第58話 魔よけの鬼瓦婆ちゃん
ディオの最近の気がかりはアンジェのことだった。
最近、眼が覚めるとアンジェの寝巻が乱れている、というより本当に雑にオムツや寝巻が巻かれているのだ。
よくわからないから適当にやったと言わんばかりの有様であった。
てっきり夜中にセリオンが、自分の代わりに、アンジェのトイレをしてくれたのかと礼を言う。
―アンジェの世話は俺の係なのに…セリオンさんに世話されるのは、ちょっと悔しいというか…複雑
「え?夜中にアンジェのトイレ?やってないぞ、俺は…」
意外にもセリオンは何も知らなかった、スピスピと寝息をたてて寝ているアンジェの脇に立って、二人は彼女の寝顔を眺めて不思議な顔した。
* * * *
今は深夜である、深夜なのになぜ廊下をあたしがウロウロしているかというと、おトイレしたくなったのよ。
どうやら、小っちゃい身体では膀胱も発達していないらしく、夜中でもちょいちょいおトイレに行きたくなる。
おかげで、申し訳なくも、そのたびにディオ兄を起こしていたのだった。
疲れて寝ている彼を起こすのが可哀そうで、頑張ってひとりで行きたいなと思っていたのよ。
しかし!今まではディオ兄の手を煩わせていたけど、日々の努力の結果、ひとりで行けるようになったのだ!偉いぞ!あたし!!
と言う訳で、ハイハイを駆使して2階のトイレまで前進している最中です!
夜中に、赤ん坊がひとりでトイレ行くって、はたから見たらきっと無茶苦茶怖いでしょうね。
今夜みたいな月明りの下で出くわしたらホラーかと思うわ…
今夜は、クイージさんがアルゼさんのたってのお願いで、フォルトナの屋敷に訪ねてくるお客様のために晩餐会のお仕事が入り、今夜はお留守である。
いつもは一階とはいえ、一緒に住んでいるクイージさんに見つからないよう気配を探りながら移動しているが、今日は気楽。
赤ん坊がトイレの穴に落ちたらどうするの?バッチイでしょ?と言うなかれ。あたしは体を浮かすことができるのだ。
しかし、ひとりで出来るもーん!とはいえ、微妙な力加減が必要で、眠い目でオムツを濡らさないようにするのはかなり大変。
根性よ!眠さを跳ねのけて、集中と気力で乗り切るのよ!
ディオ兄みたいな美少年に、失敗したオムツ洗ってもらうなんて羞恥プレイ、死んでも嫌よ!!!
あたしの精神が耐えられない!!恥辱で死ぬわ!
絶対失敗しないように気を付けないと…と思ったら仄暗い廊下に行く手を阻む物が現れた。
「おい…」
「ほきゃー-!」 『きゃー-!!』
「何やってるんだよ、アンジェ?」
行く手に立っていたセリオンさんがあたしを抱き上げた。
『びっくりしたー。脅かさないでよ、セリオンさん』
「びっくりしたのはこっちだ。お前ひとりでトイレしようとしてる?」
『うん、ひとりでできるから大丈夫よ。ベッドに戻っていてよ』
あたしはするりとセリオンさんの手から脱走すると、高速ハイハイで逃げていく。
「あ、こらアンジェ待てよ」
待てる訳ないでしょ!こっちはトイレに行きたいのよ!膀胱炎になったらどうしてくれるのよ!
あれ?急に明るくなってきた。セリオンさん壁面燭台に灯りつけたのかな?
うん?なんだ、また障害物?廊下にこんな障害物あったかしら?
ペタペタと触ってみる、これってショートブーツかしら?
四つん這いで靴の上を見上げていくと…真っ黒のスカート…
目に飛び込んだその姿に、あたしの体はすくみ上がった…
蝋燭を持った、眼がらんらんと光る…憤怒の顔の…鬼婆!!!
「ほぎゃー――――!!!」 (泣)
怖い怖い怖い!!誰か助けてー!
慌てて、シャカシャカと手足を動かして逃げようとしたら、むんずと両手で掴まれて捕獲されてしまった。
ひいいいいいいいー――!!!
ちびる前にトイレに行かせてくれー!
「まったく何をしているのやら!こんな小さなお嬢様が廊下にひとりでうろついているのに、お世話の使用人は一体どこで寝ているの!」
「ここにいますよ…というか、あんた誰?」
セリオンさんが追い付いて来て、見知らぬお婆さんの姿に身構えた。
「婆さん、声がでかいぞ。皆は寝ているんだから…」
角の無い鬼瓦のような顔をした、白髪頭にお団子を結った背の低い固太りのお婆さんの後ろには、燭台を持ったルトガーさんが立っていた。
「あうー!ぱ~ぱ」
知らない人に捕まった不安から、パタパタ手を伸ばしてルトガーさんに助けを求めると、鬼瓦婆さんはルトガーさんにあたしを渡しながら感心して言った。
「まあ、ハイハイできるのもとんでもない驚きですが、お嬢様は言葉が早いのですね。坊ちゃまとは大違い、賢いわ!」
「それを言うな!それより、アンジェはこんなところでどうしたの?」
ルトガーさんは腕の中にあたしを抱き上げると顔を摺り寄せて尋ねた。
赤暗色の前髪が一筋はらりとあたしの頭に掛って、荒々しい額の傷とは対照的な茶色の優しい眼が覗き込んできた。
うぬ、イケメン親父め…!それよりトイレ!!
