第190話 光の中に幼児が踊る
カラブリアのシュトロム港は大きな湾になっていて、深く入り込んだ湾の奥にある港である。懐の深く奥まった湾のお陰で、船は穏やかで波が静かな場所で停泊できるため、古代から重要な港であった。
ヴェトロ島も、その湾内の入り口近辺にあり、入江の向こう側は外海だ。
入江には高い岬があり、岬の端にはオルテンシア家の教会が海の向こうにあるリゾドラート王国を臨んで建っている。
アンジェは今、ヴェトロ島のガラス倉庫にいた。
あたしが海岸でロイス君に救助されたとき風が吹いていたが、夜になってから、それがいっそう強くなって来た。まるで嵐がやって来そうだ。
早いところ、パパたちに助けて貰わないと。しかし、船乗りを倒していないし、入江とはいえ波が立っているので、小舟で海に出て助けを呼ぶのは危ない。
ちろりと、わんこ神をみると、すぐさま返された。
『わしに期待するなよ。正直に言うと海の上は大の苦手で大嫌いじゃ。
さっきは必死だったからな。二度と海の上など飛びたくない。
助けを呼ぶなら他の方法を考えてくれんか』
わんこはすっかり腰砕けである。うーん、そうか。
他の手を、と考え込んでいたらポケットが動いている。手を入れてみると、小さな白い柴ワンコが出て来た。
ちゃぶ台にいたミニチュアわんこ神だ。
ちっちゃ!手乗り柴ワンコ!か、かわええ!!!
「ふぁ~お家に連れて帰りたいでちゅ~」
ほっぺを近づけて。*スリスリスリスリスリ*
『それはわしの一部じゃ。やっぱ、わしは可愛いじゃろ♪』
「………………………………」
『なんで黙っとるんじゃー!』
わんこ神がガウガウとまとわりつく、うるさいので抱きしめて黙らせちゃった。
ロイス君が落ち着かない様子で尋ねた。
『漁師小屋から逃げ出した二人は本当に戻って来ないでしょうか?犬神さまを疑う訳ではありませんが、僕は心配で、心配で…』
彼から話を聞いたとき、わんこは無視して良いと話したのだが、まだ怯えている。
わんこ神は事も無げに言った。
『あいつらは何も出来ん。今頃は外洋に流されて迷子になっておる』
そして、微かに『それ相応の祟りを受けておる…』と呟いた。
聞こえなかったことにしよう。友達とはいえ、わんこは神様だ。
祟り紳の仕事に口は出せない。
『それより、パパたちに何か合図する方法を考えまちょう』
『この風では松明は役に立ちそうも無いですね』
そういえばさっきフレネル・レンズが在ったな…。
『風に負けない強い灯りがあれば、レンズの中に入れて灯台みたいに合図できるのでちゅが』
胸に抱いたわんこが、ぴょんと床に降りてからパーッと白く輝いた。
『灯りか?これで良いのか?』
『うわ!仔犬様なんて神々しい!』
おおー!なんて便利なんだろう。わんこが神様だと教えてあげたら、すっかり信者になってしまったロイス君が、手を合わせて拝んでいる。
だけどこのレンズでは、わんこが入るにはちょっと狭苦しいかな。
『こんな雑用をわしがするか。さあ、さっさと領主殿にお前の無事を知らせてやれ。
ロイス!お前も手伝え』
工房に戻って職人さん達に協力してもらい、2階のベランダからフレネル・レンズの光をカラブリアの陸地に向かって照射した。
* * * *
時間は少し巻き戻る。
ディオとダリアは、アンジェの痕跡を探して港周辺を探っているうちに、妙な貴族の馬車を見つけた。
アンジェがいなくなったタイミングでの怪しい馬車、ディオは確かめずにいられなくなった。
馬車が停まったのは、係留施設係の事務所、兼詰め所だ。シュトロム港で荷下ろしに使うクレーンなどの、さまざまな施設の管理や保持をしている。
貴族が立ち寄るとは到底思えない施設だ。
「それじゃダリアさん、俺は雨どいを登って中に入るから、ここに居て」
ディオはそう言うと、ダリアの気がつく前に、するすると上に登って行く。
仰天するダリアが小声で止めるが全くきかない。
「坊ちゃま、無茶しないでダリアが行きますから…」
木の枝が邪魔して、既にディオの姿が見えなくなってしまった。
オドオドして左右を見渡していると、「おい!!」と後ろから男に声を掛けられ飛び上がった。
「おまえ、どうやって外に出た?逃げようったって、そうはいかんぞ!」
「え?ええ?えええ?」
混乱するダリアが詰め所から出て来た男に連行されるのを、木陰に隠れてディオは見ていた。
彼女には悪いが、お陰で何かやましいことが行われている場所だと確認できた。
「ダリアさんなら心配ないだろうけど、ちゃんとサポートしなくちゃ。
アンジェもここにいるかもしれない」
ディオは上着の下に隠した小さな弾弓と、新しく作った弾が入った革袋をそっと手で押さえてから、開いている窓を見つけて中に忍び込んだ。
* * * *
その頃、ルトガーは、セルヴィーナとサリーナと共に、オルテンシア家の教会で犬神への祈りを捧げていた。
3人共、目を閉じて迷いを捨てて一心に祈っている。
アンジェの命に係わる事態と聞いて、皆が慌ただしく動いた。
カメリアは新しい社を屋敷の敷地に設けて祈り、セリオンとカラブリア卿、そしてマンゾーニ卿は港周辺の捜索に出かけている。
