以来の世襲職位の紋章院長官という、グリマルト家の爵位と歴史を守るために、指揮官だったお前の祖父は、わしのかすり傷を重傷と偽り、わしを王都に送り返した。
父は深く感謝したよ、わしが死ねば、甥に家督を譲るはずだったのだから」
ルトガーは初めて聞かされた話に驚き、この話の着地点は何処になるのか忙しく頭を働かせた。
彼は、次に話すグリマルト公爵の言葉に神経を集めた。
「そして、お前の父はわしの代わりに死んだ。まだ小さいお前を残して、申し訳なかった。
許してくれルトガー」
「グリマルト卿、祖父がやった事は理解できます、貴方は恥じることはない。
父も祖父も貴方の家が国のために必要だと考えたのです」
それを聞くと、いきなり公爵は彼の肩をぐいと掴んで引き寄せた。
卿はルトガーの瞳を見据えたまま、真剣に口を開いた。
「ルトガー、この話はまだ終わってはおらぬ、最後まで聞け」
これからが話したいことだと、公爵はルトガーの肩を掴んだまま、また小声で言って聞かせた。
「わしは、やっとハイランジア家、いや、オルテンシア家の恩に報いることができる事実を掴んだ」
公爵は胸ポケットからテーブルの上にシルクのハンカチの包みをだした。
彼が包みを開くと小さな金属の塊が出て来た。
「彼女の私物だ、手に取ってよく見ろ。お前なら、これが何処の誰のものか、何なのか判るはずだ」
そのとき、それを手に取ったルトガーの顔つきは、眼を見開いて驚愕していた。
その品がどうしてここに在るのか理由を聞かされると、不覚にも涙を浮かべ、公爵に深く頭を下げて感謝した。