第54話 君よ知るやジャック・デンプシー!
今日のお散歩係はクイージさん、最近よくお守りをしてもらっている。
年越しと新年の冬祭が近づき、町では寒い空気の中にウキウキとした雰囲気が感じられる。
今は、サシャさんが手伝っている雑貨屋さんに寄って、授乳している間はクイージさんが店番中だ。
*けっぷ*ご馳走様でした。サシャさんが服を直しながら微笑んだ。
「ふふ、これからもよろしくねアンジェちゃん」
「あ~い」サシャさん、いつもお世話になっております。
「あんたは通いの乳母になってくれたそうだな」
「ええ、とても好待遇で感謝しているわ。ルトガーさんが男爵で、こんな可愛い子がいたなんて、びっくりしたけど」
「あ、…ああ、わしも驚いたわい」
一瞬、クイージの眼が泳いでいたのを、そのときのあたしは気づかなかった。
本当のことを知っているだろうに、町の人達は、あたし達のために話を合わせてくれているのかしら?
抱っこされて散歩をしてもらった後、ルトガーさんの執務室にお邪魔した。
ルトガーさんはあたしを見ると、すぐに手を広げてクイージさんからあたしを受け取り、胸に抱きしめてくれた。
「よしよし、良い子だね~パパでしゅよ~」
うきゃー、クイージさんがひいているよ、パパ。
*キャッキャッ* はい!サービスの愛嬌!
「そうかご機嫌いいな。可愛いなアンジェは、よしよし」
初対面の印象とは違ってルトガーさんは子供好きだった、あたしのことは情が移るからと遠ざけていたらしい。
紋章院で跡継ぎと認められてから、ルトガーさんはでれでれパパに変身してしまった。
「男爵が新年に屋敷にいらっしゃるそうで良かった。今は私とセリオンだけですから、早く同居してあげて下さい」
「ああ、通いの使用人は手配したし、住み込みは俺のところから婆さんがひとりだけだ。
他は、カメリアが庭師を、アルゼが家庭教師を手配してくれた」
「それは、良かった。坊は頭が良いから、早く家庭教師がついて欲しいと願っていましたから」
「試しにディオにテストをしたアルゼの話じゃ、何もしなくても王立学校の入学を約束できるレベルだと」
「坊…やっぱり、神童じゃな。13歳で入学する王立学校にすぐ入れるのか…」
ほうほう、さすがディオ兄だね。
まあ、あたしは天才かもって思っていたから、お子ちゃまの学校くらい何でもないって分かっていたけどね。
「それより、あいつの心配は大人とばかり付き合っていることだな。子供同士の付き合いが無くて、少し心配だ、付き合いを避けているようにも見える…
虐められた経験もあるから無理強いはさせたくないし、どうにかしてやれんかな…」
「貴族の子供達は意地の悪い子もいますからのう。早いうちに同じくらいの子と今のうち付き合った方が良いかもしれませんな」
「使用人の中に、同じ位の年齢の子持ちがいると都合がいいかな?」
「ああ、それなら虐められる心配はないでしょうな。坊なら使用人の子を虐めたりはせんでしょうし」
ふ!可愛いディオ兄を虐める奴がいたら、あたしが祟ってやるわい!!!
それはもう泣いて後悔するくらいお返しするよ!絶対に!!
ルトガーさんとクイージさんがのんびり話しをしている間、あたしは暇つぶしに視野を飛ばしていた。
最近になって、イメージを飛ばして覗く視野は、一度行ったところはたやすく見ることができると判ったのだ。
そうだ、セリオンさんは、今日はどこを巡回しているのかな?
ターゲットを探すような使い方はやった事がないから、試してみよう。
* * * *
そのセリオンは、町の外れにある、人があまり来ない枯野原に、何者かの襲撃に会い、懸命に隠れた相手の動きに神経を尖らせていた。
―まったく、やりにくい。石礫を投げてくる奴がうざってえ!
セリオンは狙っているのは、どうやら二人以上、しかし、石の方向でひとりの潜むところは判っている。
だが、今日は風が強めで葉擦れの音がうるさく、その他の場所に潜んでいる者の見当がつかない。
下手に石を飛ばす奴に近づけば、罠が有りそうで迂闊に排除できない。
考えている間に、さっきとは全く違う方向からヒュンと石が飛んできた。
慌てて体を捻じって躱すと、そのちょっとした隙に、後ろから飛び出て来たもうひとりに背後を取られた。
―しまった!!
