第27話 泥土にまみれて
子供から小金を巻き上げてから町を出ようと欲をかいたばかりにブルートは死ぬほどの恐怖を味わうことになった。
「化け物だ、ここはやっぱり化け物がでるんだ…スカルトのあほう!こんなところに俺を連れ込みやがって!くそ!」
階段に通じる暗い廊下駆け抜け…何もいないことを願いながら大声で叫んだ!
「うわあああああああああああああぁ!!!」
角を曲がると、恐怖を打ち消すように喚いたまま階段を駆け下り、ホールを走り、飛びついた玄関ドアのノブを回したがびくともしない。
引けば開くはずのドアはがたがたと空しい音がするだけで、開くことは無かった。
夢中で何度も体当たりしてみたし、蹴破ろうともしたがビクともしなかった。
「ちくしょう!なんで開かないんだ…」
恐ろしさで泣き出し始めたブルートは墓が見えた窓を思い出した。
「そうださっきの廊下の窓から!」
光明を見出したブルートは、踵を返すと玄関ホールに繋がる廊下に急いだ。
すぐに、先程みた大きな窓に行き着いた、窓から墓が見える。
―早く逃げないと、ここから離れなければここは居てはいけない場所なんだ
ブルートはすぐにで開いた窓から外に出ようと窓枠に手を掛けた。
窓の外へと、恐怖で力の抜けた身体を乗り出して、ずり落ちるようにやっと窓から出る。ぬかるんだ泥に踏ん張ったはずの足を取られて、屋敷の石壁に額と鼻を思いっきり打ち付けてしまった。余りの痛さに苦痛の叫びをあげてひっくり返りぬかるみに突っ伏した。ジワリと鉄さびの匂いがした。
ブルートは恐々と自分の折れた鼻に手を伸ばして怪我の具合を確かめた。
途端に痛みで飛び上がり、かぼそい苦痛の声が喉から絞り出された。
こんちきしょう…こんちきしょう…こんちきしょう…
一刻も早くこの廃墟から離れたいとぬかるんだ地面から起き上がり、よろけながら前に進むと、後ろからぞわりとした気配がした。
外にでた安心感か、それとも好奇心からか、彼は振り返って見上げた。
屋敷の2階と3階の窓から吊り下げられた何人もの死体。
息を呑んで見つめていると、そのうちの一体が音を立てて落ちてきた。
*ぐしゃり*
目の前で潰れた若い女の死体に悲鳴を上げると、雨で泥土となった地面に腰を抜かしたまま後ずさりをして見上げた。
「なんだ?ここは?さっきいたところじゃねえ!!ここは何処だ?」
目の前にそびえる屋敷は先程入った建物とは全く違う白亜の建物だった。
明らかに廃墟ではない、見た事のない大理石の贅を尽くしたバロック様式の3階建ての邸宅だった。
歯がカタカタと勝手になり始め、ブルートは腰が抜けたまま恐怖で動けなくなっている脚を無理やり動かし、立ち上がろうと泥だらけの地面を足掻いた。
「くそ!くそ!逃げるんだ!こん畜生!」
「お前はロビーナ家の奴だな?」
這いつくばった背後、出しぬけに投げられた声にブルートは一瞬心臓が縮みあがったが、身をよじって見た瘦せこけて背の曲がった男にほっとした。この中年の男はどうやら人間だ。
だが、目が険しくギラギラして尋常ではない。
こちらが口を開く前に男は勝手に話し続けた。
「俺はこの土地の農奴だ、お前はロビーナ家の者だな?」
「ち、違う。俺は初めて来た。ロビーナなんて知らん!」
男は声を荒げてピッチフォークを構えた。
やばい…こいつは…この目は!確実にやばい!!!
