第53話 嘘もつきとおせば真実
ディオの父親であるカラブリア卿は、しばらく、ハイランジア城で過ごすことにした。
せっかく見つけた息子と離れがたかったこともあるが、ディオの身の回りを固めて、安全を確保してやりたいと思ったからだ。
家族用の居間でカラブリア卿はカメリアと共に茶を楽しんでいた。
ディオに引き合わせる、カメリアとアルゼの子供達の話をしていたのだが、彼はいきなり妙な事を口にした。
「カメリア、よくルトガーを許したな…わしが言える義理ではないが…」
そこまで言うと、彼は躊躇いがちに続くはずだった言葉を、呑んでしまった。
自分で言い放った言葉に、眼を見開いて、自分で愕然としている。
彼の顔が見る間に青ざめていくのをカメリアは不安そうに見つめた。
「お父様?」
彼のティーカップに添えていた指は小さく震え、カップの底が皿にぶつかりカチャカチャと煩く鳴っている。
カラブリア卿は青ざめた顔で息を呑むと、今まで見たことも無い、怯えた様子で彼女に告白した。
「カメリア、わしは自分が壊れていくようで怖い。真実を知っているのに、なぜかアンジェが、本当のルトガーの子供だと疑いなく信じているときがある。
ここに来て、頭に霞がかかるように、自分の記憶が混乱するときがあるのだ。
わしは頭がおかしくなってきたのだろうか?それとも年のせいか?」
カメリアは、父親のいつになく気弱な言葉に、胸のうちでは激しく動揺したが、顔には出さずに彼を慰めた。
「そんなことはありません、お父様はお疲れなのですわ。
やっと我が子を見つけたのに一緒に暮らせない、御心痛のあまり混乱していらっしゃるのでしょう。
私もアルゼも、それは、申し訳なく思っております」
お許しくださいと言い、ひたすら謝罪する娘に、彼は責めたようで心苦しく、つまらないことを言ったと詫びるしかなかった。
翌日、パーシバルを供に市場にむかい、ディオがアンジェを背負って商売をしている様子をそっと眺め、ガイルの手下の警邏兵が巡回しているのを確認するとその場を離れた。
「パーシバル、男爵家の使用人を家から何人か出すぞ。執事のランベルに連絡して候補をあげるよう連絡してくれ。カメリアとルトガーに提案しよう」
市場を出ると、帰る途中にディオがよく来ているという教会が有ったので、落ち着かない気持ちを静めるために、たち寄ることにした。
礼拝堂には誰もいなかった、神父は出掛けているらしい。小さく飾り気のない礼拝堂、町の財力の無いバッソらしい素朴な教会だ。
パーシバルを外に待たせて、カラブリア卿は神像の前に跪くと祈り始めた。
「神よ、どうか息子…ディオと息子の大事な妹アンジェをお守りください。
どうか、ふたりのために私の正気を保てるよう御力をお授け下さい」
彼が深く頭を垂れて祈り終わり、立ちが上がった途端、頭の中の何かが弾けたような気がした。
突如、彼は自分の胸の閉塞感が全て消え、嘘のように不安と頭の霞が晴れているのに、気がついた。
晴れた気分で城に戻った彼を、心配したカメリアとアルゼが迎えたが、穏やかな笑顔で帰って来た父親に、ふたりは顔を見合わせて安堵した。
何があったのか、と詰め寄るアルゼに、カラブリア卿は教会で神父に告解したお陰で悩みが失せたと言い繕い、もう大丈夫だと答えた。
―何故、あんな思い込みを何故したのか?分からぬ…意外に自分は弱い男だったのだろうか…認めたくないが、受け入れねばなるまい。
でないと、またおかしくなったらと思うと恐ろしい。自分がしっかりしている間に、あの子の援助をしてやろう。
素直にカメリア、アルゼ、ルトガーに協力してもらうとしよう。
* * * *
穏やかに和らいだ町の空気の中で、ひとり、ガイルは疑問に思った。
あの日、グリマルト公爵が来て紋章院の裁定を知らせに来た日、自分以外の人は聞き落としたのか?
