第184話 迷子はいずこ
その頃、カラブリアの屋敷では、セリオンとセルヴィーナとの結婚について、これから詳しい話し合いが始まるところであった。
アルゼとサリーナは参加せず、相変わらず別の部屋に籠って、魔石を利用した蒸気機関について激論を交わしている。
乾いた落ち葉が、枯草色の短く刈り揃えられた芝にカラカラと舞う。
窓の下にいる警備兵の影が長くなっている。
温暖な気候と言われるカラブリアだが、外の風は思ったより冷たそうだ。
― マフラーが間に合って良かったわ。
窓の外を眺めていたセルヴィーナは、出来上がったばかりの小さな縫いぐるみを手にしながら思った。
セリオンに促され、会談の席に着くや、セルヴィーナの隣に座った彼が囁やく。
「セルヴィーナさん、すぐにマンゾーニ卿に話すのか?彼は敬虔なドットリーナの信徒なんだろう?」
「ええ、確かに。でも、きっと信じて下さると思います。御爺様はあの子を大事に思っていますから」
それを、セルヴィーナの隣の席に座ろうとしたマンゾーニ卿が小耳にはさみ、彼女の背もたれに手を置いて言った。
「なんじゃ?セルヴィーナ、わしに何か頼みでもあるのか?」
「ええ、お爺様。実はアンジェために…」
「お、それは後で聴こうか。先ずはおまえ達の式の日取りを決めないとな」
エルハナス家の召使が、着席した皆のティーカップに茶を注ぎ終わると部屋から退出した。
カラブリア卿がそれでは、と話し始めた刹那、空中に真っ白な仔犬が突然現れて、激しい勢いでテーブルに叩きつけられた。
「キャン!!」
仔犬はガチャガチャと音を立てて、皿やカップを台無しにして転がった。
「犬神様!?アンジェと一緒じゃなかったのですか!?」
ルトガーが驚きの声と共に立ち上がった。
「神」という言葉に、犬神の正体を知らなかった人たちは耳を疑った。
仔犬は落ちたテーブルの上でよろよろと起き上がる。
犬好きのフェルディナンドが捕まえようとするも、それをすり抜けてルトガーを見つけ手の中に飛び込んで訴えた。
『すまぬ、領主殿!はぐれた隙に、アンジェに取り憑こうとする邪悪な奴に放り投げられて、ここまで飛ばされたのじゃ。
わしが憑いているためか、辛うじて命を護ったようだが、このまま、わしが一緒にいなければ、アンジェが精神錯乱の危険にさらされる。
この土地では、わしの社も信仰する領主もいない。
そなたのバッソなら何処にいるか直ぐに分って行けるのに!ああ、歯痒い!』
「犬神様、アンジェが危険なのですか?何処にいるかも分からないのですか?」
『領主殿の教会があるお陰で、あの近くのカラブリアだと分るだけじゃ』
それまで呆気にとられて見ていたカラブリア卿とカメリアが立ち上がり、大声を上げて仔犬を凝視した。
「ル、ルトガー、その仔犬は教会にいた奴か?」
「声が聞こえたわ!あのときと同じ声!邪悪な奴って?アンジェが精神錯乱てどういうことなの?」
「アンジェが危険なのか?どこにいるんじゃ!」
マンゾーニ卿が仔犬に近寄ろうとするまえに、セルヴィーナとセリオンが犬神のそばに寄ると皆に訴えた。
「この方は仔犬に見えますが、れっきとした神様です。私が信仰しているもう一柱の大事な神様です。どうか信じて下さい。アンジェのことを憐れんで、護って下さっている犬神様なのです。
あの子は不思議な力があるせいで、妙なものに狙われやすいのです」
「俺もこの仔犬の神様が、アンジェを護っていることを知っています。男爵屋敷の者達は信心しています。子供を護る神様だと」
セリオンの言葉に、カメリアが呆けたように白い小さな犬神を見つめた。
「アンジェを護っている神様…」
バッソに行くと、アンジェの周りでいつも転がるようにじゃれついて、自分が行くとすぐに姿を消してしまう不思議な仔犬。それがよもや神様だったとは誰が信じるだろうか。
だが、セルヴィーナとセリオンは信じている。
そして、ルトガーも。
「カメリア、いままで言わずに済まなかった。最近、ドットリーナ教が異教徒の締め付けをしているので、迷惑になると思い言わなかったのだ」
そこにドアの外でバタバタと足音が聞こえ、カラブリアの近衛騎士が焦った様子で報告をあげてきた。
「大変です!アンジェリーチェ様が迷子になって、騎士達がただいま捜索中です!一緒にいたダリアさんと坊ちゃまは港の詰め所に、それから、港の外れにある桟橋でこんなものが海に…お嬢様のしていた物かと…」
近衛騎士が手に持っていたものは、アンジェが首に巻いていたマフラーだ。
セルヴィーナが小さく悲鳴を上げた。
セリオンは、彼女の崩れ落ちる体を素早く支えて言い聞かせた。
「落ち着け、アンジェは凄いんだから、そう簡単に死なないさ。
それより、犬神さまは信仰してくれる領主の土地では、最大の能力を発揮できるのだろう?