後ろの男が右手の前腕と上腕二頭筋をセリオンの首に絡みつかせた。
首の両側から圧力が掛けられ、頸動脈の血液の流れが遮断されそうになった。
きな臭い匂いを嗅がされる前に、セリオンは反射的に顎を引いた。
そして、自分の左肩に顔をねじってから、同時に男の左足を勢いよく踏んだ。
「!」
男が一瞬ひるんだその時、彼は絡みついた男の腕を、右の掌で下から思いっきり突き上げて拘束から逃れた。
自由になったセリオンは体を捻りつつ、後ろの男の鳩尾を、鋭く肘で突いた。
「ぐう!くそ…」
たまらずに呻いた相手の声に、聞き覚えがある。
つい最近こいつを蹴り上げたばっかりだ、まだ感触まで覚えている。
カラブリア卿の護衛のひとり、スレイだ。
顔をスカーフで隠しているが、まず間違いないだろう。やっぱりこいつらか。
ディオの警護に相応しいか調べに来たのだろう。
ということはもっと手強い奴がどこかに潜んでいる。名前は確かパーシバル!
頭の中でせわしく情報を整理しながら、身体は流れるように切れ目なく動いた。
ルトガーとガイルに叩きこまれた実践訓練、熟練すれば戦術認識が上がり、反射的に体は動くようになる。
どんな馬鹿でも動けるようになる!そう言い聞かされて痛い思いをして散々、鍛錬してきたのだ。
国でも名高い二人の騎士、ルトガーとガイルは町の荒くれ者相手に独自の体術を研究してきた。
―俺はあの人達の一番弟子だ!お前ら相手でもそう簡単にやられるかよ!
心の中で叫んだセリオンは、鳩尾の一撃でひるんだスレイの左の頬に、右の拳を思い切り叩きこんだ。
スレイは、今度は何も言わずに地面に倒れこんだ。
「あいつの言葉で言うなら一発KOというやつだな」と、伸びている相手を見下ろした。
―アンジェに言われて前傾姿勢で殴るようになってから、やけに殴り合いに強くなった気がするな。
最初はアンジェからイメージを伝えられても半信半疑だったが、教えてもらってから喧嘩では負け知らずになり、セリオン自身が戸惑っている。
こちらでは殴りあいになると、皆、さあ来い!とばかりに身体を後ろに重心をのせて構える。それを見たアンジェはセリオンの構えに溜息をついた。
『何それ、拳の構えもおかしいし、体重の乗せ方も変!ジャック・デンプシー以前のボクシングじゃないのー!!
そんなのじゃ一発KO出来ないじゃん!!格闘技は発達していないのかー!』
アンジェは分けのわからない嘆き方をすると、こうやれと、イメージをガンガン流しこんできた。
―プロビデンサのジャック・デンプシーになってくれと言われたが、未だに何のことだかわからない…
「偉大なる現代ボクシングの開祖」?…何だ?それは?
えっと、つまりジャック・デンプシーという男がボクシングという格闘の技を花開かせたと…あいつの話だとそういうことらしい。
あいつときたら、殴り合いとか格闘の話になると止まらない。
気の毒に、普通の女だったと聞いていたが、どれだけ前の世界は物騒できびしかったのだろう。
そのために、18歳なんて歳で若死にしたのだ、きっと。
可愛そうなやつだなあ…
世界観が全く違うセリオンにとって、アンジェの格闘オタクの趣味は理解どころか想像できず、生き抜くための処世術なのだろうと勘違いをしていた。
―まあお陰でかなり戦闘能力が上がったのは嬉しい誤算だったが。
あいつのイメージを共有させてもらうと、何故か技の上達がやけに早いし、習得に悩むことが少ないのがありがたい。
少し離れた場所に伸びているスレイはまだ起きない、セリオンは藪にむかって声をあげた。
「さあ、出て来いよ!!俺の腕試しだろう?!」
まだ、姿を見せない相手にセリオンは拳を構えて息巻いた。




