第3話 兄貴分のセリオンさん
もう夕方になる、雨は勢いが弱まり小雨になってきた。
サシャさんからお乳をもらった後、セリオンさんに誘われて食堂に行った。
ディオ兄は、セリオンさんに食事を奢ってもらうのは、ルトガーさんの注意に逆らうのではないのかと心配したが、セリオンさんが否定した。
「ルトガーさんが言ったのは、赤子の世話を他人に押し付けるなということさ。さっきはサシャに金を払ったし、今日の分はサシャのサービスだ。
大人だって苦しいときは人に頼ることもあるんだぜ。
あの人は、ああ言ったが、お前はそこまで気を使わなくてもいいのさ」
セリオンさんはすんなりとあたしを受け入れた、むしろルトガー親分のほうが普通の大人の反応だと思うのだが、この人はディオ兄に甘いのだろうか。
セリオンさんはディオ兄に遠慮せずにどんどん食えと注文してお酒をあおった。
ディオの兄の前にはたちまち頼んだ皿がいくつも置かれた。
具だくさんの野菜のスープと黒パンとチーズと牛乳と焼き肉の皿。
塩を振って焼いただけのシンプルな豚肉とジャガイモが添えられていて、ただそれだけの料理なのに、鼻から吸い込むといい匂いが唾液腺を刺激した。
こんがり焼かれた豚肉の表面にはちりちりと脂が跳ねている。
ディオ兄から久々のお肉だと心の声が聞こえてきて思わず笑ってしまった。
「きゃっきゃっ」
「おや、笑ったなアンジェ。しかし、こんなに手のかからない子は珍しいな。サシャも言ったが、大人しくて心配になるほどだ。
さっきなんか、お前、アンジェが小便したいのがなんでわかった?貰ったばかりのオムツを汚す前にアンジェにトイレをさせたい、と言ったときのサシャの顔ときたら。アハハ」
安くて人気のあるジンをガンガン飲んで、ケラケラと笑うセリオンさんの言葉をディオは涼しい顔で軽くスルーした。
追及されるといろいろと不味いものね。あたしが念話できる赤ん坊なんてばれたら大変ですよ。
気味悪がられて山の中に捨てろと騒がれるのが関の山だよ、それは困るもん。
あたしの秘密は他の人にはバレないようにおとなしくしていなきゃ。
「オムツや産着を貰ってサシャさんには大銅貨だけじゃ少なかったね。また違う形でお礼をしないといけないでしょ」
ディオ兄が話題をさり気なく変えた。そうだな、とセリオンさんは頬杖をついて頷いた。
セリオンさんは良く食べて良く飲んだ、そして良く笑った。
お酒を飲んでいるときは、イメージと違って明るいお兄さんだった。
酔ったお喋りからどうやら彼も孤児だったのが察せられた。
ディオ兄が孤児院から逃げ出してバッソにやって来た時、真っ先に声を掛けてくれたのがセリオンさんだったこと。
孤児院に戻りたくないと泣いているディオ兄のためにルトガー親分を紹介してくれたこと、自分も孤児だったこと、酷い場所から逃げ出したこと、酔った勢いで昔話が出て来てた。
セリオンさんは懐かしそうにディオ兄との出会いを思い出しながら、あたしに顔を近づけるとじーっと眺めてから、ぷにぷにと頬を指で押して面白そうにあたしの反応をみていた。
う、どアップでイケメンに近づかれたけど耐えたあたし、えらい!
「はぶ~」
やめんか青年!てれるじゃないか。
「お前の妹はきっと美人になるぞ。ディオ、気をつけろよ。変な男に騙されないように守ってやれよ」
「うん、相手は俺の知っている奴から選ぶ!」
今日、会ったばっかりなのに、もうそこまで考えてるのー?!
勝手にえらぶな~と言いたかったが、温かい膝に抱かれて強烈な眠気でディオ兄と念話できなかった。あたしが舟をこいでいる間に、嫁入り先がドンドンきびしくなっているのを遠くに聞きながらストンと寝落ちしてしまった。
* * * *
「やっぱり、アンジェの相手は甲斐性がある奴じゃないと」
こんがりとローストされた塩豚をがしがしと頬張りながら酒を流し込むセリオンがいうと、その後をディオが補足した。
「家に暖炉と台所があって庭付きの一軒家を持っている奴じゃないと!」
それから、それからとディオはなおも続けた。
「やっぱアンジェが苦労しないようにお金持っている奴が良いな」
そばでたまたま聞いていた食堂の女将は溜息まじりに注意した。
「あんた達みたいな厄介な兄貴がいたら、婚期が逃しちまうよ!