それなら、カラブリア卿に信仰して頂ければ、直ぐに見つけられる筈」
カラブリア卿は、ルトガーの手にスッポリと収まった仔犬を改めてみた。
小さな仔犬は緊張し、忙しく目を動かして怯えているかに見える。
「し、しかし、本当に、こんな犬の仔が神なのか?」
疑わしい声を上げたカラブリア卿に憤慨した犬神は叫んだ。
『わしは、祀られた領地で子供の健やかな成長を助ける神じゃ!いま確かに、アンジェは危険な目に遭っている!わしには判る!
アンジェが心配ならば、さっさとわしを伏して拝め!』
それでもカラブリア卿は煮えきらない態度で困惑していた。
『グズグズしておると祟るぞ、ジジイ!』
*ガブリ!*
怒りまくる犬神が、小さな口で、カラブリア卿に噛みついた。
「あいたたたた!」
すると、カメリアが前にでて犬神の前で膝を折って頭を下げた。
「犬神さま、私は信じます。あなたの信者となりましょう。我が領地は飛び地ゆえに、ここは便宜上、引退した父が治めております。
しかし、カラブリアもフォルトナも、エルハナス侯爵である私の領地です。
この際、父は無視して、お祀りする方法を仰せつけ下さい」
絶句するカラブリア卿を軽くひと睨みして、カメリアが仔犬に申し出ると、嬉々として犬神は祀り方を指導した。
* * * *
別の部屋では、サリーナとアルゼはふたりで蒸気による動力機関の構造を簡単であるが、既にまとめ上げるところであった。
ひと息ついたところで、アルゼが褒めちぎった。
「いやあ、凄い発想だ。感心するよ、さすがわが友サリーナ女史!」
「あの…これは私の発想では無いのです。私は教えて頂いたのです」
「え?じゃあ、もしかしてディオ?」
「その…実はディオ様でもなくて…信じられないとは思いますが…」
「ええ?ルトガーは有り得ない。きっと間違いだよ」
「いいえ、アルゼさん。アンジェリーチェ様なんです」
息を呑んだアルゼの脳内に、アンジェリーチェの姿が再現された。
薄いピンクが入った金の髪、菫色の瞳、ぷくぷくの健康的な頬っぺたに丸いお腹の幼児体型。
しばらく沈黙が部屋を支配していたが、アルゼの素っ頓狂な声が静寂を破った。
「うっそだーぁ!」
そこに、前触れもなくドアが勢いよくバンと開いた。突然入って来たカメリアとカラブリア卿、他の面々が雪崩れ込み、室内にいた侍女が驚いて飛び上がった。
つかつかとカメリアが進み出て、引っ掴んだ書類をアルゼの鼻先に突き付けた。
「アルゼ、これにサインしなさい!」
「え?これって島の権利書じゃないか?ええ?島の権利を譲渡?」
カメリアの後ろからカラブリア卿が宥めるように声を掛けた。
「アルゼ、細かいことを説明している暇はないのだ。とにかくこれにサインしてくれ」
「ええー!だってこれ、放棄した権利はルトガーに行くって書いてあるじゃん。細かいことを教えてもらわないと、サインなんかできないよ」
「素直にサインして、アルゼ。あなたの借金に形に、島しょをお父様に抑えられているでしょう?
あれを一時でもいいからルトガーの名義にしたいのよ」
「済まんが、アルゼとにかく協力してくれ」
ルトガー達の様子を、心配そうに見ていたセルヴィーナに、サリーナが小声で聞いた。
「も、もしかしてお嬢様に何かあったのですか?」
「ええ、行方が判らないのです…。桟橋にマフラーが落ちていて…」
まあ!と、サリーナが息を呑んだ。そんな一同の心配する事情が分らぬアルゼは、なおもサインに抵抗していた。
「ええ~!せっかく僕の領地になったと思ったのに~!」
グズグズと文句を言う彼に、カメリアが目を吊り上げながら静かに脅した。
「アルゼ、私の借金を合わせたら、王都の商会とあなたが過ごす家も借金の形にできるのよ。
父上だけじゃなく、エルハナス家の私にまで借金していることがバレたら、奥方のオリシエはさぞ激怒するでしょうね」
するとアルゼの顔色が見る見る間に変わった。
「ひー!サインします!ここですね!」
ルトガーは譲渡書を受け取ると素早くサインした。これでカラブリアにある丘の教会と、その先にある島々が彼の領地となり、犬神はバッソと同じように力を発揮できるようになった。
「よし!アンジェを頼みます犬神様!」
『領主殿でかした!これで島々へ移動することが出来る!セルヴィーナ!
その縫いぐるみを寄こせ!わしはアンジェの許に参る!』
「どうか、どうかお願いいたします!」
犬神が空中をふわっと浮かびあがり、皆の頭上でクルリクルリと身を翻す。
口を開けて見守る一同のなかで、慌ててセリオンが犬神に叫んだ。
「待った!待った!アンジェが何処の島にいるのか仰ってからにして下さい!あの犬…神…さま…あの…あのアホ犬―!!」
気がせっていた犬神は、どこの島に行くのか言わずに空中に消えてしまった。