「ロビーナ家の奴らを生かして返すわけねえだろう!てめえもここで終わりと知れ!!長年の恨みを晴らしてやる!!!」
「ち、違う!俺はたまたま…」
怒りに我を忘れてまるで聞く耳をもたない男はピッチフォークを振り下ろした。
ガッとピッチフォークは振り下ろした先はブルートの右膝裏に刺さった。
苦痛と驚愕の絶叫が響き渡った。そのあとに小さく消えていくうめき声が喉から漏れ出た。
ブルートはあまりの痛みに声を飲み、奥歯を噛み締めていた。
男は彼の脹脛を踏みつけて乱暴にピッチフォークを引き抜くと、黄色い歯を剥きだして笑っていった。
「お前を埋める場所はいくらでもある!飢えで死んだ俺の女房や子供は花を添えて埋めた。お前の墓には俺の糞と小便を毎日ぶちまけてやるぜ!!」
「やめろ!やめてくれ!!俺は関係ない!!!」
いったい何なんだロビーナ家なんてどこの家だ。聞いたことが無い。
なおもブルートに襲い掛かろうとする男の顔にブルートは泥の塊を投げつけた。視界を奪われた男のピッチフォークを避けると、彼は痛む右膝を庇いながら逃げ出した。
―神よ神よお助け下さい
生れてはじめてブルートは祈った、今までの不信心を悔い改めるように。
そんな彼を突き放すように冷ややかに見下ろしている人影がいた。
白亜の館の屋根の上、彼の周りだけ雨粒がかすりもしない。
雨が彼だけを濡らすまいと気を使っているかのようだった。
「虫が良すぎるよ。ブルート、都合のいいときだけ神に縋ろうなんてさ。
僕らはそんな人間が情け容赦なしに、一番嫌いなんだよ」
銀髪の少年が冷たい金色の眼で見下ろして呟いていた。
ブルートは逃げた、必死に逃げている。
何処をどうにげているのか
―この忌々しい土地から逃げたい、ぐちゃぐちゃに纏わりついた泥を落としたい。風呂に入って乾い たベッドで眠りたい。
痛めた膝に体重がかかり、足がねじれてよろ這い歩きながら、少しでも遠くへと逃げようと木の幹についたその手が掴まれた。
悲鳴をあげて振り払おうと身をよじった拍子に子供の背丈ほどの深い墓穴に滑り落ちた。
穴の底にたまった泥水と鼻腔を塞ぐ血の塊を吐き出すようにせき込むと男が上から覗き込んだ。
「フハハハ!とんだマヌケ野郎だ!お前のための墓穴に自分から入ってくれるとは手間が省けるってもんだぜ!!!」
男がピッチフォークを上からブルートを突き刺すために何度も振り下ろす。
彼は必死に身をかわすが狭い墓穴のぬかるみの中に逃げ場はない、何度も肩や腕にピッチフォークの先に突かれ、痛みで悲鳴をあげ思わず泣き叫んだ。
「スカルト!スカルト!何処にいる!俺を助けてくれ!!!」
自分が身棄てて来た少年の名前を叫ぶと、男がそれに答えた。
「そいつは…おまえの後ろにいる」
後ろから伸びてきた手の無い右腕が凍り付いたブルートの首に絡みつく。
もう片方の左手の指が、逃げられないブルートの眼球に食い込んだ。
長い長い絶望の悲鳴が裏庭に響いたが、激しい雨音のなか、誰の耳にも入ることはなかった。
暫くすると男の姿はかき消すように見えなくなり、穴の中から奇妙な音が聞こえて来た。
*がりん…がきん…めき…くちゃ…がり…*
音はやがて途絶えると銀色の派手なネックレスが穴から放り出され、ビシャンとぬかるんだ泥の上に落ちた。
銀髪の少年がそれを拾いあげると呆れたように呟いた。
「可愛い僕の子供達を虐めようとした罰だ。生殺与奪は僕の特権、あの子達に害をなす者は僕が許さない」
彼はそう言うと屋根の上にふわりと飛び上がり強い雨の中にかき消えた。
そぼ降る雨の中、深い眠りに入っているアンジェとディオの耳にはどんな雑音も入ることはなかった。
その日のバッソの雨は最初から最後まで優しく静かな銀の雫が降り落ちていた。




