第18話 賽の河原に遊ぶ子は
セリオンさんのお陰で、今夜も美味しいご飯に食堂でありついて、ディオ兄はご機嫌で家に急ぐはずだった。
途中で、一軒の酒場の前に来ると一人の若い男性がうずくまっていた。
前にもここにいた酔っぱらいかなと目をやると、良く見たらなんとサシャさんの旦那さんだ、確かバスクさんだ。
ディオ兄もそれに気づいた。
「バスクさんでしょ?サシャさんが待っているから帰ってあげたら?」
そばに行って声を掛けると、ううんと声を出してバスクさんは体を起こした。
「誰だ?あ、こないだの子増か…」
目をシバシバさせて、ふあっと欠伸をすると、酒臭い息が漂って来た。
サシャさんは、旦那さんが死んだ子を嘆いてばかりで働かなくなり、ひとりで内職と市場の手伝いの仕事を貰って食いつないでいた。
この時代、女の仕事は男よりずっと安い、そして児童労働はもっと安い。
あたしの授乳をさせることで大銅貨が得られるようになり、セリオンさんも食料をくれるので、サシャさんは飢える心配がなくなったと感謝してくれた。
そのせいか、サシャさんのお乳は以前よりずっと出が良くなった。
あたしはそのお陰でしっかり栄養が取れているのである。
そんなサシャさんの今一番の困りごとは、旦那さんである。
子供が亡くなってから、悲しんでばかりでいっこうに働く様子がない。
そんなので、よくディオ兄からあたしを取り上げようとかんがえたものだ。
実に腹立つ大人だ、ディオ兄は懸命にあたしを育てている。
そんな彼の頑張りを知る大人達は、認めてくれるようになったが、それを知らない大人は、頭から子供にできないと判断する。
あたしを寄こせと言われたこともあり、あまり関わりたくないディオ兄はそれじゃ失礼しますとさっさと逃げようと歩を進めた。
その後姿に、この人ときたら捨て台詞をはいた。
「お前には無理だから早いところ乳児院にいれるか、俺んちに寄こせ!」
ムカーッ!何じゃこいつー!真面目に働いてから言いなさいよ!
赤ん坊は物じゃない!腹立つ!!
耳をふさいで立ち去るディオ兄の背中で、怒りでジタバタしてしまった。
「あっぶー!」
「アンジェ、怒ってくれたの?俺は大丈夫だよ」
『ディオ兄、ちょっと協力して、あの人に説教してやる!』
「え?アンジェ?何するの?」
* * * *
バスクは暗い道をよろよろと歩いていた。
楽しみにしていた子供は男の子で、ロイと名付けた。
しかし産まれてすぐに重い病気を持っているのが分かった、医者に診せたが、祈るように数か月を過ごした後に、あっけなく死んでしまった。
家を買うために頑張って貯めていた金は息子の治療に全てはきだした。
後には悲しみと借金だけしか残らなかった、情けないほど男泣きした俺を妻のサシャは慰めた。
「あたし達はまだ若い、今度は元気な子を産むから、頑張りましょう」
なんで、なぜそんなに直ぐに先へ行こうとできるんだ?
俺は悲しくて堪らないのに、なんでお前は泣いて過ごさない。
死んだ子が不憫じゃないのか?
サシャはきっと情が薄い女なのだ、だから死んだ子を思って働かないなんてと怒鳴りつけるのだ。
他の女ならきっと子供を悼んで泣いて過ごすだろうに…
捨てきれない悲しみと行き場のない怒りを抱えたままフラフラと歩いていると見慣れない場所に出た。
大きな川がゆったりと流れている、周りは石ころが転がる河原だった。
「なんだ、ここは?こんなところにこんな大きな川なんかあったかな?」
もっと奇妙なのは、今は夜だったはずだ、それなのに周りが明るい。
昼と言うほどではないが夕方に近いくらいの明るさだ。
目の前は結構な川幅の川だった、向こう岸は見えるが霧がかかってぼんやりしていて様子はわからないが、明るい小さな光がキラキラ見える。
何だか見ているだけで高揚感が湧く、向こうには美しいものが溢れていそうな不思議な心地よさがある。
もっと近づいてみようと足を踏み出そうとすると、棍棒を持つフードのついた黒い僧服の男に怒鳴られた。
「貴様、勝手に川に入るな。ここは賽の河原だ、大人の来るところではない」
「賽の河原とはなんだ?俺は聞いたことが無いけど」
「子供のための地獄だ、親より先に死んだ子供のための地獄だ」
ギョッとして周りの様子を改めて見ると、河原のゴロゴロした石の上に座り込んで、あっちこっちで子供が石でケルンを積み上げている、中には赤子までいた。
段々、気味の悪さを感じて鳥肌が立ってきたバスクに先程の男が言った。
このケルンが積み上がれば、あいつらは向こう岸の天国へ行けるのだと説明した。そして囁いた。