余程酷い男じゃない限り、黙って祝福しておやり!だいたい、気が早すぎだろう、赤ちゃんじゃないか。あははは」
女将の笑い声に、気の早い2人もつられて笑いだした。
女将はアンジェを見るとあたしにも抱かしておくれでないかと頼んできたので、ディオは良いよと快く応じた。
彼女は起こさないようにそっとアンジェを抱き上げると、「あんた達がやいのやいのと言うのが分かる気がするよ。何と、まあ、こんな可愛い子はそうはいないね。
バッソなんかに暮らさなければ、お姫様がふさわしいくらいだわ。
金色の髪に薄くサクラ色が差すきめの細かい白い肌、さっき見たけど、長いまつ毛とパッチリした菫色のお目目がまあ可愛いこと、それに、赤いちっちゃな唇、間違いなく美人さんになるわ。
将来、この子を巡って恋敵が決闘なんてしちゃったりして!あはは」
女将が豪快に笑ったものだから、他の客も興味を引かれて見物にきた。
「本当だ、俺の子とえらい違いだ…あいつ男で良かったなあ…」
「これは成長が楽しみだ、バッソみたいな掃きだめの町に王都に負けないような綺麗な娘がいたら誇らしいぞ」
「さらわれないように気をつけろよ、兄ちゃん達」
「ルトガー親分が睨みを利かすこの町なら大丈夫だろう?それより、評判を聞きつけて、貴族が妾になれーってやって来る方が心配だろう」
女将が呆れて、あんた達まで今から赤ん坊の心配かい、気が早すぎるよ、というと、ちげえねえと笑った男達は、安酒を片手にまた各々のテーブルに散っていった。
皆が自分の胸にほんのりと温かいものが芽生えた事を不思議に思っていた。たった今、会ったばかりの子なのに、何故か身内のような気分さえする。
可愛い赤ん坊の寝顔を見た人々は何とも幸せな気分で酒を飲んだ。
ディオはそんな酔客たちを眺めながら、ちょっと誇らしげに横で寝ているアンジェを見ていた。
そして、大人しく寝ているアンジェの眠りを邪魔しないようにそっと頭を撫でると、むうっと唇を突き出して言った。
「俺、サシャさんの旦那みたいな人も嫌だな。子供無くしてサシャさんだってつらいのを我慢しているのに、ひとりだけ辛いって態度の人。アンジェが辛いとき支えてくれる強い男でなきゃ駄目だ!」
「同感だな!俺もそう思う!」
コクコクと頷いたセリオンはコップを片手に、遠くを見やるようにすると、やがて、あの旦那も困ったもんだぜ、と呟くとまたお酒をあおった。
サシャは別れちまった方が良いかもな、と最後に言い、コップを置いた。
食堂の女将は親切に食べきれなかった分を葉っぱに包んでくれた。
店の外に出ると雨は小降りになって、外気はすっかり冷え込んでいた。
もう夏は終わり、夜は秋の気配が濃くなってきている。
「う、雨のせいか寒いな、これは早く帰らないとアンジェが風邪ひいちまう」
* * * *
急に変わった頬の冷気であたしは欠伸をして目を覚ました。
「あぶ~ああふぁ~」(顔が寒い~早く帰ろうよ)
「目が覚めちゃったね、寒くなったからすぐに帰るから我慢して」
彼の肩から胸へと袈裟懸けにした大きな布の中に入れられて、あたしはディオの胸にくっついて温まった。
「気を付けて帰れよ」
セリオンさんは途中まで一緒に歩くと、さっきまで酔っぱらっていたのに、外に出た途端にキリッとした顔つきに戻って、そぼ降る雨の中、貧民窟の暗闇に消えてしまった。
セリオンさんと別れて帰り道を急ぐ途中で、店の軒外れで、酔っぱらって潰れてしまった若い男の人が目に入った。
小雨の中で木箱に座ってはいるが、崩れかけた姿勢のままでは、そのうちぬかるんだ道に転がるだろう。
ディオ兄は親切にもその男の肩を掴んで、揺らして起こした。
「お兄さん、こんなところじゃ小雨でも雨に打たれて眠ったら死んじゃうかもしれないよ。
目を覚まして、家に帰りなよ」
そうなんだよね、山とかで低体温症をおこして死ぬ人は意外にも夏が一番多いのですよ。
若い男の人は顔を覆っていたくたびれた帽子を被りなおして、壁に身を預けてノロノロと立ち上がった。ちゃんと家に帰ってね。
