第85話 以心伝心超兄貴!
『アンジェのあほ』 ムカ!
『考えなしのじゃじゃ馬』 ムカムカ!!
『頭のなかが完全にディオより育ってないよな』 ムカムカムー!!!
悔し―い!離れているからセリオンさんにデコピンできん!!!
セリオンさんとディオ兄が自らの意志で声が送れるようになり、お互いの送受信が自由にできるようになった弊害だ。
やればやるだけ確実に送受信できるかも?ということで、二人とも訓練を怠らなくやっている。
お陰で、セリオンさんが引っ切り無しにからかうようになった。
セリオンさんが帰って来たら、お返ししてやるー!きー!
*ジタバタジタ*
毛足の長い絨毯の上で、仰向けで両手両足をバタバタしてご機嫌斜めのあたしを見て、ダリアさんとメガイラさんを心配させてしまい、心配そうに見ている。
「お、お嬢様はまたからかわれているのでしょうか?」
「そのようですね、セリオンもしょうがない人ですねえ…」
そのとき、アンジェがガバッと跳ね起きて喚いた。
「にゃにおー-!きぇんきゃ うにゅにゃにゃ きゃっっっ!!!」
意訳 *喧嘩 売るなら 買うっっ* この後絶句…
アンジェは、やおら蹲り、口を両手で押さえ、肩をふるふると震わせて何やら耐えている。
「どうやら舌を噛んだようですわね…」 (汗)
メガイラとダリアは慌ててアンジェに駆け寄った。
「アハハハハハ!!興奮すると余計に噛むくせに!アハハハ!」
屋敷のルトガーの書斎では、椅子から転げ落ちそうなセリオンが、舌を噛んだアンジェに、爆笑していた。
アンジェは成長が早めで、既に上下四本の歯が生えていたのだった。
ルトガーと執事のランベルがその様子を見て嘆息した。
「やっぱりだな」
「やはり他には御座いませんね」
いつの間にか、目の前にいた二人に、セリオンは椅子から立ち上がった。
念話をするのに集中しすぎて、彼らが入って来たのに気がつかなかったのだ。
とても、目の前の事と並行して念話するアンジェの域には達せない。
「す、すいません」
立ったまま申し訳なさそうに謝るセリオンに構わず、ルトガーは自分の机の前に座り、ランベルもその横に椅子を引いて座った。
ルトガーは笑顔で許してくれた、何故セリオンが部屋に入って来た自分に気がつかなかったのかは分かっていたからだ。
―仲がいいな、アンジェ達にとっても一番信頼できる相手なのだな。
「やっぱりアンジェの護衛はお前が一番だな」
「ダリアさんじゃないのですか?」
「セリオン、君は執事になる気はないと言ったが、本気ですか?」
執事のランベルが雇用契約の書類を持ったまま聞いた。
「はい、ランベルさん。人の上に立って指揮するなんて、俺には無理です。人と群れるのは苦手ですから、単独行動のほうが、気が楽です。
ディオ達の護衛や従者なら喜んでやります。俺も望んでいたことですから」
バッソに流れて来てから、セリオンは従者になれる程度の教育を受けている。
ルトガーのもとで働くなら、その位の教育は必要だと言われ、フォルトナの学校に行かされて懸命に勉強した。
見目が良いのだから、金のある他所の領地への就職を勧めても、頑としてバッソにいると断り続けた。
しかし、ルトガーはとしては密偵だけで使うのは勿体ないと思っていた。
女性貴族の間では、いかに見目の良い男を従者に抱えるかで、貴族としてのステイタスも評価されるからである。
セリオンの容姿なら皆こぞって高い金で雇ってくれるだろうに。
「分かった、お前にはアンジェの従者になってもらう」
「ディオからアンジェに?それじゃディオの担当は?」
「スレイにする。それにダリアもそのままアンジェに付けるようにする。ディオなら大人しいし、警護の眼さえあれば安心だ」
スレイはアンジェのことは知らない、無暗に知る者を増やすわけにはいかないので、確かにアンジェから遠ざけた方が良いだろう。
そうですかとセリオンは考え込むように視線を下げた。
―確かに、ときどき感情が暴走するアンジェは、良く知っている自分の方がいいかもしれない。
ルトガーがやおら貴族における乳母の説明を始めた。
「セリオン、貴族の乳母は2種類ある、乳を与える乳母と、母親代わりで躾をする乳母、後者の乳母は特に重要だ。
産みの母親ですらその教育方針に口出しできない程だからな」
混乱するセリオンに構わずふたりは話した。
来たばかりの執事ランベルも子供好きでアンジェを早速気に入っている。
どうやら自分の娘の小さい頃を思い出しているらしい。
それに彼は、何しろアンジェの問題行動をまだ直接目にしていないので、見た目の愛らしさで誉めそやしている。
「お嬢様はとても行動的で天衣無縫の無垢なお方でいらっしゃいます」
「救いようのないじゃじゃ馬ってことですね」
「愛らしい御容姿は、それはもう穢れ無い天使と見紛う御様子」
「見た目で騙される奴が多すぎて腹立ちますよ、俺は」
