第35話 紙はケチったらいけません
市場でガイルさんに面会のお願いを伝えて、ルトガーさんの執務室を訪問した。相変わらず実利一辺倒な雰囲気の飾らない執務室だ。
ルトガーさんは手紙やら書類やらを広げて、「おお!やった!」とか「よしよし、これで出し抜いたぞ」とか謎の言葉を独り言ちている。
「やあ、ディオどうした。俺に相談とはどんなことだ?」
「こんばんは、ルトガーさん。役に立つ道具のアイデアがあるのですが。それを物にできないかなと思って、職人さんに相談したいんです」
ディオ兄は一枚の紙に図面を描いて持って来た。
あたしがイメージで伝えて、描き起こしたソロバンと煙突掃除用ブラシ、そしてデッキブラシだ。
「まず、これは煙突掃除用ブラシで、ブラシの先端に錘を付けて煙突の中を、弾力のある長い毛足のブラシで上下動すれば掃除できるものです。
煙突の中で掃除する小さな子供を雇う必要はなくなります。
そして、これはソロバン、珠をはじいて計算するものです。使い方を覚えて貰えば、難しい計算もこれを使ってできるようになります。
これはデッキブラシ、ブラシに柄をつけるだけで床磨きを這いながらする必要が無くなるので、女中膝の心配が少なくなります」
マリラさんが膝をつかなくても床掃除できる道具、そこで思いだしたのが前世にあったデッキブラシだ。
膝を悪くすることが無い道具なのに今ある物で簡単に作れる。
ダミアンさんには、計算が苦手だからソロバンを作ってあげたいと思ったのだ。ソロバンを使えるようになれば間違いの心配はなくなる。
「へえ、3つとも詳しく聞きたいな」
どっからでたのか、アルゼさんが一緒に聞いていた。まったくもって神出鬼没、本当に暇ねえ。
ルトガーさんが慌てて机の上の書類をかき集めて、引き出しに仕舞い込むと鍵を掛けて、にこやかにアルゼさんに向き直った。
「アルゼ、来たか。ディオのアイデア、聞いてやってくれるか?」
「相変わらず、雑然として仕事のしにくい机だなあ」とアルゼさんが笑って執務室の中央に入って来た。
「当然でしょ、女中膝と煙突小僧は社会問題になっているからね。膝を悪くすると女中の仕事はまず見つからなくなるからね。
物乞いか売春婦になるしかない、去年捕まった路上売春婦はほとんど元女中だったよ」
「アルゼ、子供に聞かせる話題じゃないぞ」
「おっと、失礼」
今のは忘れてねとアルゼさんはディオ兄の頭を撫でた。
「それから、煙突小僧の件!取り締まってはいても、煙突掃除は毎年悲惨な目に合う子供が絶えないしね。
毎年のように煙突掃除で虐待されて死ぬ子供を出させないためにも、新しい道具のほうが子供を買って働かせるより、安上がりだと広く認識させないとね!それにその計算機、詳しい使い方も知りたいな。
ディオ君はすごいね。この間、届けてくれた試作品の防水布の雨具も素晴らしかったよ。
他にも何か考えているものがあるのかな?」
アルゼさん、ニコニコしているけど、やたら圧が高いですよ。
ディオ兄はおとなしい子なので怖がらせないでくださいよ!