「ん、すまんな、ぼうず。確かに、うん、こりゃ冷えて来た。帰るとするか」
眠そうな欠伸をして伸びをすると、男はゆらりと一歩を歩きだした、ディオ兄はそれを見ると、安心してすぐに彼から離れて走り出した。
「気を付けてね、それじゃおやすみ」
ディオ兄がパシャパシャと水の浮いた道を走って行く後姿を、千鳥足の酔っぱらいは手を振って見送っていた。
廃墟に着くと、あたしは体を拭いてもらい乾いた産着に着替えさせてもらった。サシャさんが譲ってくれた他のオムツや産着をしまうとき、ディオ兄がはたと考えを巡らしていた。
「赤ちゃん用のベットが欲しいな、あの木箱持って帰ればよかった」
いろいろ考えたらお金がかかるので適当なもので大丈夫ですよ。はい、文句は言いません。
暗闇に包まれた廃墟の片隅、藁の上に布を敷いた寝床で擦り切れた毛布を掛けてもらい、ディオ兄に添い寝されて横になった。
今日はいろいろありすぎて眠れそうもないなと考えていると、ディオ兄がそっと声を出した。
「もう寝ちゃった?」
『ううん、すぐには眠れそうもない』
「俺もだよ。今日からアンジェの兄ちゃんになるから、俺のことをアンジェに知ってもらうために少し話すことにするね」
ディオ兄は王都から離れた地方の小さな村で生まれたらしいけど、親は初めから口減らしを考えて育てたらしい。
あの忌々しい名前は親がつけたのだろうか…そして彼は王都で人買いに売られた。
「俺は王都の孤児院がどんなところか知っている、だからアンジェは絶対にあんなところに入れられないように頑張るからね」
孤児院に入れば早昼と夜の2食のご飯とベッドが手に入るけど、ディオ兄は絶対に嫌だと言う。
親に売られて、煙突掃除屋の親方から逃げ出した後、王都でウロウロしていたところを保護されて一度入ったことがあるけど、二度と入りたくないと言っていた。よほどの事があったのか、思い出したくもなさそうで口を噤んでしまう。
ならば、自立する孤児は現金を得るために頑張って働かなければならない!
あたしもディオ兄のために頑張るよ。
『お兄ちゃんは幾つなの?5歳?6歳?』
「俺はたぶん7歳だと思う…生まれ月はたぶん秋だろうな」
やっぱり栄養事情が悪いせいかな、少し小さく見えるようだ。
こんな小さな赤子でなかったら、彼と一緒にバンバン仕事を請け負って美味しいものを食べて、しっかり栄養を付けてもらえるのに。
そう思うと歯噛みするほど悔しかったが、毛布にくるまれて温かなディオ兄の体にくっついていると、それ以上、瞼が目を開けることを許してくれなかった。
いつ寝たのかもしれない間に翌朝がやって来た。
隣をみるとディオが居なくなっているのに気がつき、思わず声をあげた。
*ほぎゃーほぎゃー*
『ディオ兄がいないー』
やっと白んだばかりの外から水桶を担いだディオが帰って来た。
「ごめん、アンジェ。良く寝てたから、外の井戸で水汲みに行ったんだよ」
『う、騒いでごめんね。心配になったものだから』
「お兄ちゃんが居なくなって不安になったんだね。いいこ、いいこ」
抱きあげられた後、頬っぺたをくっつけてスリスリされました。
ほにゃ~幸せ~
いや、違うの。あたしは君の心配しただけです。こんなことで、不安になったわけでは、と言いたかったが止めておいた。
あたしは赤ちゃん、中身が大人とはバレないようにしないと!
あれこれと逡巡していると現実に引き戻された。
「それじゃ、アンジェ、おトイレに行こうか。アンジェはオムツを汚す前に言ってくれるから楽ちんだよ」
はい、おトイレお願いします…ひとりで行きたいけど行けませんので…
介護されている気分でディオ兄に身を委ねてお願いしました。
見た目は赤ん坊だけど、中身は34歳の心だけ乙女の女だから、子供に世話を焼かれるのは肩身がせまいです。
というか、なんという羞恥プレイ…しかし、もう開き直るしかない。
心折れるな!あたし!!この恥かしさを乗り越えて生きぬくのだ。
そして、拾ってくれたこの少年を幸せにしてあげるのよ!