力なく笑ったルトガーは、渋い顔のランベルを振り返り、彼が頷くのを見てセリオンに向き直った。
「セリオン…アンジェが危なっかしい娘だというなら俺も同意見だ。
そこでお前だ…お前、アンジェの乳母になれ」
「はあー???何何を言ってるんですかあぁー?」
セリオンは思いっきり間抜けな声が出てしまい、我ながら恥かしくなった。
「お前どうしてもアンジェのことを妹として扱ってしまうだろう?それで考えた、お前に乳母と同じ権限を与えることにする。
今日からハイランジア家はセリオンを子供たちの育ての兄として雇う」
ルトガーの話を聞いてみたら、もはやメガイラでは、アンジェの素早い動きは取り押さえられないという。しかも、既にじゃじゃ馬の片鱗が見て取れる。
ルトガーの子供らしく父親譲りの活発さと体力だと、今のところは評判だが、そのうち馬脚を現すかもしれない。
ランベルが新しい契約書を出して、書かれた条項を指さしてセリオンに説明した。
「乳母の権限は親同然、たとえ平民でも貴族の子を、自分の子供同然に御育て申し上げることが出来ます。
多くの家で、乳母だけはたとえ平民の出身であろうと、育てた貴族の御子が、成長して成人になっても名前を呼び捨てが許されるほどです、親同然とされる特権です」
「セリオン、お前には使用人の立場を気にせずに、遠慮なく二人と接して良い。ハイランジア家の独特の教育方針という体裁で世間に認識させる」
「セリオン、要するにあなたは、躾係としての立場をよく考えて、アンジェリーチェ様を御育てするようにして下さいね。さあ、契約書にサインして下さい」
セリオンは立場上、アンジェをからかって遊ぶのは出来なくなりそうで、少しがっかりした。
そんな胸の内の彼にルトガーが頼んだ。
「セリオン、来週、俺はグリマルト公爵に呼ばれてエルラドに行かねばならない。俺が帰るまでアンジェをよろしく頼むぞ」
「王都ですか?それで護衛は?ガイルさんは?」
「警邏兵から護衛に2人ばかり連れて行くが、ガイルにはバッソに居て貰わないと、あいつは有能だから留守中安心して出掛けられる」
「そりゃあそうですが、俺はルトガーさんもいて欲しいですよ」
ルトガーは笑顔で土産を買って来るからなと言って、セリオンに書類のサインをせかした。
* * * *
その頃、教会にはレナート神父が、花の付いた枝を胸に抱いたまま、祭壇の前で神の座像を見つめて考え込んでいる。
これから自分自身で告解をしようと心を整理していたのだ。
―こうするしかなかった、私はあの子達を教会本部から守ると決めた。
私の教区に住んでいる、それだけで、私の巻き添えで殺されるかもしれない。
幼子を守るためどんなこともする、だから嘘も突きとおしたのだ。
悔いはない、が、しかし……
やっと告解を始めようとした神父は、胸に抱いていた花を改めて見た。
貰ってきた花の一枝、男爵家の庭に咲いていた白椿を祭壇の花瓶に挿した。
―その花は椿ですよ―
そう答えた銀の髪の少年、あれからは会っていない、何か不吉な予感を感じさせる子だった。
神父は再び神の座像に気持ちを戻すと、眼を閉じて床に跪くと深く頭を垂れた。
「神様、お許しください。私は罪を犯しました…私は…人々に…嘘を」
神父の告解は突然止まった。ゆっくりとした衣擦れの音に気がついたからだ。
その音は正面から聞こえた、誰もいなかった、前には祭壇しかない筈だ。
「真実を求めたために名を捨てた人、レオディナルト・ベラスケスよ」
息を呑んだ神父の開けた眼は床の木目を見た、そのまま顔を上げる勇気がない。
中央に命を狙われるようになり、カラブリアに来た時、自分の真実の名は捨てて幼名を名乗っていたのだ。
そして、以後、バッソで平民の神父に身をやつして生きて来た。
それは、カラブリアの司祭ジャウマ・バルバしか知らない筈なのだ。
彼は驚きと恐れのあまり、ただ平伏したまま、その次の声に耳を澄まそうとしていた。
「面をあげなさい、レナート神父。その告解は不要です。貴方がついた嘘というのは正にこれから真になるのだから」
「あなたはどなたですか?」
震えながら恐る恐る床から顔を上げたレナート神父が尋ねると、その人は彼の緊張で血の気が引いた冷たい両手に手を伸ばすと、暖かい掌で包んで言った。
「私はアンジェロ・クストーデ、祝福を授け見守る者です」
神父は思わず顔を上げて声の主と直面した。
銀の輝く髪と琥珀色の眼、女と見紛う程の美しい青年が神父の目を捉えた。
「私はあの子達を守護するものです」
わなわなと声も出せずに震える神父に、彼は微笑んで告げた。
「やがて来る受難の日のために貴方もあの子達を守って下さい」
「受難とは?神はあの子らに何をせよと仰せになるのですか?」
神父の問いかけには答えずに、大天使アンジェロ・クストーデは背中から清らかな白い翼を広げると、天窓から差す光に溶け込むように消えた。
教会の窓には夕の光が柔らかく差し込んで、言葉を無くして佇む神父を包み込んでいた。