おっと、ちょっと引いているけど、ディオ兄は頑張って答えてくれた。
「柿渋の試作品を作ってみて分かったことですが、あの防水布の雨除けの他にも防腐剤として使えるし、糊のようにも使えそうだし、熟成と塗装回数しだいで船や家の防水や撥水、防腐にもできると思います」
「君が作った柿渋も登録済みだけどこうやって見ると、これは用途がかなりありそうだ。
きっと、服や建築などにとても役に立つよ。
撥水と防腐剤の効果がどの位かはこっちで調べるから、来年はどんどん作ってくれるかな?」
「柿渋は他にも沢山使い道が有りますが、あれは青柿じゃないと出来ないので、庭にあるのは4本だけですから、大量にはできないかもしれないです」
「そうか、残念だなあ。じゃあ、柿の木を増やせるように庭師にも相談しておこう。来年は柿渋を作るときは人をやって手伝うからね」
そうなのです、青い柿をぐっちゃぐっちゃに潰して発酵させて1年から3年くらいするとできるのが柿渋。昔は柿渋で染料、塗料など他にもいろんなものが作られていた。
基本的には熟成の年数があがると柿渋の効果もあがるらしい。
あたしが青柿を仕込んだとき発酵する様子を心に思い浮かべていたら…
目の前でドンドン発酵が済んじゃっていたのだった。
なんなの?このチート、2週間くらいで作る方法もあるけど、そうするには現代の機械、圧力鍋を駆使しないとできないから、半ば諦めていたのに。
これから毎年作れるように仕込めば、今年の不自然は誰も気がつかないだろう。
この世界では温魔石という便利な存在があるのだから、来年の仕込みではもっと細かい設定で熟成ができるかもしれない。
「柿渋で染めれば漁網の耐久性があがると思うんです、漁網を使う人がいれば試してもらえるのですが」
それを聞いてアルゼさんは大いに喜んだ。
「それは良い!君は知らなかっただろうが、我がエルハナス家の領地はふたつあるんだ。姉の住む元王都のフォルトナ、そして元々僕らが住んでいたカラブリアだ。
カラブリアは漁港のある海運都市でね、僕らの先祖は海運業で身を起こした平民だった。
それが大いに財を成してね。海の波でさえエルハナスの物と言われるほどだった。
それで貴族の仲間入りをした後、海軍司令官として国の国防を担う人物が何人も出て、どんどん出世して今に至るのさ」
そうだったんですか、と言いながら、心の中では「へえ~」ぐらいにしか受け取っていないディオ兄の顔が伺えた。
財貨のスケールが大きすぎて良く理解できないようだ。
「そのアイデア、かかる費用は僕がもつよ。漁業が主産業のカラブリアにとっても期待出来る素晴らしい発明だ。発明の登録にはディオ君の名前を入れるから、安心してね」
「ディオの名前をいれるのは当然だろうが。あ、この間、カメリアに頼んでおいた柿渋の防水布の製品、デスティーノの名前で上手く登録したそうで有難うな」
「ああ、エルハナス家の使用人という扱いでね。姉が気をきかせて素早く手続きしたらしい。
販売するときには僕の商会が力になるからね」
「ああ、よろしくな」
そういうとルトガーさんは満面の笑みを浮かべて、ディオ兄を振り返ってよかったなと声を掛けた。
ディオ兄が持ち込んだイメージはアルゼさんの眼に留まったのだが、紙をけちって細かく描いた上に、素人の子供の描いた図面ではさすがに分かりにくかったようで、アルゼさんは口頭で細かくディオ兄にどんなものかしつこい程に説明を求めた。
そのうえで、ようやくイメージとして掴めてくると満足したようだった。
「職人はうちの抱えている者達で試作品を作ってみよう。ディオ君、新しい紙の上でイメージをもう少し詰めてくれるかな。
紙と筆記具は僕が届けさせるからね。ちゃんとした図面にしないと細かいところが分かりにくいからね」
どうやら形にするのを手伝って貰えるらしい。良かった。
マリラさんにデッキブラシ、ダミアンさんにソロバンを作ってあげたいという思いは他の人も巻き込んで勢いよく動き出した。
* * * *
アンジェ達が帰った後、ルトガーとアルゼはお茶を飲みながらディオが描いた紙を眺めていた。
―3つとも早く普及すると助かる人が一杯いるからお願いします。
アルゼはディオのことを思い浮かべていた。
何の教育も受けていないのに何故こんなにも次々とアイデアが浮かぶのだろう。この子が普通の子供でないことはもう分かった。
後はどういう形でエルハナス家の一員として迎えられるかだ。
父が暴走するかもしれないし、急がないと。
「まあ、とにかく変な大人に目を付けられないように、これからも注意して見ておかないとね。これから全面的に僕が力になる」
「もうお前が目を付けてるじゃないか?俺はちゃんと見ているからな。あの子を変なことに巻き込んだりするなよ」
「やだなあ、大丈夫だよ。心配性だなあルトガーは」
大丈夫だよとヘラヘラ笑っているアルゼを見て、ルトガーは心配の種が芽を吹いて来た。