「ぱーぱ、ちーちー」
もはや涙目になってあたしは訴えた、漏れる前にお願いだから分かって!!
「ちーちー」(泣) もう必死!膀胱炎になる前に分かっててば!!
「ルトガーさん、アンジェはトイレしたいんですよ」
まったくもう早く言ってよ、セリオンさん!
「まあ、大変!坊ちゃまおトイレはどこですか?」
「おお!そうか、ごめんなアンジェ。こっちこっち!」
急いでルトガーさんが案内して、事なきを得ました。助かった…鬼瓦のお婆ちゃん、アシストをありがとう。
もうちょっとであたしの黒歴史が作られるところでした…
ルトガーパパが抱っこして頬擦りして、良い子だねえと褒めてくれた。
「紹介する、この人は俺の乳母だった人でメガイラさんだ。アンジェの世話を住み込みでしてもらうことになった」
「メガイラと申します、ドライナース(授乳しない乳母)のお役を仰せつかつかりました。
ルトガー様の2人目の御子と聞き、喜びで矢も楯もたまらず馳せ参じました。
こんな夜中に押しかけて、他の使用人の方々には御免仕りましたこと、お詫びします」
彼女は優雅にスカートをつまんで、チョンと腰を低めて謝罪した。
鬼瓦みたいな容貌とは違って、どうやらちゃんとした人らしい。
「俺はセリオンです、どうぞよろしく。メガイラさんはバッソで見かけないけど、どこのお住まいですか?こんな時間じゃ辻馬車は通っていないでしょ?」
ハイランジア家は馬車どころか屋敷も無かった貧乏男爵なので、移動は馬車屋で馬車を借りるしかないのだ。
場合によっては辻馬車を使う事も有る。
「今朝、隠居していた村に坊ちゃまからお話を頂き、すぐさま愛馬フレッチャに飛び乗り駆けつけました」
セリオンさんがびっくりして聞き返した、「馬に乗れるんですか?凄いな」
あたしも驚いた、見た目普通のお婆さんだから想像できないわ。
「セリオン、俺はこの人から乗馬を習ったんだぞ。この年で馬に乗ったまま短槍だって振り回すんだ」
「すげえぇ………」
セリオンさんが信じられないとばかりに呆れ気味の声を漏らした。
『というか何者なのよ、この人………』
お婆さんなのに馬に乗ったまま槍ですか…ただ者じゃない感駄々洩れ。
初対面の鬼婆感は、あながち間違いでは無かったということですな。
それにしても、面白そうな人が乳母に付いたものだわ。あたしにも乗馬を教えてくれると嬉しいな。
「セリオンに伝えておくが、カラブリア卿から、ディオが生きていると知ったら、攫った奴らがまた来る可能性があると言われた。
元々、子供を苦しめて死なせるのが目的らしいから、生きていると知ったら今度こそ殺しに来るかもしれないと。
お前も充分に強いが、ある程度の人数が欲しいと思ってな。
それで、警護も出来る子守をと思い、メガイラさんに来てもらったんだ」
「そうですか、最近はディオとアンジェが別行動になることも多くなったので助かります」
メガイラさんがあたしを見てにっこりと笑った。
どう見ても「悪い子はいねえがー!」とかいうナマハゲに似ている、普通の赤ちゃんだったら泣くな…
しかし!あたしは普通の赤ちゃんではない!
よって、ここは世渡り上手なアンジェちゃんは愛嬌をばら撒く!
*にこにこにこ*
メガイラさんは意外にも驚いたような顔をすると、本当に穏やかな優しい笑顔であたしを見つめた。
「アンジェリーチェ様は人見知りしないのですね。
しかし、お利巧とは聞いておりましたが、自分で尿意を伝えるとは…婆は驚きましたわ。偉いですよ」
「な、良い子だろう?俺の可愛い娘だ、よろしく頼むな」
「お任せ下さい、このメガイラが身命を賭してお仕え致しますわ」
うん、何だか面白そうなお婆さんだ。
ディオ兄の負担が軽くなるのは嬉しい、あたしの能力がバレる危険が増えるけど、そこは頑張っていこう。
その夜からメガイラさんの意見で、あたしの部屋にはオマルが置かれるようになった…
「そっかあ、俺オマルの事思いつかなかった」
「貴族の家では大人でもオマルを使っていますよ。トイレに行くのが面倒だと言って。しかし、さすがルトガー様のお嬢様、とんでもない身体能力ですわね。
支えてあげるとご自分でするのですから、信じられない!あのハイハイにもびっくりしましたが!
ディオ様、ほら、ちゃんとお嬢様お出来になりましたよ」
*ちゃぽん…!*
「本当だ、アンジェ偉いねえ」 *にこにこ*
ディオ兄に見せる公開処刑やめんかい!!
ど赤面!!!お願いだから見ないでー――!
すいません、描き忘れましたが、神父さんが歌う「太陽の東月の西」はノルウェーの昔話のタイトルであります。このタイトルだけが好きで入れました。
書いとかないと、やっぱ「素敵なフレーズ」と思った人がいると悪いので明記しておきます。
誤解した人がいたらお詫びします。