第194話 ディア・ブリタ
アンジェがルトガーと無事に再会した頃だった。
カラブリア領を出る街道で、2台の馬車が身動きできなくなっていた。
いや、正しくはどちらが道を譲るかで、両者が譲らなかったのである。
馬車が2台で通過できない道幅の場合、両者が身分を明かして、身分の高い者の馬車を先に通すのが常識である。
しかし、何故かこの両者はその身分をなかなか述べずに、らちが明かずに睨み合いになってしまったのだ。
豪華な黒い馬車から降りた馬丁が、自分たちの馬車を指して、相手の御者席を見上げてなじった。
「いい加減に退け。みて見ろ!この馬車は王都の最新式のデザインだぞ。
この優雅な造りを見て察しがつかないのか。田舎者め!」
馬車は、金張りのランタンに灯る炎に照らされて、黒漆の光沢のある車体が艶やかに輝いている。車体に彫りこまれた蔓草模様も見事だ。
片や、相手の飾り気が無い茶色の馬車には、御者席に御者と見習いの二人がおり、馬丁も後ろに2人陣取っている。
充分な召使を雇うことができるなら、金回りは良い筈だ。
しかし、車体の造りはしっかりしているが、華美な装飾や彫刻がなく、豪華とは言えないものだった。
馬丁は、乗っている相手は、どこぞの成り上がり商人か郷士とふんだ。
しかし、茶色の馬車の御者も口では達者だった。
「馬車だけで身分が分かるものか。金さえ有れば誰でも乗れる」
ちっ、と舌打ちすると、業を煮やした馬車の中の人物が、御者席の小窓から大声で馬丁に告げた。
「おい襟のバッジを見せてやれ。それで納得いくだろう」
外にいた馬丁が飛び上がった。
「わ、若さま…宜しいのですか?」
馬車の中の若い男は苛立たし気に吐き捨てた。
「余計なことを言うな、かまわん。見せてやれ」
躊躇いがちに、黒塗り馬車の馬丁が、相手の御者に襟の裏に隠していた花のバッジを見せた。
花の意匠のバッジは、召使たちが何処の貴族の所属か、身分を明かすときに使う。
意匠の花は昼顔、とある伯爵家の意匠は朝顔、非常に判別しにくいデザインだ。もっとも、よく似た花の場合は親戚関係が多い。
「そら、見ろ。これを持っているんだ。ただの金持ちの訳ないだろう」
すると、相手の御者席から帽子とマフラーをした助手が、ひらりと席から降りると、彼の前に立ち襟をグイっと引き寄せて、バッジをはっきりと確認した。
「な、何をする!」
「それを見せてくれるのを待っていたのです。だからよ~く確認しないとね」
マフラーを巻いて、目だけ出した馬丁の声は、若い男のようでもあり、女のようでもあった。
「召使は紋章の差異については厳しく覚えさせられています。昼顔ならば、ラモン子爵家ですね」
「これに似た意匠は多い。それより、もういいだろう、通せ!」
「いいえ、もうひとつ確かめさせてもらいますよ」
助手は胴巻に差していた一本の鞭を取り出した。
何をするのかと息を呑んでいた黒馬車の召使達は、持っているのが、ただの鞭ではないと直ぐに気がついた。
その鞭には革の結び玉があり、何かが植込んであった。
助手が帽子とマフラーをかなぐり捨てると、美しい紺の前髪が、眼光鋭い若緑の瞳の間に、はらりと落ちた。
「わたくしはカメリア・エルハナス。今宵、我が領地にて大事件が起き、街道に逃げた犯人の一味を探している最中です」
助手と思われたのは男装姿のカメリア、仁王立ちの彼女は、腰に手を当て、鞭を持った手で、馬車を指して中の人物に叫んだ。
「この鞭は革の結び玉に鋭い鉄の棘が結びこまれている。
これを喰らって無事でいたのは我が夫、ベルトガーザ・ハイランジアのみ。
さて、この鞭で無紋の馬車を痛ぶったら何が出るかしら?」
「ちょっ、ちょっとお待ちください」
慌てふためいて止めようとした馬丁は、いつの間にか現れた警邏兵たちに取り囲まれて、動きを奪われた。
カメリアはその鞭を大きく腕を振りかぶって、馬車の横腹を打ち据えた。
ガッという音の後、黒光りする車体の胴に、鞭の棘が突き刺さったままぶら下っている。
彼女は何の躊躇いもなく鞭を引き寄せた。
*ガガッガリガリガリーッ!*
*バリンッ!*
「これでもまだ白を切る気かしら!?」
黒漆の馬車は無残にも傷だらけ、鞭の棘は車体に糊で薄く貼ってあった板を引っぺがして地面に落とした。
その下から出て来たのは大紋章、家も爵位も全てが判る代物。
出て来た花の意匠は、花びらに5本の筋が強調して描かれている、間違いなく昼顔だった。
「これで間違いありませんね。ラモン子爵家の御子息、出ていらっしゃい」
カメリアが大声で呼ぶと、ようやく馬車の人物がドアから出て来た。
まだ若い貴族の若者だ。
ふてぶてしいことに、何も悪びれることなく薄笑いを浮かべている。
「何を持ってこのような仕打ちを?いかにも、僕はラモン家の者ですが、ここには遊びに来ただけです。
いくら貴家の領地でも、何の証拠も無いのに、事件と関係あるかもしれないと、他の貴族を取り調べする権限など無いでしょうが?