「ほら、そこにいる赤子はお前の息子だ」
父ちゃん、と頭の中で声がした。
俺の息子か!急いで傍に駆け寄った、小さな息子は石を抱いたまま積みあげられずに涙を零していた。
赤ん坊には石が大きすぎて、積みあげるどころか、埋もれそうになっている。
身体には石で擦れたのだろう傷がいくつもあった、何か所か血が滲んでいる。
「俺が積んでやろう」手を伸ばすのを息子の声が止めた。
「自分で積まなきゃいけないの、親より先に死んだから。罪を償わなきゃ」
「なんでそれが罪で、地獄にいる理由になるんだ?」
「父ちゃんは俺が死んだから、悲しんで仕事できなくなったでしょ。父ちゃんを堕落させたのが俺の罪なんだ」
「!!!」
「かあちゃんは悲しくても頑張っているから、俺は父ちゃんの分だけ石を積めばいいの。普通の子の半分だから頑張るよ…」
そう言うと小さな赤ん坊は石を抱いてまたヨチヨチと歩くが、やはり重さに耐えかねてゴロンと転がる。
起き上がろうとしても、胸に乗った大人の握りこぶし位の石に押し潰されて、脚をばたつかせるだけで、空しくも起き上がれない。
必死に起きようとして手を泳がせ、赤ん坊は石の下敷きになって泣くだけだった。
バスクがまた動こうとしたとき、いつの間にか横に立った男がまた囁いた。
「お前が手を貸せばこの子の罪はまた重くなるぞ。二度と天国に行くチャンスは失われる。
この世界から逃れられなくなるのだぞ」
息子の胸に載っている石は時間と共に大きくなっている。
止めておけ!この子が苦しむだけだ
まだ、しっかり開いていない眼から涙が零れて、大きな泣き声が、か細く苦し気な断末魔に変わっていく。
見るな目を逸らせろ!
んあああああああああぁぁぁ………
無視しろ!耳を塞げ!
「ロイ!!!」
バスクは悲痛な声をあげて後のことは考えず、思わず息子を抱え上げた。
抱きあげられた息子はバスクの腕の中でいきなり目が見開き、彼に問うた。
「父ちゃんは何故俺を天国に行かせてくれないの…」
バスクは自分が息子に何をしたのかやっと気がついた。
後悔という鉛の塊で胸が潰されて喉の奥まで塞がれていく。
「父ちゃんが俺を諦めない限り、俺は生きることも死ぬこともできないで、この地獄に居なきゃならないんだ!」
「親を堕落させるだけの存在が生意気をいうな!この半端ものが!!」
黒い僧服の男が恫喝して、バスクから赤ん坊を取り上げ、地面に放り捨てた。
地面に投げ出されて、河原をゴロゴロと転がった赤ん坊は火のついたように泣き出す。
「助けて、助けて父ちゃん…この地獄から救って!」
「不孝者のくせに、苦しめている親に縋るな!!!」
「やめろ!ロイを打たないでくれ!!!」
怒り狂った男がロイを打ち据えようと棍棒を振り上げた。
バスクは悲鳴を上げて止めてくれと叫び、男に縋りついて棍棒で打ち据えられる瞬間、いつもの近所の風景の中に自分が跪いていることに気がついた。
冷え冷えとしたシーンと静かな夜の街だった、辺りに誰もいない。
酔いが醒めかけて、自身の酒の臭気が鼻につき、外気の冷たさに身を縮めた。バスクは零れる自分の涙を拭って、呻くような声を出しながらフラフラと妻のサシャの待っている家に帰っていった。
その後には赤子を背負った少年が呆然と佇んでいた。
* * * *
「ねえ、アンジェ。今のイメージはやり過ぎじゃないの?」
『ええ?あたしこれでも抑えたんだけど?お仕置きなんだからガツンとやらないとダメでしょ?』
「俺、あの赤ちゃんが可哀そうでたまらなかったよ。アンジェみたいに小っちゃくて、見ていて辛かった」
ディオ兄は俯いてそのまま小さな体をいっそう小さく縮めてしまった。
う、ディオ兄が涙目だ。しまった、イメージを作り出すのに気を取られて、彼の反応を気遣って無かった。
あまりにリアルな光景は、子供の彼にはきつかったか…ごめんね…
家に帰ったディオ兄はあたしを抱き寄せて眠った。
あたしは彼に対する申し訳なさで、反省しながら眠ったのだった。
翌日、授乳したサシャさんはとても機嫌が良かった。
「サシャさん何かいいことあったの?」
「うふふ、まあね。本当かどうか、もう少し様子をみたら教えてあげる」
授乳を終えると彼女はまた雇われている雑貨屋に鼻歌交じりに戻って行った。
今までになく、あんなに晴れ晴れとしたサシャさんの表情を始めて見た気がする。
「もしかしたら、旦那さん反省してくれたのかな?」
『そうだったら、いいけどね』
いつもよりもずっと明るい様子の彼女を見送って、そうだと良いねとディオ兄が気持を込めて相槌を打った。