第185話 助けの神
お母しゃま…セルヴィーナ叔母様はお母しゃまだったのか…。
涙が溢れる…頭が痛い…気が遠くなる…。
どこだろう、ここは?こぢんまりとした屋敷の1階らしいけど。
階段下に、まだ若い眼鏡の男性が、不安げにソワソワと体を小さく揺らして見上げている。
誰だろう?それより、あたしは何でここにいるのかしら?
やがて2階から、オギャーと元気の良い赤ちゃんの声が響いた。
お産があったのか、それじゃ、この人は旦那さんかな?
「女では役に立たん!」
奥から大声が聞こえると、彼の喜んだ顔が一瞬にして陰った。
期待を裏切られたのか、怒りにまみれた身なりの良い中年の男性が、靴音あらく階段を降りて来た。
「おい、ライオルト。子供はいつものように埋めておけ」
「え?正気ですか?そんな酷いこと、考え直してください」
「厄介払いだ!主人の命に逆らう気か!さっさとやれ!」
その男は、階下にいた眼鏡の人に乱暴に告げると、彼を置いてさっさと馬車に乗って引き上げた。
身震いがしてきた。埋めておけ、つまり殺しておけということだよね…。
いくらなんでも、女だからって殺しちゃうなんて…酷い。
出て行ったのは、眼鏡の人の主人らしい。罪深い命令を受けた彼は顔を歪めて嘆息している。
「死んだ前の執事から聞いていたが、まさか本当の事だとは…。
からかわれていると、老人の戯言と、話半分に聞いた私が馬鹿だった。
子殺しに従えないなら、屋敷から逃げろという忠告だったが。
その前に、セルヴィーナさんの子供を何とか生かしてあげなければ…」
え?叔母様の子供…それでは、あたしの産まれたときの記憶?
いや、産まれたてなのよ、あり得ない。
しかも、この視点、第三者の誰かの視点としか思えないもの。
部屋では、セルヴィーナ叔母様が涙を零しながら、あたしに初乳をやっていた。衝立の向こう側から先程の男の人の声がした。
「女の子は手放すように言われました、セルヴィーナさん諦めてください」
哀れな母親が泣き崩れるのを、衝立の影にいる彼は、鉛を飲まされたように体を硬直して両手を固く握った。
その様子を、あたしは上から見下ろして眺めている。
― ああ、やっぱり、この赤ちゃんはあたし自身だった…。あたしの父親は女のあたしを望んでいなかった。改めて見せられるとキツイな…。
はっと、気がついたときには、場面が変わっていた。
ゴミ捨て場!バッソの、あたしが捨てられた場所だ。
ふーんだ!ゴミ捨て場には、ディオ兄が助けに来てくれるんだもん。
今度は動揺なんてしないもんね。
木箱が閉じた四角い空に、黒い雲がゆるくもたれて湿った息を吹き込んだ。
ポツリと雨が落ちて来る。大丈夫、ディオ兄が来てくれる。
ザーッと雨が降り始めた。ひー!ちょっと事実と違う!
雨水が!うわっぷ!く、苦しい!何かのひげがツクツクする!え?ひげ?
『くうーんくうーん!アンジェやっと見つけたーーー!』
四角い空は、再会に狂気するわんこ神の顔で埋まっていた。わんこはパックリと口を開けて、あたしを呑み込んだ。
* * * *
一方、ディオは街の屋根の上にいた。下の通りにいる人々に気づかれないように、中腰で丸屋根瓦を割らないよう注意して小走りに移動していた。
シュトロム港の警備隊の詰め所にダリアと留め置かれていたが、トイレの窓から脱走したのだ。
「アンジェが迷子になっているのに、のんびり待機できないよ」
さて、詰め所から大分離れた。そろそろ降りようかなと辺りを見渡したとき、ディオは妙な馬車を見つけて目を凝らした。
馬も馬車も、馬車の備品も、ピカピカに磨き上げられている。馭者と馬丁のお仕着せもそろいの高級品だ。
― 貴族かな?でも馬車の車体に紋章は無い。黒漆の透明感のある車体に高価なリボンや、ビロード布で飾り付けてある。
よくある飾りだが、家の意匠を隠すように飾ることは無い。なのに…。
家が判るような素材が見えない。というか隠しているのかな?