カラブリア卿は「父と違って賢い子だ」と言った。
アンジェがゴミ捨て場にいた捨て子だから引き取れないと考えたはずだ。
なのに、卿はまるでルトガーの実の娘と認めているように聞こえる。
『だが今このことを口にするのは止めた方が良いだろう』、ガイルはそう思って口を噤んだのだった。
ハイランジア城の晩餐会で、意地っ張りの友人のために、グリマルト公爵が提案したのは、スキャンダルで家名に傷がつかないよう配慮したうえで、あえてディオの出自を流して欲しいと言う事だった。
ディオはどうみてもエルハナスと関係を勘繰られる容姿だ。どうか、カラブリア卿への配慮もしてやってくれ。
ルトガーからの話では、そういう要望だったそうだ。
―噂が広がるのが早すぎる、やっぱり何かおかしい。
『ハイランジア卿は家出したエルハナス家の庶子を保護したらしい』
『親との折り合いが悪くなかなか強情な子で、浮浪児の真似までして家に帰らないので、たまりかねて、ハイランジア家で引き取ってもらったらしい』
『男爵の娘を妹だと可愛がっているので、今は落ち着いて保護されている』
『正式に養子に迎えられたそうだ』
ガイルが驚いたのは、噂が瞬く間に広がったことだ。というか、噂を流そうと思ったら既に皆が知っている。
バッソの居酒屋や食堂で、商人たちに噂を流したが、バッソでは疑いのない事実として流布されている。
「これじゃ、次の社交シーズンは大変そうだな…両家共に…」
「しばらく、領地で息を潜めておこうよ…」
いつもの執務室でルトガーとアルゼは苦笑いをしていた。
ふたりはカラブリア卿が裏で動いているのだろうと考えたが、ガイルだけは、まるで、分けの分からない力がバッソに働いているような気味の悪さを感じていた。
―何故、事情を知っているはずの町の人達まで疑いなく信じ込んでいる?
『貴族の子が家出して、浮浪児の真似をして、どうなるかと思ったわ』
『エルハナス家も厳しい家だね。子供が謝るまで放っておいたんだから』
『ゴミを漁るまでになって…男爵様が動かなかったらどうなったか』
『男爵様の妾が、正妻にしてくれないと怒って、仕返しに、自分が産んだ男爵様の赤子をゴミ捨て場に捨て、金を盗んで逃げたらしいぞ』
『まあ、なんて性悪な女!ディオ様が見つけて助かったのでしょう?』
『ああ、だから、感謝した男爵様が、家に戻りたがらないディオ様を引き取ったのだと。両家で話し合ってアンジェ様の婚約者として養子にしたらしい』
はじめは、ガイルも子供達のために皆が口を合わせているのだと思った。
しかし、ハイランジア男爵の愛人が、正妻になれないと分かると、怒ってアンジェをゴミ捨て場に捨てて逃げた、という話まで聞いたときには、ガイルは総身に粟立つ薄ら寒さを感じた。
アルゼ達が考えた噂を、広げる前に、町の人々が既に知っていたのだ。
「ルトガーさん、俺は、何か得体の知れない奴が、ディオ達のために動いているような、そんな気がして恐ろしくなりました」
ガイルは町の様子を執務室で報告した。
「確かに奇妙だな、ディオのところに行ったはずの盗人のスカルト達も消えちまったし…あいつら、街道や馬車屋を改めたら捕まっていいはずなのに」
話を聞いたルトガーとアルゼ、セリオンは確かに妙な話だと思った。
彼らは、アンジェがゴミ捨て場にいたことは一部の人間しか知らないので、頼んで口を噤んでもらおうと思っていたのだ。
この噂に惑わされなかったのは、ルトガーに直接協力して、積極的に子供達に関わった人物だけだったのだ。
ガイルがレナート神父に噂の話をすると驚いていた、てっきりこちらが仕掛けたと思って、町の人々と話を合わせていたのだと言う。
「やっぱり、天の采配かな…」
「ルトガーさん、考えることを放棄しないで下さいよ…俺は噂の出所を町で調べてみますから」
ガイルは彼に釘をさすように念を押した。
「ルトガーさんは本当に信心深いですね」セリオンが呆れて言った。
「そういえば、セリオン、ジジイは当分フォルトナに居るそうだから、気を付けろよ」
何故ですかと不思議そうな顔をするとガイルが答えた。
「確かに。卿はお前が騎士では無いと知ると、そんなので大丈夫かと仰ったそうだ。もしかしたら、警護の腕試しをしようとするかもしれない」
心配顔のガイルと対照的にルトガーは楽しそうな表情を浮かべた。
「お前が仕込んだ男だ。大丈夫さ、なあセリオン?」
セリオンはニヤリと不敵に笑い、「じゃあ、絡んできたら遊んで良いですか?」と尋ねた。
ルトガーは直ぐにその意味がわかって、カラカラと笑った。
「ジジイの分も抜いていいぞ、一泡吹かせてやれ」