第20話 目覚めた父親
エルハナス家は現在のフォルトナを拝領する前までは、フォルトナから
馬車で4日ほどの距離の飛び地、海沿いのカラブリア領に住んでいた。
現在では侯爵を隠居した59歳のサルバトーレ・エルハナスが収めている。
白髪になった髪の中に、目を凝らすとかつて彼の濃紺の髪が、ちらほらと混じっている。彼がいきなり6年前に、引退するまでは海軍にいたこともあり、貴族とは思えぬほど日に焼け壮健な老人だった。
しかし、灰色の瞳は陰りが常に浮かんでいた。彼の胸の内に隠した過去の悲劇は、家族には誰にも語ったことがなく、それを知るのは執事のランベルとその妻メリンダをはじめ、無二の親友と10人程の信頼をおく部下だけだった。
長患いをしていた妻は亡くなって久しい、今はひとりで産まれたこの地に留まっている。
領地の報告書を目に通し、一息をついたサルバトーレは、定期的に送って来る娘カメリアの手紙を、海を見下ろす屋敷のバルコニーで受け取った。
「カメリアとアルフォーゼは煩い連中の中でうまくフォルトナを治めているのだろうか?どうだ、お前のみたところでの評判は?」
サルバトーレに長く使えた執事のランベルが、背筋を正して答えた。
灰色となった髪をキッチリと撫でつけた痩せた長身の50歳を超える男で、サルバトーレの最も信頼する使用人である。
「お二人とも市井での評判が高く、フォルトナは18年前までの荒れようが嘘のような発展をしております。特に治安がよう御座いまして、子供や女の不当な賃金体制を厳しく取り締まった結果、男の失業者が徐々にですが減り続けております。
子棄てや口減らしのような悲劇も減っているそうです。それは、バッソも同じです。
それに、どちらも、優秀な人材を輩出しており王都でも採用されております。」
「そうか、ふたり共、我が子ながら出来が良い。孫たちも良い子が揃っているし、わしは果報者よ」
ランベルから受け取ったペーパーナイフで封筒を切ったサルバトーレは、上機嫌で中の手紙を広げた。
手紙には、最近の家族の近況と共に、バッソでたいへん見どころのある少年が見つかったので、身分は低いが学問の機会を与えて将来は自分の息子の側近にしたいと書いてあった。
さらに読み進めた途端に、主が息を呑んで手紙を凝視したのをランベルはすぐに気がついた。
「どうなさいましたか?何か悪いお知らせで御座いましょうか?」
手紙を持ってわなわなと手が震えていたサルバトーレは涙を浮かべて彼を見上げて手紙を見せて言った。
「とんでもない、正反対だ!ランベル馬をもて、馬車では時間が掛る。
早く行かねば、フォルトナへ、カメリアに会って詳しく聞きたい!」
焦る主人からやっと手紙の詳しい内容を聞いたランベルは、驚くと共にすぐに主人に落ち着くように宥めた。
「旦那様、落ち着いて下さい。間違いだったら、ただカメリア様が怒り狂って大変なだけで終わりですよ。先ずは確認したほうがよろしいかと。
現地にトバイアスを送りましょう。お嬢様に打ち明けるのはその後です」
がっかりしながらも、サルバトーレは確かにそうだと弱弱しく呟いた。
翌日、執事のランベルは護衛のなかからバッソ出身のトバイアスをバッソのルトガーのもとに送った。
カメリアに直接手紙の内容を確かめるのを憚ったためであった。
そんな計らいを数日後、サルバトーレはぶち壊す、彼にとっては最早カメリアの怒りに触れてでも一刻も早く聞きたいことがあったのだ。
手紙の中には、バッソの有能な子供の特徴が書いてあった。
『その子の髪はお父様と同じ、深い、深い紺色ですの、お父様は何か身に覚えはございまして?』
カメリアとしたらそれは父親をからかう無邪気な一文だった。
しかし、父のサルバトーレとしては、胸を締め付ける荊を刈り取れるかもしれない何よりの刃、沈んでいた心に射した一筋の光だった。
数日をイライラと過ごした彼はついに辛抱堪らずに行動に移してしまう。
ランベルの目を盗んで、伝書鳩を用意させると彼はカメリアのもとに、鳩の足環に一文をつけて空に放った。
―その子の目の色はアイスブルーか?
* * * *
バッソの東地区にあるドットリーナ教会の礼拝堂は、24時間、いつでも誰でも祈れるように解放されている。
その神像の前で仕事帰りの若い夫婦が祈っていた、大工のバスクと市場で雑貨店の手伝いの仕事をしているサシャである。
そんなふたりを、教会の神父のレナートが見守っていた。
二人は病気で死んだ息子が地獄で苦しんでいると頑なに信じ込んでいる。
バスクはちゃんと働くようになったので、息子が許されたか知りたいと聞いてきたときには、神父は何のことだか理解できずに狼狽えた。
―もう子供は救われたでしょうか?
―天国に行けましたよね?夫は心を入れ替えて働いていますから
―賽の河原…そのような地獄は聞いたことが無い。
だいたい罪なき赤子が地獄に落ちるなんて、有りえないだろう。
何故そのように思ったのかと尋ねたら、息子が助けを求め、バスクを地獄に呼んで、その苦しみを訴えたのだと言う。
―河原に跪いたときの膝に受けた硬い石の痛みすら覚えています。
あれは、夢では決してありません。
俺のせいで、重い石を積み上げる罰を受けているなんて、赤ん坊のロイにはあまりに可哀そうです。
もしも、まだ息子が救われていないのなら何をすればいいのか教えて頂きたいのです。
代われるものなら代わってやりたい!
…神父様どうかお導き下さい…
涙ぐむ父親を見てもレナート神父は懐疑的だった。
―そんなことが有るのだろうか、しかし、バスクの眼は真剣だ。本気で私に縋っている。
しかし、バスクは本当に見たのだと言うし、妻のサシャも夫の話を信じている。
ついつい、もう子供の罪は許された筈だと嘘をついてしまった。
思い悩む若い夫婦を見てこれで良いのだと思う反面、いい加減な嘘をついたことを、後悔した。
神父として本当にこれで良いのか、レナートは迷いを抱えた。
日曜の朝、礼拝の時間に他の人々に混じってバスクとサシャが来ているのが見えた。レナート神父が深呼吸をした後、礼拝堂のなかでよく通る声が響いた。
「この世に生まれし全ての幼き子らは、穢れ無き魂の神聖無垢な存在として神に愛されたもう…しかし、人は年を重ね行いを重ねるうちに、神の愛から自ら遠ざかり、道に迷うものなり」
今日も説教を始める枕として、レナート神父は自我の育ち切っていない赤子に罪などある筈が無いと、若い夫婦にも届くように心を込めて語り始めた。