…コト…コト…コト。
ネズミか?妙な物音に思わず3人は目を開けた。白い小さな生き物がチョコチョコと歩いて来る。
石の床にミニチュアの犬神が、彼らの周りをちょこまかと走り回っている。
「まあ!犬神さま?」
「なんだって?なぜ、こんなお姿に?」
ルトガーが手を出すと縫いぐるみは掌に乗って座った。覗き込んで見たセルヴィーナが驚いて声を上げた。
「これは私が作った犬神さまの縫いぐるみですわ!」
サリーナも縫いぐるみの出来に感心しながら、「もしかして…伝令のような存在じゃないでしょうか」とルトガーの様子を窺った。
「そ、それでは、アンジェは無事なのですか?」
彼の言葉に応えるかのように、小さな縫いぐるみは、いきなり掌から飛び降りて、外に出せと言わんばかりにドアに何度も体をぶつけた。
「外に行きたいのですね?」
ルトガーがドアを開いてやると、外に飛び出した縫いぐるみは、強い風に飛ばされてコロコロと転がった。
慌てたルトガーが拾いあげて顔を上げると、教会の壁いっぱいに大きな光が写し出されている。
「な、これはいったい…」
その光に照らされて、礼拝堂に写し出された影。それは幼児の影だった。
小さな体を一杯に伸ばして、右手に持った小剣を掲げている。
その幼児の姿を隠し気味に、アップで大きな三角の耳がぴょこっと現れる。
耳だけの影は、ひらりと向きを変えて走り出し、幼児の隣で盛大に尻尾を振って座った。
幼児と二本足で立った仔犬の影は、腰に手を当てて威張りん坊のポーズを決めると、ふたりでドンドコと踊り始めた。
「まあ!これはアンジェリーチェと犬神様ですわ!」
後を付いて来たセルヴィーナとサリーナが教会の壁を見上げて驚いた。
ルトガーはその光源を目で追った。
「あれはヴェトロ島か」
その強い光は、港の周辺を捜索していたセリオンも気がついた。
写し出された光の筋となる光源を辿って島を見た。警備兵達もいっせいに騒ぎ出す。光りの筋は湾の入り口の島を指していた。
「アンジェリーチェはあそこだ!すぐに船を出してくれ!」
「はい!直ちに用意させます」
港に警備兵がわらわらと集まって行った。
同じころ、カメリアは犬神に力を送るために祈りを捧げていた。
彼のために用意された真新しい社、そこに、神楽舞のために寝込んでしまっていた息子のフェルディナンドがヨロヨロと現れた。
「まあ、フェルディナンド!無理をしないようにと犬神様から言われたのに、いったいどうしたの?」
「母上、この遠眼鏡でオルテンシアの教会を見て下さい。アンジェは無事だと分かりますから」
カメリアが驚いて外に出ると、教会の壁に海から光りの筋が当たっている。
遠眼鏡で壁を覗くと、光の中でアンジェと仔犬の神が踊っていた。
カメリアは安堵したあまり、その場でフェルディナンドと座り込んだ。
* * * *
やれやれ、これでパパ達に連絡できただろう。パパ達なら、わんことあたしの影を見たら、無事だとわかってくれたに違いない。
「ロイス君お疲れ様でちた」
大きなフレネル・レンズを抱えていたロイス君が、やれやれとベランダにレンズを抱えたまま腰を下ろした。
そして、レンズの中から光っているミニチュアわんこを取り出してやった。
手のひらにそっと乗せて、指で頭を撫でている。
ミニわんこは満足そうに尻尾を振ると、ポワンと消えた。
「あう~、可愛かったのに残念でちゅ~」
『わしの方がかわいいのじゃ!』
『僕もそう思います、犬神さまー!』
下の階に降りると、停泊している船を見に行った人が慌ただしく戻ってきた。
「た、大変です!船の奴らが動き出しました」
職人さん達が気色ばんだ。
「お、殴り込みか?」
「ち、ちがうよ。逃げ出したんだ。あいつらの船が停泊していない」
急いで船の行方を捜すために、皆と岬に移動すると、入江を出て来た船がちょうど真下に差し掛かるところだった。
耳元でわんこが囁く。
『わしはまだ満足しておらんぞ。ウヘヘ』
「わかってまちゅよ」
ポンポンと飛んで、岩の突き出た真っ暗な崖を駆け下りた。後ろから見ていた人たちからいっせいに悲鳴が上がった。
『うわー!お嬢様―!』 「$▼―!〇#△%―!」
驚かせて悪いが非常事態だ、ここで逃がしては根こそぎ退治できない。
今のあたしはわんこ神のお陰で、暗い場所でも良く見える。
わんこが一緒にいればあたしは百人力!
『ウハハ、そのとおりじゃ!やってしまえ~!』
「悪い奴らは、アンジェにお任せー!」
突きでた岩から夜空に向かって、思いっきりよく飛び出した。
落ちていく刹那、唐突にヤモリンの姿が脳裏に浮んだ。なぜ、彼が現れたのだろう。
もしも、あのとき、ヤモリンが夢に出て来てくれなかったら、死んでいたかもしれない。
― ありがとうヤモリン、優しい友達。
妙な感覚だ、時間がゆっくり流れているように感じる。
落ちていく、落ちていく先は呑まれそうな暗い闇。
チラリとその闇の中から、青白い人の顔が出現した気がした。
銀の髪に女の人のような顔立ち…アンジェロさん?
首飾りの魔石が白く光り、わんこ神が唸り声をあげた。