だが、馬車の装飾である家の意匠を隠さねばならない事って何だろう。
金が掛かった豪華な馬車なら、これ見よがしに紋章を見せるのが普通だろうに変だな。
馬車は港街の奥へと進んで消え去った。
妙に気に掛かる馬車だと思いながら、ディオは人目につかないようこっそり道に降りた。
「坊ちゃま!」
はっと、振りかえるとダリアが走り寄って来るところだった。
「ダリアさん、よく俺の居所が分ったね」
「あら、坊ちゃまが逃げたとき、ダリアは先ず屋根の上を探してますよ」
「あの、俺…これから…」
「分かってますって、お嬢様を一緒に探しましょう」
ニコリとした後、ダリアは急に真剣な表情で言った。
「坊ちゃま、先程、馬車を見てらしたようですが、ダリアも気になっております。
馬丁の横で西日を受けてピカピカに輝いていた金色のランタン、あれは金張りです。
金色のランタンなんて普通なら真鍮ですよ。きっとあれは貴族です。
もしも、他領地に身分を隠して貴族が入って来たのだとしたら、やましいことが有るに違いありません。あの馬車は怪しいですね」
「うん、あっちの方角は、アンジェのマフラーが落ちていた桟橋からも近い。わんこ神が一緒にいないから心配だ…。
アンジェは何か事件に巻き込まれたのかもしれない」
ふたりは顔を見合わせて頷き、馬車が去った方に歩き出した。
「坊ちゃま、無理しないで下さいね。怪しい動きがあれば、直ぐに警備兵を呼びますから」
すると、ディオは外套の裏側に隠した弾弓を見せて言った。
「いざとなったら、これの新しい弾も用意して有るし、ダリアさんもいるから安心だよ」
ダリアは新しい弾の説明を聞いて、絶対まき込まれないようにしようと思った。
* * * *
―困ったな、この子の涙が止まらない。
ロイスはほとほと困惑していた。まさか、こんなことに巻き込まれるとは。
ロイスが島に来たのは、ほんの偶然だった。小舟に乗って島の子供がよく遊びに来ていたのに、最近まったく来なくなっていたのを、不審に思ってヴェトロ島に来てみたのだ。
アンジェの頭の出血はなんとか止まったようだ。だが、泣くのを止めてくれない。落ち着かせるために何か言ってあげたいが、自分は声が出せない。
あやしてなんとか島から逃げないと、そう思いながら腕の中のアンジェをみると、その頭上に…空中から仔犬が?いったいどうして!?
彼は驚いて、そのまま身動きできなくなってしまった。
* * * *
『きゃうーん!アンジェ心配したんじゃぞ!きゅーん!良かったー!』
「うわーん!ワンコ!会いたかったでちゅー!」
お互いに会えた喜びでガッチリと抱き合った。
*ぺろぺろぺろ*
*キュムキュムキュム*
*ペロペロ*
こ、こら!いくら何でも…ウップ!…舐めすぎ!
*ぺろぺろぺろ*
「うわっぷ!いい加減にするでちゅ!」
まったくもう、盛大にわんこに舐められて、ファーストキッスは前世と同じ、犬になってしまった!
しかし、余程怖い思いをしたのだろう、わんこは再会の喜びからまだ覚めない。猫に襲われてないか心配だったけど無事で良かった。頭痛はまだ治まっていないが、お陰で心が軽くなった。
「よく…アンジェの場所が…解ったでちゅね…?」
『カメリアのお陰で、この島は領主殿の名義になった。そのためバッソの土地同等にお前の存在を感知できたのじゃ。
それより、おまえ!頭の中に血の塊が出来ておるぞ!』
やっぱりか、でもあたしには自力で治せないし…。
『おまえなら治療できる。痛みで精神が乱されると集中できないので、自力で治せないだけじゃ。わしが痛みを引き受けてやるからさっさと治せ!』
いきなり吐き気と痛みが消えた。わんこ神は、おでこをくっ付けると、脳の内部のイメージを送ってくれた。
わんこ神の言葉を信じて、慌てて頭の中の血腫を探って消し去った。
「わんこ、もう大丈夫でちゅ!」
『間に合って良かったー!ジジイを噛んで良かったー!』
いったい何をしたんだろう?(汗)
ひしと抱き合っている幼児と仔犬を、ロイスは口をあんぐりと開けて眺めていた。彼は、空間から突然仔犬が浮んで現れたこともだが、頭に意味がわかる振動が伝わったことも衝撃だった。
― これが、僕が知らなかった音というものかしら?
わんこ神はまたおでこをくっ付けた。どうやら。はぐれた間の何があったのか透視しているようだ。
サーっと急に毛を逆立てたわんこ神は、縄に括られた二人の男に歯を剥いた。
『こやつら、お前を殺そうとしたのか』
「あい」
『てい!てい!』
怒ったわんこ神はポンポンと二人の上で跳ねた。
『おい、アンジェ。そこの呆けている少年は教会にいた子じゃな。
こやつ、シェルビー並みに霊感が強いようじゃ。
わしの声が聞こえておるぞ。
どれ、ひとつわしの力を最大に引き出すために、わしに捧げる神楽を舞って貰おうかの♪ウヒヒ』
聞えない筈の言葉がドンドン頭に伝わって来たロイス君は、口をあんぐり開けて、あたし達を眺めている。
あたしは、といえば、わんこが張り切っているのが凄く不安だった。