なのに、僕の家の大事な馬車に、このような乱暴をするなんて、いくら上爵といえども失礼ではありませんか」
「いかにも、わたくしには捜査の権限は有りませんわね。カラブリアの領主というだけでは、他家の貴族を怪しいからといって拘束など出来ません」
それを聞いて彼は勝ち誇った笑みを浮かべた。
「そうでしょう?それでは、僕は失礼します。御機嫌用エルハナス卿、馬車の修理代は後で請求させて…」
「いや!そうはいかんぞ!ラモン家のどら息子クリストフ!!!」
彼が最後まで言い終わる前に、茶色の馬車から大声で叱りつける声が聞こえた。
声の主は、自分の馬丁にドアを開けさせると、のっそりと姿を現した。
「エルハナス卿には無いが、わしにはその権限がある。君は、わしがどういう人物か良く知っているだろう。なあ、ラモン家の次男坊クリストフ君?
この元国務大臣のマルチェロ・マンゾーニの顔を、よもや忘れはせんだろう。
大学卒業前に父親にくっ付いて挨拶をしたとき、わしに盛んに国務の一端を担いたいと、就職のアピールをしておったが。
あのとき採用せずに正解だった。我ながら人を見る目があったわい。
現在のわしは、国の指令で、身分を問わず領地を跨いだ、広域捜査の長官を仰せつかっている。
それは貴族も対象だ。わしの命令だ!連行しろ!!!」
クリストフ・ラモンの顔は一気に青ざめた。
彼は両脇を警備兵に抱えられ、腰を落として抵抗し、わめいていたが、やがて従者と共に引き立てられて行った。
「地味な待ち伏せは嫌だと仰りましたが、マンゾーニ卿ならではの鮮やかな捕り物でしたわね」
「それより、エルハナス卿。あの、さっきの話は本当ですか?ルトガーはあの鞭を喰らって無事だったというのは…」
「まさか!ほんの夫婦の間の余興ですの。子供の鬼ごっこみたいなものですわ。
普通の鞭だとあの人の運動神経では楽に避けてしまうのです。
それで、もっと緊張感を持ってもらおうと、これを使うようになったのです。
効果はてきめん!ルトガーは必死で遊ぶようになりましたわ。
お陰でわたくしの楽しい時間が増えましたの。オホホホ」
かつて、どんなに美しくても、あれでは釣り合う相手がいまいと言われた令嬢カメリア・エルハナス。
― そうか、苦労しているな、頑張れよルトガー。
マンゾーニ卿は、心のなかでルトガーの苦労に手を合わせた。
上機嫌だったカメリアは、ふと気がかりになった。クリストフを捕らえてはみたものの、その場に馬車がいただけで確たる証拠はないのだ。
「大丈夫ですか?あのラモン家の馬鹿息子、他の犯人達の証言を引き出せても、それで観念して罪を白状するでしょうか?」
「家を貶めるための工作だとか言うかもしれませんね。まあ、じわじわと攻めていきますよ」
この時、マンゾーニ卿は、犯人達をじっくり自供させるつもりだった。
数日後、彼は犯人の全員から自白を引き出す。
それはそれは、何の努力も苦労もなく、こんなに簡単に捜査が終わるとは思いもしなかったと後に語ることになる。
* * * *
翌日、カラブリア領内では、エルハナスが一家総出、末子のディオまで総動員して、大掛かりな捕り物をしたと大変な噂になっていた。
なかでも、今回の事件が露呈した切っ掛けが、ハイランジア家の跡継ぎ娘の暴れっぷりだったと知り、ルトガーの昔を知る人々も大いに興味をひいた。
港にあるどの酒場でも、酔客たちの一番の話題になっていた。
「エルハナス家の末息子は、武器を使って犯人達に変な物を撒いて苦しめたそうだ」
「みたよ。犯人の奴ら、顔も体も真っ赤に腫れあがっていて凄かった。
痛いの、痒いの、沁みるのって、そりゃ大騒ぎでさ」
「まだ子供なのに凄いわ。さすがカメリア様の弟様ねえ…」
「それもだけど、とんでもないのはハイランジア家の、あのちびっ子だろう。大人をぶん殴って降参させたらしいぞ」
皆はうんうんと口をそろえた。
「あの狂乱の貴公子のひとり娘、蛙の子は蛙だなあ」
「男爵かあ。オルテンシア家の子供時代もふたつ名ついてたわよね」
「そういやあ、あれなんてたっけ?」
「あ~、神代言語か古代語だから覚えてないなぁ」
酒場の隅で黙って飲んでいた旅姿の男が、突如、口を開いた。
「ディア・ブリトですよ。意味は“チビ悪魔くん”ということですね。
その彼の娘なら、女ですから文法的にはディア・ブリタになります」
その場にいた誰もが成程と膝を打った。
「あの親父と、同じふたつ名とは良いじゃねえか。ディア・ブリタか!」
「まあ!“チビ悪魔ちゃん”なんて可愛いじゃない?」
「見た目は可愛いお嬢ちゃんらしいからピッタリだな」
ワイワイと騒いでいる客たちをよそに、旅の男はテーブルに酒代を置くと賑やかな店を出て行った。
そのうち暗い路地に入ると、行商人のような風采の男が待っていて2人はひそひそと話し始めた。
「ハイランジアの娘が随分と話題になっていたが、ドットリーナ教を揺るがす程の話題ではなさそうだな」
「奇跡でも起こさん限り、教皇の脅威には成りえまい。私は国に戻って報告する。君はそのまま情報を集めてくれ」
ふたりは頷くと別の方向に別れて行った。行商人はカラブリアの雑踏へ、旅人はリゾドラード王国行きの船が着く港に足を向けた。
ドットリーナ教はルトガーの子供の頃から監視をしていた。
何故なら、リゾドラード王国において、ハイランジア家は今でも絶大な人気を誇る血統だからだ。
かつての王族は、他国に渡ってもなお、その伝説は色褪せることが無い。
ドットリーナ教は、それを密かに危険視していた。
評価有難うございました('ω')ノ